Friday, December 11, 2009

<感情と意味>第一章 記憶‐同一性‐エゴ 第一節 私ということはあり得るだろうか? 

 私が誰か特定の相手に対して不愉快であるとか、好感が持てるという感情を抱く時果たして私ということを客観的に捉えられているのだろうか?
 例えばある関心事に心を奪われている時というのは忘我的、没我的心の状態にあり、その心の状態自体に私のことを特定的に捉える心の余裕は寧ろない場合の方が多いだろう。その場合寧ろ私たちは心の状態から言えば、誰か自分の中にありはするが、私自身に命令する何か得体の知れぬ力に突き動かされてその関心事にのめり込んでいる。
 例えば野球の試合をしている時選手たちは外野で守りに入っている時にもバッターボックスに立っている時にも案外そうしている自分に対して冷ややかに観察している視点は仮にあったとしても、その視点を「支えている自分」という意識などないに違いない。
 つまり私たちはそういう状態の時には、対自的な意識であっても、対自体であること自体には自覚的ではないだろう。そういう意識になれるのは、勝つか負けるかして試合において一応の決着がついて然る後に、今日一日のことを反省する時に初めて訪れることではないだろうか?
 つまり自分という意識とは意外とそう多くの日常的な時間において私たちの心を占めているわけではないのである。例えば今私は今この文章を書いているわけだが、書くことの内容もそうだし、書くために考えることには没頭していても、その没頭している自分ということは、勿論時たま私の脳裏を掠めはするが、それはあくまでどこか息継ぎにおいて、ほんの一瞬訪れる間隙のような時以外ではあり得ない。
 あるいは私が交際しているある友人や知人の心ない一言において私がその者に対して懐疑的感情を抱いている時、そういう懐疑の感情を抱く私とか自分という意識は、その感情の渦中でではなく、そういう感情が幾分潮が引くように小さくなってからのことである。
 そもそも感情とは、何事か、何物かに対してその在り方を巡ってその存在理由を自分にとって好ましいとか忌まわしいとか自己主観的に判断することによって定着された心そのものの志向性の一つの固定化=決定である。だからその決定の際には何らかの形で言語的認識がかかわっている。勿論言語的要素だけによって占められてはいないだろう。その心の中での固定化的、価値規定的な決定の末に、しかしそれにしても素晴らしいとか、頭に来るとか感情を増幅することはあるが、その増幅されていく心の状態は言語的ではないものの、増幅させるものとは好ましいとか忌まわしいとかの双方とも言葉の力、あるいはその言葉に我々が与えている感情的意味であろう。つまりこう考えていけば、感情とは極めて言葉の意味と相補的に立ち現われていると言うことが出来る。
 しかし哲学では意味というと多く理性とか判断の合理性とか、要するに知性や悟性レヴェルで語られてきたということが言える。つまり意味は真理と同様、感情とかそういうこととは無縁の位置に存在し得る、あるいは存在すべき価値のように考えられてきた。しかし私は意味とはそれ自体一つの感情以外のものではないと考えるのである。
 それは感情自体が一つの何らかの対象や事象に対する心の志向性の位置づけである以上意味づけ以外のものではないという事実とまさに表裏の問題なのである。
 例えばある者が宗教的信仰を何らかの人生経験によって得たとしよう。そして彼は神というものを存在し得る、と言うより存在しなくてはならないという信念を持った時彼にとって神とは存在すること自体で一つの意味を、そしてここが重要であるが、彼自身にとって実在的価値のあるものなのである。すると彼にとって神という存在の意味とは、彼の神そのものに対する信仰を彼の内部で正当のものとする、つまり彼をそういう判断を決意の下で可能とする感情的様相と無縁であるわけはないだろう。つまり意味とは存在理由のことであり、その存在理由を確固とした形で心の中に現前させる当のものとは、世界全体、つまり彼の人生そのものが志向する先に見出される意味、つまり彼の日頃の平静であったり、時には緊急の怒りを抱かせたりする感情の様相に立脚した感情調節作用そのものである筈なのだ。
 何か特定のものに対する感情を構成するものとは記憶であり、記憶内容である。それは心の中のデータベースそのものであると言ってよい。通常古代ギリシャの哲学以来感情というと、悪によって囁かれる悪意とか、捩れた欲望と捉えられることが多かった。そして理性はそれを抑制し、道徳心がそれを補佐するという風に考えられてきたのである。
 しかしそもそも道徳とは一体何なのだろうか?例えばある他者の行為を見て、それを正しいこととか善いことであるする心の作用とは、その行為を行為として成立させる別の行為やその行為者の日頃の行為や考え、あるいはそれらによって得られた自らのその者に対する像(記憶による一つのデータ)を結集させて判断していることが多い。
 つまりその他者の行為を行為として位置づける時、行為自体の意味もさることながら、その行為自体が独立して持つ意味以外にも、その行為者に関する過去のデータや、その行為者の思惑といったことをも加味して「善い」とか「正しい」と判断しているのである。
 すると誰がどんな状況においてなしてもそれを「善いこと」であり「正しいこと」であるとしている判断とは、その行為者自身のデータとは無縁に成立し得るものとすると、それはカントが定言命法と呼んだものをここに想起しても差し支えないが、そういう道徳法則とか道徳律ということになるかも知れない。
 しかしその道徳律とか道徳法則と呼ばれるもの自体も、実は過去においてある行為をなした者を我々はいつか目撃して、それを「素晴らしいことだ」とか「美しいことだ」とか逆に「忌むべきことだ」とか「汚らわしいことだ」と判断してきたことに立脚している。
 そしてここが重要であるが、そういう場合に我々は一々私にとってとか、私の内心においてということを意外に多く意識していないで判断しているのである。
 寧ろ私ということを心の中で言う時とは、一般的に「正しい」とか「悪い」とか「間違っている」とか「清らかだ」と判断していること自体を判断として一方で持ちながら、その判断における感情(私は悟性的、理性的、道徳的判断の全てを感情と見做している)を適用する先に自分自身を持って行く時になって初めて登場する対象であるとさえ言える。
 つまり私とはそういう風にかなり高次の自己‐他者関連における最終段階において登場する判断であり概念であると言ってよい。しかし一旦そういう意識を持つと、途端にそれがそれまでの全ての心の作用を私自身が(それは私の脳であり私の身体ということなのだが)なしてきたという風にまるで強烈にその存在感を私自身の心に巣食わせる一個の脳内幻想である可能性もかなり強いのである。
 つまり「自分は今まである他人のことに就いてあれこれ「いい」とか「悪い」とか判断してきたのだが、ではそういうこの自分自身とは一体どうだと言うのだ」と自問した時に初めてそれまで主観で他者は外界について全て知覚されたことを通して判断してきた感情的意味づけに対して「そういうお前は一体」という自問自答において初めて顕在化する意識であると言ってよい。だからサルトルが「存在と無」で言っていた対自ということの内にも実は自己を他者との比較とか、相関において意識するということがなければ実はあまり大きく私という意識は介在してこないのではないかということが私が考えるということの真実なのである。
 このことはある意味では哲学者、永井均氏の<私>ということをその命題論的には容認し得ても、認識論的に、あるいは心の実在論的には幻想であるという判断をせざるを得ないことにある考えでもある。しかも永井氏は形而上学的可能性において<私>を考えておられるのだが、果たしてその形而上学的な論究可能性自体がどれほどの想定意義のあるものであるのか、その有効性自体を検証し直すことを提言することを強いる考えとなる。
 つまり私は<私>は先験的に在り得るという心理自体に到達し、そこから逃れられないジレンマとして、本論ではそういう<私>という極めて魅力ある幻想を脳が私たちに付与し得る内実として心の内部の意味づけ作用と、感情的対外的処理という判断という位相で、考えていきたいのである。つまり本論はある意味で「私が成立し得るのか」と「成立している私とは本当に私か」ということに対する問いでもあるのである。

