Thursday, February 25, 2010

<感情と意味>第一章 第十二節 自我としての<私>の起源=振る舞いの哲学と言葉

 「私」は他者に私の全てを語っているわけではない。しかしその全てを語らなさという形で全て語っている。何かを明言しないことは明言しないという形で全てを明言している。「私」は私に対する同一性認識と「私」が取り敢えずは一致しているだろうとは思っていても、常にそれは完全ではないと知っているし、ある時は全くちぐはぐなこともあると思う。だから私は他者に「私」と私の同一性認識とが極端な形で外れ込んでいないものとして望む。だからその都度他者に申告する形でのずれを修正しようとする。
 その試みが発話となったり、記述となったりする。記述は主張となれば他者(その記述を読む人)を必要とし、他者に読ませないとしたら、それは書いた時点より未来における自分を他者として扱っている。
 つまり他者に向けられた全ての主張は何らかの形でそのずれに対する修正の意図が含まれている。そして自分のためにだけなされた記述は、自分で他者である自分(読者)を納得させるためにある。あるいは読者として納得するためにある。それは自分の中に他者を作ることである。逆に実際の他者に向けられた主張は他者の中に自分しか知らない部分を共有させようという意図が含まれ、それは明らかに他者の中に自分を作ることである。

 「私」は幼児が痛みや心の中の何かを訴えようと泣いたり、興奮したり(ぐずったり)することにおいて、その訴えに対して、例えば母親が、幼児の訴えの意味を把握した時に、「痛いの?」とか「辛いの?」とか聞くことから徐々に「痛い」とか「辛い」とかいう語彙を覚えてゆくわけだが、ある時その訴えが相手(この場合母親)に通じないこともあれば、逆に本当は悪さをしているのに、向こうからこちらが窮状を訴えているかの如く解釈されてしまうという事態に見舞われると、次第にある訴えを起こすことは、その訴えの内容如何にかかわらず、痛い時には痛い表情をしたり、辛い時には辛いような表情をしたりするその振舞いの仕方一つで相手には説得力を持つことを覚える。その時誠実であること(その時の気持ちを素直に表す)と誠実そうに振舞うということをどこかで一致させることを覚える。(と言うことは自己欺瞞を学習するということである)実はこの時私たちは、嘘も一つのやり方だと、あるいはもっと先にいくと、嘘も方便であると知るようになるわけだ。それは振る舞いの哲学の習得と言ってよい。
 つまり「誠実であること」は「誠実そうに振舞うこと」と表裏一体であることを知るとは、言語行為自体が何かを訴える真理だけではなく、その真理を運ぶ言葉の力によってであるということに対する自覚に他ならず、それは即ち「本当のことを告げること」は「本当のことのように(ことらしく)告げること」だという自覚だから、当然誇張も覚え、所々嘘を交え迫心の演技、伝達方法の工夫や知恵を覚えることでもある。
 これらは自我の確立とその他者に対する表現である。つまり「私」は何かを他者に告げ、告げる「内容」を考える時巧くその「内容」が伝わる時もあれば、そうでないこともあるという挫折をも含めた体験から、他者とは自分が自分の心を全て知ることが当然であることとは決定的に違うということを、何も言わずに黙っていては相手には何も伝わらないと言うことを知る段になって初めて知ることとなるのだ。それは別の角度から見れば、自分の心さえ他者を通してでなければ本当のところはよく分からないということを知ることでもあるのである。
 それは一つの挫折である。何故なら何も言わなければ他者は自分に対して何らのアクションをも発動させないということであるから、ただ黙っていることで自分は損をするといことを知ることだし、また誰かに「訴えてみろよ」と提言されなければ何も言わないままにしていることで損をすることを知ることだからである。それは自我という形での「私」性の獲得である。つまり自我=「私」性の獲得とは他者の心を「全て知ることは出来ないが、相手がこちらに何かを示す分には知ることが出来る」ということを通して知ることとそれは同時的なのである。
 しかし勿論こちらの伝えたいことの伝えなさは、例外的なことであり、概ね伝わるし、振舞いが真意と極度に乖離しているのに功を奏すこともあるが、それは稀であるということも知る。(だからこそ予想外に功を奏すという体験が我々に悪を目覚めさせる)従って振る舞いは多くの場合伝えたいことの円滑な伝え方というラインに沿って成熟していく。つまり本当に誠実であり、且つ誠実そうに振舞うという仕方においてそれを成熟させるのだ。だから逆に嘘も一つの仕方である場合もこの時同時に習得する。
 概ねそれは規約的なことであるというのは家族外的な他者を通して知ることが多いだろう。家族なら表情一つでだいたい察しがつくが、他者に対しては家族よりはより振舞い方が重要となるからだ。またその振舞い方の習得とは、通り一遍で他者に伝わることと、そうではなくかなり強調しなければ伝わり難いものもあるということの習得でもある。その二つが両極分離した形でその間に階層を作るのである。
 だからその伝え方に問題がある時私たちはそれを改良すれば(例えば使用する語彙を変えるとか相手にまず何か聞いてからそれを考慮して説明するとか)克服可能な領域というのは自ずと出てくるからである。しかしそれでも尚伝わり得ない時には、何らかの考究を持続することが自ら可能であると悟り(それが学問や芸術、文化への関心の萌芽となる)、そうではない場合は不安が付き纏い、その不安を聞いてくれそうな他者を探す内に友情というものを知る。友情は得られても得られなくてもその段になって知るのだ。
