Monday, November 30, 2009

〔意味の呪縛〕八、信じることと理解すること

 私たちは少なくとも哲学的存在者であると自覚したならば、人生とは、生とは意味化そのものであると知るだろう。意味化の基礎は意味され得ないもの全てに対する無化である。
 私は前章において他者の言語化と、自己の言語化ということの交互に執り行われる相補性について触れた。これは実は一番重要なことの内の一つである。つまり生を、人生を理解しようとする時、明らかに我々は生そのものを言語化しているという自分に気づく。そしてその言語化という認識そのものが既に第一章で述べた幻想の一部であることに気づく。だから今度は更にメタ認知して言語化ということの幻想性そのものを意味づけしようと試みるのだ。例えば通常我々が無意識に執り行っている私たちが他者に述べた言葉、言説に対して「もっとこういう風に言っておけばよかった」という後悔とかを含む、あるいはただ漠然と自分の言った言葉を心の内部で繰り返し想起している時我々は言語化と言うよりは、言語そのものの幻想性を意味づけしようとしている。
 これは端的に自己を認識的には他者化していることを意味する。だから第三章で私が述べた想像という心的活動において我々は他者の立場になっている場合を想像することを、他者の自己化と言ってもいいだろう。つまり他者を自己化したり、自己を他者化したりするということの内には、実は言語の意味化が潜んでいるということはこのことからも明白だろう。つまり言語行為そのものの存在理由、生において我々がそれを認識する際の価値へと至る道筋は、他者存在、自己にとってのそれであり、且つ自己そのものがそれによって育まれるところの他者存在理由そのものに存しているということを知るからである。言語行為に対する反省や分析から言語そのものを、つまり言語化という作用そのものを捉える時、我々は言語の存在理由を見いだしながら、実は自‐他の関係そのものを意味化しているということが言える。
 言語学者でこのことに対して自覚的だったのは、ソシュールではなくイェスペルセンであったと言ってよいだろう。しかしそのことはいずれ別の機会に詳述することとしよう。この章ではとりわけ信じるということが、実はその対象が他者である場合、他者存在を言語の呪縛から解き放つことであるということについて考えてみたい。つまり愛情とか友情とか言う場合、我々はどこかで言語そのものの枠を超えたと解釈しはしないだろうか?それは印象的な文章や感動的な文章や文面に対して充実した言語という位置づけを与えるのに対して、愛情や友情はそれらをも超える価値のものと規定したいからである。しかしこの言語を超える情の問題は、実は言語が生み出した幻想でもあるのだ。つまり言語を超えると言う段階で既にそれが言語的思考によるものであるということが明白だからである。そして言語の呪縛からその他者存在や存在理由を解き放つという行為的意味そのものが極めて言語的思惟によって生じたものであるからだ。
 だからこのことはエピソード記憶とかクオリアに関しても同様に非言語的であると思われていて、その実言語の最高度の思惟の果てに到達する別の言い方が許容されるのなら、言語の最高度の結晶化作用とでも言ってもいいものであると思われるのである。そもそも哲学的に何ものかの価値を認可する心的活動が無化にあるとしたら、それはそれ自体で存在認識による心の作用でもある。つまり認識には既に言語的な思惟が介在しているからである。他者存在、他者の存在理由を言語の呪縛から解き放つということは、即ち意味の呪縛から他者存在を解き放つことであり、そのことが即ち意味の呪縛を正直に認めることにもなるのである。言葉を超えたことは言葉からしか引き出せないし、言葉に囚われないことというのは、言葉からの通常の支配を認可したことになるのである。だから無意味も、<意味などなくてもいい>も、<意味などなかったとしても尚>という思惟には全て意味が含まれる。意味が価値を生むとも言えるし、価値が意味を生むとも言える。
 通常現象学では、フッサールもレヴィナスも論理的と心理的と言う風に分ける。しかし本来全ての論理的なことにはそれ固有の心理的なことがあり、全ての心理的なことにはそれ相応の論理的なことがある。ではこのことをどう考えればよいのだろうか?
 端的に心理的なことから極力論理的なことを意図的に排除しようとすることが信じることなのである。そしてある他者を信じるとはある他者に纏わる言語による存在理由そのものが意味化されたことであると認識することで意味の呪縛から解き放とうと意志することが信じるということなのだ。そして論理的なことで心理的なこと全てを説明し尽くそうとする脳内の活動を我々は通常理解すると言うのだ。これは茂木健一郎氏がアハ体験と呼ぶもののことでもあるかも知れない。
