Thursday, December 3, 2009

〔意味の呪縛〕十、行為という幻想と記憶の自己欺瞞

 サルトルが「存在と無」で示した自己欺瞞は、とかくそのテクスト自体が多大な影響を被ったハイデッガーの「存在と時間」中に登場する重要な概念である頽落と極めて近似的概念である。
 我々は日々真理と程遠い状態で生活していることそのものをハイデッガーは頽落という形で示したのだ。歴史認識から生そのものの本質規定から程遠い状態で生活するということはサルトルの自己欺瞞からも、ハイデッガーの頽落からも推し量ることが可能である。
 しかしフッサールは生活世界ということを考え、ある意味では頽落状態とか、自己欺瞞的生活が必ずしも悪いことではないという視点をも導入している。だから全ての人間の動作がただ動物的、生物学的で生理学的な範疇でだけ語られることを拒否する哲学的形而上学性が、私たちに行為という概念を提出させるのだ。
 しかし行為ということはある意味では目的とか、原因と結果とか様々な時間論的概念、あるいは因果律、存在理由、価値といった認識論的カテゴリーによって人間の諸行動を規定する考えである。つまりそれは人間の行動はただ動物が餌を求めて流離う(さすらう)時の動作とは違うのだという意識によるものである。だから行為性とは端的に頽落した現実認識とか社会規定的なルティンを超え出た真理目的的な認識なのである。目的とは会社に通うということが生活費を稼ぐことであるというような日常現実的目的性から、では何故働くのかというもっと究極的な価値論的な目的性へと転換し得るような意味で、極めて論理究明的であるというより、より倫理的、より哲学的問いそのものである。
 そもそも究極的とか、根源的とか、原初的とか、起源的とかの語彙そのものが哲学的思惟による産物である。それは日常形式的言説の全て、スーパーのちらしから役所の文章に至るまで全て空虚な言語に対して、その頽落と自己欺瞞を削ぎ落とした真理言及的、真理志向的な充実言語を前提とした語彙である。例えば私たちは言語表現を超える感動とか言う時、明らかにその言語表現ということが、陳腐な形式的形容であることを意味している。つまり真に詩的言語であるなら、我々は筆舌に尽くし難い経験をも言語化することを厭わない。そういう意味では行為性とは本来全く無自覚的な薄弱な意志による行動さえ、それを言語化された認識で捉えようとする我々の意志による考えである。
 しかも我々は行為という一種の幻想を全生活体系の中に組み込みその行動の全般を価値的に認識するかと思えば、記憶そのものをも言語化する。つまり記憶さえある枠組みにおいて想起を促すように持っていく。それは心理的トラウマを抱えた少女が多重人格的症状を示す場合ですらそうである。つまり記憶そのものさえ自己欺瞞化して考え、想起をも意図的に操作しようとする。
 そもそもそのような意図がないのならば精神分析とか心理療法などというものは成立しようもない。
 私は「時間・空間・偶然・必然 意識という名のミーム」において結論最終部において、世界中の固有の物語を生きる「私」保有者たちも又、<私>をも持っている筈だ、と私は理解出来る、それ故私は<私>にとっての「私」と他者から見た「私」が異なっていることをやむを得ないとしても、その事実に対して異議申し立てしたい、何故なら世界中の「私」保有者たちも又そうしたいだろうから、と考えたのだ。その時私は私の脳裏に何らかの形で「私」に対する私の記憶、それが<私>ではないかと考えたのだ。<私>とは永井均氏の主張される固有の私のことである。
 つまり他者は「私」を私の外部、つまり私の身体を通して得る。それら一瞬一瞬の姿を綜合したものが彼らの私に対する記憶となり、それが彼らにとっての「私」に他ならない。つまりその二つの間の齟齬は如何ともし難い。しかし私は考える。私以外の全ての成員(地球上の)はそういった固有の「私」に対する記憶を持っていて、それが個々の<私>となっているのだとしたら、恐らく彼ら全ても私のように他者から見た「私」と自分で感じる「私」にはずれがあるだろう、そしてそのことを誰かに告げているだろう。つまりそれが個というものに存する欲求であり、フォイエルバッハはそういった意志と欲求のない人間には摂理は理解出来ないだろうと考えた。(「キリスト教の本質」上、船山信一訳、岩波文庫)つまり彼が言う摂理とは恐らく現代科学においても、外在的にそのメカニズムを理解することが出来たにしても、個々の身体的律動の全てや心的活動の全てを一々その様相に対する根拠を論うことの不可能性、つまり今日的言葉で言えば複雑系の更に複雑系であるところの心の在り方は従順だけで何もしないようにただ無気力だけではないということ、そして予定調和を考えることはしても、では果たしてその予定調和に従うということにおいて真に予定調和が顕現されていると言えるのか、つまり神がいるとすれば、私自身の<私>さえお見通しである筈ではないのかという疑問を押さえつけられないということだったのだろう。
