Friday, December 11, 2009

<感情と意味>第一章 記憶‐同一性‐エゴ 第一節 私ということはあり得るだろうか? 

 私が誰か特定の相手に対して不愉快であるとか、好感が持てるという感情を抱く時果たして私ということを客観的に捉えられているのだろうか?
 例えばある関心事に心を奪われている時というのは忘我的、没我的心の状態にあり、その心の状態自体に私のことを特定的に捉える心の余裕は寧ろない場合の方が多いだろう。その場合寧ろ私たちは心の状態から言えば、誰か自分の中にありはするが、私自身に命令する何か得体の知れぬ力に突き動かされてその関心事にのめり込んでいる。
 例えば野球の試合をしている時選手たちは外野で守りに入っている時にもバッターボックスに立っている時にも案外そうしている自分に対して冷ややかに観察している視点は仮にあったとしても、その視点を「支えている自分」という意識などないに違いない。
 つまり私たちはそういう状態の時には、対自的な意識であっても、対自体であること自体には自覚的ではないだろう。そういう意識になれるのは、勝つか負けるかして試合において一応の決着がついて然る後に、今日一日のことを反省する時に初めて訪れることではないだろうか?
 つまり自分という意識とは意外とそう多くの日常的な時間において私たちの心を占めているわけではないのである。例えば今私は今この文章を書いているわけだが、書くことの内容もそうだし、書くために考えることには没頭していても、その没頭している自分ということは、勿論時たま私の脳裏を掠めはするが、それはあくまでどこか息継ぎにおいて、ほんの一瞬訪れる間隙のような時以外ではあり得ない。
 あるいは私が交際しているある友人や知人の心ない一言において私がその者に対して懐疑的感情を抱いている時、そういう懐疑の感情を抱く私とか自分という意識は、その感情の渦中でではなく、そういう感情が幾分潮が引くように小さくなってからのことである。
 そもそも感情とは、何事か、何物かに対してその在り方を巡ってその存在理由を自分にとって好ましいとか忌まわしいとか自己主観的に判断することによって定着された心そのものの志向性の一つの固定化=決定である。だからその決定の際には何らかの形で言語的認識がかかわっている。勿論言語的要素だけによって占められてはいないだろう。その心の中での固定化的、価値規定的な決定の末に、しかしそれにしても素晴らしいとか、頭に来るとか感情を増幅することはあるが、その増幅されていく心の状態は言語的ではないものの、増幅させるものとは好ましいとか忌まわしいとかの双方とも言葉の力、あるいはその言葉に我々が与えている感情的意味であろう。つまりこう考えていけば、感情とは極めて言葉の意味と相補的に立ち現われていると言うことが出来る。
 しかし哲学では意味というと多く理性とか判断の合理性とか、要するに知性や悟性レヴェルで語られてきたということが言える。つまり意味は真理と同様、感情とかそういうこととは無縁の位置に存在し得る、あるいは存在すべき価値のように考えられてきた。しかし私は意味とはそれ自体一つの感情以外のものではないと考えるのである。
 それは感情自体が一つの何らかの対象や事象に対する心の志向性の位置づけである以上意味づけ以外のものではないという事実とまさに表裏の問題なのである。
 例えばある者が宗教的信仰を何らかの人生経験によって得たとしよう。そして彼は神というものを存在し得る、と言うより存在しなくてはならないという信念を持った時彼にとって神とは存在すること自体で一つの意味を、そしてここが重要であるが、彼自身にとって実在的価値のあるものなのである。すると彼にとって神という存在の意味とは、彼の神そのものに対する信仰を彼の内部で正当のものとする、つまり彼をそういう判断を決意の下で可能とする感情的様相と無縁であるわけはないだろう。つまり意味とは存在理由のことであり、その存在理由を確固とした形で心の中に現前させる当のものとは、世界全体、つまり彼の人生そのものが志向する先に見出される意味、つまり彼の日頃の平静であったり、時には緊急の怒りを抱かせたりする感情の様相に立脚した感情調節作用そのものである筈なのだ。
 何か特定のものに対する感情を構成するものとは記憶であり、記憶内容である。それは心の中のデータベースそのものであると言ってよい。通常古代ギリシャの哲学以来感情というと、悪によって囁かれる悪意とか、捩れた欲望と捉えられることが多かった。そして理性はそれを抑制し、道徳心がそれを補佐するという風に考えられてきたのである。
 しかしそもそも道徳とは一体何なのだろうか?例えばある他者の行為を見て、それを正しいこととか善いことであるする心の作用とは、その行為を行為として成立させる別の行為やその行為者の日頃の行為や考え、あるいはそれらによって得られた自らのその者に対する像(記憶による一つのデータ)を結集させて判断していることが多い。
 つまりその他者の行為を行為として位置づける時、行為自体の意味もさることながら、その行為自体が独立して持つ意味以外にも、その行為者に関する過去のデータや、その行為者の思惑といったことをも加味して「善い」とか「正しい」と判断しているのである。
 すると誰がどんな状況においてなしてもそれを「善いこと」であり「正しいこと」であるとしている判断とは、その行為者自身のデータとは無縁に成立し得るものとすると、それはカントが定言命法と呼んだものをここに想起しても差し支えないが、そういう道徳法則とか道徳律ということになるかも知れない。
 しかしその道徳律とか道徳法則と呼ばれるもの自体も、実は過去においてある行為をなした者を我々はいつか目撃して、それを「素晴らしいことだ」とか「美しいことだ」とか逆に「忌むべきことだ」とか「汚らわしいことだ」と判断してきたことに立脚している。
 そしてここが重要であるが、そういう場合に我々は一々私にとってとか、私の内心においてということを意外に多く意識していないで判断しているのである。
 寧ろ私ということを心の中で言う時とは、一般的に「正しい」とか「悪い」とか「間違っている」とか「清らかだ」と判断していること自体を判断として一方で持ちながら、その判断における感情(私は悟性的、理性的、道徳的判断の全てを感情と見做している)を適用する先に自分自身を持って行く時になって初めて登場する対象であるとさえ言える。
 つまり私とはそういう風にかなり高次の自己‐他者関連における最終段階において登場する判断であり概念であると言ってよい。しかし一旦そういう意識を持つと、途端にそれがそれまでの全ての心の作用を私自身が(それは私の脳であり私の身体ということなのだが)なしてきたという風にまるで強烈にその存在感を私自身の心に巣食わせる一個の脳内幻想である可能性もかなり強いのである。
 つまり「自分は今まである他人のことに就いてあれこれ「いい」とか「悪い」とか判断してきたのだが、ではそういうこの自分自身とは一体どうだと言うのだ」と自問した時に初めてそれまで主観で他者は外界について全て知覚されたことを通して判断してきた感情的意味づけに対して「そういうお前は一体」という自問自答において初めて顕在化する意識であると言ってよい。だからサルトルが「存在と無」で言っていた対自ということの内にも実は自己を他者との比較とか、相関において意識するということがなければ実はあまり大きく私という意識は介在してこないのではないかということが私が考えるということの真実なのである。
 このことはある意味では哲学者、永井均氏の<私>ということをその命題論的には容認し得ても、認識論的に、あるいは心の実在論的には幻想であるという判断をせざるを得ないことにある考えでもある。しかも永井氏は形而上学的可能性において<私>を考えておられるのだが、果たしてその形而上学的な論究可能性自体がどれほどの想定意義のあるものであるのか、その有効性自体を検証し直すことを提言することを強いる考えとなる。
 つまり私は<私>は先験的に在り得るという心理自体に到達し、そこから逃れられないジレンマとして、本論ではそういう<私>という極めて魅力ある幻想を脳が私たちに付与し得る内実として心の内部の意味づけ作用と、感情的対外的処理という判断という位相で、考えていきたいのである。つまり本論はある意味で「私が成立し得るのか」と「成立している私とは本当に私か」ということに対する問いでもあるのである。

 付記 本ブログは来年(2010年)正月明けまで休暇を頂きます。またお会い致しましょう。(河口ミカル)

Tuesday, December 8, 2009

<感情と意味>序

 哲学で感情を正面から捉えようとし始めたのはごく最近のことである。またそういう動きが注目を集めてきていることの背景には脳科学の進歩が多大な影響を哲学に齎しているということを抜きには語れない。
 そもそも感情とは先駆的存在であるウィリアム・ジェームスとか、彼にも啓示を受けたベルグソンたちが取り上げたことを除いて、多くは近代において理性によって克服すべき対象に留まっていたということが言える。しかし最近では衝動に関しても気分や雰囲気に関しても、あるいはクオリアに関しても多くの論述が寄せられるようになってきたので、ようやく感情にもスポットライトが当たってきたと言うことが出来るが、そもそも感情と言うとどこか激烈な怒りとか、憔悴しきっている悲しみを連想しがちだが、それらの感情も勿論感情であることは確かだが、寧ろ日常的には例外的感情であり、私たちは殆どの時間を怒りでも悲しみでもないタイプの平静な感情に支配されている。
 また感情は動物的本能に近いと勘違いしている人も多いが、実は極めて感情とは身体的な部分も多大にあるが、同時に言語認識的なものでもあるのである。
 と言うより感情とは身体的な状態とか、それに伴う現象的な心地とか今という意識とかと同時に言葉による理解とか把握とか認識、思惟全般にもかかわっており、その意味では身体と心を繋ぐ、と言うよりそもそもそのように身体と心を分けて考える習慣そのものを無効化するようなタイプの、要するに二つに分けて考えてしまうこの習慣そのものをも育んでしまう根幹に位置するもの、しかも身体と心を意識の上で往復させるものと言ってもよい。その観点に立てば、逆に私ということと公ということを往復する意味に寧ろ近い。
 私は本論では意味ということを、公私の往復、往来を基軸に考え、感情を身体的な健康状態や、心理状態を綜合的に判断する本能的でありながら尚且つ極めて思惟結論的でもある感情を意味というものの存在と並行させて考えたいのである。
 私は以前に他者存在が衝動そのものを育むという視点から「他者と衝動<羞恥論序説>」と「羞恥論<衝動論第二節>依怙地と素直」(双方とも「決心の構造」同じブロガーブログにて掲載更新中)を続けて書き、他者存在に対する不可避的意識を羞恥とその克服から捉え、死ということの想念と絡めて「存在と意味<武蔵が克服したこと>」(当ブログ過去更新記事として掲載)を書いた。その後「意味の呪縛」(当ブログにて前回に記載)という短論文を書き、「トラフィック・モメント<自由・責任・言語と偶像化」(同じブロガーブログにて掲載。今はその続編も更新中)を書いた。今私は感情自体の意味的側面を前面に出しこの論文を書く決意を固めているのだが、この論文はもう一つの論文「作られゆく真意」と並行させてその存在理由を考えている。
 それはそちらの論文がキリスト教神学者たちに関する魂の叙述を多く取り上げ、哲学にとっての神を神学や宗教にとっての神と対比させて考えている手前、こちらにおいては、その信念における判断と決意の問題をより感情と意味作用として考えることを目的としたのだ。さてどのような展開になっていくか今は私でさえ予測がつかない。そしてその予測のつかなさそれ自体が感情と意味に包まれて生きていくということではないかという漠然として考えが今私の脳裏に立ち上っている。
 確かに宗教の信念にはどこか潔さのようなものがある。それは基本的には無神論者である私には一つの提言をしてくれているようにも感じられる。しかしそれもまた無神論の信念と同様一つの意味以外のものではない。そして意味そのものが実は一つの人間の脳の思考活動の感情的所産なのである。
 日本人である私には実は日本人を客観的に見ることは出来ない。しかし今や我々は実はキリスト教徒たちや欧米人に対してさえ客観的には見ることが出来ない時代に生きているのである。しかしそういう客観的に見られなさ自体を客観的に捉えることなら案外可能かも知れないという漠然とした根拠のない信念が実は本論を支えている。つまり主観的にしか見ることの出来なさ自体が客観的考察対象として考えることが可能のように思えるのである。しかしこの主観‐客観ということはかなり困難なプロブレムなのである。それは意識のハードプロブレムと多くの哲学者たちの言ってきていることと同じなのだ。

Friday, December 4, 2009

〔意味の呪縛〕結論、意味化される幻想と欠如

 詩人にとって詩作はある意味では常に彼の遺書である。また画家にとって絵画は常に彼の遺作である。全ての芸術的想像、映画や音楽、それ以外の全ての表現は彼らの遺書、遺作なのである。
 そのような意味で哲学者にとっての哲学論文は彼らの遺書であるし、科学者の論文もやはり同様である。政治家にとっての政策や政治的行動、戦略の全てもまた彼らにとって遺策なのである。
 森口華弘という染色アーティストがいたが、氏は常々次のように言っていたという。
 「絵を只の思いつきで描いてはいけない」
 この考えはつまり絵画というものが、ただ単なる感性の遊びではないということと、用意周到に練られたアイデアは既に思いつきではないということを示している。
 アーティストにおいて全ては価値的に、その時代によく名前や作品の知名度が流通しているということが彼のアーティストとしての力量の十分条件ではない。それら流通されたイメージとは全てアートディーラーたちによる営業上の戦略の結果でしかない。
 アーティストが彼の生命を賭けるものとは何かと言われれば即座に彼らはこう答えるだろう。
 「私たちが生きて何かを見て何かを感じたその痕跡を残すということが意味ある行為であるということを示したい」
 つまりそれは行為という名の人間行動の全てが意味化された幻想であるということ、そしてその幻想は常に自己を欠如態として認識することに端を発しているのである。
 勿論アーティスト毎に異なった言説が用意されているだろう。しかし恐らく彼らはいくら言葉の違いを持っていても、私が「」内で示したことが創造の根幹をなす真理であることを疑う者はいないのではないだろうか?
 どんな存在者もいつかは死す。この真理に目覚めない存在者はいない。しかし生きているということは実はかなり辛いことの方が多いことなのだ。それをあたかもそうではないように相互に装うところに生を生きるということの辛さも楽しさもある。つまりそれを他者に伝えたいということが人間が哲学的存在者であるということの証なのである。そのことについて考えてみたい。
 茂木健一郎氏の最大の功績の一つはクオリアという概念を定着させたこと以外では、感動という言葉を定着させたことであろう。何故なら私たちはそれまでに脳科学を初めとする多くの学問で、率直に感動という言葉を使用することに躊躇ってきたきらいがあるからである。しかしどんなにつっぱってみたところで感情、情動、感覚、感性という言葉からは感動する時のニュアンスを伝えられない。だからこそ感動という言葉には存在理由がある。
 人間の脳は茂木氏に拠ると、何かに感動するとそれを人に伝えたくなるのだそうだ。
 さて動物であるが、彼らには自分たちが所有している能力それ自体を他の個体へと伝える能力は持っていない。つまり彼らにも何らかの意味で過去に関することを記憶する能力はあるだろうが、そのこと自体を他個体へと伝える能力はない。ただ彼らの内面においてその能力を利用するだけである。要するにただの内示である。
 しかし人間はそれが可能なのである。つまり何か特定の能力を自分がたまたま持っているということを他の個体へと伝えることが出来た。そうすることが出来たということはそうする意志と欲求を持ったということを意味する。そして意志や欲求が感動を呼び起こしたと今までの哲学では考えてきた節があるが、私はそうは思わない。寧ろ何かに感動したからこそ、それがたまたま自分が何かを覚えていることそれ自体であったわけだが、それを他の個体へと伝えたい(伝えるためには何かその感動を別の形にして示す必要がある)という欲求へと転化したわけである。
 それは明示である。つまり内側に感じたことを外へと出すこと、表現することである。
 つまり何かおいしそうな餌を見つけた時、その餌を前にして他個体に伝えることなら動物でも出来る。しかしそうするにはまず前提としてその他個体がその場に居合わせなくてはならない。その眼前にある餌を目線で示しただ唸ることなら動物にも出来るだろう。
 しかし餌が向こうにあったということ、今この自分たちの眼前にはないということでもあるのだが、それを相手に伝えることが動物には出来ない。たとえ向こうに餌があることを彼らが知っていたとしても、それを伝えるためには彼らは他個体をそこまで連れて行かなくてはならない。尤も鳥類には彼らの仲間に餌の在り処を示す固有の啼き方があり、それが一種の言語として機能しているということがあるから、当然他の動物、例えば哺乳類である犬や猫でもそれに近い仕草とか鳴き声といったものがあるのかも知れない。しかし一番重要なこととは、人間にはその発見事実そのものだけではなく、その発見したという事実に対する感動そのものをも伝えられるということなのである。
 考えを元に戻してもう一度考えてみると、人間はまず今眼前にはないものを、例えば向こうにあったと伝えることが出来るということは、言い換えれば、向こうにあるものが「あった」と伝えることなのだ。それはつまり自己の記憶内容そのものの伝達という面もさることながら、もっと重要なこととは、今現在そのものの存在に対する記憶を、あるいはそういう風に記憶していることそのものを相手に伝えられるということをも意味する。それは自らの能力そのものを、あるいは自らがその能力を有していることそのものを相手に伝えることが可能だということだ。と言うことは即ち人間は少なくとも自己の能力そのものを相手に伝える欲求、あるいは意志そのものを言語獲得のプロセスにおいて持っていたということを意味する。
 不在のものの存在を今伝えるということは、即ち過去の事実を報告することであると同時に、過去事実を記憶している自らの記憶内容の報告であるし、同時にその能力の誇示という側面も持っている。そしてその際に重要なこととは、その能力の誇示ということが記憶内容の報告という意志・欲求となって顕現されているということなのである。
 そのことは逆に人間以外の他の動物たちは「伝えること=過去事実を記憶していることを伝えること」という意識がないということを意味する。あるいはそういう意志・欲求に関しては欠如していたということになるのだ。
 恐らく彼らは向こうに餌があったなら、そこまで他個体を誘導して行ってそれを前にした時に「これだ」という叫びを挿入して、示すことしか出来ないだろう。その時初めてそのものの発見事実に対する感動を伝えることが可能となるのだ。
 しかし我々は少なくともただ発見事実だけを伝えれば、それでたちまち相手に意図は伝わり、その事実を伝えられた者だけが向こうに行けばそれで済む。このことは時間効率的にも労働効率的にも著しくヒトという種にメリットを与えたであろう。つまり餌を取りに行く者と、それを待つ者は全く別の作業へと勤しむことが可能となるからだ。
 つまり人間の進化の歴史において極めて重要なこととは、端的に自らの保持している能力を相互に伝達し合うということそのものが、経済効率的な側面でのメリットへと繋がって行ったということなのである。そしてその際に伝達する内容と、伝達する内容を知る能力それ自体に対する感動という心的作用があったということが極めて重要であると私は考えているのである。(ここら辺の私の考え方を誘引して下さったテクストとして小浜逸郎氏の「言葉はなぜ通じないのか」という本があるが、この本からは実に得たことが多かった。)
 この人間と動物の間での実現能力の違いは極めて大きい。つまり現前しない今は不在である事物や現象を対象として認識し、それが存在していたが今はここにはない、あるいは今は既になくなっているかも知れないが、あの時はあったという<事実の報告=発見した自らの行為の誇示>ということが他個体へと齎す効果とは、それが今必要であるのなら、直ちにそこへどちらかが赴き、確保するという行為へと誘発されるからである。
 そしてその行為の誘発自体が他個体への記憶内容の報告=自己記憶能力の誇示=他個体も同様の能力を保持していることに対する信頼ということへと繋がり、脳科学で考えられているという茂木氏の報告の通り、感動したらそれを人へと伝えたくなるという脳の作用を考慮に入れるなら、私たちの祖先は自己内では知っている能力そのものを他個体へと伝え合うことを通した協力という行為へと直結していくようになったのだろう。その他個体への報告から誘発される協力への要請という意志・欲求はそれを可能にする情動を既に人類が持っていたということを意味する。
 この相互に自己能力そのものを伝え合う、あるいはそれがあることに対する感動を伝え合うということは、能力として考える時、明示能力の有無ということであるが、私たちにとっての同一種内他個体がまさに他者としての意味=存在理由を他の動物にはない形で有することとなったのだろうと私は思う。
 この相互に自己能力そのものとそれがあることを報告=誇示する能力は、餌の発見的事実だけではなく、餌を発見したことを報告することが可能であるという能力それ自体への感動ともなっているということなのだが、その自己能力そのものへのナルシシズム的な伝達意志・欲求とその実現こそが私たちを哲学的存在者へと押し上げたと言うことが出来る。
 動物にもそれなりに不在のものを表象する能力はあるのかも知れない。しかしそれは内示に留まり、それを少なくとも他個体へと伝えようという気持ちには彼らはならなかったし、なれなかったのだろう。つまり内にあることを外に出すという明示性が全く彼らには欠如しているのだ。内にあることを外に出す時には必ず、内にある形のままでは伝達し得ないということが何となく理屈としてではなく直観的に私たちは理解している。(そのことが哲学者永井均氏のライトモティーフである)だからこそそこで言語が必要とされたということである。
 まただからこそ人間は自らを欠如として認識し得るのだが、何か(考えるべき対象)が人間ではなく別のあるものであったとしても、それを全体として認識した時に、欠如であると認識し得るとしたなら、それは要するにそのあるものを他のもの一般と比較することが可能だからである。欠如とは端的にそのものの他にはない長所や充足に対する認識と同時的なものであるからだ。そして重要なのは、何度も繰り返すようだが、その欠如とか充足という認識それ自体を、そしてその認識の発見そのものに対する感動を他へと伝えようという意志・欲求を所有しているということなのだ。そしてその意志・欲求の所有に対する感動をも伝えられるということ、つまりメタ認知能力の有無こそが人間と他の動物とを決定的に分かつものなのである。
 勿論私たちは言語を習得することとなったから結果的にそのような意志を所有することとなった、とそう考えることも可能だし、通常私たちはそう考えられよう。しかし脳科学的に海馬の助けを借りて側頭葉へと収納される記憶内容は常に扁桃体という感情的判断を司る脳内の部位とかかわっており(そこら辺は薬学部出身の脳科学者である池谷裕二氏の記憶に関する研究に詳しい)それが前頭葉の意欲を活性化し、刺激しているのかも知れない。
 そう考えれば、私たちは既にある能力を所有した段階で、その能力の保持それ自体(感動)を他へと伝えたいという欲求を抱いていたと考えるのが自然かも知れない。
 通常偉大な仕事をしている人、なし得ている人というのは、そのことに対して無自覚ではない。勿論大変な発見をしたのに、その偉大さに気づかないでいて、誰でも考えることなのではないかと思っている状態というのも考えられる。しかし恐らくそういう場合ですらじきにその者は自分の発見したことに対してその偉大さに気づいてくるものと考えられる。つまり私たちの祖先はまさに記憶内容→記憶事実の報告への意志・欲求という他の動物には決して見られない稀な能力、つまり自らの能力自体への感動、自らの能力の素晴らしさへの感動を共有したいということを感じ、それを必然的に他個体へと伝えようとして、そのことも一つの能力となっていったのである。
 だからこそ私たちは絵画を鑑賞することが出来、詩の内容とその響きを感動し理解し、一定時間内に音の配列をして、それを聴き、体を動かし、合わせて口ずさむという音楽を奏で聴いて楽しむということが出来るようになったのだ。これらはまさに自らの感動を他へと伝え、その感動を共有したいという意志・欲求そのものが能力として定着したことを意味するし、まさに芸術とか文学とか哲学とかはその賜物なのである。(了)

 付記「意味の呪縛」はこれで終了致します。次回からは「感情と意味」(最新論文の一つ)を掲載更新していきます。その用意と休暇のため後日再びお会い致しましょう。(河口ミカル)

