Monday, October 18, 2010

<感情と意味>結論 感情と意味Part5 懐かしいという感情とは何か?Part2

 未来という観念は不安と常に一体化している。従ってそれは起源的にも記述以前的前言語的想念の一つだろう。つまり言葉を習得していく以前的に既に我々は漠然とした到来する未来という想念を予兆力として備えている。
 それと懐かしさはどこかで関係がある。
 前回の結論を纏めつつ考えてみると、懐かしさとは「或いはこうであったかも知れない私」があるにもかかわらず「今現時点でこうである私」を可能性としてではなく運命として特化させる意志(運命化)が、今現時点での私以外の可能性へ私によって抱かれる若干の未練なのだ。
 が恐らく運命化によって現在の自分を肯定しつつ、過去に於ける岐路で現在へ繋がる進路を選んだことへの肯定感情があればこそ「或いはこうであったかも知れない私」は淡く美しく思える。
 しかしそれはある意味では未来に対する不安、つまり我々はいつか自分自身の時間が死と共に停止することを知っているからこそ、その不安を除去しようともがくことなのだ。勿論淡々とである。
 未来という予兆力とは現在の消失、現時点の過去化の別名でもあるが、それ(それは概念的理解であるが故に)以前的に言語的想念全体の基盤をなす様な何らかの予兆力である。勿論それは受動的綜合の様な根源性とも違う。運命化による選択進路の美化を支えるものとは後悔的想念の到来への予めの忌避感情である。
 我々は未来という一つの不安を払拭するが為に言語行為を持つと言っても過言ではない。不安に対する忘却の一つの自然な欲求が時間的観念の系列化という作業である。過去、現在、未来と系列的に位置づける。しかし未来は我々にとって常に完全不在であり過去や今自覚しつつある現在とも明らかに違う。それは記述に於いて系列的秩序が形成する最中に現出するものである。だからこそ不安の別名なのだ。
 そんな折確かに我々は過去を「懐かしさ」として捉えることによって運命化しつつ、不安から逃れ、生を意義化することが出来る。過去は完全不在であるが未来の完全不在とは性質が違う。何故なら過去は記憶的に想起され得るものの全体である故だ。
 確かに私が生まれる以前にも系列的に時間は経過していたし、それを概念的に私は把握し得るが、それは私個人の記憶によることではない。従って系列的先後関係を理解する要は記述行為によってである。そして記述行為自体を支えているのは漠然とした予兆力であり、それこそ意志を意志させる礎であると言える。

Saturday, October 2, 2010

<感情と意味>結論 感情と意味Part5 懐かしいという感情とは何か?Part1

 私達は日々かなりの分量で不必要な情報を摂取し過ぎている。本来よく考えてみると自分自身にとって本当に必要な情報とは限られている筈だ。しかし一旦会社に行けば同僚達との横の繋がりなどがあって、昼食を共に取り、会話は弾めば自然と社会一般のことを井戸端会議的に交わすこととなろう。
 しかしそこで得られることは人間観察であり、対人関係上での個々の成員の性格把握であり、会話から社会的人格評定を下されるということに対する自覚であり、それ以外、例えば実際に交わされた会話で出て来たエピソードが後日自分の役に立つことなど殆どないと言ってよい。
 勿論同業者間で個人経営者や事業者、或いは特殊技術専門家同士が会話する時には同一業界内での情報交換的意味合いもあるだろうし、同一社内の人とも情報交換は、相手が別部署の人であるなら意味もあるだろう。しかし一番多く接する同僚、つまり同一部署内の人達との会話で出て来る話は同一部署関係の内容以外は多くは社会一般の今時節的に話題となっていることに限られてくる。
 しかしそれらを巡る大半の情報はその時だけのものである。これほど無意味なことはない。
 私達が過去に於いて自分が体験してきたことに関することで大きな出来事がある時以外、今話題となっている人とか、それ以前そうであった人に関する知識などは本来仮に友人、知人、同僚との会話に役立てる意味以外に何の価値があるだろうか?そもそも一人の人間にとって切実な情報など極々限られているのである。
 しかし自分自身にとって切実な経験であったことを今想起する場合、想起自体は突然脳内で「自分の意志」とは別箇にやってくるものであるが故に時々無性に懐かしさを催すこともある。
 ではこの懐かしさを催すということの正体とは一体何だろう?
 例えば上の話でかつて親しくしていた同僚で、今は配置転換で全く遠くに離れて生活している者が突然死んだという知らせが入ってくると、途端に上のその者と交わしたとりとめのない昼食時でも話題となっていたエピソードなどが懐かしさを催すことがある。
 案外大して情報的価値がその時点ではなかったことの方が懐かしいとさえ思えるかも知れないのだ。
 これはある意味では我々が今現在立たされている自己状況全般が、実は過去のある時点で、或いはある時期に於ける思索の結果、決意の下でこうなっている、ということを我々は知っていて、その決定、つまり長期的人生設計上での決定自体が、ある時点での自己人生に対する運命化、つまり「私の生き方は~でよい」という決心に基づいているということ、つまりそれは、それ以外の選択肢に対する断念と、そう断念せざるを得ない形でしか人生を歩めないという諦念によって得られる情感から齎されてきたのだ、とも言える。つまり懐かしさとは、それを失っていったという事実は今現時点で自覚出来て、今得ているものと引き換えに失っていったものに対する固有の感情であるが故に、懐かしさとは端的に自己運命に対するささやかなる恨み節的要素も介在しているのだ。勿論自己運命自体を開示してきたのは自分自身である。しかしその自分自身が止む止まれずに選択してきたことの内には全て簡単に棄て去ることの出来なかったものも多かったに違いない。そこでその得たものと失ったものとの間のバランスが現状に対する満足に於いて、十分過ぎる領域に対する感謝があればあるほど、逆にそうであるが故に、別の部分では当時の自分を棄てて今の自分を選んだという事実に対する記憶と自覚があれば、尚更「或いはこうであったかも知れない自分」というものに対して思惟を巡らせることは常に可能である。
 つまり懐かしさとは恐らく「或いはこうであったかも知れない自分」自身に対する叶わぬ憧れ、今現時点での満足と引き換えに失ってきたものに対する未練とが混ざり合って、固有の切実さを提供するものである。それはある年齢、特に四十五歳を過ぎた時点で、それより十年以上前には普通にしていた習慣とか、頻繁に会っていた知人などに関しては、その様な感慨を抱くことは容易いだろう。しかもそれほど親しくなる前に疎遠になっていった人達は特にそうだ。何故ならその人達と疎遠となっていったということは、そのことと引き換えに別の人達と親しくなっていったということを意味し、それは「或いは別の形でなら親しくなれた人達」というものだからである。
 それは当然引っ越しをする時に何箇所か候補を挙げて結局今住んでいる場所を選んだ場合、「或いは別の形でなら住んでいたかも知れない場所」という形で下見に訪れたことなどが懐かしく思い出されるわけだ。従ってかなり親密にしていて疎遠になったものと同じくらいに、否ある場合にはそれ以上に突然脳内で向こうからやってくる想起対象であるエピソードとは端的に「或いは~であったかも知れない」という要素の些細な、しかしニアミス的にそれ以降遭遇を得ることなく、ある瞬間に於いては極めて切実な印象であったのに疎遠となっていったもの、者、場所たちであると言えよう。