 付記 本ブログは来年(2010年)正月明けまで休暇を頂きます。またお会い致しましょう。(河口ミカル)

Tuesday, December 8, 2009

<感情と意味>序

 哲学で感情を正面から捉えようとし始めたのはごく最近のことである。またそういう動きが注目を集めてきていることの背景には脳科学の進歩が多大な影響を哲学に齎しているということを抜きには語れない。
 そもそも感情とは先駆的存在であるウィリアム・ジェームスとか、彼にも啓示を受けたベルグソンたちが取り上げたことを除いて、多くは近代において理性によって克服すべき対象に留まっていたということが言える。しかし最近では衝動に関しても気分や雰囲気に関しても、あるいはクオリアに関しても多くの論述が寄せられるようになってきたので、ようやく感情にもスポットライトが当たってきたと言うことが出来るが、そもそも感情と言うとどこか激烈な怒りとか、憔悴しきっている悲しみを連想しがちだが、それらの感情も勿論感情であることは確かだが、寧ろ日常的には例外的感情であり、私たちは殆どの時間を怒りでも悲しみでもないタイプの平静な感情に支配されている。
 また感情は動物的本能に近いと勘違いしている人も多いが、実は極めて感情とは身体的な部分も多大にあるが、同時に言語認識的なものでもあるのである。
 と言うより感情とは身体的な状態とか、それに伴う現象的な心地とか今という意識とかと同時に言葉による理解とか把握とか認識、思惟全般にもかかわっており、その意味では身体と心を繋ぐ、と言うよりそもそもそのように身体と心を分けて考える習慣そのものを無効化するようなタイプの、要するに二つに分けて考えてしまうこの習慣そのものをも育んでしまう根幹に位置するもの、しかも身体と心を意識の上で往復させるものと言ってもよい。その観点に立てば、逆に私ということと公ということを往復する意味に寧ろ近い。
 私は本論では意味ということを、公私の往復、往来を基軸に考え、感情を身体的な健康状態や、心理状態を綜合的に判断する本能的でありながら尚且つ極めて思惟結論的でもある感情を意味というものの存在と並行させて考えたいのである。
 私は以前に他者存在が衝動そのものを育むという視点から「他者と衝動<羞恥論序説>」と「羞恥論<衝動論第二節>依怙地と素直」(双方とも「決心の構造」同じブロガーブログにて掲載更新中)を続けて書き、他者存在に対する不可避的意識を羞恥とその克服から捉え、死ということの想念と絡めて「存在と意味<武蔵が克服したこと>」(当ブログ過去更新記事として掲載)を書いた。その後「意味の呪縛」(当ブログにて前回に記載)という短論文を書き、「トラフィック・モメント<自由・責任・言語と偶像化」(同じブロガーブログにて掲載。今はその続編も更新中)を書いた。今私は感情自体の意味的側面を前面に出しこの論文を書く決意を固めているのだが、この論文はもう一つの論文「作られゆく真意」と並行させてその存在理由を考えている。
 それはそちらの論文がキリスト教神学者たちに関する魂の叙述を多く取り上げ、哲学にとっての神を神学や宗教にとっての神と対比させて考えている手前、こちらにおいては、その信念における判断と決意の問題をより感情と意味作用として考えることを目的としたのだ。さてどのような展開になっていくか今は私でさえ予測がつかない。そしてその予測のつかなさそれ自体が感情と意味に包まれて生きていくということではないかという漠然として考えが今私の脳裏に立ち上っている。
 確かに宗教の信念にはどこか潔さのようなものがある。それは基本的には無神論者である私には一つの提言をしてくれているようにも感じられる。しかしそれもまた無神論の信念と同様一つの意味以外のものではない。そして意味そのものが実は一つの人間の脳の思考活動の感情的所産なのである。
 日本人である私には実は日本人を客観的に見ることは出来ない。しかし今や我々は実はキリスト教徒たちや欧米人に対してさえ客観的には見ることが出来ない時代に生きているのである。しかしそういう客観的に見られなさ自体を客観的に捉えることなら案外可能かも知れないという漠然とした根拠のない信念が実は本論を支えている。つまり主観的にしか見ることの出来なさ自体が客観的考察対象として考えることが可能のように思えるのである。しかしこの主観‐客観ということはかなり困難なプロブレムなのである。それは意識のハードプロブレムと多くの哲学者たちの言ってきていることと同じなのだ。

