Saturday, May 28, 2011

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第三章 羞恥と欺瞞

 眼差しを向ける側は向けられる側にその事を気づかれたら、何故自分という存在に関心があるか問い質され得る。これは眼差しを向ける側が向けられる側である相手に対して主導権を与えてしまうことである。
 これを極力回避したい欲求こそ羞恥と呼んでいいであろう。何故ならその様に問い質されることは内的な他者への関心を告白せざるを得なくなるからだ。
 内的な他者への関心とは要するに自己内の欠落部分への覚醒を伴っている場合が多いからだ。
 本来感情とは情感性や情緒的側面からのみ認識されがちであるが、功利的判断が後押ししている側面は意外と強く、その二つを容易に分離させることは困難である。
 価値が個に於いて自分以外の誰でもそう思えるだろうという判断自体が「そうである筈だ」と「そうであって欲しい」がそう容易に分離させ得ぬのと全く構造的には相同である。
 その意味では羞恥も又功利的感情とも密接である。
 身体を取り巻く習慣から言えば他人に裸を見られることに於ける人類学レヴェルの羞恥も、他者へ眼差すこちら側から他者へ向ける関心の根拠の説明に伴う羞恥、つまりそうではないことに対する偽装し得なさ等と、私的領域への認知を特定の他者に共有させてしまったり、他者一般(公衆とかの)に周知となること自体を回避したい欲求は、本質的に自己内功利的防衛性の保持自体の暴露という形を取ることと同一の事である。
 相手に裸を見られることは自分の身体的アイデンティティの無防備に対する羞恥を喚起し(後者)、相手にその裸を見たいという欲求を知られるということは覗き者の好奇心自体を知られる無防備に対する羞恥を喚起する(前者)。
 自分自身の嘘偽らざる真意が読まれることとは、他人に裸を見られる羞恥の表情を浮かべられる事によってである。

 意思疎通上の相槌とは理解し合えたことに「する」サインだが、それは相互に相互の羞恥を喚起させない様にする了解である。だからこそよく分からなくても分かったこととして進行させていく時、途中から本当に分かる様になることもあるのだ。しかしこれは相互に羞恥を喚起させない形でのみ可能なのであって、この覗き者と覗かれ者との間の相互羞恥によっては成立しない。理解とエロスの問題は幾分距離がある。勿論両者は無縁ではない。しかしこの二つの間には幾分のクッションがある。それを今後の命題にしていく価値はある。

 相互に相互の羞恥は悟り悟られることは、相手から羞恥心を表情などによって表示されることによって実感される。つまり相手にこちらが相手を理解したということを表示しない限り相手はこちらに対し羞恥を喚起しない。だから相手を理解した旨を相手から示すことを要請されぬ限り、それをおくびに出すということはある意味ではこちらの相手に対する無防備に起因する、と言ってよい。
 これを容易にはしないことがマナーとなっている場合が社会通念上では多い。
 しかしこのマナーを敢えて無視するところに友情とか個人的親密な感情が発生する基盤を作っているとも言える。
 だから逆に言えば相手に羞恥を喚起させずに相手を理解している旨を示せるかということがある種の「付き合い」に於ける大人性を示す度合いになっている。
 つまり相手にリラックスさせてこちら側の羞恥を喚起させることを相手に言わしめる、つまり気楽に何でも言わせる雰囲気を作るということが相手からこちらに対し大人性を発揮することである。これは対人処世術的民間心理学の定石である。
 だからマナー無視というリラックスを相互に暗黙の内に確認出来るというところに社会機能維持的マナー踏襲の中で唯一の憩いであるところの自然人的付き合いを相互に持つ心の余裕を人生に与えている。そしてマナーを一切無視しないという前提の下では信用とか心を許す事態自体を封鎖していくという決意があることになる。
 これは一度親しかった者との間で友情的な関係を維持していくことを解除していく際には持たれる態度であり、意志表示である。
 私は意志表示せず只連絡を怠る様にだけする。
 連絡しないということが最も容易に、しかし無駄な傷つけ合いをせずに交流自体を解除していくことを可能にする。
 ここら辺は哲学的な叙述ではなく友情論であり、対人処世訓的随筆である。
 しかし哲学にも実はそれが必要なのである。つまり俗な感情の遣り取りを注視してから、再び存在論レヴェルの命題に回帰するということに意味があるのだ。
 次回以降は存在の形而上性と記号性、そして理解の持つ「異」性への着目に命題論を移行させていこう。

Monday, May 16, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 インターミッション①アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存

 書籍刊行物は何時の時代も残すべき価値のもののみをミーム的に出版者・編集者が断続的に継続的に誰かの言葉を出版し、出版ビジネスとして成立させる様に選別者達も世に送り込んできた。