 彼にとって神とは人格とか価値そのものであり(その意味では極めてフォイエルバッハは無神論の先駆けと言ってよいのだが)それらが存在全体に対して存在という価値、意味を与えており、事物を事物として認識すると言うより、事物であるという意味を与えているのは人間である(ここら辺の考えはハイデッガーに影響を与えている。)ということであり、つまり存在を外から規定する超越的実在論的認識は、しかしある意味では人間の因果律的な思考傾向性を表してもいる。
 しかし少なくとも私にとっての<私>が、他の一切の私にとっての他者の抱く<私>、つまり<<私>>がまずあり、それら<<私>>の中の特殊な一個、唯一そこから世界が開けてきているところの<<私>>こそが、この私にとっての<私>であると想念し得た時、私たちは認識論的存在者(<私>を認識しえる)から真に哲学的存在者としての資格を得るとも言い得るだろう。つまり私は私にとっての「私」と、他者全般にとっての私の「私」が異なることを知っている。しかしその差異を私は運命として引き受けて生きており、その差異そのものは否定しない。ただその差異の中からしか私の意志や欲求や、願望や理想は生じないということも私は知っており、それを私は他者へ伝える。それを伝えた段階では私はただの認識論的存在者であるに過ぎない。しかしそこで他者は私に私と同様のことを告げる。すると私は恐らくその他者もそうするだろうが(ひょっとしたらゾンビかも知れないので)彼(女)と共に、何らかの行動を起こす。その行動が行為という幻想としての意味を持つのなら、即ちそれは世界中に散らばる全ての存在者たちが同様の「私」という物語を巡る齟齬を感じつつ生活していることを、そしてそれら一つ一つが何らかの形で意味を持つということ、それは権利などという陳腐な言葉では収まりきらないだろうが、その意味=存在理由=価値ということを私は隣人たる他者と共に示し続けていくのである。そしてそれを何らかの形で世界に散らばる存在者全体の中に位置づけようとする時私たちは哲学的存在者となるのである。
 勿論世界にはその思いや行為の軌跡が世界中の存在者に知れ渡るような幸運にして価値ある存在者もいる。しかし殆どの存在者、私もその中の一人なのだが、世界に自分の行為を意味として位置づける、行為=価値という幻想を只管信じて生きることしか出来ない。世界に自分の行為を意味として位置づけるということは、自分の行為に世界を見ること、行為する自分に世界を見ることに他ならない。それは世界中に自分の存在が知れ渡るような幸運な、しかし同時に不幸な人と自分を違うという風に理解することでもない。ある意味ではそれは決定的に違うが、ある意味では何ら変わるところがないとも言えるからだ。
 つまりその変わるところがないという部分とは行為が価値として、自分の内部にも、その内部を私という「物語」を生きる者として宿命づけられた私たち全てが例外なく経験する「私」(私の内部にはかかわりなく外部から規定されている私)を背負う時に引き裂かれる価値、つまり私にとっての行為の価値と、「私」として外部から見られる者の果たすべき価値との間で引き裂かれるという事実に常にどう対応していくかということである。
 どのような存在者にとっても外部から規定される自分である「私」と、私が私の意志で示しているところの「私」とのギャップに懊悩する。しかし一番切実なこととは、敵対する者とか、初めから理解が得られない相手から私に与えられるその種の懊悩以上に厄介なのは、自分に対する一番の理解者、あるいは、考えの上でも職務上でも性格でも、最も自分にとって馴染みがあり、本質をこちらからも理解出来る存在者との間で起きる齟齬であるということである。その齟齬に対する理解者からの無理解ほど深刻なものは恐らくこの世には存在住まい。これは恐らく人類が始まって以来これから人類が絶滅するまでの間にも解決し得ないことだろう。