Friday, December 4, 2009

〔意味の呪縛〕結論、意味化される幻想と欠如

 詩人にとって詩作はある意味では常に彼の遺書である。また画家にとって絵画は常に彼の遺作である。全ての芸術的想像、映画や音楽、それ以外の全ての表現は彼らの遺書、遺作なのである。
 そのような意味で哲学者にとっての哲学論文は彼らの遺書であるし、科学者の論文もやはり同様である。政治家にとっての政策や政治的行動、戦略の全てもまた彼らにとって遺策なのである。
 森口華弘という染色アーティストがいたが、氏は常々次のように言っていたという。
 「絵を只の思いつきで描いてはいけない」
 この考えはつまり絵画というものが、ただ単なる感性の遊びではないということと、用意周到に練られたアイデアは既に思いつきではないということを示している。
 アーティストにおいて全ては価値的に、その時代によく名前や作品の知名度が流通しているということが彼のアーティストとしての力量の十分条件ではない。それら流通されたイメージとは全てアートディーラーたちによる営業上の戦略の結果でしかない。
 アーティストが彼の生命を賭けるものとは何かと言われれば即座に彼らはこう答えるだろう。
 「私たちが生きて何かを見て何かを感じたその痕跡を残すということが意味ある行為であるということを示したい」
 つまりそれは行為という名の人間行動の全てが意味化された幻想であるということ、そしてその幻想は常に自己を欠如態として認識することに端を発しているのである。
 勿論アーティスト毎に異なった言説が用意されているだろう。しかし恐らく彼らはいくら言葉の違いを持っていても、私が「」内で示したことが創造の根幹をなす真理であることを疑う者はいないのではないだろうか?
 どんな存在者もいつかは死す。この真理に目覚めない存在者はいない。しかし生きているということは実はかなり辛いことの方が多いことなのだ。それをあたかもそうではないように相互に装うところに生を生きるということの辛さも楽しさもある。つまりそれを他者に伝えたいということが人間が哲学的存在者であるということの証なのである。そのことについて考えてみたい。
 茂木健一郎氏の最大の功績の一つはクオリアという概念を定着させたこと以外では、感動という言葉を定着させたことであろう。何故なら私たちはそれまでに脳科学を初めとする多くの学問で、率直に感動という言葉を使用することに躊躇ってきたきらいがあるからである。しかしどんなにつっぱってみたところで感情、情動、感覚、感性という言葉からは感動する時のニュアンスを伝えられない。だからこそ感動という言葉には存在理由がある。
 人間の脳は茂木氏に拠ると、何かに感動するとそれを人に伝えたくなるのだそうだ。
 さて動物であるが、彼らには自分たちが所有している能力それ自体を他の個体へと伝える能力は持っていない。つまり彼らにも何らかの意味で過去に関することを記憶する能力はあるだろうが、そのこと自体を他個体へと伝える能力はない。ただ彼らの内面においてその能力を利用するだけである。要するにただの内示である。
 しかし人間はそれが可能なのである。つまり何か特定の能力を自分がたまたま持っているということを他の個体へと伝えることが出来た。そうすることが出来たということはそうする意志と欲求を持ったということを意味する。そして意志や欲求が感動を呼び起こしたと今までの哲学では考えてきた節があるが、私はそうは思わない。寧ろ何かに感動したからこそ、それがたまたま自分が何かを覚えていることそれ自体であったわけだが、それを他の個体へと伝えたい(伝えるためには何かその感動を別の形にして示す必要がある)という欲求へと転化したわけである。
 それは明示である。つまり内側に感じたことを外へと出すこと、表現することである。
 つまり何かおいしそうな餌を見つけた時、その餌を前にして他個体に伝えることなら動物でも出来る。しかしそうするにはまず前提としてその他個体がその場に居合わせなくてはならない。その眼前にある餌を目線で示しただ唸ることなら動物にも出来るだろう。
 しかし餌が向こうにあったということ、今この自分たちの眼前にはないということでもあるのだが、それを相手に伝えることが動物には出来ない。たとえ向こうに餌があることを彼らが知っていたとしても、それを伝えるためには彼らは他個体をそこまで連れて行かなくてはならない。尤も鳥類には彼らの仲間に餌の在り処を示す固有の啼き方があり、それが一種の言語として機能しているということがあるから、当然他の動物、例えば哺乳類である犬や猫でもそれに近い仕草とか鳴き声といったものがあるのかも知れない。しかし一番重要なこととは、人間にはその発見事実そのものだけではなく、その発見したという事実に対する感動そのものをも伝えられるということなのである。
 考えを元に戻してもう一度考えてみると、人間はまず今眼前にはないものを、例えば向こうにあったと伝えることが出来るということは、言い換えれば、向こうにあるものが「あった」と伝えることなのだ。それはつまり自己の記憶内容そのものの伝達という面もさることながら、もっと重要なこととは、今現在そのものの存在に対する記憶を、あるいはそういう風に記憶していることそのものを相手に伝えられるということをも意味する。それは自らの能力そのものを、あるいは自らがその能力を有していることそのものを相手に伝えることが可能だということだ。と言うことは即ち人間は少なくとも自己の能力そのものを相手に伝える欲求、あるいは意志そのものを言語獲得のプロセスにおいて持っていたということを意味する。
 不在のものの存在を今伝えるということは、即ち過去の事実を報告することであると同時に、過去事実を記憶している自らの記憶内容の報告であるし、同時にその能力の誇示という側面も持っている。そしてその際に重要なこととは、その能力の誇示ということが記憶内容の報告という意志・欲求となって顕現されているということなのである。
 そのことは逆に人間以外の他の動物たちは「伝えること=過去事実を記憶していることを伝えること」という意識がないということを意味する。あるいはそういう意志・欲求に関しては欠如していたということになるのだ。
 恐らく彼らは向こうに餌があったなら、そこまで他個体を誘導して行ってそれを前にした時に「これだ」という叫びを挿入して、示すことしか出来ないだろう。その時初めてそのものの発見事実に対する感動を伝えることが可能となるのだ。
 しかし我々は少なくともただ発見事実だけを伝えれば、それでたちまち相手に意図は伝わり、その事実を伝えられた者だけが向こうに行けばそれで済む。このことは時間効率的にも労働効率的にも著しくヒトという種にメリットを与えたであろう。つまり餌を取りに行く者と、それを待つ者は全く別の作業へと勤しむことが可能となるからだ。
 つまり人間の進化の歴史において極めて重要なこととは、端的に自らの保持している能力を相互に伝達し合うということそのものが、経済効率的な側面でのメリットへと繋がって行ったということなのである。そしてその際に伝達する内容と、伝達する内容を知る能力それ自体に対する感動という心的作用があったということが極めて重要であると私は考えているのである。(ここら辺の私の考え方を誘引して下さったテクストとして小浜逸郎氏の「言葉はなぜ通じないのか」という本があるが、この本からは実に得たことが多かった。)
 この人間と動物の間での実現能力の違いは極めて大きい。つまり現前しない今は不在である事物や現象を対象として認識し、それが存在していたが今はここにはない、あるいは今は既になくなっているかも知れないが、あの時はあったという<事実の報告=発見した自らの行為の誇示>ということが他個体へと齎す効果とは、それが今必要であるのなら、直ちにそこへどちらかが赴き、確保するという行為へと誘発されるからである。
 そしてその行為の誘発自体が他個体への記憶内容の報告=自己記憶能力の誇示=他個体も同様の能力を保持していることに対する信頼ということへと繋がり、脳科学で考えられているという茂木氏の報告の通り、感動したらそれを人へと伝えたくなるという脳の作用を考慮に入れるなら、私たちの祖先は自己内では知っている能力そのものを他個体へと伝え合うことを通した協力という行為へと直結していくようになったのだろう。その他個体への報告から誘発される協力への要請という意志・欲求はそれを可能にする情動を既に人類が持っていたということを意味する。
 この相互に自己能力そのものを伝え合う、あるいはそれがあることに対する感動を伝え合うということは、能力として考える時、明示能力の有無ということであるが、私たちにとっての同一種内他個体がまさに他者としての意味=存在理由を他の動物にはない形で有することとなったのだろうと私は思う。
 この相互に自己能力そのものとそれがあることを報告=誇示する能力は、餌の発見的事実だけではなく、餌を発見したことを報告することが可能であるという能力それ自体への感動ともなっているということなのだが、その自己能力そのものへのナルシシズム的な伝達意志・欲求とその実現こそが私たちを哲学的存在者へと押し上げたと言うことが出来る。
 動物にもそれなりに不在のものを表象する能力はあるのかも知れない。しかしそれは内示に留まり、それを少なくとも他個体へと伝えようという気持ちには彼らはならなかったし、なれなかったのだろう。つまり内にあることを外に出すという明示性が全く彼らには欠如しているのだ。内にあることを外に出す時には必ず、内にある形のままでは伝達し得ないということが何となく理屈としてではなく直観的に私たちは理解している。(そのことが哲学者永井均氏のライトモティーフである)だからこそそこで言語が必要とされたということである。
 まただからこそ人間は自らを欠如として認識し得るのだが、何か(考えるべき対象)が人間ではなく別のあるものであったとしても、それを全体として認識した時に、欠如であると認識し得るとしたなら、それは要するにそのあるものを他のもの一般と比較することが可能だからである。欠如とは端的にそのものの他にはない長所や充足に対する認識と同時的なものであるからだ。そして重要なのは、何度も繰り返すようだが、その欠如とか充足という認識それ自体を、そしてその認識の発見そのものに対する感動を他へと伝えようという意志・欲求を所有しているということなのだ。そしてその意志・欲求の所有に対する感動をも伝えられるということ、つまりメタ認知能力の有無こそが人間と他の動物とを決定的に分かつものなのである。
 勿論私たちは言語を習得することとなったから結果的にそのような意志を所有することとなった、とそう考えることも可能だし、通常私たちはそう考えられよう。しかし脳科学的に海馬の助けを借りて側頭葉へと収納される記憶内容は常に扁桃体という感情的判断を司る脳内の部位とかかわっており(そこら辺は薬学部出身の脳科学者である池谷裕二氏の記憶に関する研究に詳しい)それが前頭葉の意欲を活性化し、刺激しているのかも知れない。
 そう考えれば、私たちは既にある能力を所有した段階で、その能力の保持それ自体(感動)を他へと伝えたいという欲求を抱いていたと考えるのが自然かも知れない。
 通常偉大な仕事をしている人、なし得ている人というのは、そのことに対して無自覚ではない。勿論大変な発見をしたのに、その偉大さに気づかないでいて、誰でも考えることなのではないかと思っている状態というのも考えられる。しかし恐らくそういう場合ですらじきにその者は自分の発見したことに対してその偉大さに気づいてくるものと考えられる。つまり私たちの祖先はまさに記憶内容→記憶事実の報告への意志・欲求という他の動物には決して見られない稀な能力、つまり自らの能力自体への感動、自らの能力の素晴らしさへの感動を共有したいということを感じ、それを必然的に他個体へと伝えようとして、そのことも一つの能力となっていったのである。
 だからこそ私たちは絵画を鑑賞することが出来、詩の内容とその響きを感動し理解し、一定時間内に音の配列をして、それを聴き、体を動かし、合わせて口ずさむという音楽を奏で聴いて楽しむということが出来るようになったのだ。これらはまさに自らの感動を他へと伝え、その感動を共有したいという意志・欲求そのものが能力として定着したことを意味するし、まさに芸術とか文学とか哲学とかはその賜物なのである。(了)