Thursday, December 3, 2009

〔意味の呪縛〕十、行為という幻想と記憶の自己欺瞞

 サルトルが「存在と無」で示した自己欺瞞は、とかくそのテクスト自体が多大な影響を被ったハイデッガーの「存在と時間」中に登場する重要な概念である頽落と極めて近似的概念である。
 我々は日々真理と程遠い状態で生活していることそのものをハイデッガーは頽落という形で示したのだ。歴史認識から生そのものの本質規定から程遠い状態で生活するということはサルトルの自己欺瞞からも、ハイデッガーの頽落からも推し量ることが可能である。
 しかしフッサールは生活世界ということを考え、ある意味では頽落状態とか、自己欺瞞的生活が必ずしも悪いことではないという視点をも導入している。だから全ての人間の動作がただ動物的、生物学的で生理学的な範疇でだけ語られることを拒否する哲学的形而上学性が、私たちに行為という概念を提出させるのだ。
 しかし行為ということはある意味では目的とか、原因と結果とか様々な時間論的概念、あるいは因果律、存在理由、価値といった認識論的カテゴリーによって人間の諸行動を規定する考えである。つまりそれは人間の行動はただ動物が餌を求めて流離う(さすらう)時の動作とは違うのだという意識によるものである。だから行為性とは端的に頽落した現実認識とか社会規定的なルティンを超え出た真理目的的な認識なのである。目的とは会社に通うということが生活費を稼ぐことであるというような日常現実的目的性から、では何故働くのかというもっと究極的な価値論的な目的性へと転換し得るような意味で、極めて論理究明的であるというより、より倫理的、より哲学的問いそのものである。
 そもそも究極的とか、根源的とか、原初的とか、起源的とかの語彙そのものが哲学的思惟による産物である。それは日常形式的言説の全て、スーパーのちらしから役所の文章に至るまで全て空虚な言語に対して、その頽落と自己欺瞞を削ぎ落とした真理言及的、真理志向的な充実言語を前提とした語彙である。例えば私たちは言語表現を超える感動とか言う時、明らかにその言語表現ということが、陳腐な形式的形容であることを意味している。つまり真に詩的言語であるなら、我々は筆舌に尽くし難い経験をも言語化することを厭わない。そういう意味では行為性とは本来全く無自覚的な薄弱な意志による行動さえ、それを言語化された認識で捉えようとする我々の意志による考えである。
 しかも我々は行為という一種の幻想を全生活体系の中に組み込みその行動の全般を価値的に認識するかと思えば、記憶そのものをも言語化する。つまり記憶さえある枠組みにおいて想起を促すように持っていく。それは心理的トラウマを抱えた少女が多重人格的症状を示す場合ですらそうである。つまり記憶そのものさえ自己欺瞞化して考え、想起をも意図的に操作しようとする。
 そもそもそのような意図がないのならば精神分析とか心理療法などというものは成立しようもない。
 私は「時間・空間・偶然・必然 意識という名のミーム」において結論最終部において、世界中の固有の物語を生きる「私」保有者たちも又、<私>をも持っている筈だ、と私は理解出来る、それ故私は<私>にとっての「私」と他者から見た「私」が異なっていることをやむを得ないとしても、その事実に対して異議申し立てしたい、何故なら世界中の「私」保有者たちも又そうしたいだろうから、と考えたのだ。その時私は私の脳裏に何らかの形で「私」に対する私の記憶、それが<私>ではないかと考えたのだ。<私>とは永井均氏の主張される固有の私のことである。
 つまり他者は「私」を私の外部、つまり私の身体を通して得る。それら一瞬一瞬の姿を綜合したものが彼らの私に対する記憶となり、それが彼らにとっての「私」に他ならない。つまりその二つの間の齟齬は如何ともし難い。しかし私は考える。私以外の全ての成員(地球上の)はそういった固有の「私」に対する記憶を持っていて、それが個々の<私>となっているのだとしたら、恐らく彼ら全ても私のように他者から見た「私」と自分で感じる「私」にはずれがあるだろう、そしてそのことを誰かに告げているだろう。つまりそれが個というものに存する欲求であり、フォイエルバッハはそういった意志と欲求のない人間には摂理は理解出来ないだろうと考えた。(「キリスト教の本質」上、船山信一訳、岩波文庫)つまり彼が言う摂理とは恐らく現代科学においても、外在的にそのメカニズムを理解することが出来たにしても、個々の身体的律動の全てや心的活動の全てを一々その様相に対する根拠を論うことの不可能性、つまり今日的言葉で言えば複雑系の更に複雑系であるところの心の在り方は従順だけで何もしないようにただ無気力だけではないということ、そして予定調和を考えることはしても、では果たしてその予定調和に従うということにおいて真に予定調和が顕現されていると言えるのか、つまり神がいるとすれば、私自身の<私>さえお見通しである筈ではないのかという疑問を押さえつけられないということだったのだろう。
 彼にとって神とは人格とか価値そのものであり(その意味では極めてフォイエルバッハは無神論の先駆けと言ってよいのだが)それらが存在全体に対して存在という価値、意味を与えており、事物を事物として認識すると言うより、事物であるという意味を与えているのは人間である(ここら辺の考えはハイデッガーに影響を与えている。)ということであり、つまり存在を外から規定する超越的実在論的認識は、しかしある意味では人間の因果律的な思考傾向性を表してもいる。
 しかし少なくとも私にとっての<私>が、他の一切の私にとっての他者の抱く<私>、つまり<<私>>がまずあり、それら<<私>>の中の特殊な一個、唯一そこから世界が開けてきているところの<<私>>こそが、この私にとっての<私>であると想念し得た時、私たちは認識論的存在者(<私>を認識しえる)から真に哲学的存在者としての資格を得るとも言い得るだろう。つまり私は私にとっての「私」と、他者全般にとっての私の「私」が異なることを知っている。しかしその差異を私は運命として引き受けて生きており、その差異そのものは否定しない。ただその差異の中からしか私の意志や欲求や、願望や理想は生じないということも私は知っており、それを私は他者へ伝える。それを伝えた段階では私はただの認識論的存在者であるに過ぎない。しかしそこで他者は私に私と同様のことを告げる。すると私は恐らくその他者もそうするだろうが(ひょっとしたらゾンビかも知れないので)彼(女)と共に、何らかの行動を起こす。その行動が行為という幻想としての意味を持つのなら、即ちそれは世界中に散らばる全ての存在者たちが同様の「私」という物語を巡る齟齬を感じつつ生活していることを、そしてそれら一つ一つが何らかの形で意味を持つということ、それは権利などという陳腐な言葉では収まりきらないだろうが、その意味=存在理由=価値ということを私は隣人たる他者と共に示し続けていくのである。そしてそれを何らかの形で世界に散らばる存在者全体の中に位置づけようとする時私たちは哲学的存在者となるのである。
 勿論世界にはその思いや行為の軌跡が世界中の存在者に知れ渡るような幸運にして価値ある存在者もいる。しかし殆どの存在者、私もその中の一人なのだが、世界に自分の行為を意味として位置づける、行為=価値という幻想を只管信じて生きることしか出来ない。世界に自分の行為を意味として位置づけるということは、自分の行為に世界を見ること、行為する自分に世界を見ることに他ならない。それは世界中に自分の存在が知れ渡るような幸運な、しかし同時に不幸な人と自分を違うという風に理解することでもない。ある意味ではそれは決定的に違うが、ある意味では何ら変わるところがないとも言えるからだ。
 つまりその変わるところがないという部分とは行為が価値として、自分の内部にも、その内部を私という「物語」を生きる者として宿命づけられた私たち全てが例外なく経験する「私」(私の内部にはかかわりなく外部から規定されている私)を背負う時に引き裂かれる価値、つまり私にとっての行為の価値と、「私」として外部から見られる者の果たすべき価値との間で引き裂かれるという事実に常にどう対応していくかということである。
 どのような存在者にとっても外部から規定される自分である「私」と、私が私の意志で示しているところの「私」とのギャップに懊悩する。しかし一番切実なこととは、敵対する者とか、初めから理解が得られない相手から私に与えられるその種の懊悩以上に厄介なのは、自分に対する一番の理解者、あるいは、考えの上でも職務上でも性格でも、最も自分にとって馴染みがあり、本質をこちらからも理解出来る存在者との間で起きる齟齬であるということである。その齟齬に対する理解者からの無理解ほど深刻なものは恐らくこの世には存在住まい。これは恐らく人類が始まって以来これから人類が絶滅するまでの間にも解決し得ないことだろう。
 それは<私>が永井均氏の言うような意味で他者に伝えることが出来ないということから来る深刻さなのである。
 しかしそれが深刻であると捉えられるのも私たちが生き方において意味において規定しているからに他ならない。私たちは私たち自身によって作られたものに大きく精神的に依存している。聖書、クルアーン、カント、ゲーテ、ベートーベン。それらの偉大なテクストや作品から啓示を受けるという事実は、自分たちによって拵えられた体系や意味の世界、あるいは端的に勝手に創造されたものからしか神という観念さえ捉えることが出来ないのだ。神は明らかに聖書によるパウロによる指示によって私たちはその実在に対して、存在理由に対して向き合うのだ。それは無神論においてさえ同じことである。無神論という意味を例えばダーウィンやニーチェや意味の体系から構築するのだ。
 何故そうなのかと言えば、それは囚われている状態であるという一つの欠如がそうしていると言える。
 そもそも哲学で行為と言えば、それは意味として人間の行動を、例えば因果論を機軸に考えているということである。価値として行動することを考えているということなのだ。
 私の友人の社会教育学者であり倫理学者である国井寛氏は、衝動というものを差異と反復として捉えている。同じタイトルの名著がドゥルーズにあるが、まさにあの差異と反復としてである。
 その衝動を喚起するものはやはり現在であると私は考えている。氏もそのことについて同意して下さった。つまりマイケル・ポランニーの暗黙知とフッサールの受動的総合が重なる地点のものとして衝動を捉えることを可能とする考えである。
 だが意図とか意識というものも一つの衝動であると捉えると、ある意味では人間の欠如に対する認識は倫理によって生み出され、欠如が意味を作っていると言える。例えば精神科医の和田秀樹氏に拠れば、フロイトはあくまで精神病患者の治癒を理性論的な解決によるものとしたのだが、彼の後裔たち、例えばコフートやロジャースはあくまで医師と患者の間での共感(そのことはフロイトに拠れば転移で言い表されているのだが)や依存といったことにおいて理解されていると言う。
 つまり人間の脳内での綜合作用とは依存と共感によるものなのだ。だからその理解ということの隙間に明らかにアートに対する感受性とかクオリアといったものが介在すると思われる。それは逆に考えれば、意味の呪縛から必死に逃れようとする人間の本能的な知覚や感覚における律動なのではないだろうか?
 永井均氏は独我論が、あるいは独今論(今だけが常に意識の中心であり、未来の自分というものを今以上に切実なものとしては捉えられないということ)が、本質的に普遍化することが出来ないということを主張している。(「倫理とは何か」他のテクストにおいて)もし私が私にとって都合のいいことだけを望むとしたなら、その功利主義は一般化され得ないことを私は望むからである。もし仮にあなたが私と同様あなた自身の益だけを望むように行動したのなら、必然的に私にとっての益にはならないかも知れないので、このような考えは一般化、普遍化され得ず、密かに実行されなくてはならない。
 しかしそのように予想してしまうということそのものが既に私たちが生存とか、他者の利害といった言語化された想念によって意味的に規定を受けている証拠でもあるのだ。
 サルトルは竹田青嗣氏によれば、折角フッサールが狭義のデカルト主義から脱却させたことを再びコギトに立ち返らせたということになる。それは「存在と無」における幾つかの論説において明らかである。しかし彼の功績は寧ろ対自と即自をヘーゲル的な教義から発展させて人間存在を欠如態として捉え、ある充足がなされた瞬間に新たな欠如を現出させるような内的関係を捉えたことにある。つまり完了したと同時に再び未完の状態へと送り返される永遠の未完成であるところの人間存在は、それ自体で一つの欠如である。しかしこの社会には多くの肩書きが存在し、その権威を巡って喧々諤々人間がのた打ち回っている。つまりそのことを彼は自己欺瞞と呼んだのだ。このことは確かに古典的カルテジアンとしてのマニフェストをなした「存在と無」における最大の功績である。
 つまり意味とは充足されたものではなく、寧ろ別のもう一つの意味へと移行するために思惟上も、想念上も存在すると言ってよい。つまり私たちは倫理への問いとか価値についての思索をするということそのものが、常に意味によって規定を受けていると同時に、意味そのものを常に「別の形」で模索していると言ってもよいのだ。行為が何らかの目的を持っていると言うことは出来る。しかし行為はなされてしまえば、行為の痕跡を残すこととか、行為の結果私たちの環境が何らかの形で共鳴したり、変化したりすることを確認することは出来る。しかしその変化や共鳴は、そこで常に別の形へと移行しつつあることを我々はその時知るだろう。音楽が反響する公会堂での演奏会では、その音楽が演奏され終了すると拍手が喝采され、やがてホールを後にする人々の騒々しい語りや息遣いが確認される。そして演奏家が終了したステージには観客たちが残していった埃と、静けさだけが支配する。それら一連の変化は実は行為がなされ得ようとする意志と、なされてしまった後のその場の変化を痕跡として残すということと、その痕跡を追認する私たちの想念が、私たちの未来に対して常に別の形での別の行為を用意しているということを物語る。それは言い方を変えれば行為性の相互依存である。
 ここで国井寛氏が私に語った「衝動とは差異と反復に起因すると思う」という考えについて少々分析してみたい。
 私たちはある意味では全て哲学的存在者として思考し、悩む存在であり、言葉というものの利便性と恐ろしさの只中にいるという意味では共通した存在である。永井均氏の「倫理とは何か」では次のように記述されている。
 
 ということはつまり、意見が対立するためには言葉の、一致が必要だということだね。
 そのとおり。・・・・・・なんだけど、逆もまた真だ。つまり、逆に言葉が一致するために、言語習得の初期の段階では、意味の一致が必要とされる。子供は、推奨語としての「悪い」を学ぶのと同時に、たとえば「友達を殴ることは悪いことだ」といった道徳的判断を鵜呑みにさせられる。いわば意味と意見を同時に教えられる。このことで直観主義者の言う「直観」が成立するわけだ。このとき、存在したはずの友達を殴ることの善さ・・・・・まさにそれが存在したからこそ道徳的悪さが発動してその存在を否定しようとしたはずのその善さ_はあたかも最初から存在さえしなかったかのように、闇から闇へと葬られることになる。
 ということはつまり、子供には「友達を殴ることは本当は悪いことなの?」と問うことがゆるされていないということだね。
 そう。問いがまだ「開かれて」いないんだ。この開かれていなさが直観が成立するための条件なんだ。でも大人になれば、言葉の意味だけ判断から切り離して保存しておいて、その意味を使ってきわめて特異な道徳的判断を表明することができるようになるわけだね?つまり「(道徳的に)悪い」という言葉を使って「友達を殴ることは本当に(道徳的に)悪いことなのか?」と疑問に思うことが可能になるわけだ。
 逆に、道徳的判断だけ切り離して保存しておいて、その意見を特異な言語で表明しても、ありふれた意見ならたやすく解読できる、という逆のことも言えるね。

 行為はまず我々にとって幼少期、実践として習得させられるし、私たち自身そこに未だ意味とか目的とか価値といったことを一々深く考えていられる余裕はなかった筈だ。その行為そのものに意味、目的、価値が見出されるのはずっと後のことである。つまり善悪を判断する力や、社会通念を習得して、行為の様々な社会的に通用するパターンを踏襲することが出来るようになって然る後、初めて私たちはそこに哲学的意味や価値規範的な問い、つまり何故そのような行為にモラル的な判断が必要とされるのかという切実な問いを社会通念を履行出来る立場から考えることが許されるというわけである。
 国井氏の発言にある差異と反復とはまさにこの永井氏の記述で示された最初の言葉の一致と、意味の一致ということが、共に自‐他関係において成立しているということと、その自‐他の関係そのものが私たちに意志発動、意志伝達の欲求を生み出しているということとして考えることが出来る。
 このことは別著「他者と衝動」(別ブログ<当ブロガー、プロフィールからクリックすればよし>「決心の構造」において掲載)で詳しく触れたので、そちらを参照して頂きたいのだが、私たちは他者の存在そのものが私たちの行為のモティヴェーションを規定しているということを知ることが出来るのは、言語行為という日常言語学派が示したように意志伝達そのものが既に一つの行為であり、それは身体的に何かを移動させたり、物質を変形させたりする以上に、相手に対して最も大きな影響力を持つということからも明白であろう。つまり精神的影響力とは、例えば人を侮辱する時に、その人の所有物を破壊することだけではなく、尤もその人の最も愛する者を傷つけるということが最も卑劣な手段であるが、少なくともその次くらいに卑劣なことというのは満座の席でその者を侮辱することである。
 つまり言葉というものが発せられることは一つの行為であり、その行為を引き出しているのが意味であり、意味は感情と密接である。そして言葉は確かに二人の間で交わされる時、語彙的指示性は共通している。だから今日使う今日という言葉は本質的には昨日は昨日のことであり、今日は今日のことなのだが、実は常にその日のことを指すという意味では変わらない。つまり反復されているということだ。それに対して、やはり昨日使った今日は、昨日だけのことであり、今日使う今日は今日だけのことであるという意味では全ての語彙はその時一回限りであることも多い。例えば河口としての私は、昨日は昨日の私であったし、それから時間がたって今日の私は確かに昨日の私とは違う、生理的な身体条件も刻々と実は変わっている。しかし少なくとも私という人格的同一性は保たれているという不変であるという条件で私たちは私たちの名前を呼ぶ。
 つまりどのような語彙間の使用条件や、語彙そのもののカテゴリーが異なっていても、その時こっきりの使用目的ということと、いつも変わらない使われ方が常に併用されているということだ。もし私が昨日は山口で、今日は海口であったのなら、そして明日は空口になるのなら、私自身が変わったということそのものが言い表せない。それは名前のその都度の変更とただ同様のこととなってしまう。あくまで人格内部の変化を表現するためには、私たちはまず基本的な身体的条件と、名前が常に同じであるということが必要なのである。つまりそれは他者存在そのものが言語行為の衝動を生み出していることと同時に自己同一性と人格的変化とが反復と差異との関係でこの場合捉えられるが、それ以外の全てのケースでも、例えば身体生理的状態も、私は昨日の私と同一の身体条件であるが、昨日の健康状態とは微妙に異なっているという意味ではそれもまた反復と差異とによって規定されていると言えるからである。
 それに私たちは私たちにとって意志的な発動を滞りなく運ばせるためにのみ記憶を援用するのだ。例えば敵対する立場の人間に対してエールを送らなければならない局面というのは人生に多々ある。しかし敵対する関係においてそう楽しい思い出ばかりが存在しているわけはない。しかしだからこそ敢えてそういう相手には、より苦渋の関係の歴史においても尚、その中で一筋の楽しかった思い出を語るということは多々あるのではないだろうか?
 つまりそれは記憶されていることを恣意的に美化することを意味しよう。それは言葉を変えれば記憶の自己欺瞞である。それはある意味では全ての人間関係において成立する記憶に対する検閲である。
 記憶は何か率先して主体的にしたいと欲求していることに対してはそのことに関する良好なイメージの記憶を想起させる。しかしそのような好意的な未来に対してではなく、止むを得ず執り行う幾多の行為を正当化する時にこそ、その行為を正当化するために必要とされる記憶が「そうあるべき事態」を招聘するために修正されるのだ。それは端的に制度とか他者の思惑それ自体に「合わせる」わけなのだ。
 それは無意識的に忘れたいことに目を瞑り他の今直面している重大なことではないものへと目を逸らそうとするのである。しかしそれは一旦定着すると次第にその記憶の摩り替えが習慣化してしまい、反省しないことが自己信条と化してしまう。これは社会的地位の高い人間も多く陥りやすいことなのである。
 例えば行為とはそれ自体で哲学的思惟の幻想である。しかし哲学的にそうある行動の連鎖を行為として位置づける時既に何かの流れ(仮にそういうものがあったとしよう)を恣意的に分節化しているわけだから、その「分節化すること自体を問う」という行為が新たに設けられなければ甚だ危険である。それは一種の思考の哲学ゲームへと我々を迷い込ます。だからそうならないためにも我々は巧くいったことを気が落ち込んだ時には思い出すことが必要だが、そうではない時には充実した過去だったと記憶を美化しないで、積極的に過去における自己の欠如を見出すべきではないだろうか?

Tuesday, December 1, 2009

〔意味の呪縛〕九、言語と行動の関係

 「起こり得ること」とはよくあること(のこと)である。起こり得るのだから以前にもあったのであり、これからもあることである。滅多にないことでも一度はあったのであり、一度もなかったことなどそう世の中にはあるものではない。例えばこの世界に一人も死なない人というのはいない。いたら、例えば五百年前に生まれてこのからずっと生き続けてきた者がいたとしても、この先いつ死ぬとも限らないから、結局のところ一度も今までなくて、それからも一度も起こらないことなど私たちは終ぞ確認することなど誰にも出来ない。そういうことをすらお見通しという意味で全知全能の者をかつて人類は神と呼んだ。理解出来ることというのはあったことを誰かが記憶していて、それが再び起こったのでそれをあの時のことであると了解することを基本としている。それは自分史的にもそうだし、人類史、地球史としてもそうである。だが信じるという心的活動はそういった理解のレヴェルとは全く層が違って、要するに何かをそうではないかも知れない可能性を知っていながら、絶対そんなことはない筈だという願望をも含み込みながらそれでもその可能性を信じないという決意の下であることを信じようという決心なのである。だからある行動へと身体を移す時私たちは何か特定の目的を持ってそうしている筈である。それがかなり習慣的なことであれば、ただ真剣に何かしようとその都度意識的にそうはしないで、殆ど自動的にそうするのだ。例えば自宅でトイレに行くとか、トイレを出る時には手を洗うとか、自販機で飲料を購入する時にはコインを入れるとかそういうことというのは、全て無意識の内に身体が動いていることの方が多いだろう。いきなり蝿が目の前に飛んできたなら、それを手で払い除けることもまた一々目的的意識などない行動である。
 しかし全ての行動は後で意味づけすることによって言語化し得る。自分の生活上での行動を無意識レヴェルの全ての行動をも後で反省的に言語によって表現することは可能である。
 では行動を採る場合、私たちは一々言語的に認識しているのだろうか?何か止むに止まれぬことをする場合とか、何か切羽詰まった時というのは、それでも普段の平静を保とうとして呪文のように「落ち着け。まずこれこれこうすることにしよう」と言葉を何度も何度も反芻して一つ一つ絡まった糸を解きほぐすように行動することだろう。意志とはそういう何か極めて危機的状況とか、不安や不安定な状況においてこそ意味を持つ心的な概念である。そして意志というのは、それは極めて不合理な感情であったり、説明不可な心理的なことが契機であったりしても、その<感情的契機によってある行動へと移す>ということにおいて明確に他者に説明し得ることである。
 例えば期待して入った映画館で、映画があまりにもつまらないために映画館を映画が終わらない内に出る時、人からもし「なんで今始まったばかりの映画を見ないで出るんですか」と聞かれれば即「あまりにも面白くなかったからです」とだけは返答出来るだろう。それは美味しくないレストランを出る時と同じで、その面白くなかった理由とか美味しくなかった理由そのものは説明し難いとしてもその面白くない、美味しくないということそのものは理由として挙げて説明することが可能だろう。
 つまり説明し得る理由というものは常に何らかの形で用意出来はする。しかしその理由の根源的な原因、つまり究極的な理由というのはほぼ説明不可能なことの方が多いということである。
 つまり意志と行動は常に直結しており、意志と行動の直結を他者に説明し得るということそのものが故意ということであり、明確な意志ということなのだ。そして意志が明確であるということがその行動そのものを行為として言語化可能であるということなのだ。
 勿論ある行動へと移された意志そのものの起源的な原因、つまり内的理由というのは一言では説明出来ない。例えばある趣味を止めて、別の趣味に没頭するようになったことというのを、心境の変化とか前の趣味に対して飽きがきたとかそういう理由を説明することは出来ても、ある意味ではそれ以上に、では何故飽きたのかということとなると、途端に説明が難しくなる、ただあまりにも頻繁にその趣味に精を出し過ぎたというのは理由としては説明になっていない。例えばあまりその行為が自分には向いていなかったのだと説明しても、では何故向いていなかったのかと問われれば途端に返答に窮することとなろう。
 だから必然的に私たちは人から何らかの行動の理由を問われれば、どこかでその理由で納得するということで常に落着させてきているということなのである。因果関係をあまりにも克明に究明し過ぎようとすると、明確な理由というものそのものが消滅してしまうことになりかねない。哲学、心理学、精神分析といった分野の学問はそのような理由の因果的遡及性をベースに汲まれた思想体系であると言える。
 そしてそれら全ての学問は言語によって営まれている。つまり言語とは何らかの出来事を過去にあったこととして現在において説明するためのものとして存在していると言うことも出来る。
 哲学は要するに生とは何か、つまり幸福とか行為の目的とは何かとそういうことを考えていった先に見出される根源的な問いを問う学問である。しかしその問うことは全て言語によって行われる。心理学は生とは何かということの問いの究明のために必要な様々な人間の精神生活上での心理全般を扱うし、精神分析はその心理が病理的状態であることを前提とした治癒という目的に沿った分析を旨とする。しかし全ての学問上での言語的営みは、総じて過去にあった出来事から類推された言語、例えば名詞や動詞は全て過去にあった事物や動作が規準になっているし、一見そうは見えない形容詞や副詞も過去の何らかの事象との出会いによって得られた感想とかその時々の判断に対する記憶がベースになっている。奇麗な花という形容も、凄く奇麗な花という副詞によって強調された形容も全て実はそれ以前に見たものの中でという比較とか最近過ごしてきた生活の単調さそのものをぶち破るくらいの感動を与えるという意味では過去の出来事との類比において成立している。
 いやもっと過去の事実と関係のなさそうな間投詞や、助詞(英語では前置詞)といったものでも、それらはそういう品詞の使用の仕方を習得した人間によるその時の感情的な様相を示すものなのであり、方法記憶の中に入るし、要するに記憶という最も重要な能力なしには我々は言語行為を執り行うことなど出来はしないのだ。そもそも身体的動作とか行動全般が、そういった過去による習得、過去の記憶を手がかりに行なわれるのだ。だから行動と言語を繋げるものもまた記憶である。行動とはそういう行動を採ったことがあり、その行動の結果どうなるかということが過去の経験によって知っているということをベースになされるのだし、そういう過去の記憶を瞬時に想起させることを手助けするものは言語である。つまり言語的認識が論理的道筋を立てて、考えることを促進しているわけである。
 私たちの生活では全てが言語的認識によって勿論成り立っているわけではない。例えばまさに感覚的な神経活動による授受などもそうだし、クオリアと言われるものもそうである。
 しかし少なくともこれらも常に言語的認識に助けられているということは言える。視知覚とは事物を対象化して捉えることであるから、あるいは痛みの感覚すらも、その痛みが身体のどこの部位において感じられているかという判断や、その原因について思念するわけだから、基本的に全ての感覚は言語的認識に助けられている。そしてそれは感情についても言える。そもそも感情とは対人関係において得られるものが殆どなので、仮に誰かから侮蔑的な言辞を貰い受けるという経験があったとしたら、まず言語的認識から我々は感情的な動揺へと至るし、仮にそのことを契機に日々憂鬱になっていったとしても、それは身体的情動を何らかの形で意味づけしてそれが感情となっているわけだから、感情ということそのものが極めて言語的なものなのだ。
 あるいは友人と出掛けた旅行の思い出そのものも、エピソード記憶として共に眺めた景色や車窓といったものもまた、それがいつ何時であったかとか、何処そこであったとか、要するに記憶内容を整理する際に私たちはたとえ感覚的な事柄であっても、その感覚を意味づけ、知識や経験を参考にして心的に何らかの判断を下す時、感情的な様相で理解したとしても、合理的に何かを判断したとしても、全て言語的認識に助けられているのである。
 それはクオリアについても言える。クオリア自体は確かに非言語的要素が強い。しかしその非言語的要素を自分で何らかの形で認識し、そのクオリアによって得た感動とか体験を記憶として保存して整理したり、自分の生活や人生に意味づけたり、位置づけたりする時明らかに言語の助けを得ているのだ。しかもクオリアとは過去に得た何らかの似た経験とか、エピソード記憶とかとも密接なので、必然的にそれらと現在感じていることとの対比とか、人生の全過程に潜む潜在的記憶と現在とは密接に関係しているから、それもまた極めて言語的認識(時間把握)と深い関係にあると見てよいだろう。
 つまりそういった風に言語や言語的認識と不可分の関係にある感覚とか感覚的授受によって我々は日々生活している以上、我々の行動全般も、たとえ身体生理的な原因による不随意運動に対してさえ、何らかの形で言語的に判断しているし、寝ている時、とりわけレム睡眠時に見る夢そのものもまた、言語的認識と無関係なものなどないだろう。だから必然的に何らかの無意識な身体的動作に関してさえ、ある言葉を聴いた時に条件反射的に連想することによって採られる身体的動作とか、要するに行動全般が既に言語的影響下にあると言ってよいだろう。
 記憶そのものも記憶間の連動ということも考えられるし、意味記憶化するエピソード記憶と言うものもあるだろうし、逆に意味記憶から喚起されるエピソード記憶というものもあるだろうし、何より身体的な運動記憶、手続き記憶などが言語を心的に誘発するといったことも稀ではないだろう。