 「私」は他者との間での「伝えられなさ」の変化に伴って幾つもの像を自分に対して持つ。そしていつしか他者との関係が固定化しないような流動性の中から「私」の自己像がその都度変化しているのを知るし、それは続いている人間関係の中でもそうなのである。ある他者Aに対する認識はその都度更新されるからだ。そのことの覚醒の中から「私」とは何か、「私」の中の「変わりなさ」と「変わりやすさ」に対する考究が始まるのである。そして振る舞いの仕方にもヴァリエーションがあることを理解していく。またそれは役割意識を身に着けてゆくこととも重なる。そして役割自体の変化が「私」の在り方を変化させることを知る。

Friday, February 19, 2010

<感情と意味>第一章 第十一節 文体と記憶 

 もし統合失調症患者が多重な人格同士で対話し得るのであれば、一人でいたとしても孤独を感じることはないかも知れないと考えるのなら、それは安易である。何故なら彼(女)の中に宿っている人格は全て切り離されているから、孤独を感じないままでいる人格もあれば、そうではない人格もあり、それらは統合されていないのだから。
 既に私は今‐過去の自分だけは変えたくはないということだけが自己同一性を保証しているということを述べた。そして何故か殆どの人はそうである。統合失調症患者を除いて。
 統合失調症患者とはある意味では極めて自己同一性の欺瞞性に対して敏感であると言える。私が私の身体ではないという意味ではビリー・ミリガンたちは身体はただの借り物であるという魂の方の優位を一番よく知っていることになる。ビリー・ミリガンとは24の人格を持つダニエル・キースの小説のヒーローであるが、それら24の人格は相互に交流がないのであれば、身体とはただの借り物であるに過ぎない。要するに終ぞ彼の身体の中で人格は統合され得ないのだ。それはある意味では公的な意味で一つの身体=「私」と言うことがあり得ないということである。そして肝心なことは「彼ら」が既に身体と同化した自己同一性を求めていないことになる。
 もしビリー・ミリガンのように幾つもの人格が一つの身体に宿っているのなら、その24の人格はまるで独立した魂のようにたった一つの身体を時折借りてその時は他の一切の人格を押し退けてその時ばかりは利用出来る唯一の道具に出会ったかのように縦横無尽に振舞うものだから、なかなか個々の人格にとって一つの人格が支配するという状態そのものを望まないのかも知れない。彼らは皆一個の身体に24の人格が宿るその利便性を汲み尽くすことから離れられないのである。よってアーサーならアーサーの人格は彼にとっては彼のことだけしか記憶せず、彼にとってはレイゲン・ヴァダスコヴィッチの言動やある過去の出来事は、あるいはどこそこに彼がいたかどうかということは一切埒外のことなのである。しかしそれらの原因については精神科医や脳科学者たちに任せておこう。
 重要なことは記憶は常に身体を伴っているということである。世界の見えそのものは視覚を中心としたものであれ、その他の全ての感官、いや身体全体の触覚や生理的状態にも深くかかわっている。そこに感情も精神状態も体現されている。つまり私たちは人生を記憶によって初めて思想の下に考えていられるのだ。
 信念・信条・主義・習慣それら全ては身体的体験とその記憶によって育まれている。人生とはある意味では文体として立ち現われる。その文体を支えるものが思想である。文章に限ってみても、文体と行間は他者(家族を含む)との出会いと別れを構成する。
 そして私たちは他者と身体を伴って出会い別れる。対峙・同伴・不在全てが身体を伴い記憶される。つまりその事実そのものも文体であり、文体を作るように私たちは意志的に他者と疎通し、そうすることで出会いと別れを作り、それが必然的に人生に文体を作る。
 そしてそのように文体を作る陰には文体にならないままに終わる出会いのニアミスが、あるいは別れたくはないのに別れざるを得ない出来事が、あるいは本当だったら印象的な出来事がさして印象的ではないとその時は思えてしまい捉え損なった多くのものが日々忘却されている。
 全てを記憶出来ないからこそ記憶されたものが、印象的になるのであって、我々には印象的なものだから意図的に記憶するのではない。偶然記憶されたものを我々は印象的と名づけるだけである。
 小説において文体とは一体何だろう。
 何を記憶したかということが主人公や語り手である作者の言葉において如実に示されるのだ。それが文体なのである。つまり記憶をどこかで無意識に記憶することで自ずと行間と共に立ち現われるのである。何か重要なことも忘却してしまったかも知れないという不安とその除去の意図が無意識に私たちに小説を書かせるのだ。そして一つの過去事実が時を経るに従ってその都度少しずつ現在から見たその出来事の意味を変えることから必然的に記憶内容も思い込み的に変容を来たしていくことになる。それは自分で書いたものでもそうなのである。と言うより記憶するとは常にその時の自分に都合のよいように記憶するということなのである。

Monday, February 8, 2010

<感情と意味>第一章 第十節 現実(実在)と虚構

 私たちは文学において小説を書く人がどのような気持ちでいるのかと考える。その時小説家は社会的現実、自己という現実を元に何かを書こうとするのだろうか?あるいは言葉そのものの力に従って、言葉そのものの「伝える力」に従属して書くのだろうか?