 付記「意味の呪縛」はこれで終了致します。次回からは「感情と意味」(最新論文の一つ)を掲載更新していきます。その用意と休暇のため後日再びお会い致しましょう。(河口ミカル)

Thursday, December 3, 2009

〔意味の呪縛〕十、行為という幻想と記憶の自己欺瞞

 サルトルが「存在と無」で示した自己欺瞞は、とかくそのテクスト自体が多大な影響を被ったハイデッガーの「存在と時間」中に登場する重要な概念である頽落と極めて近似的概念である。
 我々は日々真理と程遠い状態で生活していることそのものをハイデッガーは頽落という形で示したのだ。歴史認識から生そのものの本質規定から程遠い状態で生活するということはサルトルの自己欺瞞からも、ハイデッガーの頽落からも推し量ることが可能である。
 しかしフッサールは生活世界ということを考え、ある意味では頽落状態とか、自己欺瞞的生活が必ずしも悪いことではないという視点をも導入している。だから全ての人間の動作がただ動物的、生物学的で生理学的な範疇でだけ語られることを拒否する哲学的形而上学性が、私たちに行為という概念を提出させるのだ。
 しかし行為ということはある意味では目的とか、原因と結果とか様々な時間論的概念、あるいは因果律、存在理由、価値といった認識論的カテゴリーによって人間の諸行動を規定する考えである。つまりそれは人間の行動はただ動物が餌を求めて流離う(さすらう)時の動作とは違うのだという意識によるものである。だから行為性とは端的に頽落した現実認識とか社会規定的なルティンを超え出た真理目的的な認識なのである。目的とは会社に通うということが生活費を稼ぐことであるというような日常現実的目的性から、では何故働くのかというもっと究極的な価値論的な目的性へと転換し得るような意味で、極めて論理究明的であるというより、より倫理的、より哲学的問いそのものである。
 そもそも究極的とか、根源的とか、原初的とか、起源的とかの語彙そのものが哲学的思惟による産物である。それは日常形式的言説の全て、スーパーのちらしから役所の文章に至るまで全て空虚な言語に対して、その頽落と自己欺瞞を削ぎ落とした真理言及的、真理志向的な充実言語を前提とした語彙である。例えば私たちは言語表現を超える感動とか言う時、明らかにその言語表現ということが、陳腐な形式的形容であることを意味している。つまり真に詩的言語であるなら、我々は筆舌に尽くし難い経験をも言語化することを厭わない。そういう意味では行為性とは本来全く無自覚的な薄弱な意志による行動さえ、それを言語化された認識で捉えようとする我々の意志による考えである。
 しかも我々は行為という一種の幻想を全生活体系の中に組み込みその行動の全般を価値的に認識するかと思えば、記憶そのものをも言語化する。つまり記憶さえある枠組みにおいて想起を促すように持っていく。それは心理的トラウマを抱えた少女が多重人格的症状を示す場合ですらそうである。つまり記憶そのものさえ自己欺瞞化して考え、想起をも意図的に操作しようとする。
 そもそもそのような意図がないのならば精神分析とか心理療法などというものは成立しようもない。
 私は「時間・空間・偶然・必然 意識という名のミーム」において結論最終部において、世界中の固有の物語を生きる「私」保有者たちも又、<私>をも持っている筈だ、と私は理解出来る、それ故私は<私>にとっての「私」と他者から見た「私」が異なっていることをやむを得ないとしても、その事実に対して異議申し立てしたい、何故なら世界中の「私」保有者たちも又そうしたいだろうから、と考えたのだ。その時私は私の脳裏に何らかの形で「私」に対する私の記憶、それが<私>ではないかと考えたのだ。<私>とは永井均氏の主張される固有の私のことである。
 つまり他者は「私」を私の外部、つまり私の身体を通して得る。それら一瞬一瞬の姿を綜合したものが彼らの私に対する記憶となり、それが彼らにとっての「私」に他ならない。つまりその二つの間の齟齬は如何ともし難い。しかし私は考える。私以外の全ての成員(地球上の)はそういった固有の「私」に対する記憶を持っていて、それが個々の<私>となっているのだとしたら、恐らく彼ら全ても私のように他者から見た「私」と自分で感じる「私」にはずれがあるだろう、そしてそのことを誰かに告げているだろう。つまりそれが個というものに存する欲求であり、フォイエルバッハはそういった意志と欲求のない人間には摂理は理解出来ないだろうと考えた。(「キリスト教の本質」上、船山信一訳、岩波文庫)つまり彼が言う摂理とは恐らく現代科学においても、外在的にそのメカニズムを理解することが出来たにしても、個々の身体的律動の全てや心的活動の全てを一々その様相に対する根拠を論うことの不可能性、つまり今日的言葉で言えば複雑系の更に複雑系であるところの心の在り方は従順だけで何もしないようにただ無気力だけではないということ、そして予定調和を考えることはしても、では果たしてその予定調和に従うということにおいて真に予定調和が顕現されていると言えるのか、つまり神がいるとすれば、私自身の<私>さえお見通しである筈ではないのかという疑問を押さえつけられないということだったのだろう。
 彼にとって神とは人格とか価値そのものであり(その意味では極めてフォイエルバッハは無神論の先駆けと言ってよいのだが)それらが存在全体に対して存在という価値、意味を与えており、事物を事物として認識すると言うより、事物であるという意味を与えているのは人間である(ここら辺の考えはハイデッガーに影響を与えている。)ということであり、つまり存在を外から規定する超越的実在論的認識は、しかしある意味では人間の因果律的な思考傾向性を表してもいる。
 しかし少なくとも私にとっての<私>が、他の一切の私にとっての他者の抱く<私>、つまり<<私>>がまずあり、それら<<私>>の中の特殊な一個、唯一そこから世界が開けてきているところの<<私>>こそが、この私にとっての<私>であると想念し得た時、私たちは認識論的存在者(<私>を認識しえる)から真に哲学的存在者としての資格を得るとも言い得るだろう。つまり私は私にとっての「私」と、他者全般にとっての私の「私」が異なることを知っている。しかしその差異を私は運命として引き受けて生きており、その差異そのものは否定しない。ただその差異の中からしか私の意志や欲求や、願望や理想は生じないということも私は知っており、それを私は他者へ伝える。それを伝えた段階では私はただの認識論的存在者であるに過ぎない。しかしそこで他者は私に私と同様のことを告げる。すると私は恐らくその他者もそうするだろうが(ひょっとしたらゾンビかも知れないので)彼(女)と共に、何らかの行動を起こす。その行動が行為という幻想としての意味を持つのなら、即ちそれは世界中に散らばる全ての存在者たちが同様の「私」という物語を巡る齟齬を感じつつ生活していることを、そしてそれら一つ一つが何らかの形で意味を持つということ、それは権利などという陳腐な言葉では収まりきらないだろうが、その意味=存在理由=価値ということを私は隣人たる他者と共に示し続けていくのである。そしてそれを何らかの形で世界に散らばる存在者全体の中に位置づけようとする時私たちは哲学的存在者となるのである。