Monday, November 30, 2009

〔意味の呪縛〕八、信じることと理解すること

 私たちは少なくとも哲学的存在者であると自覚したならば、人生とは、生とは意味化そのものであると知るだろう。意味化の基礎は意味され得ないもの全てに対する無化である。
 私は前章において他者の言語化と、自己の言語化ということの交互に執り行われる相補性について触れた。これは実は一番重要なことの内の一つである。つまり生を、人生を理解しようとする時、明らかに我々は生そのものを言語化しているという自分に気づく。そしてその言語化という認識そのものが既に第一章で述べた幻想の一部であることに気づく。だから今度は更にメタ認知して言語化ということの幻想性そのものを意味づけしようと試みるのだ。例えば通常我々が無意識に執り行っている私たちが他者に述べた言葉、言説に対して「もっとこういう風に言っておけばよかった」という後悔とかを含む、あるいはただ漠然と自分の言った言葉を心の内部で繰り返し想起している時我々は言語化と言うよりは、言語そのものの幻想性を意味づけしようとしている。
 これは端的に自己を認識的には他者化していることを意味する。だから第三章で私が述べた想像という心的活動において我々は他者の立場になっている場合を想像することを、他者の自己化と言ってもいいだろう。つまり他者を自己化したり、自己を他者化したりするということの内には、実は言語の意味化が潜んでいるということはこのことからも明白だろう。つまり言語行為そのものの存在理由、生において我々がそれを認識する際の価値へと至る道筋は、他者存在、自己にとってのそれであり、且つ自己そのものがそれによって育まれるところの他者存在理由そのものに存しているということを知るからである。言語行為に対する反省や分析から言語そのものを、つまり言語化という作用そのものを捉える時、我々は言語の存在理由を見いだしながら、実は自‐他の関係そのものを意味化しているということが言える。
 言語学者でこのことに対して自覚的だったのは、ソシュールではなくイェスペルセンであったと言ってよいだろう。しかしそのことはいずれ別の機会に詳述することとしよう。この章ではとりわけ信じるということが、実はその対象が他者である場合、他者存在を言語の呪縛から解き放つことであるということについて考えてみたい。つまり愛情とか友情とか言う場合、我々はどこかで言語そのものの枠を超えたと解釈しはしないだろうか?それは印象的な文章や感動的な文章や文面に対して充実した言語という位置づけを与えるのに対して、愛情や友情はそれらをも超える価値のものと規定したいからである。しかしこの言語を超える情の問題は、実は言語が生み出した幻想でもあるのだ。つまり言語を超えると言う段階で既にそれが言語的思考によるものであるということが明白だからである。そして言語の呪縛からその他者存在や存在理由を解き放つという行為的意味そのものが極めて言語的思惟によって生じたものであるからだ。
 だからこのことはエピソード記憶とかクオリアに関しても同様に非言語的であると思われていて、その実言語の最高度の思惟の果てに到達する別の言い方が許容されるのなら、言語の最高度の結晶化作用とでも言ってもいいものであると思われるのである。そもそも哲学的に何ものかの価値を認可する心的活動が無化にあるとしたら、それはそれ自体で存在認識による心の作用でもある。つまり認識には既に言語的な思惟が介在しているからである。他者存在、他者の存在理由を言語の呪縛から解き放つということは、即ち意味の呪縛から他者存在を解き放つことであり、そのことが即ち意味の呪縛を正直に認めることにもなるのである。言葉を超えたことは言葉からしか引き出せないし、言葉に囚われないことというのは、言葉からの通常の支配を認可したことになるのである。だから無意味も、<意味などなくてもいい>も、<意味などなかったとしても尚>という思惟には全て意味が含まれる。意味が価値を生むとも言えるし、価値が意味を生むとも言える。
 通常現象学では、フッサールもレヴィナスも論理的と心理的と言う風に分ける。しかし本来全ての論理的なことにはそれ固有の心理的なことがあり、全ての心理的なことにはそれ相応の論理的なことがある。ではこのことをどう考えればよいのだろうか?
 端的に心理的なことから極力論理的なことを意図的に排除しようとすることが信じることなのである。そしてある他者を信じるとはある他者に纏わる言語による存在理由そのものが意味化されたことであると認識することで意味の呪縛から解き放とうと意志することが信じるということなのだ。そして論理的なことで心理的なこと全てを説明し尽くそうとする脳内の活動を我々は通常理解すると言うのだ。これは茂木健一郎氏がアハ体験と呼ぶもののことでもあるかも知れない。
 何故そうなのかは、意外と容易に理解し得よう。信じるということは、要するに思考の停止なのだ。それは決定であり、それ以外の全ての選択肢を考慮に入れないということである。しかし理解することは理解出来ないことではないということの判明であり、理解出来ないということは信じられないということに尽きる。だから逆に信じるということは、理解出来るものの中でもトップクラスで記憶しておくべき価値があり、銘記しておくべきこととしての要記憶事項なのである。そして一旦決定されたことを後は履行するだけのことであり、全てのプロセスを省略することこそが信じるということに他ならない。
 私は第五章において「意味の規定ということの内には意味として通用するものに対しては一々検討する必要がないという通念が生活者全般に行き渡るので、前章で述べたような話者相互の相手にこちらの説明に対して想像したり、こちらが相手から何かを聞きだしてそれを説明されたことを想像するということを相互に了解し合あったりするというような関係に持ち込むまでのことはないという省略を意味する。」と述べた。それは要するにある言説において意味を伝達する時、私たちは一々自明なことを想像する必要などないということだから、逆にかつて何らかの意味でその意味について熟知する経験を誰しも持っており、それを一々具体的に想起する必要がないくらいに定着しているということ、つまり真理であり概念化された常識ということである。だがそれは誰にとってもそうなのであり、例えば女性は通常好きな男性の下へと出掛ける時には化粧をするものだとか、誕生日には家族の間ではプレゼントをするものだとか、日本では正月では初詣をするものだとか、個人としての存在者にとって切実であるとか、その者だけが体験した事実とは違う。つまり信じるということの場合、我々はある人物が素晴らしいとか、ある料理が美味しいという時、概ね誰でもそう感じるかも知れないが、それは絶対ではない、つまり個人差があるということにおいて特にある存在者個人にとって銘記すべきことこそ信じるということであり、正月に日本人が概して初詣をするものだとか、女性が化粧するとかそういうことは信じるということではなく、知るということである。
 だからある観光地で訪れた蕎麦屋の蕎麦が美味しかったので友人が同じ地を訪れる場合その店を勧めるということも、ある意味では私にとっては美味しかったということであり、親しい間柄では勧めることはあっても、全ての人、例えばそれほどよく知りはしない旅行の車中で隣り合わせた別の旅行客にまで勧めることは憚ることもあるかも知れない。
 しかしその車中で隣り合わせた客と会話している内に、その人が「あそこの蕎麦は美味かった」と言えば、その意見に賛同し、恐らくその客の主張する事実を理解するであろう。そういう意味では理解ということの内には想起されやすいということも含まれているだろう。「まさにその通りだ」と言う時我々はある言説が他者から発言される時、その言説内容に関して一瞬過去に自分も同じ経験をしていることを想起する筈である。だから意味とは記憶されるものであり、信じるということは常にそうである筈だと心的に決定しているのであり、記憶された意味とは異なる。そして理解するということはその理解されることを心的には想起して、その発言された内容と同一の体験を自らしたことを一瞬でも想起しているということが考えられる。恐らくそれはエピソード記憶によるものとか、運動記憶とか手続き記憶とかの場合は身体的に経験したことであり、カーブを曲がる時車のハンドルを切るのは体力が要るとか、自転車を渋滞の道路で車を避けて扱ぐことはきついとか、テキーラはきつい酒だとか、そういうことというのは、同意しても信じるということよりは理解出来るということの方に近い。信じるというのは決定を曲げないという意志的な心理であり、ひょっとしたら全く別の可能性もないではない時に、しかし敢えて別の選択肢を全て遮断するという意志に他ならない。だからそれは無意識的ではなく意識的なことなのだ。
 しかし理解出来ることでも時には反復して語られる時一々その度に想起することはないだろうから、そうなると反復される言説に対して異議を申し立てることを省略するようになるということにおいて、それは意味記憶的に、それが真理だと信じることはするかも知れない。つまり理解ということは意味そのものの習得の際には必ず起こることなのであり、理解出来たものから順に、しかしその中でもとりわけ個別の事象であっても、どこか頻繁にあるケースが普遍化されて記憶されていくということがあるのだろうと思う。つまり意味とは個別のケースにおいて記憶されたものたちの中で一般化される真理として理解されて一々想起する必要のなくなった真理に対して記憶される「起こり得ること」に他ならない。
 それはある女性が伴侶の浮気によって裏切られ、伴侶の相手の女性に対して憤りを感じる場合それを嫉妬と呼ぶとか要するに個別のケースの一般化された真理に対しての位置づけということとしてである。

Thursday, November 26, 2009

〔意味の呪縛〕七、 安心と自己欺瞞

 我々はある決定に対して、「それでよかったのだ」という心理的な安心を得るために他にもっといい方策や決定があったのではないかということに対する封印をすることで、つまりそのことに対してそれ以上は問わないということにおいて実践を滞りなくすることにしているのだ。
 それは職業的自己欺瞞、サルトルが「存在と無」で明快に示した「合わせる」行為の自己言語化作用においても全く該当することである。それは相手を信用するということにおいても、ああ先生ですか、ああ君か、と言う風に知っている人、その身分と行動に関する信用においてどこそこのルーム、例えば会議室や研究室といった場所への入所を保安管理の人々に対して許可されるという、つまり許可する立場の人間にとって安心して許可し得る立場の人という特権において私たちは最高度の自己欺瞞の例を見ることが出来る。だから当然ある特権を許可することを管理側の人間に対して滞りなくさせるものとしての社会的地位というものは許可する者の安心、つまり認可された権威として全ての役職、全ての職業的特権が、職務上での義務履行と共に許可される特権的行為を正当なものとして理解される、正当なものとして認識されるものとして哲学的自己欺瞞というものは遺憾なく発揮される。
 しかし本当にその許可された存在者たちの内心というものを推し量ることは出来ないし、通常エリートという階級は社会的には何一つ過不足なことのない生活であると勝手に想像するのは、非エリート的立場の人々固有の幻想にしか過ぎないのであって、自己欺瞞を滞りなく遂行するための社会的責務達成的理性と、習慣的な行為とによって内心がどのようなものであれ、その成員の人格にとってはどうでもいいことであるという判断こそが社会的理性なのである。だから逆に非哲学的であり、社会学的であり、法学的であり、要するに思惟することが特に社会的行為そのものに対しては通常疎まれるということは当然のことなのだ。何故なら社会では義務の履行によって権利を保障されるというごく単純な一般意志の基準でのみ全てを判断するように求められているからである。
 それはだから現象論的には形骸化された法秩序と、形式随順的、改革意志排他的な保守主義を人間心理に生むことは日常的なことである。端的に法言語とは決まりごとであり、ルティンな処理概念であるべきであり、空虚な言語である必要が積極的に求められるものなのだ。官僚が作成する文章が真意と、外面的秩序の差を意識させるものであってはならない。それは全て法秩序そのものであり、一般意志の基準でのみ理解しやすいようになっていなくてはならないので、職務、社会的責務、一般的幸福の基準、一般的公正の規準、一般的公平の基準に照応されていればそれでよいのである。
 だがそれは安心という心の規準には当て嵌まらない。それはあくまで社会秩序的にそうであるだけのことであって、本心、と言うより個人の願望とか、幸福感情とか、公平、公正、正義の規準と、社会が法的に容認しているそれらとは著しく異なるケースも出てくることはある。その両者が一致している状態こそが最も好ましいということは誰しも理解し得ることだろう。しかししばしばそれらは齟齬をきたす。従って安心の規準は治安の安寧そのものに限っては、法に随順する市民のみで構成された社会状態が最も好ましいことはわかっているが、自己欺瞞を社会的責務と、一般的常識的行為という名の下に合わせて生活している心理的行為論に照応すれば、別にどうということもないことであっても、現象的行為論的には内面的には仕方なく履行している行為が多く、個人の幸福や正義に対する諸価値と齟齬をきたしている場合、我々は自己欺瞞をネガティヴに捉える他はあるまいと思うのである。
 端的に安心ということの内には社会秩序としての法体系随順という名の治安安寧という、空虚な言語、つまり他者一般が他者一般によって言語化された状態と、個人の価値基準(感情的側面が見逃せないものとしての)、つまり充実した(ように少なくとも自分ではそう思える)言語との間には常にその都度変化する距離があると言ってよいだろう。このことは重要である。何故ならその距離に対する認知と覚醒がないのなら、我々は一切の哲学的問いなどというものを必要とすることなどないだろうからである。
 安心と自己欺瞞とはだから常に一般意志オンリーの社会的法秩序と、個人の内面における現象論的思惟においては常に変化し続ける距離を保持することによって、時々一致することはあるけれど、社会的に安心であることと、ある成員にとって個人にとって安心であることは違うことの方が多く、また自己欺瞞もそれ自体が歓迎すべきケースと、そうではなく息苦しいと思われるケースとは、安心と同じように捉えられるということである。つまり他者から立派な職業人であると思われ、尊敬さえされている成員でも、彼の内面においては「こういう職務、こういう社会的地位にいることは息苦しいのだ」という思念を払拭することは困難かも知れないからである。
 一般的に尊敬される人というのはその職業的能力と技能、そしてその職業に携わる人に通常求められる風格、人格的な素晴らしさに対してであり、能力と性格と社会的地位とが複合化された特徴に対してである。しかしロックスターであれ、野球選手であれ、サッカー選手であれ、テニスプレイヤーであれ、裁判官であれ、弁護士であれ、政治家であれ、安心してその仕事振りを見ていられるという行為に赴いている成員たちは全て必死でその状態を作り上げているのであり、その姿に憧れ、羨ましがっている全ての成員たちには通常耐えられないことに耐えているのであり、大勢の人々によって安心して見ていられる仕事振りから、そのことで羨ましがられている立場の成員にとっては、自分もまたただ安心して人の仕事振りを見て羨ましいとだけ感じていたいと願っていて尊敬される優秀だと社会的に見做される成員に対して羨ましがる立場そのものを最も羨ましがっているケースも多いのだ。勿論真にその仕事に生き甲斐を感じ、他人が一切羨ましがってなどいないというケースもあるだろうが。それは恐らく極めて少ない。と言うのもそう思えるということ自体が既にかなり病理的状態の精神であると私には思えるからである。そこには自己陶酔というより、もっと歪曲化されたナリシシズムが介在しているように私には思われる。

Saturday, November 21, 2009

〔意味の呪縛〕六、信用と欠如

 我々哲学的存在者は、基本的に他者を自己としての意識を持つために先験的に必要としている。そしてその事実に対して覚醒した時には、一々そのようなことを日常的は意識する必要がなくなっている自分をまず視ることになる。つまり見慣れた出来事、見慣れた習慣そのものを敢えてもう一度問うこと、それは一体どうしてなのかと考えることから哲学的思惟は明確化された形として我々の前に提示される。
 自己の意識を覚醒させるに足るような他者とは端的に他者としての生彩を保っているというお墨付きを自らその者に与えているということを意味する。それは初歩的な信用をその者に抱いているということだ。そしてその信用とは私たち自身が誰しも抱いている自らの中の欠如に対する意識と一体化されている。安心も用心もある意味では同じ範疇の心的作用である。ある者を自分にとって必要な他者であると認識することが出来るということはその者に対して信用するということだから必然的にその者への用心を取り敢えず解除するということも意味する。
 ここで興味深いことが私たちの間に起こる。それは他者としてある者を意識するということは只単なる他人として通りすがりの人に対して目線をやることとは違う。それは意思疎通し得るという認可を自然に相互になし得るほどの接近を持った時、それは電車でたまたま隣に座り合わせた他人でも他者となるからだ。それは言ってみれば他人から他者への昇格というよりは他者という存在が言語化された他人であるということが出来る。しかも一旦他者となった者はどのようなタイプの成員であれ、何らかの形で言語化され得る。つまり言語化された他人としての他者を更に言語化するわけである。つまり向こうから私が他者として存在容認された場合は、逆に向こうから私が他者として言語化されているということなのである。
 他者の言語化とは、私という一個の人間を通して、その者をどのようなタイプの成員であるかどうかという思惑と共に、否が応でも社会的地位を通した他者理解の範疇にその者を投げ込むということを意味する。またそれと同時にその者が何らかの形で固有の能力を秘めた存在者である意識する。その存在理由の一端であるその者の能力というものは、その者以外の全ての成員(私も含めた)との相関性において成立する。それは要するにある社員を就職させるための新入社員を公募した場合に審査員たちが査定するような意識的なそれではなくても、無意識の内にそのような目で見ているということである。
 そして社会的地位という取り敢えずの肩書きと、その肩書きを作るその者の能力以外にもその者に固有の性格、その者の育った環境が大きく左右するものだが、それをもその他全ての成員との相関性において私たちに判断させる。そしてその三つ、つまり社会的地位、能力、性格といったことが一緒になり合わさって我々はその者の特徴として把握する。つまりその者の特徴とは、端的にその者に対する査定、判断の全てが複合化されたものである。勿論その特徴とはそれを認識する私にとってのそれである。
 即ちそれらの思惟や認識の全てが他者の言語化である。
 しかしそのような他者に対する言語化というものは、ある意味ではそれだけでは成立してない。つまり自己の言語化と常に交互になされるということを見逃してはいけない。
 自己の言語化とは、反省意識、つまり過去エピソードに対する想起、その想起も忘れたくても向こうから勝手に私たちに思い出させざるを得ないものと、必死に眉間に皺を寄せて思い出だせるものとがあるだろう。そして意味記憶の想起もある。またそれらを総動員して現在において掛かりきりになっている諸問題に対するその都度の理解というものもある。つまり思考そのものである。その思考の中には論理的思惟から感性的な感受もあるだろうし、感情的な判断というものもあるだろう。
 つまりこれらが総体として自己の言語化と呼べるものである。そしてこの自己の言語化という脳内の作用と常に相補的になされているのが他者の言語化である。つまり気配としての存在者である他人が言語化されて他者となったその瞬間から他者は必然的に自己との相関によって言語化され得る運命にあるのである。それは自己内の欠如を知る意味で他者の充足を見出すことにおいてもそうなされるのだし、その者の欠如を自己の充足を通して知る意味でもそうなされるのである。
 だから信用するということは、ある意味ではその者の欠如を容認し合える仲としてその者を何らかの形で認識することであるし、信用されるということもまた自らの欠如をその者に示すことによって得られることなのである。そして自己の充足をその者の欠如から知ることを望むことでその者に臨むということに対する要請と、その者からの同様の要請を受け容れることそのものが他者と相対するということであり、そういう風に相対するということがそのまま哲学的存在者であるということなのである。
 だから信用することとは、欠如の相互容認と、自らの充足を相手の欠如を通して知ることにおいて成立する存在理由=人格的価値ということの発見が第一の他者との、つまり自‐他の関係の端緒においてあるということなのである。
 つまり信用と欠如のシナジーとは自己‐他者相互の言語化作用における実像なのである。

Friday, November 20, 2009

〔意味の呪縛〕五、信用するということ

 他者存在は哲学的存在者たる我々にとって意思疎通という欲求を通して個という存在の存在理由という価値規範を生むということは、逆に言えば存在者という考えの中には他者という観念を前提しているということが出来る。脳科学ではミラーニューロンのような存在に関しても注目が集まっていたし、他者存在そのものに対する気配がまず幼児に言語習得へと向かわせる内的な動機を生むが、勿論幼児にはこれといった他者に対して説明出来るような根拠などない。しかし少なくとも最初は通常両親によって接近されることによって他者の気配を捉え、その気配に言語行為へと赴く前哨戦があるのだ。
 しかしそういう言語行為へと赴かしめるような気配というものはまず基本的に温もりのあるものでなくてはならないだろう。つまり意志伝達する意志そのものを生じさせるような相手として認知される必要が幼児には少なくともある。だから逆に大人になっても人間はこの相手が意思疎通し合えるか否かという判断において前者であるという気配をまず汲み取るのである。それは経済活動においても実践されている。資本主義社会とは端的に金銭を交換し合うことにおいて金を払ってくれるかとか、金を払う価値があるかとか、要するに金銭を通した相手に対する信用に基づいている。
 しかし昨今食品テロさえもが横行しているというモラルハザードの根幹には人が信用という無意識の是認を全ての商品に対して前提しているということを逆手にとって犯罪的事実があることを意味する。つまり信頼ある商店(それは往々にして商店名、つまりブランド力ということになるのだが)で買えばどのような商品でも大丈夫だろうという目算があるわけだ。だから逆に信頼あるブランドの商店において購入すれば一々商品そのものの欠陥などというものは考慮せずに済ますという時間節約主義がそもそも全ての食品テロリストの思惑にあるように思われる。
 即ち信用するという行為は、信用すべきか否かを一々点検することには手間がかかり、その信用そのものさえ金銭を払って買おうという意識が現代人にはあるのだ。だから逆に信用するということの意味をもう一度ここで哲学的に再点検する必要がありはしないだろうか?
 信用するということは信じたいということとは基本的に違う。
 信じたいというのは願望であり、サルトルも「存在と無」で言っているが、却って信頼出来ないものに対して、しかしそれが好きであったり、それまでは信頼してきたりしたということがあるために、継続して信頼したいという気持ちによって連動される一つの決心であるから逆に内心では疑惑に彩られているということを意味する。
 しかし信用するということはそれとは違う。信用するということは安心しているのだから、必然的に疑惑を介在させていないということを意味する。そして我々は往々にしてその信用というものを自らの主観的な判断よりは、あることを言った人、つまりニュースソースそのものの信頼性において判断する。有名な新聞紙、有名な評論家やコメンテーターの意見、ネット上で最も評判のブログとかブラウザーによる情報であるといったことを規準に我々はある情報に対する信憑性を判断する。例えばあるものが人気があるかどうかということをネット上で検索してみて、検索にひっかかる項目が多いものほど人気とか注目されているものだと判断するのだ。
 あるいはそれがかなりガセネタである可能性に対する検討において、全く異なったニュースソース、つまり各ニュースソース間に何の関係もないのに、全く詳細に同じ内容の情報である場合、その情報はまんざら捨て置けないものがあると判断するのだ。
 要するに何かを行動する時私たちは全てある信用の下に行動するのだ。ダニエル・デネットも指摘しているが、自販機でチケットとかドリンクその他を購入する場合にも、どこかに出掛ける時に電車を利用する時にも我々は金銭を投入すればチケットやドリンクが出てくるということをある信用の下に期待するし、ホームで待っていたら電車が入線してくることを期待し、電車に乗ればある場所で到着することを期待する。つまり信用とはあることをある手続きを経て待っていれば向こうで何とかやってくれるから、一々どうなるかこうなるかを目を見張っていなくてもいいということを意味するのだ。
 しかし昨今の食品テロでもそうだし、飛行機も電車も事故に遭わないとは決して限らない。つまり常に危険と隣り合わせで生活しているということだ。日本では禁じられているが、拳銃を所持することが許可されているアメリカ、タイ、ブラジル、フィンランドなどではいつ何時自分が拳銃によるテロに巻き込まれるか分からないという状況下で生活することを余儀なくされているということを意味するだろう。
 だがそういう安心と危険に対する懸念ということの常識は慣れによってその都度変化する。ある政治家の施政方針に沿った政治の動きに我々はいつの間には慣らされ、それがあまり芳しいものではない場合ですら庶民はその施政に徐々に慣れていく。だからこそ拳銃を所持することを許している国とそうではない国の差というものが生じてくるのだ。
 と言うことは、我々は慣れてしまったことに対しては一々懐疑的な目を向けずに生活することが可能だということが言える。つまり信用とは慣れによるものであるという風にも解釈することが可能となる。信用とは安心出来るということなのだが、安心ということは一々懸念することを怠るということだから、慣れによって生じるのだ。つまりそう考えれば、ある概念とか、ある法則とか、ある常識とか、ある社会通念とか、ある文化とかそういうものは総じて慣れ→安心→信用ということから普遍化されているということが言えよう。それは極めて自‐他の関係を基礎においた言語認識によるものが多大な領域を占めよう。それは本論において最初に示した幻想の一部なのである。
 そして信用するということを基礎にあるものやことに対する意味が規定されていくことになるのだ。そしてこの意味の規定ということの内には意味として通用するものに対しては一々検討する必要がないという通念が生活者全般に行き渡るので、前章で述べたような話者相互の相手にこちらの説明に対して想像したり、こちらが相手から何かを聞きだしてそれを説明されたことを想像するということを相互に了解し合あったりするというような関係に持ち込むまでのことはないという省略を意味する。
 つまり意味とはそういう一々の納得(納得には想像が必要である。)に対する省略という側面がある。つまりこうも言える。意味とは信用の下に成立しているのだ。そして信用が慣れと安心とを経て成立している以上、慣れていけるものなら意味になり得るということが言えよう。それがたとえ悪い意味での慣れであったり、悪い意味での安心であったりしたとしてもである。例えば泥棒にとっての常套手段とか、どういう標的を狙うべきかということなどもその内に入るだろう。
 例えば一つの語彙がある共同体や国家において定着するということは、その語彙の意味が確定するということだから、必然的に前段階としてはその意味の流用が慣れとして定着するということがあったわけであるし、その流用されてきている意味を使用することに対して安心を得ているということを意味する。使用しやすいということと、使用することに何の違和感もないということが即ちそのものを利用することを安心して行うということなのだから、それは意味でもそうだし、道具でもそうだし、論理的に利用すべき法則や真理でもそうだし、私たちが他者に対して伝えるべき表情とか、感情的な表現の全ても同じように反復して利用することの出来る、つまり安心して利用することの出来るものだけが流用され続け、それではないものは淘汰されるということを意味する。それはあるものにおいては何かの問題に対処し得る有効な考えであり、あるものにおいては身体的な動きや条件に沿ったものである。
 だから逆にある極めて悪い習慣とか、安心が極めて社会生活を腐敗へと持ち込むこともあるということだ。
 銀行が誰かに金を貸す時に、その人が本当に信用があるかどうか、借金歴を調べたりすることも、小売店の店主が訪れる客の身なりに応じて、物色している客それぞれに応じた商品を薦めるのも、全て信用ということを規準にした応対なのである。だから逆に見てくれとか身なりということだけで判断するということは人間の騙されやすさを証明してもいるので、そこできちんと信用出来るデータを求め、それをベースに決定するのだ。そういう時しばしば「あの人は見かけによらず偉い人だ」とか「彼は根は悪い人ではない」というような言説が登場することになる。
 だから入社試験の時にそれまでの経歴や学歴を参考にして試験の合格者を決める際の手がかりにするということも、信用出来るということが、あるデータに照応することで得られるその人に対する信用出来るバロメータ次第だということだから、人間は常に信用したいがために信用出来ると思われるデータを求めているということになる。そのデータの信憑性というものもまた信用ということを我々が求めていることを意味する。
 だから一旦決定されたこと、例えばある人に金を貸すとか、ある人を会社に入社させるということは、そうすることで、自分のしたことが正しいという風に考え、安心するということであるので、決心ということはそうすることで安心を得たいということでもあることが了解されよう。つまり信用するということは、そうすることで一々心配したり、懸念したりすることを止めることが出来るということなのだ。あるいはそうすることで安心する、不安定さを取り除くということなのだ。
 世の中の出続きとは要するにそういったことなのである。だから逆に哲学ではそう簡単に安心していてよいものかという立場から、例えばそれまでに慣れて来ている方法や手続きそのものに対する再検討をも含めて常に安心状態に対して警告を発するかの如く提言し続けているのである。それは人間がより信頼出来るデータというものに安心してしまい、警戒心を安易に解除することそのものへの忠告の役割を果たしているのである。
 端的に人間は他者に対して警戒心を持ち過ぎてもいけないものの、かと言って信用し過ぎてもいけないのだ。と言うのも警戒し過ぎるとその者の能力を遺憾なく発揮する機会を奪うことになるが、信用し過ぎると傲慢や自信過剰、あるいは怠惰をその者に必然的に作り出すことになるからである。
 しかしやはり信用というものは社会においては絶対的に必要なのである。だから逆に信用を笠に多くの欺瞞的な怠惰が蔓延り、信頼出来る形式にだけ依拠し、それ以外のことは一切信じようとしないがために時には必要である冒険心を失い、ただ信頼出来る既存の手続きだけに終始することにもなるのである。
 つまり時には平素の信頼の仕方を裏切り、冒険してみるということも大事なのである。しかしそういう兼ね合いそのものもある一定の経験が要求されるのだ。その経験とは成功体験も重要だが、時には失敗体験も役に立つということだろう。つまり安心したいために用心するということである。