 あるいは哲学者は私たちがこうして生きているという現実、自己と他者といった実在を下に哲学しているだろうが、やはりそこにも言葉の力というものが横たわっている。つまり現実に対して私たちは何らかの意味を与えているし、意味を受け取ってもいる。そこでその意味を得ること、意味を創出することにおいてもやはり言葉の力、つまり「伝える力」を利用している。しかも私たちは何かを言葉を利用して伝えようとする時言葉の力以前的な何らかの感情、つまり対他的な意識を発動している。だから感情はそれ自体で一つの言葉で表し得る力があるが、同時に感情とは何らかの心理的状態や情動、あるいは身体的気分を言葉で表すことによっても決定的になったり、和らいだりもする。つまり感情を決定させているものはやはり言葉であるように思われる。これはジョン・ラングショー・オースティンがパフォマティヴ(行為遂行的発言)ということを言った時、発語行為であれ、発語内行為であれ、それは要するに自己内での決心を意味しているのであり、東浩紀の言うような意味で社会ゲーム上での戦略よりは外的なことからの規制や呪縛を受けつつも、より内的な決心によって外面的に立ち現われる行動としての自己を奮い立たすという意味合いがあり、そこにオースティンは言語行為の内外を結節する力としての存在理由を模索したのである。
 多くの小説家は日常的な小説家自己の人間関係や自然に対する、あるいは自己に対する思念がとぐろを巻き、それらを一つの像に纏めようとするのだ。勿論哲学者は問いを作ろうとする。しかしそのプロセスでかかわる自然や社会や自己に対する思念はそう変わるわけではない。作られる形式の違いしかそこにはないだろう。 
 私が述べた言葉の力は、恐らく小説家が、哲学者が何かを書こうとする時や語ろうとする時その下となることとは現実であり、日常的なことであっても、いざ書き出し、語り出した時には、既に現実を離れているということはあり得る。つまり書くこと、語ることの内に現実から受けた何らかの書き手や話者による感慨や世界に対する受け答えとは別個の操作、つまり書いてそれを読む相手、あるいは自分の話を聞く相手に対して、有効に自分の意図を伝えたいがためになされる諸操作の有効なる伝達という成果を念頭に入れた思念が最大値に達するからである。実はこのことが言葉の持つ力という、言葉を発するモティヴェーションとは別個に成立する操作上の、意図達成上の作意、あるいは戦略ということになる。そしてこれが有効であるか否かは、その伝達をなそうとしたこと以上に重要であるということを策士である作家や哲学論客は重々承知しているのである。
 つまりそれはある言説が意味として存在すること自体を伝える者が、その伝え方自体で伝えられる者はその意味を内的に意義あることか否かを即時に判断すると言うことを心得ているのである。いや当初の意味とはある記述者、発話者たちが意図したことであるに過ぎず、その意図を言葉自体が、あるいは言葉の伝える力自体が乗り越えるという意味では言葉の意味の仕組みもそうだが、言葉の意味が伝わる仕組みもそれらと一体化しているということが重要なのである。
 発話においては語調、声量の大小、息継ぎ、抑揚、間隙の入れ方といったことが重要であるような意味で記述においては文体、行間の持たせ方とかである。そして一個の文章の意味の重要さそのものの配置とかである。つまりそれらが寧ろ最初に意図した発話動機や記述動機を遥かに上回り、次第に発話者、記述者をすら支配するようにもなる。勿論小説の文体や意味内容と哲学テクストのそれらは違う。共通性とはそれを記述した者の思想性が読み取れるということであるが、小説も哲学テクストも双方とも創作世界とか哲学命題や問いの影にそれらは隠されている。
 すると意味論的にはこういうことになる。当初語ろうとしていたこととか書こうとしていたことはある部分ではその段階で閉じた意味を持っていても尚、それを伝えようと意図して発話し出したり、記述し出したりした段階で部分へと後退している。つまりその意味の変容そのものが「伝わる意味」なのである。