 勿論世界にはその思いや行為の軌跡が世界中の存在者に知れ渡るような幸運にして価値ある存在者もいる。しかし殆どの存在者、私もその中の一人なのだが、世界に自分の行為を意味として位置づける、行為=価値という幻想を只管信じて生きることしか出来ない。世界に自分の行為を意味として位置づけるということは、自分の行為に世界を見ること、行為する自分に世界を見ることに他ならない。それは世界中に自分の存在が知れ渡るような幸運な、しかし同時に不幸な人と自分を違うという風に理解することでもない。ある意味ではそれは決定的に違うが、ある意味では何ら変わるところがないとも言えるからだ。
 つまりその変わるところがないという部分とは行為が価値として、自分の内部にも、その内部を私という「物語」を生きる者として宿命づけられた私たち全てが例外なく経験する「私」(私の内部にはかかわりなく外部から規定されている私)を背負う時に引き裂かれる価値、つまり私にとっての行為の価値と、「私」として外部から見られる者の果たすべき価値との間で引き裂かれるという事実に常にどう対応していくかということである。
 どのような存在者にとっても外部から規定される自分である「私」と、私が私の意志で示しているところの「私」とのギャップに懊悩する。しかし一番切実なこととは、敵対する者とか、初めから理解が得られない相手から私に与えられるその種の懊悩以上に厄介なのは、自分に対する一番の理解者、あるいは、考えの上でも職務上でも性格でも、最も自分にとって馴染みがあり、本質をこちらからも理解出来る存在者との間で起きる齟齬であるということである。その齟齬に対する理解者からの無理解ほど深刻なものは恐らくこの世には存在住まい。これは恐らく人類が始まって以来これから人類が絶滅するまでの間にも解決し得ないことだろう。
 それは<私>が永井均氏の言うような意味で他者に伝えることが出来ないということから来る深刻さなのである。
 しかしそれが深刻であると捉えられるのも私たちが生き方において意味において規定しているからに他ならない。私たちは私たち自身によって作られたものに大きく精神的に依存している。聖書、クルアーン、カント、ゲーテ、ベートーベン。それらの偉大なテクストや作品から啓示を受けるという事実は、自分たちによって拵えられた体系や意味の世界、あるいは端的に勝手に創造されたものからしか神という観念さえ捉えることが出来ないのだ。神は明らかに聖書によるパウロによる指示によって私たちはその実在に対して、存在理由に対して向き合うのだ。それは無神論においてさえ同じことである。無神論という意味を例えばダーウィンやニーチェや意味の体系から構築するのだ。
 何故そうなのかと言えば、それは囚われている状態であるという一つの欠如がそうしていると言える。
 そもそも哲学で行為と言えば、それは意味として人間の行動を、例えば因果論を機軸に考えているということである。価値として行動することを考えているということなのだ。
 私の友人の社会教育学者であり倫理学者である国井寛氏は、衝動というものを差異と反復として捉えている。同じタイトルの名著がドゥルーズにあるが、まさにあの差異と反復としてである。
 その衝動を喚起するものはやはり現在であると私は考えている。氏もそのことについて同意して下さった。つまりマイケル・ポランニーの暗黙知とフッサールの受動的総合が重なる地点のものとして衝動を捉えることを可能とする考えである。
 だが意図とか意識というものも一つの衝動であると捉えると、ある意味では人間の欠如に対する認識は倫理によって生み出され、欠如が意味を作っていると言える。例えば精神科医の和田秀樹氏に拠れば、フロイトはあくまで精神病患者の治癒を理性論的な解決によるものとしたのだが、彼の後裔たち、例えばコフートやロジャースはあくまで医師と患者の間での共感(そのことはフロイトに拠れば転移で言い表されているのだが)や依存といったことにおいて理解されていると言う。
 つまり人間の脳内での綜合作用とは依存と共感によるものなのだ。だからその理解ということの隙間に明らかにアートに対する感受性とかクオリアといったものが介在すると思われる。それは逆に考えれば、意味の呪縛から必死に逃れようとする人間の本能的な知覚や感覚における律動なのではないだろうか?
 永井均氏は独我論が、あるいは独今論(今だけが常に意識の中心であり、未来の自分というものを今以上に切実なものとしては捉えられないということ)が、本質的に普遍化することが出来ないということを主張している。(「倫理とは何か」他のテクストにおいて)もし私が私にとって都合のいいことだけを望むとしたなら、その功利主義は一般化され得ないことを私は望むからである。もし仮にあなたが私と同様あなた自身の益だけを望むように行動したのなら、必然的に私にとっての益にはならないかも知れないので、このような考えは一般化、普遍化され得ず、密かに実行されなくてはならない。
 しかしそのように予想してしまうということそのものが既に私たちが生存とか、他者の利害といった言語化された想念によって意味的に規定を受けている証拠でもあるのだ。
 サルトルは竹田青嗣氏によれば、折角フッサールが狭義のデカルト主義から脱却させたことを再びコギトに立ち返らせたということになる。それは「存在と無」における幾つかの論説において明らかである。しかし彼の功績は寧ろ対自と即自をヘーゲル的な教義から発展させて人間存在を欠如態として捉え、ある充足がなされた瞬間に新たな欠如を現出させるような内的関係を捉えたことにある。つまり完了したと同時に再び未完の状態へと送り返される永遠の未完成であるところの人間存在は、それ自体で一つの欠如である。しかしこの社会には多くの肩書きが存在し、その権威を巡って喧々諤々人間がのた打ち回っている。つまりそのことを彼は自己欺瞞と呼んだのだ。このことは確かに古典的カルテジアンとしてのマニフェストをなした「存在と無」における最大の功績である。
 つまり意味とは充足されたものではなく、寧ろ別のもう一つの意味へと移行するために思惟上も、想念上も存在すると言ってよい。つまり私たちは倫理への問いとか価値についての思索をするということそのものが、常に意味によって規定を受けていると同時に、意味そのものを常に「別の形」で模索していると言ってもよいのだ。行為が何らかの目的を持っていると言うことは出来る。しかし行為はなされてしまえば、行為の痕跡を残すこととか、行為の結果私たちの環境が何らかの形で共鳴したり、変化したりすることを確認することは出来る。しかしその変化や共鳴は、そこで常に別の形へと移行しつつあることを我々はその時知るだろう。音楽が反響する公会堂での演奏会では、その音楽が演奏され終了すると拍手が喝采され、やがてホールを後にする人々の騒々しい語りや息遣いが確認される。そして演奏家が終了したステージには観客たちが残していった埃と、静けさだけが支配する。それら一連の変化は実は行為がなされ得ようとする意志と、なされてしまった後のその場の変化を痕跡として残すということと、その痕跡を追認する私たちの想念が、私たちの未来に対して常に別の形での別の行為を用意しているということを物語る。それは言い方を変えれば行為性の相互依存である。
 ここで国井寛氏が私に語った「衝動とは差異と反復に起因すると思う」という考えについて少々分析してみたい。
 私たちはある意味では全て哲学的存在者として思考し、悩む存在であり、言葉というものの利便性と恐ろしさの只中にいるという意味では共通した存在である。永井均氏の「倫理とは何か」では次のように記述されている。
 