Monday, November 16, 2009

〔意味の呪縛〕四、異なるということの意味

 存在理由があるということが価値であるということ、そしてその価値とは他との関係において異なっているということである意味とは他との異性であるということは明白化した。しかし同時に独自の判断に纏わる主張には、もしあなたが私の立場であったなら、同じように感じた筈だという同性を要請してもいることも明白化した。しかし厳密に言えばやはり同じようにということは同じにではない。つまりやはり同じようであるが異なるということなのだ。
 例えば遺伝子の配列が微妙に異なるということは、同一種としてのホモ・サピエンスとしての遺伝子配列という同性、つまり共通性を保持していながらも、全く同じではないというところに、たとえ全く私と同じ立場にあなたが立たされていたなら、同じように感じたではあろうが、全く同じにではないということをも意味する。そして私たちは同じようにではあるが、異なった感じ方においてある同一の立場を経験するという風に解釈する。
 そのことはしかしもう一つの問題を提起する。それはあることやものに対して同じようにある感じ方をしていたとしても尚、その感じ方そのものに対して同じようには意味づけないということである。
 例えば私とあなたは同じように赤い林檎を目にしている。そしてその赤味とか少しだけ黄ばんでいるとかそういうことは同じように見える。同じ位置から同じ林檎を見ればそうだろう。しかしその同じように見えるその見え方そのものを自分の中でどう位置付けるか、どこにでもあるただの林檎であるではないかとか、今日見る林檎の表面のつややかさは、新鮮な気持ちで昔、学校に通っていた通学路での道端での友達との会話を思い出させるとか、例えばそのように想起を誘うというような、要するに見え方からその見え方を意味的に位置付ける仕方がそれぞれ違うということである。
 それはその見え方がしているのが他ならぬ私でありあなたではないという意味における意味づけとは勿論違う。しかしある意味では赤い林檎を見て色んなことを連想するかしないかとかいうことの差異も、実は個人の記憶内容の違いからだけではなく、その時に赤い林檎を見る時の精神状態、つまり気分とかその時の感情の状態と無縁ではないだろう。そういう風にして考えると見え方そのものへの意味づけということは「これこれこういう感情の時にはただの赤い林檎でもこのように感じる」と言うような言い方さえ出来ることになり、それは感情とか気分と見え方を結びつける傾向性ということになるので、ある赤い林檎に対する見え方に対する意味づけもそれほど個人差というものなどない筈だということにもなる。勿論厳密には見え方も、それに対する感じ方も、その二つを結びつける傾向性も、個人毎に微妙に異なる。しかし異なるということを相互に述べるためには、やはり異なっているなりにどこか必ず共通性がある筈だということを前提にする。となると、異なるということそのものの中にある意味そのものは、その意味を他者に伝える動機にもなる。つまり他者に何かを伝達するということは、共通しているものの中の異質性そのものに対する発見の報告という性質があるのである。
 それは改めて欠如ということ、つまり外部世界で見た異質なこと(報告される者が見ていないということが前提される)に対する発見でもいいし、自分自身内部での性格的な被報告者との間の相違でもいいし、とにかく自分の欠如か相手の欠如に対する指摘そのものがコミュニケーションということになる。
 プラトンは全ての存在者は少しずつ不完全であり、完全なものは神のみであると考えた。だからイデアとしての神は完全なる存在者として存在するということである。その個々の存在者の不完全とは欠如という事実であり、存在者とは固有の欠如の保持者である。
 すると欠如認知事実の報告とは何かを伝えることを通してその伝えられる事実を知らない他者に対して報告者は固有の優越感情を抱いていることとなるし、他者に何かを伝えて欲しいと質問することとは、端的に他者に対して質問者である自分の欠如、つまり知らないという劣等的状態の告白(素直に負けを認めること)を意味する。
 つまり伝えられる事実が少なくとも報告という体裁を採る限り、我々はその伝達事実を巡る他者と自分との間での認知事実の差を認可していることとなる。それは記憶内容の差異というような個人的体験の違いというようなレヴェルではなく(そのような違いは誰でも持っている)知るということに対する常套さそのものに対する認識の告白という様相を帯びていることになる。
 だから他者に何かを教えるという行為は、自分がその者よりもその報告事実の認知に関する限り優越していることの表明であるので、他者と自己の間での認知の差異の報告ということを通して自己の存在理由(その他者と私との関係における)を誇示すること、あるいはその他者からその是認を求めることとは、認知の差を通して相互に優位性と、劣性そのものの所在を明白化する無意識の欲求が意志伝達そのものに介在していることを意味する。それはある意味では他者に対して花を持たせたり、自分の優位を誇示したりすることを通した他者存在に対する依存ということをも意味する。
 それは相互が相互に対して身を持たせかけること、つまり甘えることそのものへの容認という側面もあるのだ。そしてその甘え合うということは、実は異性の確認を通して異性保持事実という同性の確認でもあるのだ。それは即ち生が意味(差異存在であること)を通した他性に対する依存と甘えという欠如事実の補完という意味合いが自‐他関係にはあることになる。
 異なるということはそれだけで存在理由という価値であるが、その存在理由を確認し合うという依存と他に対する甘えの相互容認こそが自‐他の関係の本質なのである。
 そして報告し合うということ以外の意志伝達は仮に形容的感動報告であれ、同意であれ、他存在に対する感動共有者、同意者に対する存在要請という側面も持っている。だから少なくとも意志伝達を通した自‐他の関係とは異性そのものの、つまり相互の存在理由そのもの、つまり他であること、自であることの意味を相互の存在事実に依存し、甘えるということを意味することになる。だから相互に異なった家庭環境、幼児体験を報告し合う友人間の会話とは、もし私があなたの立場だったらという想像を、ある体験的事実の被報告者に対して報告者が要請していることを意味するし、何かを聞きたいと願う話者にとっては被質問者が返答する報告的事実を申告されたことを通してその報告的事実の体験者の立場に立ってその立場での見え方、感じ方を想像する意志を要請していることとなる。だから必然的に即自的存在としての事物と違って、哲学的存在者にとって質問をしたり、報告をしたりするということは、前者はそういった想像をすることを他者の返答を通して要求するのであり、後者はそういった想像を内的に思念することに対する他者に対しての許可と要請をする。「俺の気持ちをわかってくれ。俺の立場になって想像してみてくれ」ということである。と言うことは即ち俺の立場には君はなれないし、君の立場に俺はなれないという交換不可能性の是認、つまり諦観が質問と報告という行為には含まれていることになる。つまりそのような自‐他の交換不可能性に対する是認と諦観が依存と甘えの本質であるということにもなるのだ。だから哲学的存在者にとって異なるという存在理由、つまり個としての存在の価値とは交換不可能性に対する是認と諦観がその本質として横たわっているということが言える。
 もし容易に私があなたになれ、あなたが私になれるのであるなら、個々の存在理由も、自己同一的理性も、存在理由という価値も存在しなくなる。異なるということは即ち交換不可能性ということなのだが、だからこそ想像という内的な思念における交換(幻想なのだが)ということが意志伝達、つまり自‐他の存在事実確認たるコミュニケーションには不可欠となるのである。

Thursday, November 12, 2009

〔意味の呪縛〕三、独自であることの意味と、私と他者

 独自の価値判断を下すことの出来る存在者という規定が我々に対して成立するのなら、我々はその独自のという部分が一体どういうことを意味するのかという意味の呪縛に対してもっと自覚的であらねばならないだろう。
 カントは「判断力批判」において美しいという形容が自らの内心に成立する時、その美しさそのものが他の全ての人々においても同様に成立することを望むと言っているし、モラルとは他の全ての人において考えられる格律でもあるという一致を常に志向せよと考えている。それは即ち個人独自の価値判断というものが常に隣接した他者の視線を意識したものであるということを意味する。
 正しいと思えることというのは、どのような個人において判断されたにせよ、自分以外の者ならきっとこう考える筈だという推測において成立するのではないだろうか?
 それは判断というものの中に既に私によってなされた判断であってさえも、実はその私という思惟そのものが、たまたまこれを判断したのが私だが、私以外の誰であっても私が今下したようなことと同じように判断していたに違いないという推測において成立しているということが言えるからである。
 何が正しいかという時、もしそうでなかったなら矛盾するということがある場合反証可能性というものとして捉えられる時明らかにそれは科学的な判断であるということになる。
 現代の哲学の中では現象学が唯一この科学的判断というものそのものに対する我々自身の信憑性そのものがガリレイとデカルトによって正しいと思われる蓋然性そのものが正しいとか正しくないとかの範疇を超えるような判断を用意周到に隠蔽することによって成立してきた科学史全体に対する批判を、フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」というテクストの中で示したことに端を発している20世紀以来の新たな問題として「ありうべきこと」とは「ありうべきこととして規定してしまう私たちの思い込み」という見方を提供している。
 この時独自の価値判断という個人毎の判断の中に明らかに自分で下したにもかかわらず、自分以外の大勢という観念が拭い難く介在しているという先ほど来の問題が再び持ち出される可能性を示している。
 昨今の脳科学で茂木健一郎氏などがクオリアという概念に拘るのも、このガリレイとデカルトの隠蔽というものの中に個人の事象に纏わる質感とか生き生きした感触というもの全てが一般的に了解され得る判断としてではなく主観性としてだけ考えられてきた物理学の観念の歴史を逆に物語っている。
 しかし人間は最後の砦である個人の主観にまで脳が作用していると考えると、では一体個人の自由などどこにあるのだろうと訝しくなる存在者なのである。事実脳科学という分野はクオリアを普遍化することによって逆に個人の主観などというものは思い込みであるに過ぎず、全てが脳内現象として説明が尽くという極端な合理主義を要請することに直結する。
 私が「そうであるに違いないと思った」ということの中には「私以外の誰もがそう思うに違いない」という思惟に直結するとしたら、明らかに私の脳が独自に判断することは、私固有の脳内現象だと思うというその思い込みそのものが幻想かも知れないという思惟へと立ち致らせる。
 つまり私以外の誰の脳であっても、私の脳が固有に感じたある事象Aに対する感じ方は、殆ど私の場合と同じように脳内でニューロンが発火するさまを演じるのだとしたら、個人の主観という言葉は甚だ誰もが同じように感じる筈なのに、そのことを感じたというまさにその事実がその個人の存在に属していたというもう一つのメタ事実にこそ私という人間(仮にその感じたのが他ならぬこの私であるなら)の存在理由に直結するように思えるからこそ、敢えて同じような脳内の発火現象の事実的所有者という観念においてその感じ方を事実的固有性の下に理解しようとする、いや理解したい欲求が生み出した幻想であると言える。もっと簡単に言えば個人の主観性という名の下に我々は誰であっても同じように感じる筈の当の事象に対してその場に居合わせたということにおいて脳の固有性を主張することで個人の存在理由を見いだしているということになる。
 これは独自であることというのが、その場に私以外の誰が居合わせたとしても同じように感じる筈の当のクオリアへの感受という事実そのものの当該者という規定によって、初めて個人の存在理由を附与するという社会的了解がある。
 これはサラリーマンの生活とはつましく質素であり尚且つ忙しいという社会的了解の上でどの個人も同じように感じているのだが、そのサラリーマンの立場が他ならぬ私であるという偶然性は、他の誰であっても私の立場に立てば、私が感じることと同じことを感じる筈だ、しかしあなたはサラリーマンではなく裕福な資本家である、故にあなたには私のこの辛い立場などわかるまいという個人の立場に対する了解そのものが、当該の事実の所有者という規定によってしか成立し得ないということを物語っている。と言うことは私があなたのような裕福な資本家であるなら、私もまた今のあなたと同じように今の私のサラリーマンとしての生活のつましさなんてわかる筈がなかっただろうということでもある。
 独自の立場という他者に対する主張とはとりもなおさず私の立場に立てば誰でもという意識を孕んでいるのだ。
 ここで一つ重要な真理が見出された。それは独自ということは私が他者に対して私の立場なら誰でもそう感じる筈だという他者への了解の要請を孕んでいるのだ、ということである。
 このことはある意味では主観とは客観と背中合わせであり、個人ということが集団と背中合わせであるという当たり前の事実へと突き当たらせる。だから私たちが「彼独自の判断があって」と語る時そこには、彼の立場に他の誰が立ってもということがない限り、彼の判断そのものの正当性はいつまで立っても得られないということをも意味する。
 このことはまたもや個という存在が常に他の成員との関係において成立しているということは即ち存在理由というものの在り方が存在するもの全ての中でのある存在ということにおいて存在の意味が与えられているというやはり意味の呪縛が支配していることを意味する。
 つまり意味とはあるものの他のものとの関係のことだということである。そして意味に呪縛されているということはあるものが他のものとの関係においてしかそれが存在していると言い得ることが出来ないという存在論そのものを物語っている。

Sunday, November 8, 2009

〔意味の呪縛〕二、存在理由という価値

 私たちが通常映画を観に行ったり、小説を余暇に読んだりする時、その観た映画や読んだ小説が面白ければそれでいいのだが、では何故その映画や小説が面白かったのかと単純に問うてみると意外とそれが容易に返答することが出来ないということに気づく。
 それは感動する絵画の名画とか、好きな音楽についても言えるだろう。しかしそれらは歌曲以外の部分で全て言語的な表現ではないので取り敢えずここで問うのを止そう。そこで映画とか小説のような(但しアヴァンギャルド映像作品は除外する。)登場人物があり、会話があるような表現メディアの何が面白かったかと問うてみると、それはそれまで観た全ての映画、それまで読んだ全ての小説という私たちの体験的記憶に照らし合わせてその作品が私たちに何らかの形で訴えかけてくる主張そのものに釘付けにされたということを意味するだろう。するとその面白さというものはストーリーや登場人物の描写とか文体とか演技力とかいうことと共にそういう描写そのものをその映画や小説の中に作者(映画監督、シナリオライター、小説家)が盛り込んだ意図とか、果てはその作家たちが何故そのような作品を今こういう時期を選んで発表したかということ(そういう作品そのものに纏わる背景に対する認識を持つことを通常メタ認知と呼ぶ。)そのものを加味して考えると、何故その作品に対して私たちが面白いと思ったか、感じたかということの根拠が次第に明快になっていく。つまりそれまで観た映画や読んだ小説にあったスタイルもそうだが、その作者がその作品を世に送り出した根拠、創造上の、創作上のモティヴェーションと、その作品の細かい出来栄えそのものとの絡み合いそのものに対して感動していたというわけである。それはその作品の私たち観客や読者にとって、彼らがそれまで接してきた他の全ての作品の中でのそのものに対する記憶上での存在理由なのである。 
 何故その作品が面白かったのかは、ただそれを観ている間、あるいは読んでいる間にストーリーや役者の演技とか文体に惹かれていたということも勿論だが、やはりそれだけではなく、そのストーリーや演技や文体そのものを意味あるものにしているもの、それを作者の作品を世に送り出す意志に纏わる情熱とか確固たる信念とかにやはり感動している筈なのである。さてそういった作者のその作品を作るための意気込みとか信念とか作品作りに関する思想とかというものは、作者自身が作品を通したその作品に接する人たち全員に対して訴えかける何らかのメッセージ、つまり作品を通して観客や読者と接するとはどういうことかという作家としての生の意味、つまり価値規範が重要なものとして浮かび上がってくる。
 例えばコンピューターは、あるものを取って来いと命じられるとただそれを忠実に履行する。つまりもしそのものの上に爆発物が置かれていても、それを取り除くことを自らの意志で選択することは出来ない。もしそれを要求するなら、「持ってくるものの上に置かれているものの正体を突き止め、それに応じてそれが危険なものであるなら、別の場所に置き換えて(そのものの上から除去して)それから持って来い」という条件を指示しなくてはならない。すると持ってくるものの下とか横に関してはまた別の指示を与えなくてはならないということになり、要するにそういう安全に何かを持ってくるということに関して主体的に自らの意志で検討するという知性は未だないと言う。そのような問題全体を問うことを現代哲学ではフレーム問題と呼ぶが、そのフレーム問題を考慮すると、私たち人間は自ら意志的にそれらに纏わる問題を自分で考え処理しているということだ。つまり先ほど言ったメタ認知の問題に関して言えば、自ら主体的に、と言うより一々そのように意識せずとも自ずとそういう判断を下して生きている、生活しているというのが私たちの実像ということになる。
 つまり人間存在の存在理由というのは、とどのつまり他のもの、それは他者もそうだし、他に存在する事物とか規定されたルールとかそのものにただ闇雲に忠実に従って生きていくということではなく、絶えずその規定されたものそのものの意味とか価値を再検討してその判断に従って、ある時にはある規約に沿って、ある時には別の判断を採用してという風にその都度の判断を下して生きているというある種選択の自由と、その選択そのものに対する正当性を自ら下す能力を保持している存在者であるということが出来るのではないか?
 つまりそのことは哲学的に言えば、何らかの意味で絶えず、ある規約とか、考えとかに対してそれ以外の全てとの対比、あるいはそのものだけを見ていても、何の不都合もなく下すことの出来るそのものに対する判断を、自らの考えにおいてその都度捻り出すことが出来るという意味では次のように定義することがここでは許されるのではないだろうか?
 つまり、哲学的存在者、つまり人間とはある事物、ある考え、ある現象、ある規約それら全てに対して独自の価値判断を下すことが出来る存在者である。そしてその価値判断とは、それらのものに対する何らかの意味での存在理由を認めているということ、つまり存在理由そのものをそれらに与えているということである。つまりもし私たちがそれらに対して何ら存在理由を与えていなければ、私たちはそれらをその後も話題にしたり、記憶にとどめておいたりしていることなどないだろう。つまり存在理由というものは、そのものに対する存在価値そのものに対する認可であり、存在することに対する同意であり、記憶しておくべきものとして自然に受け容れるということなのである。
 もしそういった存在理由が全くないのであれば、私たちはそのもの再び想起したり、話題にしたり、考えたりすることなどないということになる。だから当然のことながらそのものは、ポジティヴなものだけではなく、ネガティヴなものである場合も往々にしてあるということである。つまりポジティヴでもネガティヴでもないものであるなら、少なくとも私たちはそんなものを存在理由という観念で再び振り返ることなど決してないということである。

Friday, November 6, 2009

〔意味の呪縛〕一、意味を必要とするということ

 私たちは哲学的な意味では存在者である。ハイデッガーは現存在と私たちのことを呼んだ。私は取り敢えずここでは人間とか、人類とか、その時の文脈的な意味に応じてそれぞれ異なった言い方を採用しようと思う。
 しかし少なくとも哲学的な存在者であるという意味から私たちのことを私たち自身は他の存在、例えば私たちの身の回りにいる動物であるとか植物とかと同じものとして純粋客観的には捉えられない。生物学者は私たちの生命活動を純粋に他の生命体とか、地球環境における物質として取り扱っているように見えるが、実際私たちのこの目によって捉えられた客観的像である限り、それらもまた固有の主観的捉え方の一つに過ぎないと言える。
 哲学的な意味とか、文脈的な意味と私は言った。そこには私たちが相互に何事かを理解するために必要な知識とか、情報を糧にそれぞれの間の関係とか固有の存在理由(それはそれぞれの間の関係なしには成立し得ない)を何らかの形でその都度規定して相互に「そうだね」と確認し合うための便宜的な道具である。そういう観点からすれば意味もまた道具である。
 私たちの生活は、何らかの意味で寿命とか、年齢に応じた社会的能力とか、人間間相互の社会的適性とか、要するに人生というもののあり方を巡って「こうあるべきだ」とか「こうであってはいけない」といった考えによって規定を受けている。そして哲学的意味合い、あるいは文脈において、私たちの生は明らかに次の三つによって成立している。
 それは欠如、自己欺瞞、幻想である。
 最初の欠如とは、私たちが未来に向けて何かを思惟する時、「今まではこうだったが、次はこうでなければいけない」と考える。例えば営業社員は、営業成績に関して今までの成績を鑑みてこれからの目標を立てるだろうし、受験を控えている受験生は今現在の学科の理解を更に深めるために自分の弱点をこれこれこういう仕方で補う必要があるという風に考える。新婚夫婦には新婚夫婦にとっての生活設計があり、子どもを育て終えた夫婦には彼らなりの人生設計というものがある。
 つまり過去の自分で確認し得るデータを下に私たちは未来の像というものを常にその都度それなりにおぼろげながら提示し続ける。と言うことはつまり私たちは常に未来に向かって何らかの目標とか希望とか期待とか願望を携え、現在の在り方を欠乏した状態として捉え生きているということを意味する。そういう観点から人生、生というものを考える時この欠如というものを哲学的な意味での存在たる私たちを考える上で重要な観点であるとすることは極めて自然である。
 さて次の自己欺瞞とは、勿論最初はサルトルが「存在と無」で提出した概念であるが、彼の考えをそのまま適用しても十分納得のいくものであるが、今ここでは私なりそれを応用して考えてみよう。
 それをまず日常生活レヴェルでは職業的意識とか職業的義務、あるいは家族内での役割、あるいは地域社会での役割、要するに社会的存在者としての個々の役割というものがまずある。それに対してその役割に自分を適合させようとする時、納得のいく部分、つまり幸福感を感じられる部分というものは当然であるが、そうではない部分、つまり自分で対社会として適合させてはいるものの、自分の中では納得のいかない部分というものが常に付き纏う。この不幸とまでいかなくても不満とも言える部分と、幸福的感情というものをどこかで巧く、と言うより何とか折り合いをつけて生活を実践しているということそのものを私たちは自己欺瞞と呼ぼうと思う。この捉え方はサルトルの言ったことと極端には離れていないが、もっと理解しやすくしたものでもある。
 最後は幻想である。これはある意味では前の二つよりもかなり適用される範囲が広い。何故なら私たちにとって日常生活に欠くべからざる道具である言葉、法、理想、良心といったもの全てがこの幻想に入るからだ。断っておくが、哲学的幻想と言う時私たちはそれをただの幻であり、ないのにあるもののように思えるという意味ではないということである。つまりそれは実在すると確たる証拠をもののように突きつけることが困難であるという意味で、私たちの生活、人生、生に不可欠なのに、例えばそこらに転がっている石ころのような物質のように分子組成とか構造分析がしやすいものとは違うということである。そういう意味では私たちの心の中で考えることはたやすいが、物質のように容易にその組成とか、枠組みを規定し難いもの全てを哲学的に幻想と呼ぶことに私は加担したい。
 そして重要なこととは、この三つ、つまり欠如、自己欺瞞、幻想とはただ単にネガティヴな要素であるということではないということだ。それらは必要欠くべからざる重要な非実体的な観点なのである。
 
 さてこの三つの観点を常に主軸にしながらこれから話を進めていくつもりなのであるが、では最初に触れた意味というものとは一体どのよう発生してくるのだろうか?
 まず私は私の人生がもう駄目だと投げ槍になってはいないものの、もう全てをし尽くしたと完全に満足しているわけではない。故に私は私の人生をいつ死ぬかはわからないが、取り敢えず、あと何十年生きようが、後数年生きようが、ここ何年かのスパンで何らかの目標を立てようとするだろうし、常に何らかの目標は既に携えている。
 そういう事実を注視する時私たちは生そのものというのは常に未完了体であり、何らかの意味で未完成であると感じるし、事実死ぬまでは誰でもそうであろう。するとそのどこかで未完了であり未完成である部分、つまり欠如を穴埋めしようと常に努力することが何らかの意味で求められる。そういう意味ではもし敢えて人生の意味というものを規定しようと試みるなら、欠如としての我々の存在というものこそが、私たちの生の意味を求めさせるとも言える。そういう観点に立てば、人生の意味とは欠如を前にして、私たちがそのことに対して何とかしようという意志が生むと考えても間違いではないだろう。
 そしてあれこれでは次に何をなすべきか私たちは考える。そして何らかの結論を誰でも内心で抱く。そして我々はそれを行動に移す。つまり行動に移されて初めて我々はその行動する意志があったのだと言えることになる。そして行動する時というのは、どのような行動であれ、その行動以外の全ての行動を排除して、選択の埒外に追いやっているのだから、ある行動を採るということは、即ちヘーゲルやサルトルが言った対自ということを一先ず停止させて、自己を即自化しているということを意味する。
 しかしその行動を採った後必ず我々は自己によって採られた行動が自己の行動が及ぶ範囲内で何らかの反響を持ち、それらは私自身にも返ってきているので、要するにその行動の結果今現在私に齎されたことそのものに対して「ああしてよかった」とか「もっとこうすべきであった」とか考えるだろう。
 その時私たちの心はまさに哲学的には対自存在そのものであると言ってよい。
 そしてそのような対自的な心の在り方は反省意識である。そしてそれはどこか達成感があっても、後悔があっても何らかの形で欠如を意識させずにはおかない。何かをしても欠如を、何もしなくても欠如を感じるのが私たちである。そしてその欠如が私たちに次の意志を生む。勿論その意志とは、何らかの形で私たちにとって次になすべき行為への意志である。哲学的な行為とは何らかの行動を支える意味、何故その行動を採るのかということに対して言葉で説明がなされ得る行動の目的とか意味のことである。勿論それら全てが生きていく上で必要欠くべからざる幻想なのである。そしてその幻想を糧に生きること、そして反省意識によって顕在化された欠如を携えて生きているということを意識することそのものを理解するということもまた幻想を生きることの一部である。
 そして何故次にこれこれこういう行動を採る必要があるのかという行為全般に対する自分なりの指針を設けるか言えば、それは要するに私たちが自分なりに意識し得る欠如に対する私たちの意志の採り方そのものが価値というものを見いださせるからに他ならない。つまり私たちにとって何らかの形で意味ある行為と受け取られるものとは、必ず私たちが欠如であると感じられるものそのものに対してその欠如を穴埋めすると感じさせるものがあるからである。勿論意味ある行為とは価値ある行為のことである。
 するとここで価値というものは欠如を穴埋めする意味を誰にとっても意識することの出来るある明快さがあるということになる。それを私たちは見識とか、一般通念とか色々な言葉で表現してきた。それら全てを価値ということの中で繰り広げられる考えであると見做すこともまた間違いではないだろう。そしてその価値を巡る問題の中で道徳とか倫理とか良識とか正義といった幻想もまた含有されると考えることもまた理に適っている。
 すると私たちの生とは総じて次のように考えられることになる。生きることに何らかの意味を求めることが許されるなら、それは欠如を補うことを常に求めて次の行為へと意志することであるが、そのこと全体をより俯瞰的な立場から見据えると、それは行為することの意味そのものに私たちが常に支配されているとも言い得る。それは何もニヒリスティックにそう言っているのではない。哲学的に呪縛と言う時それは必ずしもネガティヴな意味合いからそう言っているのではない。それは幻想に対してと同様である。つまりある行為を意味ある行為とか価値ある行為であるとしたり、ある行為を意味がないとか価値がないとしているということは、共に意味とか価値そのものに支配されている、呪縛されているということを意味しよう。
 しかしまた意味などなくてもよいとか、もっと極端に価値などなくてもいいと言うとしよう。しかしその場合ですら私たちは意味とか価値の規定そのものには囚われているということを意味する。
 つまりそのような意味でここで私は哲学的存在者たる私たちにとって生とは意味そのものであると考えることが出来ると言いたいのである。つまり私たちにとって生を意味あるものとしたり、意味などどうでもよいとしてみても、どの道意味という規定、そして価値の所在ということを問うたり、そのように問うことそのものを否定したりするのだから、どの道我々は生が意味あるとか意味などないとしても生そのものが意味であり、その意味において価値の所在を問うことを余儀なくされる存在であるということが出来る。
 では何故そのように生そのものに私たちが意味を交えて理解する必要があるかと言えば、それは意味とか価値という言葉を生きているということだからとしか言いようがない。だから何故私たちにとって意味が必要かと言えば、それは意味を生きるということを理解する以外にこの生そのものの存在理由とか価値を理解することが出来ないからだとしか言いようがない。つまり同語反復的であるが、何故我々にとって意味が必要かと言えば、それを肯定したり、否定したりすることにおいて生が何故生として存在するのかという問いそのものを肯定化するから、つまりその問いの存在理由を明確化するからであるということになる。
 つまり今言ったような問題の中に言葉の意味や価値や美、あるいは正義とか理性とか良心とかモラルとかの一切が含まれているということになるのである。
 ここで本章なりの結論として次のように言っておこう。
 意味とは価値の所在を問うために設けられた幻想である。意味を生きるということは生が意味があっても意味などなくても、あるいは意味がなくてはならなくても、意味などなくてもよくても避けられない私たちの現実である、ということである。

Friday, October 30, 2009

第十七章あるいは結論に代わり得るもの②

 最後にレヴィナスの記述に続いて、武蔵、ヘーゲル、ハイデッガーの記述からその相互の相関を感じさせるものをピックアップして締め括ろうと思う。

 <レヴィナス>
 かの有名な≪死へとかかわる存在≫l etre‐pour la mortを超えて、私なしにあるような時間へとかかわる、私の時間の後の時間へとかかわる存在_つまり私に固有の持続を外挿するのは凡庸な思考ではなく、∧他なるもの∨の時間へと移行なのである。このような移行の極限へと到達する犠牲の可能性だけで、こうした外挿がけっしてあたりさわりがないわけではない性格を持っていることが発見される。すなわち、それは私の後に存在するものへとかかわるために死へとかかわる存在なのである。(「他者のユマニスム」中 意義と意味 Ⅵ意味と作品、86ページより)

 <宮本武蔵> Ⅰ
一、 場の次第といふ事
 場のくらゐを見わくる所、場において目をおふといふ事有り、日をうしろになしかまゆる也。若し所により、目をうしろにする事ならざる時は、右のわきへ日をなすやうにすべし。座敷にても、あかりをうしろ、右脇となす事同前也。うしろの場つまらざるやうに、左の場をくつろげ、右のわきの場をつめかまへたき事也。夜るにても敵のみゆる所にては、火をうしろにおひ、あかりを右脇にする事、同前と心得てかまゆるべきもの也。敵をみおろすといひけて、少し高き所にかまゆるやうに心得べし、座敷にては上座を高き所とおもふべし。扨戦になりて、敵を追い廻す事、我左の方へ追ひまわす心、難所を敵のうしろにさせ、いづれにても難所へ追掛くる事肝要也。難所にて、敵に場を見せずといひて、敵に顔をふらせず、油断なくせりつむる心也。難所にても、敷居・鴨居・戸障子・縁など、亦柱などの方へ追ひつむるにも、場をみせずといふ事同前也。いづれも敵を追懸くる方、足場のわるき所、亦は脇にかまひの有る所、いづれも場の徳を用ゐて、場のかちを得るといふ心専にして、能々吟味し鍛錬するべきもの也。

 〔訳文〕
 場とりの良否を見わけることが大切である。位置をしめるのに、太陽を背にするということがある。太陽をうしろにおいてかまえるのである。もし、その場所によって、太陽をうしろにすることができないようなときは、太陽を右わきにおくようにせよ。
 座敷のなかでもあかりをうしろ、または右わきにすることは、これと同様である。また、自分のうしろがつかえてしまわぬように、左側をひろくゆとりのあるようにし、右わきをつめてかまえたいものである。夜でも敵が見えるところならば、火をうしろに背負い、あかりを右わきにすること、同様に心得てかまえるべきである。
 敵を見下ろすといって、少しでも高いところでかまえるように心得よ。座敷においては上座を高いところと思わなければならない。さて、戦いとなり、敵を追いまわす場合には、敵を自分の左の方へと追いまわす気持ちで、難所が敵のうしろにくるように、どうしても難所の方へ追いかけることが肝要である。敵が難所において、場の位置を見る余裕を与えず、敵がまわりを見まわすことのできないように、油断なく追いつめていくのである。座敷においても、敷居・鴨居・戸障子・縁、あるいは柱などの方に追いつめるのに、敵にまわりを見させないということでは同様である。
 どのようなときにも、敵を追いかけるのに、足場のわるいところ、あるいはそばに障害物のあるところなど、すべてその位置の優位さを生かして、場所の上で勝利を得るということが大切なのである。よくよく調べ鍛錬しなければならない。
 (159~161ページより)