 要するに伝えようと思って発話するにせよ、記述するにせよ、発話を有効に意味伝達することの内にある作意や戦略そのものが、当初の意図から微妙にずれ込んでも、その当初の意味の大まかなものさえ変更されなければ、その修正をも含めた伝達意図の熟成そのものが意味全体を支配する発話者、記述者の意図であり、コミュニケーションを成立させる根拠となり得、モティヴェーションはその全体の中のあくまで部分なのである。
 故にモティヴェーションとは現実との接点であり、それを意味伝達する時、意味伝達=意志伝達という局面において語りやエクリチュールはそれ自体が虚構的世界なのだ。つまり現実の中で仮に忠実に現実を伝えようとしても、その伝えそのもの、伝わるか否かという現実は既に現実の中の虚構的な部分である。つまり虚構すらも一つの現実であると言えばそれはそうであろうが、ある意味では現実を忠実に再現して伝えるということの内に既に虚構性ということは性質上成立しているのであり、それは現実に対してもう一つの現実を突きつけることを通した現実に対する受け答えなのであり、現実に違う現実を対比させることを通した現実自体の虚構性に対する「私にはそのような仕組みに見えます」という返礼なのである。もしそれがかなり手厳しい現実に対する批判であれ、もっとこうであるべきだという提言であったり、こうでありたいという願望や現実に対する抵抗であったりしても、そういう形での返礼なのである。
 宗教的には既に述べたようにカント的に考えるのなら神と来世に対する信仰そのものが生き方に差を生じさせるかも知れない。あるいは来世のなさを信じることも同じ心的作用だろう。しかし人間一度は死ぬ。ならば死んだ後のことをあれこれ想像することは死ぬ前だけでよい。それは来世を信じていても信じていなくても同じである。勿論人間は恐らく二度と生き返らない。と言うことは自然や社会は私という一個の存在者の喪失をものともしない形での存続を保証されているだろう。するとその保証されている無機質な存在持続という現実それ自体に対する伝えが我々には必要であると我々は感じる。虚構であるということは、虚構的現実を受け入れ、それを生きることを我々に示している。しかしその虚構は私たちが私たちの手によって作り出した自然に対する、あるいは既存の社会に対する自然や社会の各存在者の死が運命づけられているのにもかかわらず存在し続けることの変わりなさそのものへの抵抗という形での返礼なのである。
 私たちがもし神によって作られたものであるとするなら、神は私たちが個々の虚構を作ることを誘引したからこそ神に私たちの手による虚構をもって返礼するという形で虚構という形に内在する自然、あるいは自然そのものの中に内在する虚構を見てそのアナロジーを発見すること、つまり現実に対して、現実自体が極めて私たちの手による虚構と同じくらいに精巧な仕掛けのように、いやそれ以上のものに見えるという見え自体が神によるものであるという信念空間(それは思考空間が言語空間と一致した時に立ち現われる)を形成することが出来るという事実に対して、返礼することと同じなのではないだろうか?
 自然が虚構めいて見えるということは実は 自然を形成させたもの=神 という図式をどこかで私たちが潜在意識の下に認めているということを意味する。無神論とはそういう風に私たちが思惟の自然状態で神を認めざるを得ない部分を熟知した人々による懐疑主義的な使命からのものである。リチャード・ドーキンスがそれを最も顕著に示しているし、中島義道氏もそうである。
 科学は必死になって我々があたかも神が創造したかのように見えるように自然を観察するところからスタートしている。そう見るということの内に我々自身が神を心の中に作っているということが出来る。それは言葉に力を与えている私たちの日頃の行いにも言える。 
 言葉から力を借りているように私たちは言葉に力を与え、感謝する。私たちの心が他者に何か伝えたいと願えば、そのように言葉(本来は私たちが作ってきたところの)の力を信頼して、その言葉を感謝して利用する。言葉を信頼しないで利用しても私たちは誰に対しても何も伝えられない。言葉という私たちが作った財産に対して愛し、信頼すればこそ言葉は何かを他者に伝えてくれる。何かが他者に伝われば一層私たちは自分たちが作ってきた言葉を愛するだろう。愛する者から愛され、愛される者を愛するということは私たちにとって永遠の真理ではないだろうか?