 何故そうなのかは、意外と容易に理解し得よう。信じるということは、要するに思考の停止なのだ。それは決定であり、それ以外の全ての選択肢を考慮に入れないということである。しかし理解することは理解出来ないことではないということの判明であり、理解出来ないということは信じられないということに尽きる。だから逆に信じるということは、理解出来るものの中でもトップクラスで記憶しておくべき価値があり、銘記しておくべきこととしての要記憶事項なのである。そして一旦決定されたことを後は履行するだけのことであり、全てのプロセスを省略することこそが信じるということに他ならない。
 私は第五章において「意味の規定ということの内には意味として通用するものに対しては一々検討する必要がないという通念が生活者全般に行き渡るので、前章で述べたような話者相互の相手にこちらの説明に対して想像したり、こちらが相手から何かを聞きだしてそれを説明されたことを想像するということを相互に了解し合あったりするというような関係に持ち込むまでのことはないという省略を意味する。」と述べた。それは要するにある言説において意味を伝達する時、私たちは一々自明なことを想像する必要などないということだから、逆にかつて何らかの意味でその意味について熟知する経験を誰しも持っており、それを一々具体的に想起する必要がないくらいに定着しているということ、つまり真理であり概念化された常識ということである。だがそれは誰にとってもそうなのであり、例えば女性は通常好きな男性の下へと出掛ける時には化粧をするものだとか、誕生日には家族の間ではプレゼントをするものだとか、日本では正月では初詣をするものだとか、個人としての存在者にとって切実であるとか、その者だけが体験した事実とは違う。つまり信じるということの場合、我々はある人物が素晴らしいとか、ある料理が美味しいという時、概ね誰でもそう感じるかも知れないが、それは絶対ではない、つまり個人差があるということにおいて特にある存在者個人にとって銘記すべきことこそ信じるということであり、正月に日本人が概して初詣をするものだとか、女性が化粧するとかそういうことは信じるということではなく、知るということである。
 だからある観光地で訪れた蕎麦屋の蕎麦が美味しかったので友人が同じ地を訪れる場合その店を勧めるということも、ある意味では私にとっては美味しかったということであり、親しい間柄では勧めることはあっても、全ての人、例えばそれほどよく知りはしない旅行の車中で隣り合わせた別の旅行客にまで勧めることは憚ることもあるかも知れない。
 しかしその車中で隣り合わせた客と会話している内に、その人が「あそこの蕎麦は美味かった」と言えば、その意見に賛同し、恐らくその客の主張する事実を理解するであろう。そういう意味では理解ということの内には想起されやすいということも含まれているだろう。「まさにその通りだ」と言う時我々はある言説が他者から発言される時、その言説内容に関して一瞬過去に自分も同じ経験をしていることを想起する筈である。だから意味とは記憶されるものであり、信じるということは常にそうである筈だと心的に決定しているのであり、記憶された意味とは異なる。そして理解するということはその理解されることを心的には想起して、その発言された内容と同一の体験を自らしたことを一瞬でも想起しているということが考えられる。恐らくそれはエピソード記憶によるものとか、運動記憶とか手続き記憶とかの場合は身体的に経験したことであり、カーブを曲がる時車のハンドルを切るのは体力が要るとか、自転車を渋滞の道路で車を避けて扱ぐことはきついとか、テキーラはきつい酒だとか、そういうことというのは、同意しても信じるということよりは理解出来るということの方に近い。信じるというのは決定を曲げないという意志的な心理であり、ひょっとしたら全く別の可能性もないではない時に、しかし敢えて別の選択肢を全て遮断するという意志に他ならない。だからそれは無意識的ではなく意識的なことなのだ。
 しかし理解出来ることでも時には反復して語られる時一々その度に想起することはないだろうから、そうなると反復される言説に対して異議を申し立てることを省略するようになるということにおいて、それは意味記憶的に、それが真理だと信じることはするかも知れない。つまり理解ということは意味そのものの習得の際には必ず起こることなのであり、理解出来たものから順に、しかしその中でもとりわけ個別の事象であっても、どこか頻繁にあるケースが普遍化されて記憶されていくということがあるのだろうと思う。つまり意味とは個別のケースにおいて記憶されたものたちの中で一般化される真理として理解されて一々想起する必要のなくなった真理に対して記憶される「起こり得ること」に他ならない。
 それはある女性が伴侶の浮気によって裏切られ、伴侶の相手の女性に対して憤りを感じる場合それを嫉妬と呼ぶとか要するに個別のケースの一般化された真理に対しての位置づけということとしてである。

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