 ということはつまり、意見が対立するためには言葉の、一致が必要だということだね。
 そのとおり。・・・・・・なんだけど、逆もまた真だ。つまり、逆に言葉が一致するために、言語習得の初期の段階では、意味の一致が必要とされる。子供は、推奨語としての「悪い」を学ぶのと同時に、たとえば「友達を殴ることは悪いことだ」といった道徳的判断を鵜呑みにさせられる。いわば意味と意見を同時に教えられる。このことで直観主義者の言う「直観」が成立するわけだ。このとき、存在したはずの友達を殴ることの善さ・・・・・まさにそれが存在したからこそ道徳的悪さが発動してその存在を否定しようとしたはずのその善さ_はあたかも最初から存在さえしなかったかのように、闇から闇へと葬られることになる。
 ということはつまり、子供には「友達を殴ることは本当は悪いことなの?」と問うことがゆるされていないということだね。
 そう。問いがまだ「開かれて」いないんだ。この開かれていなさが直観が成立するための条件なんだ。でも大人になれば、言葉の意味だけ判断から切り離して保存しておいて、その意味を使ってきわめて特異な道徳的判断を表明することができるようになるわけだね?つまり「(道徳的に)悪い」という言葉を使って「友達を殴ることは本当に(道徳的に)悪いことなのか?」と疑問に思うことが可能になるわけだ。
 逆に、道徳的判断だけ切り離して保存しておいて、その意見を特異な言語で表明しても、ありふれた意見ならたやすく解読できる、という逆のことも言えるね。