一、かどにさはるといふ事
 角にさはるといふは、物毎つよき物をおすに、其儘直にはおしこみがたきもの也。大分の兵法にしても、敵の人数を見て、はり出つよき所のかどにあたりて、其利を得べし。かど〱に心得て、勝利を受くる事肝要也。一分の兵法にしても、敵の躰のかどにいたみをつけ、その躰少しよわくなり、くづるゝ躰になりては、勝つ事やすきもの也。此事態々吟味して、勝つ所をわきまゆる事専也。

〔訳文〕
 「角にさわる」というのは、どんな物でも強いものを押すのに、そのまま、まっすぐに押しこむのは容易ではないことである。
 多人数の戦いにあっては、敵の人数をよく見て、つよく突出した所を攻めて、優位に立つことができる。突出した角が減ると、全体も勢いがなくなる。その勢いのなくなるなかでも、出ている所、出ている所を攻めて、勝利を得ることが大切である。
 一対一の戦いでも、敵の体の角に損傷を与えれば、体全体が次第に弱まり、崩れた身体になっては、容易に勝を得ることができる。この道理を、よくよく検討して、勝をえることをわきまえることが大切である。
 (191~192ページより)
Ⅱ  
  一、ひしぐという事
  ひしぐといふは、縦へばよわく見なして、我つよめになって、ひしぐといふ心専也。大分の兵法にしても、敵小人数のくらゐを見こなし、又は大勢也とも、敵うろめきてよわみつく所なれば、ひしぐといひけて、かしらよりかさをかけて、おつぴしぐ心なり。ひしぐ事よわければ、もてかへす事あり。手の内ににぎってひしぐ心、能々分別すべし。亦一分の兵法の時も、我手に不足のもの、又は敵の拍子ちがひ、すさりめになる時、少しもいきをくれず、目を見合はせざるやうになし、真直にひしぎをつくる事肝要也。少しおきたてさせぬ所、第一也。能々吟味有るべし。

〔訳文〕
「ひしぐ」というのは、たとえば敵を弱く見なし、自分は強い気で、一気におしつぶすことをいう。
 多人数の戦いにあっては、敵が少人数であることを見ぬいたとき、または、たとえ多人数ではあっても、敵がうろたえて弱味が見えれば、はじめから優勢に乗じて、完膚なきまでにうちのめすのである。もし、一気におしつぶすことが弱いと、盛り返されることがある。手の内に握って、おしつぶすということをよく理解せよ。
 また一対一の戦いのときにも、自分より未熟なもの、または敵の拍子が狂ったとき、退り目になったときには、少しも息をつかせず、目を見合わせないようにして、一気にうちのめすことが肝要である。少し立ちなおることができないことが第一である。よくよく吟味せよ。
 (195~197ページ迄)

 一  そこを抜くといふ事
 底を抜くといふは、敵とたゝかふに、其道の利を以て、上は勝つと見ゆれ共、心をたえさゞるによって、上にてはまけ、下の心はまけぬ事あり。其義においては、我俄に替りたる心になつて、敵の心たやし、底よりまくる心に敵のなる所、見ゆる事専也。此底をぬく事、太刀にてもぬき、又身にてもぬき、心にてもぬく所有り、一道にわきまへべからず、底よりくづれたるは、我心残すに及ばず。さなき時はのこす心なり。残す心あれば、敵くづれがたき事也。大分小分の兵法にしても、底をぬく所、能々鍛錬あるべし。
 
〔訳文〕
「底を抜く」というのは、敵とたたかううちに、兵法のわざをもって形の上では敵に勝つように見えても、敵が敵愾心を持ちつづけているので、表面では負けていても心底では負けていないことがある。そのようなときには、こちらはす早くかわった心持で、敵に気力を負けた状態にしてしまうことが肝要である。こうして「底をぬく」ことは、太刀によっても、体によっても、また心によっても、ぬく場合があり、一概にわきまえることはできない。
 敵が心底から崩れてしまった場合には、こちらも心を残しておく必要はないが、そうでないときには心を残しておかねばならぬ。敵も心を残していれば、なかなか崩れないものである。
 多人数の戦いにも、一人一人の戦いにも、この底をぬくということを、よくよく鍛錬しなければならぬ。
 (199~200ページ)

 武蔵の兵法「五輪書」のここで示した∧火の巻∨は実際のところ大まかにその内容は技術論的戦法指南と、心理的戦法指南に大別される。Ⅰに示したものが前者であり、Ⅱに示したものが後者である。しかしこの二つは相互に絡み合っていて、敵に不利になるように仕向け自ら敵が不利な位置へと移行するように持っていく技術自体は、心理的な面も大きく手伝っている。そして心理的な面で優位に立てば後はゆっくり技で勝負し得るというわけである。
 しかし也と書いたかと思えば、別の箇所ではなりと平仮名で書いてみたり推敲とか校正をしたりしている暇のない武蔵の人生を彷彿する原文ではないだろうか?
 武蔵は次の「五輪書」で最後の大柱である「風之巻」を書いているが、これは一度も負けなかった者による自らの剣によって打ち滅ぼされた敵方の人々の弱点=自らによって打ち滅ぼされた理由、を描出している。つまり負けた中でも最も弱かった者から順に考えて述べているのだ。
 次はヘーゲルである。
 
 <ヘーゲル>
追加
〔婚姻の神聖であること〕婚姻が内縁と区別される点は、内縁では主として自然衝動を満足させることがねらいであるのに対し、婚姻では自然衝動が抑制されているという点である。それゆえ婚姻でない間柄では羞恥をおぼえさせるような肉体上の出来事が、婚姻においては顔を赤らめないで語られる。しかしまた、婚姻がそれ自体においては解消しがたいものとみなされなければならないのも右の理由による。というのは、婚姻の目的は倫理的な目的であり、倫理的な目的はきわめて高いところにあるので、これに比べればその他のすべてが無力であり、これの支配下にあると思われるからである。
 婚姻は情熱によってかき乱されてはならない。情熱は婚姻より下位のものであるからである。しかしながら婚姻が解消しがたいのはただそれ自体においてだけである。キリストの言うように、「彼らの心が無情いがゆえにのみ離婚は許されている」からである。婚姻には感情の契機が含まれているから、婚姻は絶対的ではなくて動揺するものであり、解消の可能性を含んでいる。しかし立法はこの可能性をきわめて困難なものにし、気に入るとか入らないとかいった気ままな意向に対して、倫理の法を堅持しなければならない。(「法の哲学Ⅱ」第三部倫理中 §163の追加 45ページより)

 最後にハイデッガーを記しておこう。
 
 <ハイデッガー>
 ①現存在が現事実的に実存することは総じて無差別的に、被投された世界内存在しうることであるばかりではなく、配慮的に気遣われた世界のうちにつねにいちはやく没入してしまってもいる。
 
 ②おのれに先んじてなんらかの世界の内ですでに存在していることのうちには、配慮的に気遣われた世界内部的な道具的存在者のもとで頽落しつつある存在が、本質上ともに、含まれているのである。

 ③現存在の存在は(世界内部的に出会われる存在者)のもとでの存在としておのれに先んじて(世界)の内にすでに存在している

 ④世界内存在が本質上気遣いとして、また世界内部的に出会われる他者たちの共現存在と共なる存在が、顧慮的な気遣いとして、とらえられたのである。何かのもとでの存在は配慮的な気遣いである。というのは何かのもとでの存在は内存在の在り方として、この内存在の根本構造である気遣いによって規定されているからである。

 ⑤気遣いは自己へととる或る特殊な態度を意味することはできないのである。というのは、自己とは、存在論的にはすでに、おのれに先んじて存在するということによって性格づけられているからである。
 
 ⑥おのれに先んじて存在するということは、最も固有な存在しうることへとかかわる存在にほかならないが、このことのうちには、本来的な実存的な諸可能性に向かって自由であることの可能性の実存論的・存在論的条件がひそんでいる。

 ⑦現存在は、非本来的に存在しうるのであって、現事実的には、差しあたってたいていこうした在り方において存在している。
 
 レヴィナスによる記述は明らかに私の死後、永遠ということの想念を生み出す契機として私が私であることのハイデッガーによる認識が語られている。しかしハイデッガーの考えていた歴史的存在である現存在や、死の個人性ということは、その後も形を変えて様々な論述において登場する。例えば推移ということで言えばハイデッガーにはない形で既にベルグソンが純粋持続ということを言っていたが、ベルグソンにとっての時間は、空無の中に漂う生<死としての背景に成立する変化>であるよりは、私たち存在者にとっての自由を生み出す場であった。自由という考えはサルトルが継承する。倫理学的、道徳論的な意味でベルグソンは明らかにサルトルの師であった。勿論サルトルはハイデッガーの死の概念や、存在論にも多大の啓示を得ている。
 自由とは時間をどう捉えるかという観点からしか生じ得ない。時間と私、あるいは私一般ということから考えることだ。その際に私にとってあるいは私一般にとって時間とは何かということから社会、私たちにとってという風に考慮した時、歴史という認識が生じる。
 その歴史を意義として捉えるという意味ではクリプキは「名指しと必然性」において、「そうであったこと」と「そうであるものとして語られたこと」が一致すること、つまりその差異に眼を瞑ることこそが歴史だという見解によって示している。本当の歴史的真実とはこれこれこうであったものの、言説上、通説としてこのように罷り通っているという考え自体は、逆にある「固定化された歴史的言説」という観念を通説に従って構成し、その存在を通して私たちが想像するものでしかない。それは歴史的真実の意義においては何ら重要なことではないとクリプキは考えたと思う。つまり「そうではなかったかも知れない可能性」とは、「そうであったとして伝えられること」によって構成されているわけだが、実際それが仮に「そうではなかったかも知れない可能性」の方に真実味があったとしても、その通説に対する変更自体に多大な歴史的認識全体を揺るがす意味合いがない場合、通説通りとしておいて何ら歴史的認識全体に修正を加える意味などないというのがクリプキの考えだ。言語と思考の関係に喩えられる。通説通りでも通説通りではなくても大意は変更されないのが思考であり、通説と非通説の間の差異を敢えて技術的な側面から考えることが出来るのが言語なのだ。通説とはしばしば現時点から見たその事実で変更可能なのだ。(第十五章参照)言語は思考を円滑にし、運路を整えるという、エドワード・サピアの「言語」の中で示されている「道」説(道を通るのが思考である。)に近いものとして考えればよいと思う。
 前頁の記述はそれぞれそういった考えを説明するのにもってこいである。例えばレヴィナスのものには、「私の時間の後の時間へとかかわる存在」(つまり他者ということ)で、ハイデッガーの「存在と時間」に対する解釈として、「私にとっての時間」が「私たちにとっての時間」に転換されること自体に内在する言語的認識をも含む思考の運命が示されている。この考えこそ永井均氏がライトモティーフにされているものの起源だと私は思う。しかもレヴィナスのこの記述は個体の死が生者の存在を理由づけ、全ての存在者は死して、他の生者を支えているという主張ともなっている。
 そしてヘーゲルのもの(「法の哲学Ⅱ」中45頁の引用記述。第三章参照のこと)には私秘的な出来事で行為でもある性行為自体が羞恥を含むものでありながら、それが公認されると婚姻が自然的衝動の抑制という形で社会通念として語られ存在者に対する権利となる。それ自体「私にとっての肉体関係」が「私たちにとっての肉体関係」へと転換される、つまり自然的衝動(性的快楽)の満足や肉欲である衝動を抑制し理性的愛へと転換される時には確かに権利上容認されつつも、実は社会機能維持功利性という観点からは社会的不安定要因を排除するという形で権利的に個へ付与するという機能主義的側面の主張となっている。これはアイロニーとして法秩序を語る視点であり、ホッブスの「リヴァイアサン」にはない側面である。(第三章を参照されたし。)
 
 武蔵の考えは家庭的平和という観念が完全に欠如している。それは求道者による記述以外の何物でもないのであり社会的成功と俗世間的な幸福を享受したヘーゲルと最もかけ離れている。よって武蔵にとって羞恥があるとすれば、それは羞恥について考えることであって、克服されるものとして語ることではなく、克服されてしまっていなくてならない。羞恥は武蔵にとって迷いや逡巡を生む最大悪だったのだ。それに比べヘーゲルは武蔵よりずっと俗な感性の持ち主だし、幾つかの婚姻に関する記述は妻との性行為を想起しつつ書いたようにさえ思われる。
 ところで家庭的平和ということで言えば武蔵に近いのは寧ろサルトルだっただろう。彼の「存在と無」には性交渉のことについて触れた箇所があるが、ヘーゲルのものと比較すると極めて即物的な快楽原則的記述である。ここに行動者としてのマニフェステーションに徹するサルトルの資質が伺われる。
 ハイデッガーは私が「存在と意味」という表題をこの論文につけた当の根拠である。サルトルの「存在と無」は確かにハイデッガーの「存在と時間」抜きには存在し得なかった。つまりその根拠の一つが存在の気遣いという概念である。
 ①は故に他者一般のことである。そして②は他者と自己の関係が与えられてはいるが、それを当然のこととして問うことをしないでいることであり、それを彼は頽落と呼ぶ。(第十五章参照)③はだから、そのような他者‐自己という合一的現実に現存在としての我が既に組み込まれていることを言っている。私たちは他者と離別することがある。だがその人物は今現在自分の日常において不在であるが故にかつては切実な存在だったと了解し得る。④はそういう他者存在への気遣いとして現存在としての我があると捉えている。
 ハイデッガーにとって気遣いということは既に運命づけられているのであり、それは性格づけられているという謂いで表されているが、それは自分に対するえこ贔屓というつまらぬ感情をさえ飲み込むものだという考えが⑤によって示され、「今の自分」の内にある過去から引き摺った「本来あるべき自分」から、別な形での「本来あるべき自分」を再設定することの内に私たちが自由であることを⑥に示し、そのことの別の言い方として旧「本来あるべき自分」に対し「今の自分」を新「本来あるべき自分」として見直すことにおいて、非本来的という概念を使用している。

 つけ加えておけば、第五章で祭りについて記述したが、この章の考えは当時読んでいた木村敏氏の「時間と自己」とバタイユの「エロティシズム」中の死に対する忌避が濃厚に影響を与えている。

 武蔵の晩年の絵画、例えば枯木鳴鵙図を見たのは京都旅行よりずっと前だった。しかし今回若い日の彼による観智院での仕事を見て彼は当時から既に心の仏像制作に取り掛かっていたと感じた。
 私にとっての心の仏像を作る旅は始まったばかりである。この旅がどれぐらい続けられるかは私にも未だ分からない。しかしこの心の仏像制作が日々私の平凡な毎日に何らかの心の旅、心の祭りにしてくれるのではないかという期待と共に筆を置こうと思う。(了)

 
参考文献
 プラトン「国家(下)」藤沢令夫訳 岩波文庫
 ホッブス「リヴァイアサン2」水田洋訳 岩波文庫
 スピノザ「エチカ(上)」畠中尚志訳 岩波文庫
 コンディヤック「人間認識起源論」古茂田宏訳 岩波文庫
 カント「道徳形而上学原論」篠田英夫訳 岩波文庫
 ヘーゲル「法の哲学Ⅱ」藤野渉・赤沢正敏訳 中公クラシックス
 エトムント・フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」細谷恒夫・木田元訳 中央公論新社刊
 アンリ・ベルグソン「時間と自由」中村文郎訳 岩波文庫
 エドワード・サピア「言語」安藤貞雄訳 岩波文庫
 ルドウィヒ・ウィトゲンシュタイン「哲学探究」藤本隆志訳 大修館書店刊
 マルチン・ハイデッガー「存在と時間Ⅱ」原佑・渡邊二郎訳 中公クラシックス
 エマニュエル・レヴィナス「他者のユマニスム」小林康夫訳 書肆 風の薔薇
 ジャン・ポール・サルトル「存在と無」松浪信三郎訳 人文書院刊
 カール・グスタフ・ユング「無意識の心理」高橋義孝訳、人文書院刊
 オイゲン・フィンク「実存と人間」座小田豊/信太光郎/池田準訳 法政大学出版局
 ギルバート・ライル「心の概念」坂本百大・井上治子・服部裕幸訳 みすず書房
 ジョルジュ・バタイユ「エロティシズム」室淳介訳 ダヴィッド社刊
 モーリス・メルロ・ポンティー「言語の現象学」木田元、竹内芳郎、滝浦静雄訳 みすず書房刊
 ジョー・ラングショー・オースティン「言語と行為」坂本百大訳 大修館書店刊 
 ソール・クリプキ「名指しと必然性」八木沢敦、野家啓一訳 産業図書刊、「ウィトゲンシュタインのパラドックスー規則・私的言語・他人の心―」黒崎宏訳 産業図書刊
 ダニエル・C・デネット「解明される意識」山口泰司訳 青土社刊
 ジョン・オルコック「社会生物学の勝利」長谷川真理子訳 新曜社刊
 リチャード・ドーキンス「神は妄想である」垂水雄二訳 早川書房刊 他多くの著作
 ジョセフ・ルドゥー「シナプスが人格をつくる 脳細胞から自己の総体へ」森憲作・谷垣暁美訳 みすず書房刊
 金谷治 訳注「論語」岩波文庫
 木村敏「時間と自己」中公新書
 中村元「龍樹」講談社学術文庫
 鎌谷茂雄「五輪書」講談社学術文庫
 小此木圭吾「自己愛人間」ちくま学芸文庫
 養老孟司「脳のシワ」新潮文庫
 中島義道「哲学の教科書」講談社学術文庫、「私の秘密」岩波書店刊 他氏の殆ど全ての著作
 永井均「倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦」産業図書刊 哲学教育シリーズ、「転校生とブラックジャック」岩波書店刊 他氏の殆ど全ての著作
 小浜逸郎「言葉ななぜ通じないのか」PHP新書
 和田秀樹「<自己愛>と<依存>の精神分析」PHP新書
 茂木健一郎「脳とクオリア」日経サイエンス社刊、「「脳」整理法」ちくま新書 他多くの著作
 池谷裕二「ゆらぐ脳」文芸春秋社他多くの著作
 前野隆司「脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説」

 付記 私の論文「存在と意味」はこれで終了ですが、引き続き「意味の呪縛」(短論文)そして「感情と意味」(長論文)を更新掲載致しますが、数日休暇を頂きます。(河口ミカル)

Wednesday, October 28, 2009

第十七章あるいは結論に代わり得るもの

 本論、あるいはこのエッセイ風の私による記述は、京都旅行に端を発する。つまり私が尊敬する哲学者である永井均氏の講演を聴きに京都に三泊二日によるツアー高速バスによる学生旅行的な体験に根差している。
 そこで観た東寺内観智院での武蔵の襖絵の緊張感と独特の安らぎ、そして京都旅行で知遇を得た有志哲学研究の面々との永井氏講演終了後の対話、そして京都旅行の行き帰りのバス中に観想したことがベースとなっているし、その後埼玉県と群馬県の境に位置する城峯公園、神流湖、神流川、神川町、鬼石町、藤岡市、そして秩父夜祭りに行った時のことが第七章で書かれている。これらの記述は実は哲学を哲学外的に考えつつ、私自身アーティストとして生活してきたことをも踏まえて、アートをアート外的に、それ以外の一切を一切外として捉える視点を考えて書いた。
 武蔵が考えていた観智とは、心でものを見るということだが、その本質は知覚に惑わされるなということだ。しかしそう言いきるためには知覚の本性を知り尽くしていなければならない。
 経験とは驚くことの、と言うより驚く「べき」ことの価値と本質を見極める、見抜くということだ。そうする中で私たちは驚くに値しないことを自然と避ける。無視するのではない。無視は意図であり、自然と避けるのとは違う。何を見ても驚くのは赤ん坊だ。しかし我々は自然と驚く必要のないものを避けて、と言うよりあまり真剣に接しなくなり別の価値あるものを求める。つまり取るに足らないものを驚くべき対象外へと除外する。そういう判断をする。その仕方は各個人に内在する人生に対する思想に応じて個々違う。
 生と全ての存在の背景となる空無から捉えれば知覚の大部分が経験と記憶によって左右され、純粋な観智を妨げ、印象を主とした判断をする。知覚は意識が生む。しかし知覚に感けていれば意識は意識されない。意識の在り方は身体的存在という有が其の中にある無と接する(?)ことによって自ずと決まってくると私は考える。
 哲学は大半が言語的思惟である。だからこそ、逆に哲学で千年以上解けなかった命題が、ある日哲学に全く無知な人によって難なく解かれる可能性も十分あるし、またそうあるべきだ。いつの時代も全くその世界に関して無知だった人がその世界に何らかの強震を齎すことはある。私にとってそもそも哲学は専門のフィールド外のものだった。だからこそ、その固有の揺らぎに関心があったし今でも基本的にはそうである。
 私たちは存在する。だからこそその有の中で無を考える。しかしひょっとすると、その私たちによって考えられる私たち存在者としての有に対して、無が語りかけてきて、その語りに耳を澄ますということさえ私たちが気ついていない間に経験しているかも知れない、と京都旅行後に私は囚われ始めている。いや以前からそういう思いが強く、だからその思いが私に京都行きを促したのかも知れない。
 全ての出来事には何らかの契機がある。私の京都旅行にとっては永井氏の講演に関するホームページによる紹介だった。
 人生は全体から見るとそれは一つの長い映画のようでもあるし、祭りが始まって終わる一部始終にも思える。しかし哲学者は人生という語を好まない。(ヒュームは「人性論」を書いているがそれは人生とは違う)現代の哲学者は人生と言わず生、現存在、対自と言う。しかし敢えて私は人生という言葉を用いた。思想という語彙も多く用い、ビジネスパーソンの立場に立って、立場という哲学的禁じ手である社会的認識も多く用いた。そして武蔵の「五輪書」の持つ存在感を重要視し論を進めた。途中大衆文学的趣味の記述もあり、哲学外的に哲学を観る試みを貫徹した。私もまたここ数十年の間に確実に死に、人生全体が泡沫の夢だったという現実に吸引される。これは避けられないのに、人は常にそのことを必死にどこか忘れたいという気持ちでその存在するものの、存在者としての必滅の法則は自明のことでありながら、それは常に別の形に置き換えられている。例えば人生観とか、幸福感とか、生き甲斐とか、思想とか哲学という風に。
 しかし実はそのどれ一つとして明確な定義を持たない。つまり人間は最も感覚的に自明であるものには定義を施す必要性を感じないのか、それともそれが困難だと直観するのか、とにかくその周辺の瑣末なことばかりを定義し、明確化しようと試みる。
 しかしそう感じるということは、私自身が何故生きてきているのかその回答を生涯見出せないことを直観しているからかも知れない。昔年齢を重ねると色々なことが理解出来るものと思っていた。しかし五十を前にして私には未だ理解出来ないことの方がずっと多いと気がつき、ますます迷うことの方が多くなってきたと思う。四十不惑どころの話ではない。
 しかし何故か考え過ぎても埒が明かないということも言える。それはどういうことか。つまり私たちは考えるべきところと考えずに行動し、直観した方がいい場合もあり、それをその都度使い分けている。睡眠も一つの脳波的に言えば形を変えた<考えることを休息する行動>だ。
 あるいは食もそうだ。武蔵は常にご飯を掻き込むように食べていたのだろうかと想像する。武蔵の絵は以前じっくりと観たが、最初に理解出来なかった印象の正体は観智院での彼の仕事を見た時、理解出来た気がした。それは武蔵が心の休息で彼なりに遊び心で絵を描いていたのだろうということだ。勿論それは私の推測だ。しかし絵自体は用意周到に計画されたものではないと私は思った。
 京都旅行に前後して私はヘーゲルも読んでいた。ヘーゲルは極めて律儀で、オーソドックスな哲学者である。しかしヘーゲルの記述はどこか欲望・衝動を真摯に見つめる眼差しがあると思う。そして僅かながら羞恥にも触れている。しかし死を考えると、どうしてもハイデッガーに至り、欲望の正体を客観的に分析するのではなく、どちらかと言うと運命のように捉え、歴史という人間が解釈し、物語化することが不可避な思惟に位置づけられるものと考えているように私に思える。存在というレヴェルに抽象化すると人間が彼にとってどうしてもそうなったのだろう。ハイデッガー以前にヘーゲルも現存在とも世人とも言っていて、ハイデッガーと全て対立する存在ではないことを了解しても、私は世界そのものであり、世界とは私が考えること、命名することであるとする彼の考えから捉えるとどうしてもヘーゲルはハイデッガーにとって(デカルトが私あっての世界と考えていたことからすると)デカルトと一致する存在に思えたのだろう。つまり世界自体とヘーゲルの間に一定の距離があるからだ。その距離が認識上ヘーゲルにとっては重要だったのだろう。しかしそれはヘーゲルが全体ということを世界と等価に考えていたからではないだろうか?
 例えばハイデッガーは自らの死以降にも世界が存在し続けると考えていたが、そう思惟することはある意味で極めて永遠をニーチェ的に思惟することを強いる。欲望を真摯に見つめたということではヘーゲルは親鸞の思想を受け取って完成させた唯円の「歎異抄」的なところがあるが、先にも述べたようにハイデッガーは欲望を欲望としてではなく、言語的な命名、あるいは存在する者の運命、歴史的位置づけという時間論で捉えた。その意味ではハイデッガーは意義論者だと言える。しかし彼はサルトルのように行動へとアジテートする方法は採らなかった。ハイデッガーの言説的拘りを継承したのは、レヴィナスとデリダだったかも知れない。
 サルトルにとって世界は現存在にとって投企する場であり、行動を位置づける契機だ。しかしハイデッガーにとって世界は自らの死後も存続し続ける固有のやるせなさを示す。存在を位置づけるために世界を世界として位置づけるという思惟の他彼にはなく、そのことが既に私が世界を作っていることに他ならないと結論せざるを得なくなるとすれば、彼はデカルトの問うた問いの非反省的地平での再チャレンジをしたと言える。つまりハイデッガーは時間とは推移の顕現ではなく、永遠を私たちが作る場である空間をも成立させる空無に対する変化の側からの感謝だという思惟があったのではないだろうか?
 ヘーゲルは世界は自らが構築する言説上で存在する前に所与として提示される全体だと思うから、全体に対してそれを作る自分という発想は持たなかった。しかしハイデッガーは決してコギトを無視したわけではなかった。しかしハイデッガーにとっての世界と世界を作る自分は、デカルトのように反省的地平において思惟される同一性の基軸ではなく、反省を汲み出す私を存在させる、記憶、それは私の記憶でもあり、世界自体の記憶でもあり、あるいは私たちの記憶でもあるが、そういうものを産出する私が前章に言った空無の背景に浮かぶ一種の現象だったのかも知れない。
 それはウィトゲンシュタインが世界の限界を言語の限界であるとした、あるいは私秘的な言語の可能性から他者の存在の不可避性を考えたことの有の範囲、そして全ての相関、全ての関係を関係のように見えさせる場である空無と時間、それらが私にとって存在している、介在していると思えることがフッサールの考えた現象であり意識であるような意味でフッサールならエポケーの対象としたところを敢えてエポケーする必要ないくらいに感覚的に自明であることを皆が知っているものとしてそこに時空間と空無を見つめたということではないか。
 そういう観点からすれば、武蔵は恐らく生涯ヘーゲル的であると同時にハイデッガー的な視座で世界を凝視していたのではないか?あるいはその二つの合流点、一致点に対する模索そのものが剣士としての勝負だったのでは。武蔵は柳生一族のような意味で継承される流派であるより一代で終わる天才剣法二刀流である。そして個である武蔵が泡沫の人生の中で燃焼される緊張の一瞬に対する記憶を通して彼は後代の彼に匹敵する天才剣士の登場をもって初めて体験的に身体体得的に理解されるという思いで「五輪書」の記述をしたためさせたのだろう。