Wednesday, February 3, 2010

<感情と意味>第一章 第九節 分裂された意識

 私たちの心をちょっと覗いてみよう。すると意外と対外的な自己同一性とは裏腹に私たちは自分というものがそんなに統一されていたり、系統だって存在していたりではないということに気づく。私たちはその自分という存在に対して何らかのその都度に固有の欠如と疎外を感じ、その固有の不安に対して何とかしたいと望み、そこで不安と恐怖で失われていく精神の平衡状態を何とか常に安定したものとして引き止めるためにこそ理性を持ち出し、欠如の穴埋めのために努力をし、何かが達成された時に満足感を得る。
 デューイとは必要→努力→満足ということの反復を捉えたとされる。彼の後継者の左派などはだからサルトルの投企とか企投といったことに近い倫理体系を持っていると言う。
 つまりサルトルやデューイ及びその後継者の左派たちは行動という位相で哲学を考えていたという。するとそれはデカルトのコギトとは対立していく構図にもなる。何故ならデカルトのコギトとは概して反省意識によってのみ得られるものだからだ。このことに関してミシェル・アンリは興味深い記述をしている。見てみよう。

 身体的初体験は主観性のうちに自然に場所を見出し、それらの存在をコギトの存在と異なるものとして考えることは不可能であるとさえあるというのに、なぜ身体的初体験を受け取るべく定められた場として、思惟とは別の原初的本性が存在することを肯定しなければならないのだろうか。なぜなら、少なくとも思惟を純粋な状態で考察する限りは、デカルトは思惟について、ついには思惟からこのような諸体験を排除するはめになるような観念を、心に抱いているからである。じっさいデカルトの理想は、理論的で知性的な認識のそれである。このような認識は、数学的存在についての無感動な把捉のようなものであり、このような認識のうちには、諸感情にとっても諸情念にとっても場所はない。そこから情感性一般は何か低級なものであり、そのようなものとしての思惟の純粋本質には属しえないという観念、ちなみにこれはあらゆる主知主義に固有の観念であるが、そのような観念が情感性に降格するということは、純粋思惟の本質のうちにはその原理を有しえないからには、必然的に思惟のうちに或る異他的な要素、すなわち身体が干渉することによっているのだという仮定が、生まれてくる。しかしながらこの身体は、もはや主観的身体ではない。この身体は、身体的諸体験に固有の情調性(tonalite afective)とも混同されない。この身体は、蜜蝋についての本質分析が引き渡してくれたままの、延長‐身体(物体)なのである。したがって、ここで理論の現象学的アスペクトと説明的アスペクトとの分裂が生じるのは、明らかである。それと同時に、これらすべてのデカルトの諸分析を導いている両義性が、溶解する。つまり一方ではわれわれは、その固有の心理的性格をともなった体験をもつ。そしてこの体験についてのみ、それはひじょうに明証的なので否定されえないものである、と言うことができる。他方ではわれわれは、純粋思惟の本質のうちへの延長‐身体[物体]の介入という、問題のある介入についての、たんなる考えをもつ。
 少なくともデカルトのテーゼは、コギトの次元でわれわれに引き渡される体験は、それに加えてもし思惟実体への延長実体が生じなければ、それがあるところのものではないであろう、と主張することにある。しかしここにおいてこそヒュームとともに、結果のうちには─身体的体験がひとつの結果であるとして─われわれはもはやその原因のエネルギーを読むことはない!と言うべき時である。体験はそれがそれであるところのものであり、それは完全な透明性であり、そのようなものとして絶対的な存在論的充足を持つ。思惟の本質はひとつの実体である。われわれはここではけっして、アルノーの諸異議をわれわれの責任において取り上げ直したいと思っているわけではない。これら二つの完全な諸実体の合一が必然的ではなくて、たんに偶然的であるに過ぎないということを認めるならば、いつでもひとはこれら二つの完全な諸実体が、完全であっても、それでも合一しうるのだということを、ゆうゆうと主張することができるであろう─そして人間「本性」はまさしくわれわれに、理解不可能な偶然の産物として与えられているのではないか。しかしここで問題なのは、諸実体の本性および諸特性について議論することではない。じっさいに訴訟にかけられているのは、そして訴訟にかけられえないのは、コギトの絶対的で換言不可能な価値なのである。体験の存在は、その主観的で超越論的な現われと一体になっている。この現われのうちには延長せる身体も、魂へのそのいわゆる作用も、含まれてはいない。それゆえ心身合一は、ひとつの存在論的領域を理解したいのであれば、心身合一はひとつの原初的本性なのでもない。心身合一は、デカルトの─そして他の多くの哲学者たちの─無能から帰結する、たんなる一主張である。その無能さとは、情感性が純粋思惟の本質に帰属しうるということが理解できない、ということなのである。