 それは<私>が永井均氏の言うような意味で他者に伝えることが出来ないということから来る深刻さなのである。
 しかしそれが深刻であると捉えられるのも私たちが生き方において意味において規定しているからに他ならない。私たちは私たち自身によって作られたものに大きく精神的に依存している。聖書、クルアーン、カント、ゲーテ、ベートーベン。それらの偉大なテクストや作品から啓示を受けるという事実は、自分たちによって拵えられた体系や意味の世界、あるいは端的に勝手に創造されたものからしか神という観念さえ捉えることが出来ないのだ。神は明らかに聖書によるパウロによる指示によって私たちはその実在に対して、存在理由に対して向き合うのだ。それは無神論においてさえ同じことである。無神論という意味を例えばダーウィンやニーチェや意味の体系から構築するのだ。
 何故そうなのかと言えば、それは囚われている状態であるという一つの欠如がそうしていると言える。
 そもそも哲学で行為と言えば、それは意味として人間の行動を、例えば因果論を機軸に考えているということである。価値として行動することを考えているということなのだ。
 私の友人の社会教育学者であり倫理学者である国井寛氏は、衝動というものを差異と反復として捉えている。同じタイトルの名著がドゥルーズにあるが、まさにあの差異と反復としてである。
 その衝動を喚起するものはやはり現在であると私は考えている。氏もそのことについて同意して下さった。つまりマイケル・ポランニーの暗黙知とフッサールの受動的総合が重なる地点のものとして衝動を捉えることを可能とする考えである。
 だが意図とか意識というものも一つの衝動であると捉えると、ある意味では人間の欠如に対する認識は倫理によって生み出され、欠如が意味を作っていると言える。例えば精神科医の和田秀樹氏に拠れば、フロイトはあくまで精神病患者の治癒を理性論的な解決によるものとしたのだが、彼の後裔たち、例えばコフートやロジャースはあくまで医師と患者の間での共感(そのことはフロイトに拠れば転移で言い表されているのだが)や依存といったことにおいて理解されていると言う。
 つまり人間の脳内での綜合作用とは依存と共感によるものなのだ。だからその理解ということの隙間に明らかにアートに対する感受性とかクオリアといったものが介在すると思われる。それは逆に考えれば、意味の呪縛から必死に逃れようとする人間の本能的な知覚や感覚における律動なのではないだろうか?
 永井均氏は独我論が、あるいは独今論(今だけが常に意識の中心であり、未来の自分というものを今以上に切実なものとしては捉えられないということ)が、本質的に普遍化することが出来ないということを主張している。(「倫理とは何か」他のテクストにおいて)もし私が私にとって都合のいいことだけを望むとしたなら、その功利主義は一般化され得ないことを私は望むからである。もし仮にあなたが私と同様あなた自身の益だけを望むように行動したのなら、必然的に私にとっての益にはならないかも知れないので、このような考えは一般化、普遍化され得ず、密かに実行されなくてはならない。
 しかしそのように予想してしまうということそのものが既に私たちが生存とか、他者の利害といった言語化された想念によって意味的に規定を受けている証拠でもあるのだ。
 サルトルは竹田青嗣氏によれば、折角フッサールが狭義のデカルト主義から脱却させたことを再びコギトに立ち返らせたということになる。それは「存在と無」における幾つかの論説において明らかである。しかし彼の功績は寧ろ対自と即自をヘーゲル的な教義から発展させて人間存在を欠如態として捉え、ある充足がなされた瞬間に新たな欠如を現出させるような内的関係を捉えたことにある。つまり完了したと同時に再び未完の状態へと送り返される永遠の未完成であるところの人間存在は、それ自体で一つの欠如である。しかしこの社会には多くの肩書きが存在し、その権威を巡って喧々諤々人間がのた打ち回っている。つまりそのことを彼は自己欺瞞と呼んだのだ。このことは確かに古典的カルテジアンとしてのマニフェストをなした「存在と無」における最大の功績である。