Monday, October 26, 2009

第十六章 武蔵とヘーゲル

 宮本武蔵は武道の精神についてのみ「五輪書」で記述したわけではない。人を本当に斬り殺すための実践的な技能についても多く書いている。次のような記述はそれを如実に示している。

一 心をさすといふ事
 心をさすといふは、戦にうちに、うへへまわり、わきつまりたる
所などにて、きる事いづれもなりがたき時、敵をつく事、敵のうつ
太刀をはづす心は、我太刀のむねを直に敵に見せて、太刀さきゆがまざるやうに引きとりて、敵のむねをつく事也。若し我くたびれたる時、亦は刀のきれざる時などに、此儀専らもちゆる心なり。能々分別すべし。

〔訳文〕
 心臓を刺すというのは、戦いのなかで、上がつかえ、わきをつかえているような所で、斬ることがどうしてもできないとき、敵をつくことである。
 敵がうちかかってくる太刀をはずす呼吸は、わが太刀のみねを素直に敵に見せるように切先を下げ、太刀先がゆがまないように引いておいて、敵の胸を突くことである。もし自分が疲れてきたとき、あるいは刀が切れないようなときには、この方法をもっぱら用いるようにする、よく分かっていなければならない。(143~144ページより)
 
 彼は絶えず自分の命を狙う剣客たちから窮地に追い込まれた時唯一自身の命を守る術を記している。それはまさに彼と似た真に強者で天才たる剣客(彼が生存中には恐らく彼が出会えないだろうような)に対して記したのだ。(尤も風之巻の最終部に近く彼は初心者に向けた指南も施しているが)しかしそれを考えるとまさにヘーゲルの「法の哲学」は武蔵の「五輪書」と対極の意図の下に書かれたと言えるだろうか?そのことについて暫く考えてみよう。
 ヘーゲルにとって法とはそれを形成する人間の内的必然的な要請によって外的に伴うものだ。つまりヘーゲルは客観的に法を遵守することが正しく求められることを外在的に語るのではなく、内在的に語る。しかしその語り口は前章でも述べたように存在者一般としてであり、他の誰でもない私(ヘーゲル自身)からではない。にもかかわらず彼はカルテジアン的な部分も濃厚にあり、そこにヘーゲルの両義性がある。それは例えば次の一文からも明らかだ。
 
 法律の形式をとって現存在するに至った法は、対自的であり、法について特殊的な意志や意見をもつことに対して、自主的に対立するものである。だからこの法は、おのれを普遍的なものとして貫かなくてはならない。このように、特殊的な利害関係についての主観的感情ぬきにして、特殊的事件において法を認識し実現することこそ、公の威力である裁判のなすべきことである。(「法の哲学Ⅱ」163ページより)

 ヘーゲルは「法の哲学」において法学・社会学・政治学・経済学・倫理学・教育学・生理学・心理学といったほぼ当時の全部の学を網羅的に叙述する。しかし彼はそれらいずれも専門的ではないし、そう目指しもしない。彼の時代にあってそれらいずれもが哲学者による視点の提示という射程にあっただけである。しかもそれはどこか万人に向けて語られているけれど、集団全体にこうあれと一般の政治学や兵学のようには語られてもいない。まさにそれこそが武蔵が孫氏と分け隔てられているところだ。つまりヘーゲルは武蔵同様全ての読者に内在する「個」の内的レヴェルに語りかける。このことはヘーゲルの「法の哲学」が武蔵の「五輪書」同様極めて心得書きの様相を呈していることからも明白だ。例えば次の一文はその意味で極めて示唆的である。
 
 (前略)王侯や統治者の側からの裁判制度の創始を、気ままなお情けやお恵みに由来するにすぎないものとみなすのは、無思想というものであり、こうした無思想は、法律や国家を論じるさいに何が問題となるかについて何も予知していないのである。問題なのは、それらの諸制度が総じて理性的なものとして即自かつ対自的に必然的であるということであり、それらの諸制度がどのようにして成立し創始されたかという形式は、それらの理性的根拠の考察においては肝要なことではないということである。(「法の哲学Ⅱ」164ページより)
 
 このヘーゲルの考え方に最も啓示を受けているのは、永井均氏だ。氏は「倫理とは何か」(産業図書刊)において次のよう述べている。 

 しかし、驚くなかれ、われわれはみんな契約後の存在なんだ。だから、その魔術にもうかけられてしまっているんだよ。むしろ問題は、もうかけられてしまっている観点から契約前のことを理解しようとしても、それは本当はできないということにあるのかもしれない。契約前と契約後を対等に見通すような観点に立つことはできないのかもしれない。
(前略)アクロバットとか魔術とか言うのは、自然状態で契約がなされたにもかかわらず、それによってつくられたはずの社会状態の規範がなぜかその契約行為そのものに遡及的に妥当してしまうってことじゃないのかな。(アインジヒトとの議論Ⅱ 社会契約は可能か 中77ページより)

 入信行為の意味そのものが、入信以後の信念システムの中に新たに位置づけなおされる必要があるからね。だから、入信以前の信念システムから見た、入信せざるをえなかった理由は、もう理解できないのでなければならない。それこそが、入信以前の問題がそこで本当に解決したことの証拠なんだ。(アインジヒトとの議論Ⅱ 社会契約は可能か?中78ページより)

 つまりここで永井氏は結果的に規範となっている状態から起源した仕方では、それ以前の状態を知ることは出来ないのにもかかわらず、規範自体を問う行為において規範成立後に起源するものからの視点においても、規範成立以前的な観点を求めるということを余儀なくする。しかし例えば戦前に生まれて戦中を過ごし、戦後社会を生きた人でない限り、戦後民主主義教育を俯瞰することは出来ず、戦後民主主義教育を受けて育った世代の人たち(私もその一人だ)にとって、戦前から戦中、戦後という時代の流れ自体を問うことを客観的に試みても、それは自分が育った時代の教育理念に基づいた社会通念によって理解しようとする行為だから、既に本当の意味で客観的に日本の歴史について考えることは出来ないし、それは戦中に生まれ育った人でもそうだ。それは歴史認識だけでなく、信仰心や宗教教義とは一旦それに入信した後は、それ以前の入信していない状態に立ち戻った考えを捨ててなければ入信したことにはならないから、必然的に入信以前と入信以後の自分を客観的に見ることなど出来はしないのであり、またそうでなければ矛盾になる。ヘーゲルの「問題なのは、それらの諸制度が総じて理性的なものとして即自かつ対自的に必然的であるということであり、それらの諸制度がどのようにして成立し創始されたかという形式は、それらの理性的根拠の考察においては肝要なことではない」というテーゼの中に既に含まれている真理を具体的な形で永井氏が示していると考えることは自然だ。
 それは本来あるべき姿としての自分に今から見てある時点(過去)からなっていたとしたら、それ以前の自分は今の自分にとって文字通り過去の自分であり、その自分の気持ちで今の自分を見ることは出来ないし、またそう出来たとしたら、ある時点で自分が生まれ変わったことが偽となる。しかし実際私たちは記憶という化け物に常に思い惑わされているとも言え、そう簡単に過去の自分から決別することも出来ない。しかし自分が生まれる前の歴史についてもただ考えることは出来るが、その場合完全に生まれた時代を基調とした通念から過去を振り返るしか出来ない。しかし寧ろ私たちはそれを自然であると考える。自分のことを客観的に見ることが出来ないことが、実はそれらの諸制度が総じて理性的なものとして即自かつ対自的に必然的であるという言説に示されている。私より若い世代の人にとって私にとって自然で必然的である不便さ、例えば携帯電話がない社会とはきっと想像することさえ出来ないだろう。そういった意味ではある制度が確立される以前から生活している者と、制度確立以後に生まれ育った者とでは必然的に拠って立つ視点が異なり、ダイアル式の電話を見たことがない世代にとって小林明子の歌の文句である「ダイアル回して手を止めた」という歌詞(「恋に落ちて」)の意味を理解することは即座には困難かも知れない。
 しかしそれは生き方とは少々違う。習慣だからだ。しかし習慣を受容して常に今の時代に対応して生活することからしか生き方は生まれようがない。そして常に自分にとって「本来あるべき自分」は時代と遊離したものである筈もない。勿論時代の精神全部が自分内部の「本来あるべき自分」を規定するのでないものの、固有の時代に顕著な生活様式や思想という俎板からしか「本来」とは認識しようもない。そして個々によって少しずつ異なる「本来」によって常に私たちは今という時代に対応している。しかしやはり自分はどんな時代に生きていようが自分でしかないという考えをも我々は一時も捨て去ることも出来ない。何故か?
 生き方とは行動によって示されるが、実は生き方自体は行動と全く同じようには思念されない。どういうことか?つまり私たちは「本来あるべき自分」を、「今の自分」とは常に少し違うものとして内的に理解しているからだ。だから生き方は、行動してきたこと、や今行動しているものより常に少し後(未来)まで意識が志向する先は向く。そしてそういった今の行動と今までの行動をプラスしたものに、それだけではない何かを求めて我々は「本来あるべき自分」を設定する。そしてその「本来あるべき自分」を糧に人生に対する思想を構築する。つまり人生に対する思想は、それが参考にする「本来あるべき自分」から構成されることもあるし、「今の自分」に対する反省(哲学的反省ではなく、通常の意味での反省)から齎されもする。だからこそ自分が私たちの胸中から離れることはないし、時代に沿った生き方をしていても、少なくとも今に関してはそれを自分の「生き方」以外のものとして感じられない。しかし過去に関しては何故か客観的に捉えることが可能だ。過去の自分を時代に振り回されていたと言う風に。しかし他者に対する印象は過去と現在に違いがあるわけではなく、全てが客観的だ。それは自分が内的に反省意識を持ち過去の自分を捉えられるが、他者に対し外見的な認識や判断以上の意識になれないからだ。にもかかわらずそれは内的関係での話であり、特にビジネスにおいて表向きはそういう思念を私たちは一切出さないようにする。しかも前にも言ったが、ビジネスとは本来そのように反省的地平のものではない。ここで言う反省とは、勿論通常の反省をも含めた哲学的地平の反省のことだ。構成された人生に対する思想は、それが自分にとって該当することは当然だが「判断力批判」でのカントの主張のように、他者に対しても自分の理念を基準に評定し、親しい間柄ではそれに当て嵌めそれに沿った存在として望む。そして反省的地平という観点でなくても、ビジネスパーソン同士では共通した人生に対する思想が成立する。教育者同士、公務員同士、作家同士あるいは剣豪同士etc。
 武蔵の生涯は、隙を他者に見せることを完全に封鎖することに対して全ての神経を使っただろうから、その隙を見せまいとする緊張を一時ほぐすために絵画や彫刻を創作することが人生に求められた。それは生き馬の目を抜くビジネスパーソンたちの、経営者たちの心理に近いだろう。しかしそれは別の観点から言えば、明らかに脱獄を目的とする囚人にも、エスニッククレンジングの対象となる民族出自の存在者にも該当する。あるいはリストラされて住居を奪われる派遣社員にも該当する。しかし存在者である以上、全成員はある時期反省的地平へと心理的に追い込まれる。それは武蔵とて例外でなかったろう。故に晩年細川忠利の客分以降「五輪書」を熊本霊厳洞で残したのだ。
 ヘーゲルにとって反省的地平とは恐らく法秩序、共同体、社会等、我々が進んで同化し得る価値としての集団的理性や言説に追随する制度的なものから呼び覚まされることだったと思う。だからこそ秩序としてコギトを考えていても彼固有のことではなく普遍が成立する存在者一般である必要があった。その意味でサルトルは完全にカルテジアンだったが同時にヘーゲル主義者でもあった。
 しかし武蔵は「この私」ということも考えただろうが、そのように私秘的世界に観想している暇は彼にはなかったろう。常に抽象的な他者と対峙し(だからこそ一々の敵という具体へと対峙し得た)、対決することの理念に精神と全神経を集中させ、揺らぎが皆無の状態に持っていく必要があった。とすれば、私は私ではないもの、つまり私を成立させる全ての状況と一体化して、無我となることが求められる。その意味で彼はヘーゲルが自我や欲求を成立させる場である同化し得る価値、理念、それこそが彼の人生に対する思想だが、生を発生させる死が恒常化した全存在の背景から自らの剣の哲学を考え抜いた生と離反した世界の住人ではなかったと私は考えるが、どう読者はお考えであろうか?

Saturday, October 24, 2009

第十五章 時間と羞恥②

 私はどんなに気恥ずかしい出来事でも時間と共に羞恥の対象から外されていくと言った。それは端的に「ちっぽけさに対して慈しむことの羞恥を大事にして生きる存在の存在理由」を無効化する。時間だけが永遠であり、その中でどんな存在者であれ羞恥を抱えて生きているが、それらに眼を留めることはセンチメンタリズムだけでなのかという時間への問いにおいて、再びそれは片隅に追い遣られる。しかし重要なことは、時間が羞恥を無効化するのも、再び過去の羞恥より現在の羞恥を重視するのも私たちなのだ。だから常に私たちは時間と共に羞恥を新たに更新している。そもそも私たちの存在自体が全存在(一体この認識は正しいのだろうか?)の中のほんのちっぽけなものであり、人生は時間においてもほんの一瞬の刹那だ。この存在の刹那性こそが永遠への希求の鳥羽口である。しかしそもそも時間すら永遠であるか否かは確認出来ないと私は言った。
 ところで私はかなり昔から、殆ど幼稚園時代まで遡るその時々のことを克明に覚えている。かなり以前に感じた羞恥を執念深く思い出し続けている。勿論それを敢えて他者には告げはしない。しかしそうする必要のなさこそがある意味で「それが私の世界である」ということだ。毎刻消滅し続けている無数の考えることと、クオリアは個々固有の過去の蟠りがある。つまり個々の消滅してゆく存在者の魂とは実は個々の蟠り、あるいは個々の知られざる羞恥である。
 すると時間とは無数の羞恥を飲み込む、無数のクオリアと考えることに纏わる後悔という名の蟠りを一瞬にして無化するエネルギーである。つまり時間は死そのものなのだ。死とは生を飲み込む場だから、その場全体は時間と一体化している。
 羞恥は記憶に刻み込まれている。武蔵でさえそれを携えていたろう。
武蔵は果たして熟睡できたのだろうか?常に浅い眠りしかしなかったとしたら、夢に魘されることがあったのだろうか?彼は常に自分によって打ち滅ぼされた剣士たちが負けた理由を考え、彼らに対する鎮魂を夢でも行なっていたかも知れない。敗れた剣士たちは明日の自分かも知れないと夢でそう告げられたかも知れない。武蔵も記憶に取りつかれていたのだ。
 しかし記憶は世界があることの証拠であり、死は記憶を消滅させる。そして無数の叫ばれなかった羞恥の魂がこれからも延々と無数の死と共に無数の叫ばれなかったクオリアと考えることを携えて時間の中に吸引されていく。死は何かとは他者の死が教えてくれる。私たちは死ぬまで羞恥を携えて生きる。過去の記憶は「羞恥を生きた」という実感だ。死ぬまで我々は羞恥を忘れない。だから誰かが死ぬ時「お前は生きている。死んでいく奴のお陰だ」ということを悟るために他者の死はある。定義してみると 時間=死者となる生者の姿を我々に目撃させる場 となる。
 ハイデッガーが言った頽落とは、社会が成果達成的行為にのみ追随する価値を半ば(完全ではないところがミソである)強制的に社会によって管理された教養の枠組みの中で提示された概念規定を飲み込むことを飲み込まされていると気づきもせず、寧ろそれを有り難いと思って生きていることである。しかし重要なことはハイデッガーが死を個人的なことであり、死が他ならぬこの私に降りかかることにおいて思考したことがヘーゲルと最も違うところだ。
 ヘーゲルは存在一般に思考が向いており、サルトルはその決起を促すテクストスタイルでヘーゲルのカルテジアン的な部分を踏襲した。しかしハイデッガーはサルトルに自分の中の多大なエキスを吸収させたが、ヘーゲルに対しキルケゴールとは違った意味で批判的だった。ヘーゲルのカルテジアン的資質を見抜いたのがハイデッガーだった。
 しかし私は死の個人性という考えが、生の個人性に直結していることは当然としても、クオリアがある個的存在にとって固有のものであるか否かとは存在者一般に当て嵌まるか否かとは全く異なった問題である。後者は科学の視点だ。しかし前者は明らかに一個の林檎に対する感じ方の問題であり、全ての存在者に備わっている知覚的確証能力とは全く違う。
 赤い林檎であるという客観的認識は、そのことに対してどのように感じ、どういうクオリアの質(感覚質の質、個に固有の感じ方)がどう作用しているかとは全く別で、後者には人格も絡んでくる。
 前章では昨今の金融危機的状況からペシミスティックで反体制的ニュアンスの形而上学を私は敢えて試みた。その背景にはハイデッガー的視座があった。ハイデッガーは存在論を存在する者による思惟であり、歴史的認識だと考えていたが、その歴史認識はしかしヘーゲルから吸収した部分もある。つまりテクスト論的にはメルロ・ポンティーが「言語の現象学」中<間接的言語>で述べたように、体系的な自らの歴史的位置づけを全ての著者がテクスト創造しながら既に内在させるという主張に見られるように、私たちは否定するものに肯定され、批判するものによって救われる。そしてそのこと自体私たちが羞恥的存在者であることを証明している。
 と言うのも存在と意味を考える時、私たちは自然科学があらゆる物理的存在、例えば分子、原子、原子核、クオーク等を有として捉え、例えば脳科学においても、準備電位とか、神経作用としてグルタミン酸とGABAといった+-の働きなども全て有の範疇の認識体系だ。しかし本来私たちの身体一個をとっても、実は空無というものを常に内包する。と言うより空無は掴みどころがないのに有の中にある。全ての存在物=有は、実は空無と、こう言ってよければ、接触している。だから空自体、無自体の性質、あるいは有にはどれだけ空無が紛れ込んでいるか(語義矛盾的だが)が、例えば我々の意識自体の性質や在り方を決定していると捉えられないだろうか?
 つまり自然科学自体が、これからは有全体の閉じた体系だけではなく、空無へと開放された体系として組み直す必要がありはしまいか?それは意味を意味の範疇からだけ捉えるのでなく、私が何度か言った哲学を哲学外的に捉え、科学を科学外的に捉えるように有を有外的に捉え、空無との有の接触(?)、あるいは有の中に内在する空無自体の作用ならぬ作用に眼を向ける必要があるまいか?
 つまり時間が、そもそも空間自体の空無に立脚すること、全ての変化と、全ての生(あるいは生の変化)という有を最終的には吸収してしまう空無自体の場としてのエネルギーに根本的に依存している以上、時間と空間を二分割すること自体に矛盾がある。つまり時間とは空間自体の空無的有を可能あらしめる場=全生の吸収可能力という死から見た生の存在理由(死を背景として生を特別なものとする)作成者なのだ。そして空間の生と変化を見守る能力を時間が与えているという意味では時間は空間の目撃者だ。空間はその目撃者の目撃者である。(空間の時間に対する凝視=場的性格+時間の空間に対する凝視=保証)
 ここに

 時間=生死全ての目撃者=生全ての変化を体験する者=生に対する死の宣言者=空間に意味を付与する者
 
 という図式が成立する。つまりこういうことだ。
 私たちは生きているから意識があると感じる。しかし意識がないとは無意識と同じではない。つまり「無=生の背景=全ての死を受けとめる者」だ。無自体は生きているものがないことであり、空間自体の存在の空無性は無時間だということだ。つまり空間の無時間的な無生、存在の皆無つまり死としての背景に、時間という変化を必要とする有的事象が発進されている。その中の一つの要素として我々の生がある。そして一個一個の生命は時間的に限界があり、種自体もそうだ。しかしその存続には変化がつき纏い、変化を体験するものこそ空間内の目撃者たる時間であり、時間が全ての生を見守るから自ら時間が死を迎えさせそれ(生)に宣言する。しかし空間内で全ての生命体の亡骸を吸収するのは、空間ではなく、空間内の物質だ。そして空間そのものの空無は依然として不変だし、無であり生きていない。しかしその生きていないという性質自体がそれを背景としつつ変化を続ける物質には必要だし、その無的性質に我々をも含む全存在の有が立脚している。
 そして我々には性別その他の様々な次元がある。変化は時間的な推移だけでなく、空間にも負っていて空間は性質差異的次元にもかかわっている。故に時間は悠然と全ての変化を見守ることが可能となる。それは空間に委ねている部分があるからだ。変化は時間に纏わる推移だけでなく反復する誕生と死滅の目撃者である時間に要請されている。生という有、存在=有における性質の差異を空間に委託している。だから時間は空間という場に対しその懐の広さを利用し変化を通し時間的推移を作れることに空間に対し感謝の念を捧げているだろう。そう考えると、あらゆる化学的変化や物理的変化自体(生命、非生命とも)が、実は対他的には他性認識を物質が有し、存在自体が原羞恥を有的事象性質論的に持つということから説明がつく。異・性に対する(あるいは作用に対する反作用といった)覚知が、実は私が言いたい羞恥なのである。
 時間は、空間内の空無が背景であることの証明として各性質や次元の変化を時間的推移だけはなく空間が負担していることから、自らは全ての生と死滅と、生ある物質の死への移行とそれに伴う変化を場的な意味で顕現されていることを無記録的に自ら覚知する。時間には無記憶的記憶があるのかも知れない。
 時間は全ての推移と、空間的変化の目撃者であり、認識自体となる。(意志のない認識とでも言おうか)時間とは存在=羞恥に対する空間内での目撃者として常に起きていることを事象として認識させ、起きていることを起きたこととして無記録的に記録する、少なくともその可能性を覚知する作用である。しかし人類が死滅すれば時間も滅ぶ。
 つまり時間とは我々、羞恥的存在者自体による歴史認識や物語的思考全てを含む推移的変化を現前的に我々が認識することが可能とするもので、それは空間を背景に性質状態の変化を見守ることが可能なことの感謝の念を空間に捧げるように存在者たちが意味づけしている空間とは違う性質のもう一つの場だ。だからカントは時間を感性の形式と言ったのだ。あらゆる歴史、物語という認識は時間という場を借りて顕現される。だから言葉を変えれば時間とは、我々が空間の空無を背景として行為すること、そしてその行為が全存在的変化の中に位置づけられることと存在自体に意味を付与する場であり、我々は不可避的にその場を選択している。

Friday, October 23, 2009

第十四章 羞恥と根拠

 羞恥心があるとは、羞恥心そのものを隠蔽する気持ちにさせることだ。でもそれが存在者の存在理由でもある。前章でくどいくらい述べたが、存在者が他者をもう一つの私であるとして意識することから羞恥が発生するとしたら、羞恥心も隠蔽したいし、克服もしたい。羞恥する内容は自慢出来ないものだけだからだ。我々は私を他者一般の中の一人であるとした時責任において他者‐自己を見る。その時責任遂行のために羞恥を克服したい。だからこそ羞恥は存在者にとって存在根拠になるだろうか?真理・本質・実存が冷淡で冷酷で残酷なのは全存在者がいつか死ぬという生命原則からだが、そのほろ苦さは存在を規定し得るか?存在根拠として認識可能か? そんな問いはセンチメンタリズムだと言う向きもあるかも知れないが、ではセンチメンタリズムはいけないことか?あるいはそれはヒューマニズムとどう違うのか、あるいは違うべきなのだろうか?
 個体は死滅しただ遺伝子のヴィークルとして私たちは遺伝子の生き延びる意志を維持するために奉仕される単なる道具だというドーキンス的認識を一方で持つが、逆に個々の存在理由をほんのちっぽけな存在だからこそ、例えば「生まれ変わったならまた男性に生まれたいですか?」と質問された時「いや私は何にも生まれ変わりたくありません。生まれ変われないからこそ、この人生を大切に思えるのではないですか?」と答えたくなるように生きていくとしたら、存在とはそのちっぽけさに対し慈しむことの羞恥を大事に生きることでしか規定し得ないとも言えまいか?何故ならそういう配慮を欠いてただ物質的に存在すると言うのが哲学的思惟だろうか?
 アダムとエヴァが林檎の実を齧った瞬間に全ては言葉の知の下に公的顔(大義名分)と私的顔を峻別することを人間は身につけた。公的利益のため農耕生活が始まり、私的利益はその公的業務遂行による権利上分配される体制へと人類が移行したとしたら、公とは理性が知性の化けの皮を剥ぐために用意した大義名分だったかも知れない。知性の化けの皮を剥ぐ理性を勇気と賞賛するのは、あくまで大義名分が存在するからで、見せかけの知性を虚飾と判断する可能性はその大義名分が存在するからである。
 私は第ニ章において「哲学的に生きる、哲学者として生きることは、科学的に生きる、科学者として生きるという決意が科学外的に決意することであると同様、哲学外的に決意することである。要するにそのように決意することは、一旦そのように生きだしたら再び何故そのような決意を抱くに至ったかを忘れる必要があるということである」と言った。このことは第十六章で詳述するが、本質的には敢えて哲学外的に考えることは哲学内的に考え過ぎることが定着した状態をまず必要とするし、そこからしか決意し得ない。「アーティストとしてではなく人間として考えたい」とあるアーティストが言ったとしたら、それは彼がそれ以外の生き方が出来ないできたことを知っているからだ。それは今言った「知性の化けの皮を剥ぐ理性を勇気と賞賛するのは、あくまで大義名分が存在するからで、見せかけの知性を虚飾と判断する可能性は大義名分が存在するからである」ことの理由である。
 つまり存在は存在するものからしか認識し得ない。存在していないことは恐らく今現前するものを通してその時存在していないこと一般の記憶を蘇らせている。今目の前にあるのは林檎であり蜜柑でもなければ梨でもない。だから何かの存在を論じることは存在していないことを論じることであるが、同時に存在自体を語るには存在者を前提することは「存在と時間」でハイデッガーが主張するとおりだ。また根拠と言う時我々は存在を主軸に考えるし、根拠は一度も存在しなかったものから生じない。だから存在し得ないものについて述べることも、問う無意味を考えるために存在理由を与えられる。それは思惟上存在するからだ。では私が言った「存在とはそのちっぽけさに対し慈しむことの羞恥を大事に生きることでしか規定し得ないとも言えまいか?何故ならそういう配慮を欠いてただ物質的に存在すると言うのが哲学的思惟だろうか?」ということの返答はどうしたら得られるのだろうか?
 それは考えることもまた羞恥の対象だという見解からかも知れない。つまり私たちは根拠について問うことを平素はしない。と言うよりそういうことに感けていたら全ての任務は疎かになること必定だ。社会的役割として考えることが得意なタイプの成員は一定数需要があり重宝され得てそれだけで生計を立てていけるが、ほんの一握りの天才に限られる。故に考えることだけしていたらまかり間違えば精神疾患と思われる。考えるだけの人間は敗者とされる。
 パスカルは「一個の人間の命は地球より重たい」と言ったそうだ。私はこの考えが嫌いだった。今でもそれを前提にして考えたくはない。しかしもしこの考えを否定すれば、私は自分の生命などちっぽけなものだからどうでもいいと割り切れるかと問われれば、私もまた「ちっぽけさに対して慈しむことの羞恥を大事にして生きる存在の存在理由」を楯にして「そんなことはない」と抵抗する。
 つまり現実問題として一人の生命を救援するために地球上の全エネルギーを消費することが決して出来ないことを了解していても尚、救われたい者の立場に立てばそう願っていけないと言える者はいない。その観点に立った時にのみパスカルの謂いには極めて説得力がある。だから私がこのちっぽけな頭で必死に考えていることを当然に思う現実も確実に数十年後には泡沫の夢となって費え去る。そう考えると考えること自体が社会全体にとって何の利益にもならないということで、天才以外の全ての成員に考えることを封印することこそ、悪辣な権力者なら考えそうなことだし、彼の意図を汲んで協力する中位権力者たちの真意であるなら、しかし同時に権利上では考え続けることの許された私秘的な脳のこの在り方は、それ自体羞恥の対象だが、同時に存在の根拠でもある。つまりこの私にとっては少なくともそうだ。考えることを失わないこと、それが私にとっては重要である。それが生きる根拠だと叫んで悪い筈がない。(ここで私が言う「考える」とは成果達成目的的思考外のことだ。)
 社会は考えないでただ行動し、成果を上げることによって賞与を配給するシステム以外の物でない。クオリアの重要性に対して全ての成員が目覚めたら、社会からは一切の従順や忠誠が消えてなくなるだろう。つまり滅私はクオリアに対する存在理由の忘却が出発点なのだ。しかし哲学者や脳科学者はクオリアに目覚めよと提言し続けるだろう。それを世人は教養の一部として組み込む。しかしそれを教養の一部に組み込めばそれは管理社会の一翼を担うためにのみ利用され、教養の一部に組み込まれる。教養は必要だが教養主義は権威主義に繋がる。そしてクオリアは概念としてその生きられた価値を剥奪される。それは哲学者や脳科学者の本意ではない。
 死は全てを解決する。それは外的に見ればまるで人生は最後に閉じるためにあるとさえ言える。しかし内的に見れば死は世界の消滅である。私の世界もやがて消滅する。しかし私が生きている間これらの文章が全て無視され続けても、恐らくこの文章に書かれた真実は私とは別個に存在する理由が与えられるかも知れないし、それでいいと言っても、私はそのことに与かれないだろう。日々毎刻世界は消滅している。無数の消滅だけが世界を日々活気づけるとさえ言える。それを皆知っていてそのことに口を噤んでいるだけだ。
 無数の世界の消滅によって支えられた世界の内実は、無数のクオリアの消滅によって世界は成立しているということだ。クオリアは数値化し得ないもの、概念規定し得ないものを指す。しかしクオリアを感得すること自体が成果達成的題目の下に供せられない形で「それ自体が価値だ」と規定されれば、それはそれで「考える」ことが何かの目的にされる。しかも世界は概念規定され得ないクオリアが日々毎刻消滅してくれてこそ残された生命が生存し得るのだとしたなら、クオリアをクオリアとして規定する言語的真理だけが無数の毎刻消滅してゆくクオリアを鎮魂することが可能になり、「ちっぽけさに対して慈しむことの羞恥を大事にして生きる存在の存在理由」を羞恥の正体であると私が主張すること自体が私のクオリアとは別個に意味化され、その事実が可能であること、それを可能化する言語だけが真理であることへ再び舞い戻る。そして言語は他者に伝えるべき情報的価値という側面から再び意味的差異という位相で語られる。するとクオリアは管理されるべき「価値ある意味」として概念規定され教養の一部に組み込まれ管理目的化された形骸化の道を選択せざるを得ない。それは日々毎刻消滅し続けているクオリアのちっぽけではあるが、だからこそ価値があるという本来の意味を剥奪される。それは結局語ることが語られることによって語ったことのクオリアを消滅させてしまうことと等価の事実だ。どんなに素晴らしい一句でも私たちはそれを延々一日中聞かされたら辟易する。この辟易との闘争こそが目的(目的とは社会が個人に価値ありとして提示するものだ)を産出し、その目的に沿って管理目的化された教養が日々権力者によって語られ、目的に供せられるものだけが社会管理上価値とされ、成果達成のためではない「考えること」、「クオリア」という二つの存在根拠は結局その主体である世界が消滅するという一事以外にその存在理由を語る術を無くしてしまう。
 描いた絵を発表することは画家にとって勇気が要る。そしてその羞恥の克服が画家のキャリアを作る。画家は自らのクオリアを信じている。しかしそのクオリアをどう定着させるか必死に考える。考えることも羞恥の対象だし、考えた末に画布に定着されたクオリア像もまた羞恥の対象だ。クオリア像を提示することも、考えることを提示することもほんの一部の特権者だけが実現出来、殆ど全ての存在者は提示された概念規定に対してそれをただ飲む込み、吐き出してもそれは誰からも眼に止められない。それが生きるということなのだ。つまりそうしていつか死ぬということ、それだけがクオリアと考えることの羞恥の辿る運命である。羞恥と根拠の関係は諦念に行き着くしか道がない。するとここで諦念に纏わる時間というものにぶち当たらざるを得ない。
 そうだ、羞恥と根拠の問いは時間と羞恥の関係へ戻ることになる。