 行為はまず我々にとって幼少期、実践として習得させられるし、私たち自身そこに未だ意味とか目的とか価値といったことを一々深く考えていられる余裕はなかった筈だ。その行為そのものに意味、目的、価値が見出されるのはずっと後のことである。つまり善悪を判断する力や、社会通念を習得して、行為の様々な社会的に通用するパターンを踏襲することが出来るようになって然る後、初めて私たちはそこに哲学的意味や価値規範的な問い、つまり何故そのような行為にモラル的な判断が必要とされるのかという切実な問いを社会通念を履行出来る立場から考えることが許されるというわけである。
 国井氏の発言にある差異と反復とはまさにこの永井氏の記述で示された最初の言葉の一致と、意味の一致ということが、共に自‐他関係において成立しているということと、その自‐他の関係そのものが私たちに意志発動、意志伝達の欲求を生み出しているということとして考えることが出来る。
 このことは別著「他者と衝動」(別ブログ<当ブロガー、プロフィールからクリックすればよし>「決心の構造」において掲載)で詳しく触れたので、そちらを参照して頂きたいのだが、私たちは他者の存在そのものが私たちの行為のモティヴェーションを規定しているということを知ることが出来るのは、言語行為という日常言語学派が示したように意志伝達そのものが既に一つの行為であり、それは身体的に何かを移動させたり、物質を変形させたりする以上に、相手に対して最も大きな影響力を持つということからも明白であろう。つまり精神的影響力とは、例えば人を侮辱する時に、その人の所有物を破壊することだけではなく、尤もその人の最も愛する者を傷つけるということが最も卑劣な手段であるが、少なくともその次くらいに卑劣なことというのは満座の席でその者を侮辱することである。
 つまり言葉というものが発せられることは一つの行為であり、その行為を引き出しているのが意味であり、意味は感情と密接である。そして言葉は確かに二人の間で交わされる時、語彙的指示性は共通している。だから今日使う今日という言葉は本質的には昨日は昨日のことであり、今日は今日のことなのだが、実は常にその日のことを指すという意味では変わらない。つまり反復されているということだ。それに対して、やはり昨日使った今日は、昨日だけのことであり、今日使う今日は今日だけのことであるという意味では全ての語彙はその時一回限りであることも多い。例えば河口としての私は、昨日は昨日の私であったし、それから時間がたって今日の私は確かに昨日の私とは違う、生理的な身体条件も刻々と実は変わっている。しかし少なくとも私という人格的同一性は保たれているという不変であるという条件で私たちは私たちの名前を呼ぶ。
 つまりどのような語彙間の使用条件や、語彙そのもののカテゴリーが異なっていても、その時こっきりの使用目的ということと、いつも変わらない使われ方が常に併用されているということだ。もし私が昨日は山口で、今日は海口であったのなら、そして明日は空口になるのなら、私自身が変わったということそのものが言い表せない。それは名前のその都度の変更とただ同様のこととなってしまう。あくまで人格内部の変化を表現するためには、私たちはまず基本的な身体的条件と、名前が常に同じであるということが必要なのである。つまりそれは他者存在そのものが言語行為の衝動を生み出していることと同時に自己同一性と人格的変化とが反復と差異との関係でこの場合捉えられるが、それ以外の全てのケースでも、例えば身体生理的状態も、私は昨日の私と同一の身体条件であるが、昨日の健康状態とは微妙に異なっているという意味ではそれもまた反復と差異とによって規定されていると言えるからである。
 それに私たちは私たちにとって意志的な発動を滞りなく運ばせるためにのみ記憶を援用するのだ。例えば敵対する立場の人間に対してエールを送らなければならない局面というのは人生に多々ある。しかし敵対する関係においてそう楽しい思い出ばかりが存在しているわけはない。しかしだからこそ敢えてそういう相手には、より苦渋の関係の歴史においても尚、その中で一筋の楽しかった思い出を語るということは多々あるのではないだろうか?
 つまりそれは記憶されていることを恣意的に美化することを意味しよう。それは言葉を変えれば記憶の自己欺瞞である。それはある意味では全ての人間関係において成立する記憶に対する検閲である。
 記憶は何か率先して主体的にしたいと欲求していることに対してはそのことに関する良好なイメージの記憶を想起させる。しかしそのような好意的な未来に対してではなく、止むを得ず執り行う幾多の行為を正当化する時にこそ、その行為を正当化するために必要とされる記憶が「そうあるべき事態」を招聘するために修正されるのだ。それは端的に制度とか他者の思惑それ自体に「合わせる」わけなのだ。
 それは無意識的に忘れたいことに目を瞑り他の今直面している重大なことではないものへと目を逸らそうとするのである。しかしそれは一旦定着すると次第にその記憶の摩り替えが習慣化してしまい、反省しないことが自己信条と化してしまう。これは社会的地位の高い人間も多く陥りやすいことなのである。
 例えば行為とはそれ自体で哲学的思惟の幻想である。しかし哲学的にそうある行動の連鎖を行為として位置づける時既に何かの流れ(仮にそういうものがあったとしよう)を恣意的に分節化しているわけだから、その「分節化すること自体を問う」という行為が新たに設けられなければ甚だ危険である。それは一種の思考の哲学ゲームへと我々を迷い込ます。だからそうならないためにも我々は巧くいったことを気が落ち込んだ時には思い出すことが必要だが、そうではない時には充実した過去だったと記憶を美化しないで、積極的に過去における自己の欠如を見出すべきではないだろうか?