 ところで、まさにここには理解しなければならないようなものは何ひとつなく、確証すべき諸事実しかない。もし情感的体験(Erlebunisse)が存在するというのであれば、してみると思惟はその本質そのものにおいて、情感性でありうるのである。そしてわれわれは、このときデカルトの諸立場が逆転され、自己破壊するのを見る。ひとは思惟の本質において、思惟のうちに産出するであろうような外的作用因の作用を想定している。ひとは実体的合一についての理論を構築する。この理論の出発点、この理論の実在的根拠は、思惟の情感性という事実そのものでないとしたら、いったいどのようなものだというのか。そしてそれにもかかわらず、この理論が検証しようというとしているのは、デカルトの先入見でないとすれば、つまり思唯はそれ自身においては情感的ではないと先入見ではないとすれば、何だというのか。思惟は情感的だということが、真理である。思惟は情感的ではありえないということが、デカルトおよび主知主義者の先入見である。明らかにコギトは真理の言い分を認め、諸々の情感的思惟が存在することを示している。事実に依拠するどころか、実体的合一論はその場合、事実を否定するための、コギトによって顕示された真理すなわち思惟の情感性を否定するための、ひとつの迂回した手段以外のなにものでもない。この手段は、この思惟がコギトにおいてまさしく情感的思惟として発見されたのは、一個の偶然のせいであると主張するための手段であり、この偶然について、架空の理論が与えられているわけである。しかるに、ついにはこの理論を証明すべきときがくると、ひとはコギトに、つまり思唯の情感性に訴えているではないか!デカルトの実体的合一論の告白されざる目的は、このように、事実を否定しつつも、他方ではしかし、理論は自らを支えるために事実を引き合いに出し、理論は事実のひとつの忠実な翻訳であると自称することなのである。(同書、第五章 デカルト的二元論中、208~211ページより)

 要するに心身を合一するということの背景には心身が分裂していくという我々の心に固有の在り方があるということだ。哲学上で喧々諤々の論争が繰り広げられてきた心身二元論と一元論には実はそのように分裂している様相を忠実に記述するという態度(二元論)とそうではなく何とか決着をつけ折り合いをつけたいという態度(一元論)とが常に対峙してきたと言うことも出来る。デューイは一元論者であるし、デカルトは二元論者である。
 例えばこのことを時間論で考えてみよう。私たちは反省意識に投げ込まれる時意外と未来への気持ちと過去への気持ちは分裂している。脳科学では未来に対して志向している時は過去への思いに囚われている時に似ているという観察結果が出されている。しかし少なくともその意識内容の下では私たちはその二つは乖離しているように感じられる。何故だろうか?
 例えば何か大きな企てとか大きな催しもの、計画の前というのは、私たちは往々にして未来へと意識が向かっている。期待に胸を膨らませているということである。しかしこれが異様に他の心の状態を排除しだすと、このような精神状態を精神分析では分裂気質として考える考え方もある。その一つがテレンバッハ、木村敏氏などである。
 この考え方では過去へ意識が向かうことを躁鬱的であるとしているが、往々にして我々は何か大きな催しごとや目論見が何らかの結果を齎した後は過去へと意識が向かい、想起を多くする。つまり宴の前と後、戦の前と後ということが顕著な違いとして横たわっている。木村氏によると現在へと意識が向かっている時は何か行為に没頭している時であり、これを癲癇質と言っている。分裂質では未来へと常に意識が向かうとされる。
 何か過去においていい感触を掴んだこと、感動したこと、美味しいものを食べること、喜んだことを、喜ばれたことなどをもう一度繰り返したいと願う。そこに反復が出てくる。(過去に囚われることを躁鬱質と考えられている。)
 デューイ流に言えば必要(欠如が生む)→努力→満足といった経路を反復することを促すものは快に対する記憶である。
 そして食であれ、性であれ、読書であれ、数学の難問を解くことであれ、スポーツでいいプレイをすることであれ、名演奏をすることであれ全てこの快に対する記憶が誘引している。そしてそれを実行している時には明らかに非我とか無我状態にある。それは没我的であり、即自的である。それに対して反省意識の時には対自的である。
 しかしまた花を見てみようという気持ちになる時というのは別にただまた綺麗な花を見て感動したいという時だけでもない。何か行為している時に行き詰ったり、何か論争的な部分で厭な感情を他者に抱いたりした時になど我々はその混濁した気持ちを沈静化するために花を見たり、雄大な風景を見たりするのではないだろうか?