Wednesday, October 21, 2009

第十三章 責任と羞恥

 あの人は存在感があると言う時、私たちはその人に対してある潔さを感じる。潔さとは端的に私的なことを棚に置き内的な羞恥を払拭し、自信を持って臨む行動全般に責任感があることである。
 このことは公衆の面前で何かを述べたり責任ある立場に立ち自分につき従う者に対して責務的に何かを命じたり、委託したりすることにおいて政治家、企業の経営者、テレビやメディアに頻繁に登場する機会の多いアナウンサー、スポーツ選手一般に通用する。
 ある職業や立場に準じた能力とはその仕事に脇目も振らず邁進する姿を示すことだから、必然的に私的なことを処理する巧みさ、羞恥を払拭することが求められる。克服する対象として人間は各自固有の羞恥を持ち、克服すべきだからこそ大切だと既に述べた。
 権力はその種の私的な羞恥を払拭することの意志と勇気、潔さにより強力になる。だから逆に羞恥の本質を見抜くためには、権力と責任の関係を十分見極めなくてはならない。
 私は存在者の存在理由は、内的関係における羞恥の保持にあると考える。あらゆるピアプレッシャーや責務の裏には、私的事情とそれを大切にしつつも公的にはそれを第一の要求から外し他人に求めないことが公的・私的の区別となり、権利と義務の関係を作る。
 私たちは一方で他者に対する理想を職務上では私的欲求を抑制しつつ周囲の他者には私的要求を考慮する余裕を持ち、他方自分の権利として当然幸福追求する姿を垣間見せるという姿に見る。公私どちらか一方しか満たさない場合私的欲求だけに感けている人を私たちは責任能力のない者、あるいは法的に逸脱していれば犯罪者と呼び、公的義務だけをこなしている人に対し私たちは堅物とか、偏った変人とか、酷い場合には狂人だと捉える。しかし公私のバランスは実際周囲に巧く示すことは困難だし、要するに私たちは他者に対する印象をそれが外面に表された態度や所作によって判断するものの、その示し方から私的なこと、内的なことを想像するだけで、内的なことは当人だけが知り、当人さえ当人の全体を知ることは出来ない。当人はその者が外面的にどう見られているかには疎いことも多いからだ。存在者の全ては<明示される人格+内的な気持ち>だ。 
 だから当然羞恥は生理学的に判断がつく統計的な態度や外的に示される発話等でかなり理解出来ても、実際ある態度が示される時当人はどういう気持ちでいるかとは、他人には理解出来ないブラックボックスの部分もある。しかし責任はその者が努力しているかどうかや、あまり真剣に取り組んでいない風だとかの表面的態度からの判断とは別個に何らかの形で業務や成果によって示され観察され得る以上、非ブラックボックスだ。だからこそ責任と羞恥の関係は重要だ。私たちは尊敬する他者が責任を果たしていると内的にも充実しているだろうと、勝手に自分の経験から判断する。しかし本人が好んでその責任を果たしているか否かは全く別だ。
 宮本武蔵は剣客として生涯を費やしたが、本人の剣一筋の技能と精神の追求という意味(剣豪の責任)は、示される態度や決闘の際の勝敗、つまり生死を分けた結果によって示されている。しかしそれが真に本人の望んだ結果だったか否かは、武蔵が生涯幸福だったか当人に問うしかないが、彼はそう問われても返答しなかったろう。  
 そういう意味ではアーティスト、哲学者、文学者等にも共通して問われることとして家庭的幸福や出会う他者たちとの交流等があるが、仮にそれが充実していたとしても、いい仕事をしたという気持ちでいられたか(達成感)は全く別だし(外面的成功と裏腹に)、逆に仕事に充実感を得ていても家庭が不幸で辛いという場合もあるだろう。つまり幸福や人生の充実ということの意味を問う時、私たちはどういう人生が果たして幸福や充実の名に値するのかという判断自体が一律でないし、各自の主観に委ねられているとしか言いようがない。だから脱獄することだけを目的として所内で過ごす囚人たちの生活を不幸だと決めつけも出来ない。脱獄した後で仮に掴んだ幸福よりも脱獄までの緊張の方が幸福だったということさえあり得る。(「アルカトラズからの脱出」を見よ)
 だから羞恥は、その在り方や内容を刻々変化させていくものだとは、前章での欲望の独立性や年齢に応じた身体的精神的条件の変化を考慮に入れると一律に真理化し得ないし、責任となったら尚更である。と言うのも私たちはある成員個人の責任遂行能力を判定する場合、その者の年齢や経験もだが最も能力で判断するからだ。しかも能力を周囲に認可されていても図太い物もあれば小心者もいる。また良心を天秤にかけると同じ責任遂行においても、羞恥を払拭してなすべき責任の方が勿論職務上では大半ではあるものの、時と場合によっては羞恥を表明した方が有効な責任もある。最も顕著な例は陳謝、謝罪する時の態度だ。我々は何かを断る時、それが自らの羞恥にかかわることなら、決然としている(恥ずかしがらない)必要があるし、権利上正当だからそうあるべきだが、本当は断りたくはないのだが、止むに止まれず断る時には羞恥を表明する方が効果的だ。あるいは些細な苦情を言う時などもその典型だ。その苦情も迷惑をかけた者に対して言う場合でも、相手が明らかに悪意である場合は決然としていなければならないが、こちらも多少その者の世話になっている立場の場合、その者への苦情は羞恥を示しながらする方が効果的である。また何か否定する時でも自信過剰に言い張る相手に対しては決然とした言い方よりも躊躇する言い方の方が相手の良心を擽り精神的な威嚇効果がある(逆効果もある)。
 そこら辺の駆け引き自体が既に内的には羞恥領域に組み込まれているし、外的関係でも客観的立場の他者からの裁定を要する場合考慮される。刑法上の判断で情状酌量の余地ありとされるには改悛の情が必要であり、将来の更生可能性を考慮する基準になる。
 責任の重大性に応じて羞恥の払拭が重要になってくるし、内的には決断するために躊躇を吹っ切る勇気が必要なものも多くなる。つまり躊躇し、苦慮し、ある決断に踏み切るのに懊悩が伴うこと自体我々が羞恥的存在者であることの証だ。ハイデッガーはそれを存在の配慮と言ったのだ。
 ある決断が英断だったとされるのは、その決断が苦慮するに値するものだという目測からだ。だからこそ悩まずにあんな決断が出来たとしたら、それは人間的に尊敬に値しないと判断されることは、私的・公的の使い分けとどこか似た判断の構造がある。これはかつてよく言われた日本人は恥の民族だということともちょっと位相の異なる問題だ。恐らく恥と言えば欧米人には欧米人に固有の恥があるに違いないが、そういう文化規範的レヴェルの問題でなく、もっと普遍的かつ日常的なこととしての<羞恥の克服の問題>である。苦慮して決断に踏み切るからこそ、失敗して恥をかくことを怖れずに踏み切ったということで他者は潔いと判断する。そのことに恐らく洋の東西は関係ない。
 しかしそのことに関しては他者からそのように判断されるだろうと目論んで振舞う演技もあるだろうが、なかなかそう巧く人の気持ちを操縦することは出来ない。心底懊悩して出した結論と、そうではない結論とをいかに巧みに振舞っていても見抜くことの方がずっと普通だ。しかし時には稀代の天才詐欺師もいるかも知れないので、そこら辺の用心は時には必要かも知れない。つまり当然過ぎる真理の前で我々はそれが悪辣な詐欺であると知らずに騙されることもある。つまり虚栄とか虚構も手が込んでくるとそのあまりに巧みなあまり美と表裏一体な場合もある。嘘について考察などをする分析哲学がこの参考になる。思想や宗教もこれと似た真理があるだろう。
 私は「私は存在者の存在理由は、内的関係における羞恥の保持にあると考える。」と言った。そのことは他者に対して発話行為をする時のことを考えても納得がいく。他者と何か発話する内容に関しても、発話意義も、意図から鑑みても他の発話との間の意味的差異や情報的価値があるか否かにかかっている。だが問題なのは、そういう発話行為の意義や存在理由があるか否かは一度話してみないことにはわからない。伝達内容が自分から相手に期待したほどよい反応を得るか否か確認出来ない。だから勇気が要るし、相手の機嫌を損ねるかも知れない。だから何を話すにしてもその時に脳はあらゆる思考を巡らせて発話する。しかし知性を巡らした割にその語るべき意味内容が相手に聞く価値がないとされる場合もあれば、逆にそう深く考えていなかったのに思った以上に説得力を持つ場合もある。そのことを考慮するとつい何も語らずに終えたいという気持ちになることもある。それは保守的な判断だ。しかしそれではいけないと思いもする。そして再び積極的に他者に対話しようとする。その際知性ではなく理性で判断している。どんなに努力しても意思疎通が円滑にいかない、相互の利益にならない、こちらが工夫を凝らして発話しても、その意味内容に向こうは一向に溜飲を下げないケースもある。しかしそれでもそれを思い直すことが必要な時もある。それが羞恥の克服だ。羞恥を大事にして他者に何も悟られないよう配慮ばかりしていたのではやはり進歩はない。
 逆にこうも考えられる。私たちは他者に対して羞恥を感じるが、それは他人だからであり、せめて親密な関係の他者に対してはそんな配慮が億劫だという気持ちから、家庭くらいは羞恥をかなぐり捨てていられる場所にしたいと決め込む。だがこれも陥穽だ。例の綾小路きみまろの「あれから四十年」というフレーズで始まるギャグが飛び出すのもここからである。この家庭内での羞恥の欠如こそが家庭内離婚、そして遂には籍を抜くということに繋がる。家族もまた大いなる他者である。
 一般的な経験則はこのようなほろ苦い思い出に根差している。想起とは、ネガティヴなことの中にほんの少しよかったや幸福だったが普通であり、身に沁みて云々の有り難味が理解出来たということは、それまではそれが欠如した状態を知らず過ごしてきただけであり、だからこそ何か竹箆返しを食らった(大概他者からだが)ことを意味し、後悔も全くなく幸福だったというポジティヴな想起など滅多にない。
 責任は失敗体験に根差し、次は滞りなく遂行したいという気持ちが生む決意であり、羞恥と想起が織り成すほろ苦さが次は責任を全うしようと決意させるし、責任は羞恥による想起、想起の中の羞恥が促す。

Tuesday, October 20, 2009

第十二章 羞恥と想起②

 私はずっと羞恥を克服すべきこととして扱ってきた。しかしそれは羞恥を本質的になくすことを旨としていたわけではない。それどころかどんなにそれは捨て去ろうとしても捨て去ることの出来ない代物であり、寧ろもし容易に捨て去れるものなら困るのであり、積極的にその都度克服するために温存しておく必要がある。何故そうかと言えば、それこそが我々の判断、決意を確固たるものにするからだ。これは「論語」にも書かれている。決心がその都度いい加減ならそれは決心と言えない。羞恥がなければ決心する気持ちにもなれないから、決心するためにも羞恥が必要なのだ。
 決心へと至るまでに多くの躊躇や逡巡があれば尚更その結果下した決断は確固なものであるような意味で羞恥を介在させることは、そういうプロセスの一切ない行動よりも熟慮がある。本章では羞恥が判断や決断へ踏み込むプロセスでなされる作用について考えよう。
 心理学・脳科学でプライミング効果とかプライミング記憶と呼ぶものがある。primeは英語で「入れ知恵をする」という意味もあるし、これは、一般に「手続き」という意味で使われている。私たちは予め何らかの概念を提示されておくと、その概念に関係ある別の概念を容易に連想しやすいし容易に思い出せる。それは記憶において私たちがある関連した事柄を一まとめにして学習したり、記憶したりしておくと便利であるということも意味する。
 そのような心理学・脳科学的な見解を詳細に論じたのはスピノザだった。スピノザはその主著「エチカ」において次のように述べている。
 
 定理一八 もし人間がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものを想起するであろう。
 証明 精神がある物体を表象するのは(前の系より)人間身体のいくつかの部分がかつて外部の物体自身から刺激されたのと同様の刺激・同様の影響を人間身体が外部の残した痕跡から受けることに基づくのである。ところが(仮定によれば)身体はかつて、精神が同時に二つの物体を表象するようなそうした状態に置かれていた。ゆえに精神は、今もまた、同時に二つのものを表象するであろう。そしてその一つを表象する場合、ただちに他のものを想起するであろう。Q・E・D・
 
 備考 このことから我々は、記憶の何たるかを明瞭に理解する。すなわちそれは、人間身体の外部に在る物の本性を含む観念のある連結にほかならない。そしてこの連結は精神の中に、人間身体の変状〔刺激状態〕の秩序および連結に相応して生ずる。
 私は第一に、それは単に人間身体の外部に在る物の本性を含む観念の連結であって、それらの物の本性を説明する観念の連結ではないと言う。なぜなら、それは実は人間身体の変状〔刺激状態〕の観念にほかならぬのであり、そしてこの観念は人間身体の本性と外部の物体の本性とを含んでいるからである(この部の定理一六により)。私は第二に、この連結は人間身体の変状〔刺激状態〕の秩序および連結に相応して生ずると言う。そのわけはこれを知性の観念の連結においては精神はその第一原因によって知覚する、そしてこの知性の観念の連結はすべて人間にあって同一なのである。
 さらにこれから我々は、なにゆえ精神が一つの物の思いからただちにそれとは少しも類似性のない他の物の思いへ移るかを明瞭に理解する。例えばローマ人はポームム(くだもの)という言葉の思いからただちにある果実の思いへと移るであろう。この果実はあの発音された音声とは何の類似性もなくまた何の共通点もない。ただ同じ人間の身体がこの両者からしばしば刺激されただけにすぎない。言いかえれば、人間がその果実自体を目にしながら同時に幾度もポームムという言葉を聞いたというにすぎない。このようにして各人は、自分の習慣が事物の表象像を身体の中で秩序づけているのに応じて一つの思いから他の思いへと移るであろう。例えば軍人は、砂の中に残された馬の足跡を見て、ただちに馬の思いから騎士の思いへ、また騎士の思いから戦争その他の思いへと移るであろう。ところが農夫は、馬の思いから鋤や畑その他の思いへと移るであろう。このようにして各人は、自分が事物の表象像をこのあるいはかの仕方で結合し、連結するように習慣づけられているのに応じて一つの思いからこのあるいはかの思いへと移るであろう。((上)畠中尚志訳、122~124ページより 岩波文庫)
 
 私が妻に対して不貞を働いているという嫌疑をかけられている次のようなストーリーを考えてみよう。
 ある日妻は私が同僚の女性と親しげに話しながら歩いているのをみかける。たまたま私と彼女の帰路が途中まで同じだったので談笑しながらの徒歩を妻が買い物に出かけていて私たち二人と遭遇し目撃したのだ。そして別のある日私が社用でたまたま予約し忘れたがためにホテルに泊まれず、ビジネスホテルも満杯で急遽ラブホテルに一人で宿泊して、その時のレシートを捨てずに胸のポケットに入れたままにしておいて、妻はそれを出張後帰宅して脱いだ私の背広のポケットを探りそれを見つけてっきり私が彼女と不貞をしたと信じ込み、私の足の甲に台所にあった包丁で刺したとしよう。
 その時私は咄嗟に血が噴出すその足をタオルで覆って失血させまいとした。そして我に返りひどいことをしたと思った妻も百十九番に電話する。救急車がやってきて私は運ばれ、私は医師に対して、「実は私がいつもは妻がする調理を慣れない手つきでしたばっかりについうっかり包丁を自分の足元に落としてそれが刺さりました。」と言い訳するだろう。しかしその時の刺さり具合がたまたまあまり深くなかったので医師は納得していたが、あるいはもっと深く憎しみを込めて刺されていたなら、医師はきっと私と妻との間に何らかの諍いを連想して、警察に通報していたに違いない。妻を犯罪者にしたくない一念で私は嘘をついた。しかしその嘘は医師の持つ眼の確かさに応じて、つまり彼の連想力と、その連想力を働かせる部分が経験に裏打ちされた法医学的な知識によっても起動するか否かの差が生じてくる。私は妻がその後私にしたことを後悔したので、彼女を取り敢えず許しはしたものの今度は私が妻に対して見る眼を変えて、彼女は案外精神的に脆い部分がある、という風に今まで知っていた妻の性格から判断する人格像を修正する可能性がある。今回は些細なことだったもののそれはあるいは何かの兆候だったかも知れない、本当にひどい状態になった時に備え彼女のためにいい精神科医を紹介する必要性すら感じるようになるかも知れない。
 フッサールが「イデーン」などで言っている本質直観ということは、恐らくこの連想されるイメージとも協同していると私は考える。本質を見抜く力とは、端的に過去における類似した対象や状況からの想起に頼るところが大きい(スピノザの考えるように)からだ。
 また人間は同一性というものを懐疑的に捉えると、第五章で述べた個々の欲望の独立性ということに絡め取られるし、事実そういう見方も正しい。そしてこの個々のその時々の欲望が内的関係で捉えられる時、あの時感じたあの固有の気持ちは今の気持ちに似ていると気づく。内的関係が現在知覚にまで影響を与える。そして内的な想起事実やエピソード記憶内容と現在知覚が連動されると、今度は知覚判断や現在の感情的な受け取り方自体が、人生に対する思想を形成するのに貢献する。つまり私が前のページで引用したスピノザの定理18の主張が正しいと証明される。スピノザはこうも言う。

(前略)知る必要のあることは決して洩らさないために、私は「有」、「物」、「ある物」のようないわゆる超絶的名辞が起こった原因をついでに示すであろう。これらの名辞は、人間身体は限定されたものであるから自らのうちに一定数の表象像(中略)しか同時に判然と形成することができないということからも生ずる。もしこの数が超過されれば表象像は混乱し始めるであろう。そしてもし身体が自らのうちに同時に明瞭に形成しうる表象像のこの数が非常に超過されればすべての表象像は相互にまったく混乱するであろう。こんな次第であるから、この部の定理一七の条ならびに一八からして、人間精神は、その身体の中で同時に形成されうる表象の数だけの物体しか同時に判然と表象しえないということが明らかである。これに反して表象像が身体の中でまったく混乱するような場合には、精神もまたすべての物体を混乱してまったく差別なしに表象するであろう。なおこのことは表象像が常に等しく活撥でないということからも導き出される。しかしそれをここに説明することは必要でない。我々の目指す目的のためにはただ一つの原因を考察するだけで十分である。なぜなら、どの原因を持ってきてみても、それは結局、超絶的名辞はきわめて混乱した観念を表示することに落ち着くからである。
 次に「人間」「馬」「犬」などのような一般的概念と呼ばれる概念が生じたのも同様の原因からである。すなわちそれは人間身体の中で同時に形成される表象像、例えば「人間」の表象像の数が表象力を徹底的に超過しないがある程度には超過する場合、つまり精神がその個々の人間の些細な相違(例えばおのおのの人間の色、大いさなど)ならびにそれらの人間の定数をもはや表象することができずにただそれらの人間全体の一致点_のみを判然と表象しうる(なぜならその点において身体は最も多くそれら個々の人間から刺激されたのだから)ような場合である。そしてこの場合、精神はこの一致点を人間なる名前で表現し、これを無数に多くの個人に賦与するのである。今も言ったように精神はそれらの個々の人間の定数を表象しえないのであるから。しかし注意しなければならならぬのは、これら概念はすべての人から同じ仕方で形成されはしないこと、身体がよりしばしば刺激されたもの、したがってまた精神がよりしばしば表象しまたは想起するものに応じてそれは各人において異なっていることである。例えばよりしばしば人間の姿を驚歎して観想した者は人間という名前を直立した姿の動物と解するであろう。これに反して人間を別なふうに観想するのに慣れた者は人間に関して他の共通の表象像を形成するであろう。だから自然の事物を事物の単なる表象像によって説明しようとした哲学者たちの間にあれほど多くの論争が起こったのも不思議はないのである。(「エチカ」上、畠中尚志訳、岩波文庫、140~142ページより)

 すると職業的風体に繋がるタイプの認識が想起される。
 人間にはある社会的経験や人生体験によって形成される人生に対する思想の違いから、平素の「世界」への見方、ものの見方自体に異なった判断をする部分があると思うが、それは外にも現われる。
 私は先日東京から帰宅する時電車に乗っていた。私は郊外に住むが自宅の最寄り駅近くに差し掛かった電車内は比較的空いていたので傍の空席に腰掛ていると、隣に座る中年男性二人の会話内容が容易に聞き取れ彼らが会社員であるらしいと了解出来た。つまり日本ではビジネス外的な公的な状況(例えば電車に乗り合わせるとか)で、乗客の身なりとか、二人以上で会話している場合その会話内容から概ね働いている者とそうではない者、その二つから大きな分類に漏れるタイプの成員は極めて珍しいと思う。つまりそれだけ何らかのタイプに分類されてしまうくらい無個性である。タイプ分類を試みると、小中高生等の生徒や学生、大学生、会社員、地方公務員、国家公務員、その中でも官僚という風に分類出来る。それ以外は国公立の教育機関及び私立の小中高校・大学の教育者を合わせると、殆ど八十パーセント以上を占め、それ以外の小売店主、中小零細企業経営者、自由業者等は恐らく十パーセントにも満たないだろう。そして彼らそれぞれが個以上に集団帰属性に準じた行動パターンと、人生観を対外的に示し、日常的所作と会話内容をする。派遣社員さえ正社員に同化しようとして正社員的な会話をすると思う。
 しかしこの見方はある意味で極めてステレオタイプ化された見解とも言える。つまりそれは外面では自己欺瞞的にそのように振舞っている日本人の公衆道徳を物語っているに過ぎない。真に重要なのは、そう振舞う内的関係を形成する対自レヴェルでの真意である。
 内的関係とは文化論的な社会学的様相や行動パターンとは本質的に異なる。内的欲望自体はヘーゲルが法を考える時に礎としたものだ。(次章で詳しく論じる。)そしてこれが知覚と連動してある固有の想起内容を決定する。例えばスピノザ的な意味で連想を働かせると、特定の他者への警戒心とは過去における特定の自分にネガティヴな印象を刻印させた他者のエピソードに起因する。それはその他者に纏わる体験があまり芳しいものではないためにその者が眼前にいる場合必ず固有の「構え」を作ることへ直結する。それが最も通常に見られる拒否反応とすると、それは明らかに原羞恥に触れる。つまり自己の内的な「構え」の全てを形成するものとして私が考える原音楽を根底から支える内的な感情的記憶や、それによって形成されるある対象に出会った時に示す我々の個に固有の反応類型だ。赤い色への好き嫌いは、その赤い色をしたものを巡る経験事実の集積から形成された人生に対する思想にも繋がる固有の連想作用だ。
 それは当然ネガティヴな他者像に対してだけでなく、好きなタイプの他者像にも直結する。つまり好きなタイプの成員に対して我々は協調しようと自然と脳が働く。逆に拒否反応を起こす場合にはその心理は後退する。好感が持てれば率先し協調しようと思い、自然と行動は他者に「合わせる」原音楽へ発展するが、そうでないとそんな気持ちは萎える。「合わせる」行動はぎこちなくなる。
 つまり拒否反応、拒絶反応の場合の方がより、私たちは自己内の羞恥の本質、つまり原羞恥に接近している。だから嫌いな人に対してその態度を見せまいとする場合、防衛本能的原音楽で繕う。勿論好きなタイプの考え方、行動、所作、物腰の他者に対して共感する場合でも原羞恥が判断しているから防衛本能を解除するので、我々は絵を描く時の武蔵の心境のように好きな他者に対して接する。
 今述べたことは、人生に対する思想を形成する個々に異なった体験に根差した判断の問題である。しかし第五章で考えた個々の欲望の独立性という時間論的な意味での判断は、好き嫌いの問題とか、心に防衛本能を構えたり解除したりすることとも少し違う。そのことについてはフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の次の記述から考えることが役に立つ。この記述は第五章の欲望の独立性と同一性の問いを蘇らす。