 つまり意味とは充足されたものではなく、寧ろ別のもう一つの意味へと移行するために思惟上も、想念上も存在すると言ってよい。つまり私たちは倫理への問いとか価値についての思索をするということそのものが、常に意味によって規定を受けていると同時に、意味そのものを常に「別の形」で模索していると言ってもよいのだ。行為が何らかの目的を持っていると言うことは出来る。しかし行為はなされてしまえば、行為の痕跡を残すこととか、行為の結果私たちの環境が何らかの形で共鳴したり、変化したりすることを確認することは出来る。しかしその変化や共鳴は、そこで常に別の形へと移行しつつあることを我々はその時知るだろう。音楽が反響する公会堂での演奏会では、その音楽が演奏され終了すると拍手が喝采され、やがてホールを後にする人々の騒々しい語りや息遣いが確認される。そして演奏家が終了したステージには観客たちが残していった埃と、静けさだけが支配する。それら一連の変化は実は行為がなされ得ようとする意志と、なされてしまった後のその場の変化を痕跡として残すということと、その痕跡を追認する私たちの想念が、私たちの未来に対して常に別の形での別の行為を用意しているということを物語る。それは言い方を変えれば行為性の相互依存である。
 ここで国井寛氏が私に語った「衝動とは差異と反復に起因すると思う」という考えについて少々分析してみたい。
 私たちはある意味では全て哲学的存在者として思考し、悩む存在であり、言葉というものの利便性と恐ろしさの只中にいるという意味では共通した存在である。永井均氏の「倫理とは何か」では次のように記述されている。
 
 ということはつまり、意見が対立するためには言葉の、一致が必要だということだね。
 そのとおり。・・・・・・なんだけど、逆もまた真だ。つまり、逆に言葉が一致するために、言語習得の初期の段階では、意味の一致が必要とされる。子供は、推奨語としての「悪い」を学ぶのと同時に、たとえば「友達を殴ることは悪いことだ」といった道徳的判断を鵜呑みにさせられる。いわば意味と意見を同時に教えられる。このことで直観主義者の言う「直観」が成立するわけだ。このとき、存在したはずの友達を殴ることの善さ・・・・・まさにそれが存在したからこそ道徳的悪さが発動してその存在を否定しようとしたはずのその善さ_はあたかも最初から存在さえしなかったかのように、闇から闇へと葬られることになる。
 ということはつまり、子供には「友達を殴ることは本当は悪いことなの?」と問うことがゆるされていないということだね。
 そう。問いがまだ「開かれて」いないんだ。この開かれていなさが直観が成立するための条件なんだ。でも大人になれば、言葉の意味だけ判断から切り離して保存しておいて、その意味を使ってきわめて特異な道徳的判断を表明することができるようになるわけだね?つまり「(道徳的に)悪い」という言葉を使って「友達を殴ることは本当に(道徳的に)悪いことなのか?」と疑問に思うことが可能になるわけだ。
 逆に、道徳的判断だけ切り離して保存しておいて、その意見を特異な言語で表明しても、ありふれた意見ならたやすく解読できる、という逆のことも言えるね。

 行為はまず我々にとって幼少期、実践として習得させられるし、私たち自身そこに未だ意味とか目的とか価値といったことを一々深く考えていられる余裕はなかった筈だ。その行為そのものに意味、目的、価値が見出されるのはずっと後のことである。つまり善悪を判断する力や、社会通念を習得して、行為の様々な社会的に通用するパターンを踏襲することが出来るようになって然る後、初めて私たちはそこに哲学的意味や価値規範的な問い、つまり何故そのような行為にモラル的な判断が必要とされるのかという切実な問いを社会通念を履行出来る立場から考えることが許されるというわけである。
 国井氏の発言にある差異と反復とはまさにこの永井氏の記述で示された最初の言葉の一致と、意味の一致ということが、共に自‐他関係において成立しているということと、その自‐他の関係そのものが私たちに意志発動、意志伝達の欲求を生み出しているということとして考えることが出来る。
 このことは別著「他者と衝動」(別ブログ<当ブロガー、プロフィールからクリックすればよし>「決心の構造」において掲載)で詳しく触れたので、そちらを参照して頂きたいのだが、私たちは他者の存在そのものが私たちの行為のモティヴェーションを規定しているということを知ることが出来るのは、言語行為という日常言語学派が示したように意志伝達そのものが既に一つの行為であり、それは身体的に何かを移動させたり、物質を変形させたりする以上に、相手に対して最も大きな影響力を持つということからも明白であろう。つまり精神的影響力とは、例えば人を侮辱する時に、その人の所有物を破壊することだけではなく、尤もその人の最も愛する者を傷つけるということが最も卑劣な手段であるが、少なくともその次くらいに卑劣なことというのは満座の席でその者を侮辱することである。