 それはそもそも我々の対自的な心の在り方自体が不浄であり、清廉なだけではないということを意味している。美しい絵画や音楽を鑑賞したいということそのものが意識の内部では混濁した迷いや懊悩が支配していることも多いということを我々は経験的に知っているからこそそれらを必要なものとして求めるということで説明が尽くのだ。
 そして感動とは以前あった感動と同じ質を求めると同時に、その時とは幾分違った今回にのみ固有の美をも求める。つまりドゥルーズの言葉を借りれば差異と反復を常に共存させて求めるのである。そして感動したことの質は沈潜され、沈殿し、各自固有のクオリアに対する受け取り方の差異を生じさせる。
 しかしある意味では全ての感動とは幾分何らかの形で完璧に再現されるとは限らず挫折を運命付けられている。であるが故に我々は未来へと志向することもやめないのだ。そして挫折感の強いことから来る想起では反省意識と後悔が大きく作用して、次こそまたその挫折とは違う形で実現されるべきだという意識が生じ、新たな目的とか指標が設定され直すということに直結する。
 そもそも人間が言語を持ち、全て他者に対して内心に抱く考えを語るのではなく、語るべきことを語る際に選別しているということそのものが、私たちが生活上全ての事柄を真理究明していては社会全体が支障をきたすということから社会に見られる一般的様相というものの在り方は既に決定されている。つまりそれは個の内心というものが他者存在によって既に百パーセント実現され得ないという挫折の相互の確認から社会というものが出発している、そして寧ろ社会という個の内心の挫折の集合体に対する帰属意識こそが個の内心というものをあたかもア・プリオリなものとして最初からあったかのような幻想を与えているのである。
 それを言うのなら、私たちは既にどのような親しい他者と接する時にも、他者と接することで自己内に内心として控えている全ての欲求を断念することを通して、逆に他者が一切存在しないのであれば全て実現し得る内心の欲望を一々全て実現することを決意すること自体を他者存在そのものへ向けて責任転嫁している、つまり「あなたという存在がいるから私は全てを自分のために奉仕させる使命を放棄することが出来るのです」と宣言しながら、そして一般性という偶像を他者に対して示しつつ、そうしながら積極的に自己内の純粋な責任意識を他者一般、社会一般に対してそれらを偶像化することによって偶像崇拝的逃避を採用することで神対自己という純粋な使命からの開放を無意識に欲求しているとも言えるのだ。それは惰性的な日常を受け入れることを社会的使命、例えば税金を払うとか勤労をすることを通して、権利として享受しているということである。これが世人による頽落とハイデッガーが呼んだことなのであり、一般の市民つまり世人とは積極的に哲学的究明を喜んで生活上の惰性的快楽と引き換えに放棄しているのである。
 この世人による哲学的究明の放棄こそが哲学者という特殊存在を際立たせるのであり、それは科学的無知を決め込む世人が特殊職業としての科学者を際立たせるのと同じであり、アーティスト、政治家以下全ての職業において適用される。
 何故そのような他者に責任転嫁しようと我々がするかと言えば、私たち個々が自分一人でなし得ることというのがたかが知れていると知っているからだ。そこには既に完璧な人格や能力に対する挫折と断念が横たわっている。つまりその自己に対して限界を設けるという意識こそが未来に対する意識と過去に対する意識を脳科学的には殆ど変わりないような作用であるのに心的には断絶しているように思わせているのである。つまり我々は自己を他者と断絶した存在であるかのような独我論を心的に成り立たせるということ自体で、そのように断絶させることを通して意識を切実なものとして意識させるように脳が進化してきたと言えるのだろう。そう意識することによって我々は他者を敵対者としではなく相互協力者として囲い込むのである。
 だから意識が分裂されているように感じるということ、例えばまさにアンリの言うように思惟と情感があたかも別個のものであるかのように思えてしまうということに寧ろ我々は我々の脳に感謝すべきなのかも知れない。何故なら全ての真理がそれを究明する前に理解されてしまったのなら、我々は一切の思考の努力を放棄してしまうだろうからである。
 つまり我々は個の中に多くの挫折と断念を経験しており、その穴埋めに挫折者同士、断念者同士で結束するという不思議な状態で社会をスタートさせてきている。社会をそのような理念で構成している以上、我々は個人主義とか利己主義を貫こうとしても、とどのつまり社会が初期共同体からずっとそうであっただろうが、その集団性と、協力体制そのものが逆に利己性や個人優先思想を生み出しているという側面は否めない。
 しかし興味深いこととは、意識の上ではこのように発生論的には密接に結びついている集団と個というものが極めて異質なものとして分裂しているということである。