(前略)客観性のあらゆる範疇、すなわち、科学的生活において心の客観的な世界を考えるさいの科学的範疇や、日常生活において同じことを考えるさいの前学問的範疇は、すべて虚構である。まず、数、量、連続性、幾何学的形象などの数学的観念がそうである。われわれの立場からすれば、これらは直観的な所与の方法的に必然的な理念化というべきものなのであるが、ヒュームの考えでは、それらの概念は虚構であり、さらに進んで、必当然的と考えられている数学全体が虚構だというのである。これらの虚構の根源は、心理学的に(すなわち、内在感覚論の地盤の上で)きわめてうまく説明できる。すなわち観念相互間の連合と関係に内在する法則性からうまく説明できるのである。さらにまた前学問的な、端的に直観的な世界の範疇、たとえば物体間の範疇(直接に経験する直観のうちに存在すると思われている、永続的な物体の同一性)、さらに進んで直接に経験されると思われている人格の同一性も、同様に虚構以外のものではない。たとえばわれわれは、あそこにある「あの」樹木というようなことをいい、そのいろいろに変わる現われ方をそれから区別している。しかし内在的、心的なものとしては、この「現われ方」以外には何ものも存在しない。あるのは感覚所与の複合であり、そのつどちがった所与の複合なのである。もちろんそれらは相互に、連合によって規則的に「結びつけ」られているのであり、同一のものが経験されているかのような錯覚も、これによって説明される、というのである。同じことは人格についてもいえる。同一の「私」は決して所与ではなく、たえず変移する所与の束である。同一性とは、心理学的虚構にすぎない。必然的な継起である因果性も、またこの種の虚構に属する。内在的経験の示すのは、ただ(中略、原語)〔それのあとに〕ということだけなのであって、それを(中略、原語)〔それによって〕、すなわち継起の必然性とするのは、虚構的なすりかえである。こうしてヒュームの著作『人生論』においては、世界一般、すなわち自己同一的物体の総体である自然も、自己同一的人格の世界も、さらにはそれらをその客観的真理として認識する客観的科学も、虚構に変じてしまう。その当然の結果として、われわれは、理性も認識も、真の価値の認識や、倫理的なものをも含めたすべての純粋理想の認識も、すべて虚構であるといわねばならなくなる。(細谷恒夫・木田元訳、中央公論社刊、122~12
3ページより)

 要するフッサールよればヒュームはその都度の異なった所与の複合として人間の像を考えていたのである。同一性とはフッサールによるこの謂いを借りれば心理的虚構なのだ。この心理的虚構が実は一番曲者だ。想起すらも実はこの心理的虚構が構築している場合もあるからだ。つまりあるエピソードを想起する場合、必ずしも我々は完全に「今の自分」とか「本来あるべき自分」から自由なわけではない。ある決断や決心は、その時々の気分や衝動に左右される場合も多いが、その気分や衝動を支えているものは、実は言語的認識自体の癖(あるいは判断の傾向)でもある。だが同時に判断の癖の方も次第に形成された人生に対する思想に左右される。つまりどんな一大決心であっても、百八十度の人生の転換であってもそこには必ず伏線がある。つまり体験的事実と、そのことに対するその都度の感情的な判断やその体験記憶の蓄積の仕方に応じて個々に固有の沈殿の仕方、判断の癖が我々に身体的にも精神的にも自然と形成されていて、直接的な言語認識的局面でも、クオリアを感受する仕方にさえ固有の傾向の癖として定着している。
 それこそが「今の自分」と「本来あるべき自分」を作る。この二つは常に連動している。つまり「今の自分」は「本来あるべき自分」に「沿っている」か「反している」という判断が成り立つ。
 しかしこの二つは他者への行動を決する時長期的展望においてザッハリッヒに物事を考え、人生に臨むか、それともそういう互恵的利他主義的正義や良識以上にその時の自分にとっての感情論的功利(気分や衝動に従う)を優先して臨むかという判断にも浮上する。それらは記憶内容の形成仕方や想起内容の傾向性とも関係がある。
 精神状態の在り方毎に全く異なった想起内容の傾向というものがあるだろうし、度忘れ、逆にある時何らかの拍子に思い出すことさえなかったことをすっかり思い出すことがある。ここら辺のことは池谷裕二氏やダニエル・シャクター氏の考えを参考にするといいかも知れないし、躁鬱(ポスト・フェストゥム)や、統合失調(アンテ・フェストゥム)、あるいは癲癇タイプ(イントラ・フェストゥム)に顕著なそれぞれ固有の時間認識の分析で知られる木村敏氏の考えを更に参考にしてもいいかも知れない。
 しかしこれは精神分析的にも脳科学的にもかなり困難な問題だが、哲学的にもそうだ。だがこの問題は次の問題へと収斂する気もする。それは想起する自分とは一体何によって構成されるのかということだ。つまりあることを想起する時、想起することで「今の自分」を何らかの形で認識している筈である。しかしこの「今の自分」と、何らかの意味で自分が考える「本来あるべき自分」は「ずれ」ている。つまりこの対自的な意味で恒常的な「ずれ」に対する無意識の判断自体がその都度の想起を促していると考えられないだろうか?
 人間はあるネガティヴなことばかり(人間は誰しも苦い体験、あるいはある状況に立たされた時に焦った経験などを持ち合わせている)想起することが多い悲観的な精神状態に固有の「今の自分」に対する認識を持っている。しかし同時にその「今の自分」とは常に「本来あるべき自分」の像を参考にして形成されてもいる。そして「本来あるべき自分」という「今の自分」にとって固有の像もまた、常に変化し続けており、その像の変化を支えているのは、その都度に固有の独立した欲望である。そしてその都度に固有の独立した欲望は、やはり「今の自分」という認識に支えられており、その「今の自分」は徐々に変化し続けてきているのに、「本来あるべき自分」という像に対して我々が持っている<同一性に対する幻想>によって辛うじて支えられ命脈を保っている。
 そしてここからが重要だが、この「本来あるべき自分」も「今の自分」も共に何らかの形で身体論的な要請から出ているということだ。つまり思考や言語的認識もまた、この身体的な同一性と不可分である(ある程度老いを経験してみないと理解出来ない心理もあるし、逆に若い世代の人間に固有の身体的な悩みもある)。このことに関しては分析哲学系の考えよりも現象学系の考えの方が参考になる。そして思考も、思考を言語化する作用と同時的な言語を思考化する作用(このことはメルロ・ポンティーが「言語の現象学」で詳述している。特に<アルゴリズムと言語の秘儀>)も身体的な条件とか、その時々の身体的同一性に支えられている。しかしこの身体的条件や身体的な同一性の方もまた、逆に言語的思考や思考的言語、あるいはそれらその都度の傾向性、考え方の癖に支えられている。その癖もまた、ある年代に固有の思考判断的な同一性(自分を規定するのに都合よい幻想である信条や人生に対する思想で作る)に支えられている。この点に関しては分析哲学系の考えが参考になる。

Sunday, October 18, 2009

第十一章 時間と羞恥①

 しかし勿論実質的には私は私に固有の過去を他者と共有することは出来ない。それは映画を観ている観客たちが、その映画を作ったスタッフやキャストたちと同様にその映画を撮った現場に居合わせられないという意味ではなく、過去のある時点で一定時間ある空間で私と同席していた親友と私の間にさえ大きな溝がある。何故なら私の親友にとっては私が私にとっては親友が他者だからだ。
 私が私に固有の過去を誰かと共有したいと望む時私は実現し得ない幻想を求めている。そうなのだ。私が誰かに私に固有の体験を話して聞かせても文字化しても、言語化すること自体既に過去の共有化という実質的には実現不可能な幻想を生きることなのだ。だから私が私に固有の過去について誰かに話す時当然私には羞恥が到来する。絶えず私が他者に私にとって固有の感じるものを告白する時に羞恥がつき纏う。逆にこの羞恥を払拭し得るのは意味と時間だけだ。
 私は私の過去を客観的に捉え得る。しかし人生に対する思想をそうする中で見出していっても、過去とは現在に近ければ近いほど切実なことも間違いない。例えばもう五十になる私だが、19歳の頃の私に固有の悩みは、今現在の悩みと性質が違うし、同じ内容でも感じ方は違う。つまり過去にあったことでそれを思い出すだけで顔から火が出るような思いさえ、時間が長く経過するとじきに客観的に捉えられるようになる。少なくとも私にとってはそうだ。それはある意味であまりにも取り返しのつかないような失態は一度もなかったと振り返ってみてそう言えるからだ。勿論過ごした時間は戻せない。そして人類の未来はある程度まだかなり長くあっても、私にとっての未来はごく限られている。あるいはもっと長いスパンで見て人類の未来さえ限りもあるし、宇宙全体の未来は未だかなり先まである。未来のいつか人類以外の知的存在者が存在して私たち人類の存在があったと彼らに知られることが可能だろうか?
 私は著名人でも芸能人でもないので、私自身が実像として写ったフィルムやヴィデオを見ることが出来ない。しかしそれが可能な人たちにとって特に動く映像の場合、二十年前の自分を確認することは、それだけで羞恥の対象となるだろう。
 私が緑のものを見た時刻(私は最初に何か緑色のものを見た筈であり、それからその色を緑と呼ぶことを知った、あるいは緑という言葉を私は聴いて知って、それからある緑色のものを見てそれを「緑」と 対応する=言う と知った)→私がそれを緑であると呼んだ時刻について定かな記憶などない。しかし恐らく私は両親が緑と発話することと、私がその当時見ていた緑の対象物とをどこかでリンクさせて緑と呼んだのだ。ある色を緑だとすることは、それを誰かが緑と呼ぶのを聴いたことがあるからだ。それを模倣することは客観的日常を私たちが制度的に受容していくことである。
 制度に対する受容の本質は模倣である。だが模倣はそれを最初に行う時にはそれなりに羞恥が伴うだろう。コロッケがテレビで物真似することを職業としていることの背後にはそれら一切の羞恥を克服する過程自体が芸人としての力量を磨くことと同じ筈だ。綾小路きみまろが老いをテーマとして話芸を披露する裏には、老い自体が羞恥の対象であることを熟知しているように思う。しかしそれを誰かの羞恥ではなく、誰しもが抱く羞恥という形で一般化し得ているから笑いを誘う。コロッケの芸は特定の著名芸能人の物真似だが、それはやはり皆が知る類型としての有名人の姿であり、その意味ではやはり一般化されている。
 時間は固有の羞恥を一般化し、たじろがざるを得ないことややりきれなさを対象化する作用がある。特定の人物の仕草を、同じような仕草をする「人たち」とすることによって、あるいはその固有の仕草自体を把握する一般の人にあれだと理解させることで、その仕草の模倣は模倣された者にとっても、芸を見るファンたちにとっても、芸人にとっても固有の羞恥から羞恥一般へ開放される。
 この羞恥の一般的開放の心的なメカニズムは明らかに私に固有の感じるものの把握、つまり私に固有の過去のエピソードを他者に対して開放し、共有化することと同じである。模倣はそれ自体に対してはにかみを持っている内は羞恥の対象となる。永井均氏は「<魂>に対する態度」の中で学会終了間際に自分の発表をし終える時に「なーんちゃって」と言うことを控えることが制度的なある種の強制力に随順し、社会に同化することだと考えている。だからお笑い芸人たちが誰か特定の芸能人の物真似をする時羞恥の表情を一点でも見せたら、笑いをとれないだろう。自分で噴き出しても駄目だ。と言うのも私たちは自分の解釈や理解を他者に示すことが私的なことではなく、公的な責任を伴う行為であると信じているからである。
 だから羞恥とは一瞬行為に踏み切る前での勇気のなさと他者に対して精神的にレスキューを求める甘えであり、依存心理であると了解出来る。責任の明示は余計な羞恥、責任遂行への信頼に水を刺す雰囲気を他者に示す羞恥を排除することで遂行し得る。羞恥が愛嬌として許される例は限られている。責任遂行を他者に示す有効な方法は他者に対し依存する態度を微塵も見せないことでそれが権威的威嚇になる。そういう態度を我々は「毅然とした」と言う。羞恥と時間の解消関係を一瞬で断ち切れるのは責任だけだと言える。
 羞恥が時間と共に解消されることは羞恥に内在する無責任の責任への移行過程である。勿論生をもって償うくらいの罪に纏わる羞恥は別だ。罪が現実に社会で自己‐他者間で生じ得る法逸脱ではない責任転嫁・回避の際に生じる羞恥は時間と共に潰え去る。
 説明責任は説明さえすれば、後は何とかなるという役割建前主義的自己欺瞞がある。それは真実を語ること以上に真実を語っているよう振舞うことが求められる。だからこそ会議が終わる直前参加者の面前で「なーんちゃって」と言うことは憚られる。つまり本当のことを言ってもそれが嘘っぽく響くなら言わない方がいい。説明責任とは、責任を果たしている風の解釈を説明されている側が安心して得られるか否かで正否が決まる。それはお笑い芸人が観客を笑わす時に、自分の所作やギャグや落ちに笑わないことと相通じる。
 宮本武蔵くらいの剣豪となったら、周囲にもその一匹狼振りに対して批判的な輩もいただろうが、賛同者とか協力者もいた。そんな協力者の良心に対して武蔵は恐らく素直に受けて、はにかむことなどなかったろう。はにかむことは、プロデビューするかどうかの瀬戸際の若い天才ゴルフプレイヤーにのみ許されるのであり、天才剣士という孤高の生き方にはそぐわない。つまり権力から手を差し伸ばされても、待ってましたとばかり羞恥を隠し切れずに喜ぶのではない堂々とした毅然とした笑顔で、レスキューを得ることが当然の権利であるように相手の良心を受け取るのがそもそも権力に阿ることなく孤高に努力してきた人間に身についた所作だった筈である。武蔵などはそのような態度にならなかった筈がないと私は思う。
 ここに羞恥と時間の解消関係と対極にある羞恥の克服に伴う自信がある。過去の何らかの失態に対して羞恥を感じ続けている内は、時間の経過が十分ではない。しかし一定の期間が過ぎれば小さな誤ちは羞恥から果たすべき責任外のものへと追い遣られる。しかし羞恥を常に克服して他者に対して過ちを示すことなく生きていることは、それだけで甘えを払拭している。羞恥を他者に示すことが愛嬌の度合いを過ぎれば、それは示される側から責任放棄と映る。つまり他者に対する羞恥の明示の態度は私たちにその者に対する私たちからの利用価値という悪意を生む。端的にその者の臆する態度が責任の不在を示してしまい、その者へ私たちが問う罪を作る。だからこそ堂々としていることは特に権力者には求められ、毅然としていることが責任遂行の明示となり、端的にそれが自信を作る。
 それは時間がたつにつれ忘れる羞恥を問題にすることなく他者と接する時、その者との間で一期一会的に人生を作品化することからのみ得られる自信だ。それは人生全体に対する思想における大きな羞恥(自信が持てないということに対する)を克服した時得られる自信だ。忘れた方がいい小さな羞恥に拘るのは時間の無駄だが、人間は案外これに拘る。しかし自信があり過ぎると些細な良心の発動に逆に羞恥を伴うが、その根幹にある傲慢もまた克服すべき対象だ。それは良心の発動が意外と格好悪いことに起因する。だからその羞恥の払拭が理性的な判断となる(良心の発動の毅然)。私たちは知性的に格好がよい典型をテロリストの颯爽とした姿に見る。全てのアーミールックは正直格好いい。それに比べ良心の発動や理性的行為の実現(思い遣り)はその場では敗けを認めることも多いので、格好悪いことも多い。私たちは格好悪さに対する羞恥の克服と、一々他者に示すべきでない羞恥の克服をし、長い時間的スパンで責任を全うするためにどの瞬間も堂々とする(責任を果たしているよう振舞う)ことで、信頼を獲得すべきなのだ。

Friday, October 16, 2009

第九章 存在と意味

 通常私たちは何らかの意味で安定した経済とか、安定した家庭生活という前提で生を考えている。勿論その際にも恵まれた環境かどうかという差はあるだろうが、少なくとも生を受けた段階で既に私たちを誕生させる何らかの礎があったことには変わりない。だから生を受けてから私たちが自分の脳で自由とか責任を考える前には、ただ只管制度(客観的日常)を受容する期間があり、それはある部分では一生続くが、その中に主観性を獲得し、主観的日常を取り込むことを誰でも少なかれ心の中で実行する。そしてその心の有り様が他の一切の行動にも反映する。しかしその自由や責任といった純化された概念は、実は極めて限定的で不自由な、責任の名にも値しないような現実によって逆照射されている。
 勿論生まれた時に国民全体からその将来を嘱望されるような出生を経験する者も大勢の中にはいる。しかしそれはあくまで例外であり、殆どの成員は自らの社会的使命を自らで見つける。
 つまり制度以前に親和的な触れ合いのような前制度受容段階(赤ん坊はそうである)を経験し、然る後制度を徐々に身につけ、その一つの大きな柱である言語を習得する。そしてその言語的思考の中から自由、責任、独立、自立、主体性とかの抽象的な概念に目覚める。私たちはまず私たちの意志によって生まれてきたのではなく、ある限定された所与条件=環境の只中に、ある日突然自らの意志とは無縁に突如放り出されているとも言えるわけだ。そしてその状態はまさに自由とか責任とは程遠い状態からの出発である。つまり私たちは存在を論じる。意味を論じる。しかしそれらは全て制度をあり難いものであるかどうかという判断さえつかない内に半ば強制的に、しかしそのことに対する善悪などという観念とは無縁にただ只管受容し、その受容した客観的日常の範疇において、その受容されたシステムの内部でそれを問うだけのことである。
 つまり存在することの根幹に存在する私、存在する自己と他者ということは、実は、存在することの意味も、意味の存在も一切問う能力はなく感覚的に全てを理解するような状態をまず通過して然る後初めて理解した言語、言語的習慣、文化、教育を獲得し受けることによって知ることとなる。それは幾多の知識が集積され初めて物事が体系的に理解出来るに従って問えることである。
 存在と意味は、その意味では存在者であるという自覚を、存在者ではない段階から徐々に制度を受容し、それを正しいとか正しくないという判断など出来ない状態から、それを出来る状態、と言うことはある程度そういう抽象的問いをすることが許される資格を経た後に、そのように問うことはあなたにはまだ早いと言われないくらいには社会に順応して生活していける状態を獲得した後に問える問いであり、問うことの意味を問うことも出来、問うこと自体が周囲から否定されることがない状態を獲得する。このことは永井均氏も常々主張されていることだが、その問題を本章では考えてみよう。
 私たちが何かを問う時にまず気がつくことは、端的にそのように何かを問うこと自体が既に私たちに与えられた能力の行使以外の何物でもないということだ。しかし既に述べたが、私たちはその能力の行使を何か自分の外部にあるロボットを遠隔操作するかの如く操作しているわけではない。これはダニエル・デネットが「解明される意識」で問題化したカルテジアン劇場という考えで主張している。つまり反省意識は、反省する以前にまず何か常に行動していてそれを普段は不思議とも何とも思わない原音楽行為の定常化という現実を基礎として然る後高次の意識の獲得によって得られるからだ。しかし一旦そういう高次の意識を身につけたら、かつてそんなことを知らずに行動していたことを逆に不思議に思えてくる。
 私たちは何かを思ったら、そう思っている自分というものの存在を自覚出来る。これが一つのカルテジアン劇場で上演される劇というわけだ。ロボットではそうはいかない。ロボットは命令された通りに動き、その動いている自分というものを恐らく意識しない(取り敢えずそう結論しておく。これさえ我々は確証出来ない)。
 つまり現存在の存在は、存在することで、存在しつつ、何か常に考え、何か常に行動をしている、それは睡眠をとっている時でさえ考えることの全てを止めるわけではない私たちの脳(尤も考えるという語義をどう捉えるかによって違ってくるが、少なくとも脳自体は睡眠時にも覚醒時とは性質が異なっていても、活動は一時も休まない)は、存在することを証明するかの如く、常に変化を作り続ける。
 存在という概念は、そのように絶えず変化し続けることと、常に動いていることを意味する。それはそのようにしながら時間自体の有効性を証明している。意味はその存在することの意味を考えるというところから発生しているように私には思える。
 例えばその会議に出席する意味とか、その会議をその時期にする意味は、会議自体の存在理由によって与えられるし、またその会議を行う存在者を待って初めて存在理由を与えられる。つまり意味とは存在理由を問う対象が存在すること、その対象を覚知しそれについて問うことの出来る存在者の存在、つまり両者の関係を前提する。
 例えば絵画には作者が必ずいる。そしてその作者によって描かれた絵を鑑賞する人も必ず必要である。たった一人でもその絵を鑑賞する存在者がいて初めてその絵画作品の存在理由が発生する。つまりその絵の意味が問われ得る素地がその段階で初めて発生するのだ。つまり存在とは意味を問われる運命にあるし、意味は存在するものに対してしか付与され得ない。そして存在するものがただの物質であれ、存在者であれ、その存在する者に意味を付与し、意味ある存在にしようとする、ある固定化された意味という価値判断によって何かを存在せしめようとする(例えば会議を開くとか、ある性格の捻じ曲がった男を矯正しようとか)ことも、存在する対象を認識する存在者が全ての前提である。要するに存在は既にそのように存在を問う時点で意味を発生していて、意味は存在するものがあると判断出来る存在者の存在を前提する。
 私はその存在者の存在の内部に羞恥の存在を考え、その羞恥とは他者存在が作ると考える。他者存在を知らない内は、その者は羞恥を持たない。他者存在はまず通常では両親である。普通母親の方が先だろうが、この段階で私たちに既に羞恥が備わっていたとしても、意志伝達という形で発動されることは未だない。尤も表情とか態度は既にあるが言葉は未だ知らない。最初の他人とはアパートで隣の部屋に住む人であり、母親と会話する誰かであり、自分に兄弟や姉妹がいれば彼らであり、彼らの親しい近所の友達だろう。彼らと接触する中で初めて他者に接する時に見せる羞恥を、母親に対しても見せることとなる。
 私たちは社会制度を受容する中で、それらの人間関係を何らかの秩序の下に理解し始める。存在理由を例えば母親にとっての自分とか、父親にとっての母親とか、自分にとっての父親というように、他者という存在者の存在理由を何かにとっての何かという相関によって理解しようとする。私にとっての弟の存在理由、彼にとっての私の存在理由という風に。つまり私たちにとって存在するものは、存在者というレヴェルの人間学的な様相から把握出来ない存在など一切ないのであり、意味とは存在者にとっての意味であるということでは、ハイデッガーの主張は正しい。
 この地球上に私を含む全ての存在者がいなくなったとしたら、恐らく存在と意味について問われることは一切なくなるだろうし、それを問う意味もなくなるだろう。(地球外高等生命がいたとしたらどうなるだろう?)それは存在と意味とは既に私たち存在者=人間を前提すると考えるからだ。
 しかし存在と意味の前提である私たちの存在は私たちが意味として与えているけれど、私たち自身が作ったわけではない。 
 
 纏めておこう。私たちが存在という意識を全ての観察し得る対象に対して抱くことが出来るのは、まず私たちが存在しているからだ。しかし私たちが存在していることを私たちが知るのは、一定の無意識的に行われてきた手続きを経て後である。つまり存在することは存在するものを通してでなければ理解することが出来ない故、存在している自分がまずあって、しかしそのように存在しているとか存在していないなどという思惟を持たない幼児期の我々は、既にそれを知っている前の世代の人々が作った社会とその制度を受容していく過程で、そのことを知る。そして存在を、存在する者、存在するとはどういうことかという問いを問うことは、それ自体一つの能力の行使であり、考えることだが、その能力自体は私たちが作ったのではない。私たちの祖先でもない。既に人間という存在者を作ったのは、確かに契機を作ったのは個々の存在者各自だが、考える能力は彼らが作ったのではない。既に子孫を残そうとしていた彼らは、その能力を行使しただけである。私たちもそうである。つまり存在と意味を問うことは、そのように問うことを可能にする能力の行使であり、能力自体を作っているのではないことに対する覚知こそが自然科学に対する学究的な欲望を産出している。
 私たちは与えられた能力を、自然からか神からかはともかく与えられた能力であると認識し得る。それが人間固有の言葉による理解だ。しかしそのような能力も私たちは自分で作ったとは思っていない。だからこそ、その私たちに与えられたものをザッハリッヒに対象化して問う時自然科学が誕生する。しかしそのように私たちが考えること自体を問うことは、私たちの存在を私とか私たちという意識を離して考えても所詮私たちの脳がすることでしかなく、私の考えた言葉を使えば、主観的日常的な考えに過ぎないということを最初に明示したのが、フッサールであり、彼の「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」だ。つまり彼はこの世界に純粋に客観的な捉え方など存在しないと言いたかったのだ。
 宮本武蔵は哲学的な文章を書くが、哲学者ではない。剣豪である。よって彼の書く所作一式は全て実践的に彼が体得した科学以外の何物でもない。しかしそれは通常の理論的な科学(例えば理論物理学)とは違って、彼自身の人生と生活上で体得した固有の経験に根差したものである。従ってそれはフッサールが批判しているものとは違う。
 フッサールが批判したのは、あくまでそれを唯一のもの、つまり信用することが出来る唯一のものだとしてきた科学的慣例である。しかし人間が科学を信用出来るとしてきた以前には神という認識があった。神は全ての実在を実在たらしめる根拠だった。それを今でも信じる人は大勢いる。宗教はその神に対する尊崇によってその信仰共感者同士の結束を第一義としている。
 デカルトはコギト・エルゴ・スムと言うことによって彼自身は神を信じていただろうが、その問いによって我々自身を神による実在という観念から、私たちの思惟による実在というレヴェルにまで問題設定を移行させた意味では、明らかに近代以降全ての無神論の発端と言ってもいい。フッサールは自身数学者出身である固有の直観から恐らく、神を否定することに無意識の内に躍起となってきた科学者を中心とするエリート近代人たちがガリレイとデカルトの科学規範を至上のものとしてきたことへの批判、つまり神に代わる価値の設定自体を再び外在的(科学外的に)に、つまり私や私たちという意識、自我から離脱させて考えた。フッサールの考えによってその試み自体も私たちに与えられた能力が私たちに行使させていると言うことが出来る。私たちは何事かを解釈しようとする。そうすることによって何らかの真理を一時でも会得し得ることを信じてそうする。恐らく存在とか意味という概念を我々が採用するのも、やはり我々の存在や存在理由を信じたいからだ。つまり与えられた能力を行使すること自体が既に私たちは私たちの存在を認可し、信じていることを意味する。でなければ我々は存在の意味を問う筈がない。
 他者に対して畏怖するのも、その他者存在を発端に羞恥を介在させるのも、全て他者存在を信じているからに他ならない。その他者存在を信じている私を私たちは厭でも信じざるを得ない。でなければ私たちは他者に対して畏怖や羞恥を感じる必要もなければ、それらを克服する必要もないし、そういう気持ちにもならないだろう。
 他者がいなければ私が私であるという意識にはなれない。他者が私意識を覚醒させ、私意識は他者が作る。そして他者が私に羞恥を喚起し、羞恥の存在を覚醒させる。そしてこの時信じること自体、既に自‐他という相関に組み込まれていることを私たちは知る。

 私たちは存在や存在するものを自らのものとして捉える時、自分以外の者にとってもそれが存在することから、自分にとって大切なものとか、自ら所有するものをそうではないものと区別することが出来る。つまり存在レヴェルの認識にはそこに自分以外の存在者、他者が介在している。意味が存在していることの意味を私が問うこととはその問い自体に「他者もまた私のように意味を問うだろう」という意味を持つことだ。そしてそう解釈することで、感じることの私にとっての固有性を、どこかで「他者もまた」という視点の下で理解しようとする。その時私たちは感じるもの自体も把握している。幼児は感じるものを感じているだけだが。
 つまり把握する(前章を参照されたし)ことは、自らの中に他者を作ることなのだ。自らの中の他者性に目覚めることなのだ。この場合他者がもう一人の私なのではない。私そのものがもう一人の他者なのである。つまり私意識は他者存在に対する客観的視点が日常化した客観的日常から産出される。私とは他者一般に含有された自分のことである。勿論そのために私たちは必死に社会に同化しようと試み、何とか制度を受容する。
 これを段階論的に敢えて位置づけてみると、
 
他者存在に対する覚醒(存在認識)→私意識の覚醒(自分の存在理由<意味>の認識)→他者一般の中での私の発見(存在認識と存在理由<意味>の認識の複合化、つまり責任の誕生)→他者がもう一人の私であることの発見(存在認識と存在理由<意味>の認識の複合化された視点の獲得、つまり思い遣りの誕生)→他者と私との関係の構築(存在認識と存在理由<意味>の認識の複合化された視点による行動・実践)

 勿論これらは必ずこの順序でなされるというわけではない。しかしある意味ではその理解通過でのその都度の重要度という意味ではこのような手順というものを考慮しても差し支えないと私は思う。