 つまり言葉というものが発せられることは一つの行為であり、その行為を引き出しているのが意味であり、意味は感情と密接である。そして言葉は確かに二人の間で交わされる時、語彙的指示性は共通している。だから今日使う今日という言葉は本質的には昨日は昨日のことであり、今日は今日のことなのだが、実は常にその日のことを指すという意味では変わらない。つまり反復されているということだ。それに対して、やはり昨日使った今日は、昨日だけのことであり、今日使う今日は今日だけのことであるという意味では全ての語彙はその時一回限りであることも多い。例えば河口としての私は、昨日は昨日の私であったし、それから時間がたって今日の私は確かに昨日の私とは違う、生理的な身体条件も刻々と実は変わっている。しかし少なくとも私という人格的同一性は保たれているという不変であるという条件で私たちは私たちの名前を呼ぶ。
 つまりどのような語彙間の使用条件や、語彙そのもののカテゴリーが異なっていても、その時こっきりの使用目的ということと、いつも変わらない使われ方が常に併用されているということだ。もし私が昨日は山口で、今日は海口であったのなら、そして明日は空口になるのなら、私自身が変わったということそのものが言い表せない。それは名前のその都度の変更とただ同様のこととなってしまう。あくまで人格内部の変化を表現するためには、私たちはまず基本的な身体的条件と、名前が常に同じであるということが必要なのである。つまりそれは他者存在そのものが言語行為の衝動を生み出していることと同時に自己同一性と人格的変化とが反復と差異との関係でこの場合捉えられるが、それ以外の全てのケースでも、例えば身体生理的状態も、私は昨日の私と同一の身体条件であるが、昨日の健康状態とは微妙に異なっているという意味ではそれもまた反復と差異とによって規定されていると言えるからである。
 それに私たちは私たちにとって意志的な発動を滞りなく運ばせるためにのみ記憶を援用するのだ。例えば敵対する立場の人間に対してエールを送らなければならない局面というのは人生に多々ある。しかし敵対する関係においてそう楽しい思い出ばかりが存在しているわけはない。しかしだからこそ敢えてそういう相手には、より苦渋の関係の歴史においても尚、その中で一筋の楽しかった思い出を語るということは多々あるのではないだろうか?
 つまりそれは記憶されていることを恣意的に美化することを意味しよう。それは言葉を変えれば記憶の自己欺瞞である。それはある意味では全ての人間関係において成立する記憶に対する検閲である。
 記憶は何か率先して主体的にしたいと欲求していることに対してはそのことに関する良好なイメージの記憶を想起させる。しかしそのような好意的な未来に対してではなく、止むを得ず執り行う幾多の行為を正当化する時にこそ、その行為を正当化するために必要とされる記憶が「そうあるべき事態」を招聘するために修正されるのだ。それは端的に制度とか他者の思惑それ自体に「合わせる」わけなのだ。
 それは無意識的に忘れたいことに目を瞑り他の今直面している重大なことではないものへと目を逸らそうとするのである。しかしそれは一旦定着すると次第にその記憶の摩り替えが習慣化してしまい、反省しないことが自己信条と化してしまう。これは社会的地位の高い人間も多く陥りやすいことなのである。
 例えば行為とはそれ自体で哲学的思惟の幻想である。しかし哲学的にそうある行動の連鎖を行為として位置づける時既に何かの流れ(仮にそういうものがあったとしよう)を恣意的に分節化しているわけだから、その「分節化すること自体を問う」という行為が新たに設けられなければ甚だ危険である。それは一種の思考の哲学ゲームへと我々を迷い込ます。だからそうならないためにも我々は巧くいったことを気が落ち込んだ時には思い出すことが必要だが、そうではない時には充実した過去だったと記憶を美化しないで、積極的に過去における自己の欠如を見出すべきではないだろうか?

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