 例えば我々は自分には出来ないことを他者が容易に出来ることを知ると、その者に敬意を払い、その自分に出来ないことに関してその者に責任を委譲し、自分はそのことに対して責任を払わない。と言うことはその自分に出来ないことに関して出来る他者は尊敬に値するし、憧れの対象であるから一個の偶像であるにもかかわらず、その偶像を大なり小なり崇拝することを通して、自己内におけるその出来なさを真摯に見つめようとしないでいる。しかしよく考えてみればこの自己内の出来なさとはその他者の優位を認めることによって逆に得てもいる自己弁護であり、逃避であるから、自分より優位にある者に対する尊敬心とは端的にその自己内の出来なさ、責任の持てなさに対する安易な自己弁解であり、それを私は偶像崇拝的逃避と名づけた。そしてそのように自己と他者とは一方で断絶していて、自己内の出来なさと他者の出来ることとは何の関係もないのに、それら同士を自己内の理解において結びつけようとすることが心理的にあり得る。このようなことも自己内で統合出来ないことに対する一切の対処を怠り、その無能力に対する打開の努力を怠るという安易な道を選択することを通して自己内での新たな葛藤(自己の無能力に対する是正とはかなりしんどいことであり、一大決心と革命的な何ものかに対する転覆と破壊と、新たな創造というエネルギーが必要である)を回避していることである。それは本来他者の能力と自己の能力とは比較し得ないものであるのに逃避したり、回避したりするために敢えてそういう時だけ比較してしまうということからして、一種の自己内の分裂である。つまり未来に向けてある可能性を閉ざすことで安易な妥協をして、一時の快楽に身を委ねるわけだから、無能力の是正と既存の能力の統合に対して、努力の回避をするために優位者に対して批判やあらゆる攻撃を断念していることであるから、能力と無能力を統合させないままで分裂したままその二つのカテゴリーを共存させておき、そしてある時にはその自己内の無能力を責任転嫁や責任逃れのための有効な逃げ道に利用しようとする狡猾さがあるのだ。
 この分裂とは好きなものに対してはいつでも好きなのに嫌いなものに対しては好きになろうと一切の努力をしないことにも言える。勿論実際には義務感で何かを好きになろうとしてもそれは不可能なのである。だから嫌いであるけれどしなくてはならないことに対して人間は自分を騙し騙ししてそれを遂行しているわけだが、しなくてもいいことは一切しないままでいるということである。そしてそのことに対して何ら後ろめたい気持ちになることなどない。つまりここでも我々の意識は好き嫌いということ、つまり選好性ということにおいて分裂しているのである。
 私たちは選好性ということを感情的な判断として、例えば思念上の論理的、説明論的手続きのことを全く異なったタイプの判断であると考えがちである。しかし恐らくこの判断もアンリによってだが思惟がやはり情感の一部である(それはかなり特殊なものであるにせよ)とされたように、哲学上での現象学と分析哲学といった分岐すらも意識の分裂が外在主義的な観察結果からすれば脳内現象的には未来と過去に対する志向が極めて類似していても、内的には分裂しているように思えるのと同じように実は殆ど同じような思考志向性における異なったタイプの表出の仕方でしかないと判断することも許されるだろう。
 ポンティーやアンリに見られる現象学的身体論は、身体的実在をア・プリオリな前提としてでも、存在論的価値評定的でもない現前化された根源的クオリアとして捉えているが、分析哲学ではより言語思惟的なマナー(そもそも哲学という俎板で何かを論じ、考えているということ自体が既に言語的営みであるということだけは現象学も例外ではない)から出発して、身体現前的クオリアを基調に捉えるというスタンスを一切取らない。つまり分析哲学ではそのスタンスを取るという行為に対して「それは寧ろ記述すること、身体を論じるということの内に含まれる」という風に考える。その点でより現象学は根源的クオリアに対する記述不可能性の実感からスタートするが分析哲学はその面においても律儀に実践することを躊躇わないというくらいの違いしかない。つまりその点の態度の取り方の違いを度外視すれば後はこの二つの流れの哲学上での実践行為は共通性の方がずっと多い。にもかかわらず我々は哲学内的にもこの二つの流れを極めて対立色の濃厚な分裂状態と認識してしまうのである。
 要するにここに説明原理の問題が浮上する。つまりアンリに見られる態度とは説明され得ぬものを認めること、そして分析哲学に見られる態度とは説明し得ないものを極力排除しようとすることである。アンリはその説明され得なさを炙り出すためにこそビラニズムを援用するのである。それはアンリの「(前略)デカルトの観点や、遅かれ早かれ思惟と延長とのあいだの相互作用を考えることの不可能性にぶつかるすべての哲学において、対峙し合う諸項についての考えのなかに、気づかれはしないが、しかしラディカルな或る変様が介入したということが、容易に見て取れる。一方では、主観的運動についての超越論的内的経験の、そしてそれのみの項である有機的身体は、純粋悟性の作用の対象たる、デカルト的本質分析が示す延長-身体[物体]になってしまった。かくして、メーヌ・ド・ビランの表明的な言明によれば、「表象されるのではなく、内的に感じられ」ていたものが、まさしく何かに表象されたものと取り違えられてしまう。」(同書、第五章 デカルト的二元論中219ページより)という箇所にも明確に示されている。
 しかしこの哲学上での二つの極への分裂ということにおいて現象学ではより説明され得ぬ部分は脳科学に対して委任するということを自然に表明してしまう。よって脳科学の側からはそれでは脳科学で説明し得ないものを現象学で補完しようというスタンスを取らせてしまう。この共謀関係は明白で、分析哲学はその点でより論理学的アプローチであるために、脳倫理学的観点からは潜在意識、無意識、暗黙知といったことを網羅しきれないという難点を現象学‐脳科学関係から訴えられることになるが、我々の生活は意思表示、権利主張といったことにおいてより顕在意識のレヴェルで全てことを運ぶ。すると顕在意識の最高原理であるところの法体系といったものを実体論的に認識する場合、勿論この場合法とは法律や憲法もそうであるが、楽譜等に代表される音楽楽理とか数学的法則とか分子式とか学名とか要するにムードやコード一般であるが、分析哲学の果たす役割はやはり決定的に否めない。