Tuesday, December 1, 2009

〔意味の呪縛〕九、言語と行動の関係

 「起こり得ること」とはよくあること(のこと)である。起こり得るのだから以前にもあったのであり、これからもあることである。滅多にないことでも一度はあったのであり、一度もなかったことなどそう世の中にはあるものではない。例えばこの世界に一人も死なない人というのはいない。いたら、例えば五百年前に生まれてこのからずっと生き続けてきた者がいたとしても、この先いつ死ぬとも限らないから、結局のところ一度も今までなくて、それからも一度も起こらないことなど私たちは終ぞ確認することなど誰にも出来ない。そういうことをすらお見通しという意味で全知全能の者をかつて人類は神と呼んだ。理解出来ることというのはあったことを誰かが記憶していて、それが再び起こったのでそれをあの時のことであると了解することを基本としている。それは自分史的にもそうだし、人類史、地球史としてもそうである。だが信じるという心的活動はそういった理解のレヴェルとは全く層が違って、要するに何かをそうではないかも知れない可能性を知っていながら、絶対そんなことはない筈だという願望をも含み込みながらそれでもその可能性を信じないという決意の下であることを信じようという決心なのである。だからある行動へと身体を移す時私たちは何か特定の目的を持ってそうしている筈である。それがかなり習慣的なことであれば、ただ真剣に何かしようとその都度意識的にそうはしないで、殆ど自動的にそうするのだ。例えば自宅でトイレに行くとか、トイレを出る時には手を洗うとか、自販機で飲料を購入する時にはコインを入れるとかそういうことというのは、全て無意識の内に身体が動いていることの方が多いだろう。いきなり蝿が目の前に飛んできたなら、それを手で払い除けることもまた一々目的的意識などない行動である。
 しかし全ての行動は後で意味づけすることによって言語化し得る。自分の生活上での行動を無意識レヴェルの全ての行動をも後で反省的に言語によって表現することは可能である。
 では行動を採る場合、私たちは一々言語的に認識しているのだろうか?何か止むに止まれぬことをする場合とか、何か切羽詰まった時というのは、それでも普段の平静を保とうとして呪文のように「落ち着け。まずこれこれこうすることにしよう」と言葉を何度も何度も反芻して一つ一つ絡まった糸を解きほぐすように行動することだろう。意志とはそういう何か極めて危機的状況とか、不安や不安定な状況においてこそ意味を持つ心的な概念である。そして意志というのは、それは極めて不合理な感情であったり、説明不可な心理的なことが契機であったりしても、その<感情的契機によってある行動へと移す>ということにおいて明確に他者に説明し得ることである。
 例えば期待して入った映画館で、映画があまりにもつまらないために映画館を映画が終わらない内に出る時、人からもし「なんで今始まったばかりの映画を見ないで出るんですか」と聞かれれば即「あまりにも面白くなかったからです」とだけは返答出来るだろう。それは美味しくないレストランを出る時と同じで、その面白くなかった理由とか美味しくなかった理由そのものは説明し難いとしてもその面白くない、美味しくないということそのものは理由として挙げて説明することが可能だろう。
 つまり説明し得る理由というものは常に何らかの形で用意出来はする。しかしその理由の根源的な原因、つまり究極的な理由というのはほぼ説明不可能なことの方が多いということである。
 つまり意志と行動は常に直結しており、意志と行動の直結を他者に説明し得るということそのものが故意ということであり、明確な意志ということなのだ。そして意志が明確であるということがその行動そのものを行為として言語化可能であるということなのだ。
 勿論ある行動へと移された意志そのものの起源的な原因、つまり内的理由というのは一言では説明出来ない。例えばある趣味を止めて、別の趣味に没頭するようになったことというのを、心境の変化とか前の趣味に対して飽きがきたとかそういう理由を説明することは出来ても、ある意味ではそれ以上に、では何故飽きたのかということとなると、途端に説明が難しくなる、ただあまりにも頻繁にその趣味に精を出し過ぎたというのは理由としては説明になっていない。例えばあまりその行為が自分には向いていなかったのだと説明しても、では何故向いていなかったのかと問われれば途端に返答に窮することとなろう。
 だから必然的に私たちは人から何らかの行動の理由を問われれば、どこかでその理由で納得するということで常に落着させてきているということなのである。因果関係をあまりにも克明に究明し過ぎようとすると、明確な理由というものそのものが消滅してしまうことになりかねない。哲学、心理学、精神分析といった分野の学問はそのような理由の因果的遡及性をベースに汲まれた思想体系であると言える。
 そしてそれら全ての学問は言語によって営まれている。つまり言語とは何らかの出来事を過去にあったこととして現在において説明するためのものとして存在していると言うことも出来る。
 哲学は要するに生とは何か、つまり幸福とか行為の目的とは何かとそういうことを考えていった先に見出される根源的な問いを問う学問である。しかしその問うことは全て言語によって行われる。心理学は生とは何かということの問いの究明のために必要な様々な人間の精神生活上での心理全般を扱うし、精神分析はその心理が病理的状態であることを前提とした治癒という目的に沿った分析を旨とする。しかし全ての学問上での言語的営みは、総じて過去にあった出来事から類推された言語、例えば名詞や動詞は全て過去にあった事物や動作が規準になっているし、一見そうは見えない形容詞や副詞も過去の何らかの事象との出会いによって得られた感想とかその時々の判断に対する記憶がベースになっている。奇麗な花という形容も、凄く奇麗な花という副詞によって強調された形容も全て実はそれ以前に見たものの中でという比較とか最近過ごしてきた生活の単調さそのものをぶち破るくらいの感動を与えるという意味では過去の出来事との類比において成立している。
 いやもっと過去の事実と関係のなさそうな間投詞や、助詞(英語では前置詞)といったものでも、それらはそういう品詞の使用の仕方を習得した人間によるその時の感情的な様相を示すものなのであり、方法記憶の中に入るし、要するに記憶という最も重要な能力なしには我々は言語行為を執り行うことなど出来はしないのだ。そもそも身体的動作とか行動全般が、そういった過去による習得、過去の記憶を手がかりに行なわれるのだ。だから行動と言語を繋げるものもまた記憶である。行動とはそういう行動を採ったことがあり、その行動の結果どうなるかということが過去の経験によって知っているということをベースになされるのだし、そういう過去の記憶を瞬時に想起させることを手助けするものは言語である。つまり言語的認識が論理的道筋を立てて、考えることを促進しているわけである。
 私たちの生活では全てが言語的認識によって勿論成り立っているわけではない。例えばまさに感覚的な神経活動による授受などもそうだし、クオリアと言われるものもそうである。
 しかし少なくともこれらも常に言語的認識に助けられているということは言える。視知覚とは事物を対象化して捉えることであるから、あるいは痛みの感覚すらも、その痛みが身体のどこの部位において感じられているかという判断や、その原因について思念するわけだから、基本的に全ての感覚は言語的認識に助けられている。そしてそれは感情についても言える。そもそも感情とは対人関係において得られるものが殆どなので、仮に誰かから侮蔑的な言辞を貰い受けるという経験があったとしたら、まず言語的認識から我々は感情的な動揺へと至るし、仮にそのことを契機に日々憂鬱になっていったとしても、それは身体的情動を何らかの形で意味づけしてそれが感情となっているわけだから、感情ということそのものが極めて言語的なものなのだ。
 あるいは友人と出掛けた旅行の思い出そのものも、エピソード記憶として共に眺めた景色や車窓といったものもまた、それがいつ何時であったかとか、何処そこであったとか、要するに記憶内容を整理する際に私たちはたとえ感覚的な事柄であっても、その感覚を意味づけ、知識や経験を参考にして心的に何らかの判断を下す時、感情的な様相で理解したとしても、合理的に何かを判断したとしても、全て言語的認識に助けられているのである。
 それはクオリアについても言える。クオリア自体は確かに非言語的要素が強い。しかしその非言語的要素を自分で何らかの形で認識し、そのクオリアによって得た感動とか体験を記憶として保存して整理したり、自分の生活や人生に意味づけたり、位置づけたりする時明らかに言語の助けを得ているのだ。しかもクオリアとは過去に得た何らかの似た経験とか、エピソード記憶とかとも密接なので、必然的にそれらと現在感じていることとの対比とか、人生の全過程に潜む潜在的記憶と現在とは密接に関係しているから、それもまた極めて言語的認識(時間把握)と深い関係にあると見てよいだろう。
 つまりそういった風に言語や言語的認識と不可分の関係にある感覚とか感覚的授受によって我々は日々生活している以上、我々の行動全般も、たとえ身体生理的な原因による不随意運動に対してさえ、何らかの形で言語的に判断しているし、寝ている時、とりわけレム睡眠時に見る夢そのものもまた、言語的認識と無関係なものなどないだろう。だから必然的に何らかの無意識な身体的動作に関してさえ、ある言葉を聴いた時に条件反射的に連想することによって採られる身体的動作とか、要するに行動全般が既に言語的影響下にあると言ってよいだろう。
 記憶そのものも記憶間の連動ということも考えられるし、意味記憶化するエピソード記憶と言うものもあるだろうし、逆に意味記憶から喚起されるエピソード記憶というものもあるだろうし、何より身体的な運動記憶、手続き記憶などが言語を心的に誘発するといったことも稀ではないだろう。