 しかしウェブサイトはそれとは基本的に全く異なっている。例えばツイッターはツイーター各人異なったフォロワーが居て、異なった人達をフォロウしている。あるツイーターが死ねば、じきそのツイーターのフォロワーはそのツイーターをアンフォロウするだろう(尤もかなり以前にフォロウしていた人なら一々アンフォロウする手間をかけずうっちゃられておかれるだろうが)し、その死したツイーターによってフォロウされていて、ツイッターとして展開していたTL画面は誰にも除去されずに、ウェブサイト自体が消滅しない限り、永遠に表示され続ける。その死者ツイーターのフォロワーが生存し続ける限り、少しずつTLの画面を変えながら、しかし全てのフォロワーが死ねばある時点から全くの静止画像となって消去されずに永遠に残ってしまう。

 しかもツイッターのツイートは良質のもののみが残されるのではなく、全てが残される。そういった意味ではツイッター上での文字の永続性、消去不可能性は非ミーム的なものである。

 このウェブサイトの非ミーム性は、しかし同時にユーザーにとっての使い勝手(利用しやすさ)という面では、完全にミーム的に全てのツールを広める。
 つまりウェブサイトとは、それ自体TLそのものは全て非ミーム的に消去され得ず、送信記録を永続せしめるが、そのダウンロードのメソッド自体は常にミーム的な対ツール的なランダムアクセスなのである。
 これを「アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存」と呼ぼう。

 この事実からもあらゆる出版ビジネスはその大半が電子書籍化していかざるを得ないだろうが、それはウェブサイト的無限のバックグラウンドを地とする特権的図となってゆくであろう。
 しかしこういった無限のバックグラウンド的地に於ける図の在り方は、そういったウェブサイト的地のなかった時代の図とは自ずと変わっていかざるを得ない。
 ウェブサイト的地を前提にしたミーム化された図は、現在の一般書籍オンリーの時代の文字及びその配列とは自ずと異なった性格を帯びていこう。
 それは一言で言えば、全人類に共通した文字情報のニーズではなくオタク的クラスターのニーズに即応した個別的マニアックなミームの林立、乱立であろう。この点では東浩紀の「動物化するポストモダン」の読みは正しい。

 しかしやがて時代の変遷と共に、無限の永続的情報という非ミーム的地への我々による慣れから、再び意味化がなされていくことだろう。それは東語の「動物化」からの再意味化である。そしてその時かつて乱立していたミーム・クラスターの中から幾つかの纏まりが形成され、新たに古典化していくだろう。

 言葉の感覚、意味の在り方は現在も日々変化していっている。それはミーム的なスピードの速いものほど早く廃り、遅いものほど長く残るという古典的法則を守りながらも職種的階層的に併存している。
 つまりある職種や階層クラスターで永続的なミームは他のクラスターで永続的なミームとは邂逅し難い、ということである。そしてそれはかなりしぶとく容易には相互に融合し合わず、不干渉的に非関係的に併存し続けるだろう。
 しかしその異質のクラスターへの性格づけを大別させ続けるものは、職種・階層と言っても、ある職種が人格のかなりのパーセンテージで充足し得る人々と職種はあくまで生活の為の方便である人々とで大きく分断されてゆくのではないか、と私は予感するのだ。
 これはある意味では権威主義(権威追随)者と反権威主義者のクラスターが相互に相手の是認をし合わぬ相互に自分達を是とすることを譲り合わぬ状況の長期永続を意味しよう。
 私は要するに決して邂逅し合わぬミーム達を「生き方」に於ける価値観、そして社会に対する自己の適合させ方に対するヴィジョンの質的差異(異)に於いて考え予想するのだ。
 端的に人生観の違いとは、ニーズの違いを生む。そして仕事観も娯楽観も社会義務観も国家観も郷土愛観も民族観も大きく違えさせよう。
 そのクラスターの各個別的性質の違いは、大まかに分けて次の様になるのではないか?

① 集団、及び組織内協調主義且つ他者相互不干渉主義
② 一匹狼的単独行動主義且つ他者相互不干渉主義
③ ①②共、①②の併存に対する容認派と非容認派とへ分派していくだろう。

これはある部分では①はミームをより求め、②はより非ミームを自然とする考えへと落着し、①の②への容認派、並びに②の①の容認派はその中間を普通とし、非容認派は①の唯ミーム派、②の唯ミーム派ということになろう。
 ミームにも意識的ミーム(意味に対して自覚的、意識的)であるものと無意識的ミームとがあり、最初は後者であり、やがてその中でしぶとく長く残っていくものはやがて前者へと変貌していく。

 「アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存」は一方で我々は誰しもが永続的にメッセージを発信し且つ残すことが出来る一方、それとは別に多くの人々に受ける情報内容(便利な情報か、書き手の個性)を益々追い求めているということだ。
 誰しもが公共掲示板に書き込めはするが、エリートの書き手を別に求めるという偶像希求はミーム的魅力を別に必要だ、ということだ。しかし誰しもが容易にメッセージを送信可能なアップローディッドの非ミーム性が地であるウェブサイト上では皆がミームと認めるものの様相は上述の様に非ミームともずれた異なった存在にならざるを得ない。そしてそれは出版刊行物(紙による)オンリーであった時代のミームとはかなり異なった質の情報となっていくということは容易に想像出来る。