Friday, October 14, 2011

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第六章 存在の確信には羞恥があり、存在の認知には時間がある

 私達にとって極めて重要な事実としての個としての社会性は羞恥にあると言ってもよい。だからこそ本論では理解と他というレヴェルで考えてきた。しかしその社会的個や個の社会内での羞恥はもっと根源的な羞恥によって包まれている。それは何か?
 それは我々自身の卑小さである。それを誰しも理解している。否理解以前的に存在レヴェルで確信している。我々の力は限られている、世界に与えることの出来る力など高が知れたことだ、という風に。それは社会内的なことだけではない。もっと世界、地球、宇宙内での自らの存在に対する余りにも小ささに対する覚知によってである。
 古代の人類は或いは宇宙という形で我々が実感するものは神であったかも知れないし、その神という存在はもっと恐れるべき何かであり霊力的なことであったかも知れない。それは洋の東西に関わらず我々自身の非力に対する覚知に於ける存在し続けたであろう我々には計り知れない力である。只現代人はそれをある程度科学的認識で理解出来るだけである。自然の力自体のどうにもならなさは東日本大震災を経た日本人である我々には当然理解出来るし、世界中で何らかの形でどの民族もそういった経験はしてきている。それが神による怒りであると古代の人類の様に即座に判断しないだけである。
 カントの「判断力批判」では崇高さという形で自然に対する畏怖の念は汲み尽くされていた。その崇高なることは専ら我々にとっては空間的なことからである。
 最も論理的に割り切れないと感じさせるものこそ空間である。それは私が今居る部屋という空間ではない。それはあくまで仕切られた空間であるが、その仕切りを作っているのはもっと広い空間であり、それは無限に地球上に広がっている。
 だから空間こそが最も非言語的であると我々は知っている。それを表現上で最も巧く反映させているものこそ絵画である。絵画は人類による空間恐怖をさえ誘引する空間の持つ非論理性、エロスを存在として我々が認めつつ、しかし言語的思考者としての我々自身の存在と、その空間的無限性との間に媒介される盾の様なものである。
 だから逆に我々にとって最も論理的に理解出来るものこそ時間である。時間とは時間自体の感覚によってであるよりは、より言語的認識、言語的思考法それ自体が生み出している。端的に論理自体が時間を作っているのだ。論理なしに我々は時間自体を認識し得ないだろう。それは何故か?それは過去と現在と未来という最も基本的な思惟自体が論理空間上での秩序だからである。
 勿論永井均が考えている様に常に今だけが我々にとって最優先されている。しかし今意識を生じさせているのは過去があるということ、記憶の上で想起される全てが「過去」という名で呼ばれ得るという覚知なしに我々は今を理解することは出来ない。又今という意識は「これから」という意識によっても支えられている。今がこれからを支えているのか、これからが今を支えているかと言えば両方言えるかも知れないが、何か今している行為自体が常にこれからを志向している。従って行為を支える欲求と意志がこれからという意識を作っているし、それが心の中に存在すればこそ我々は今を特化し得る。
 そしてその時間認識、つまり想起され得る過去と、今している行為に於いてこれからのことを考えられ得る今という一連の連なり自体を我々はたまたま時間と名付けている。
 空間は常にある地点より先が想定される。それをカントは背進と呼んだ。従って全体として思い描くことがどうしても出来なさが発生してしまう。常に向こうがある、先があるという風に。そしてこの全体として思い描くことの出来ないという直観こそが無限性の母である。これが無限性の理解を可能にしている。
 それに対して時間は違う。時間は確かに空間同様その先はある。どんな過去でもそれより過去はある。しかし空間の様に「行く」ことが出来ない。勿論何億光年も先に空間的にも到達出来ない。しかしもし何らかの乗り物があれば可能だと空間なら想定出来るが、それが時間では出来ない。尤も現在ニュートリノが光より速いと立証されつつあるから、それを応用すれば我々にタイムマシーンさえ作れるかも知れないとまで言われつつある。
 空間が概念化されて感じられるのは天文学的な意味で夜空を見る時かも知れない。そこでは遥か彼方の銀河まで見渡せる。しかしそれは既に我々が概念的理解を得ているからである。そしてそれは言語的認識、言語的思考力によってであるし、それが時間を生み出しているとしたら、その生み出された時間認識によって実際には旅行することの出来ない銀河系の彼方をも図式化することが出来るし、想像上の旅行を試みることも出来る。
 その際には広大な空間を目の前にした存在自体が抱える自らの卑小さに対する羞恥はない。従って広大な空間自体の存在の認知には時間的理解、つまり言語的認識と言語的理解の産物が関わっているのだ。
 だからグランドキャニオンであれグレートバリアリーフであれ、広大な空間を目の前にして我々が自らの存在の卑小さ、つまり物理的卑小さを確信することが出来るが、それはそれだけ自らの身体の小ささを実感させながら、その認知に於いて自然全体へ羞恥的感情を呼び起こすことをカントは崇高さという語彙で示したのだ。
 ともあれ空間は時間と違って時間が経たなければ来ない未来ではない。既に現在存在する。只遥か彼方に行くには時間がかかる。そして銀河系全体を俯瞰する様に空を見上げること、銀河系の図を描くことは空間全体を認識すること、そこに現在認識が介在しているが、それを一瞬で俯瞰出来る様に鳥瞰するのだが、時間はそれが出来ない。それにも関わらず時間さえ中島義道が指摘している様に「時間を空間化」しつつ我々は図式化する。そうすることで過去・現在・未来の前後関係、先後関係を把握し、時間の全体を、ある期間、例えば我々の人生とか要するに区切られた単位として保険、遺産相続その他の必要性などから考える。
 しかしやはり未来は決して来るとは言えない。それまでに世界が消滅する(例えば地球自体が巨大隕石と衝突するなどして壊滅するか、我々人類全体が絶滅するかも知れない)可能性もある。そうなっても時間自体は、我々が把握する認識された時間は存続するだろう。しかしそれは概念理解可能な存在者の不在の時間であり、図式化することによって我々が我々自身の未来の為に役立てるものではない。ここで矛盾が明確化する。つまり我々は常にありもしないかも知れない未来を想定してしか言語行為が出来ない、ということである。だからこそ我々は記憶されたことを過去としてそれが現在に連なるという理解で、やがて未来が来るものとして全ての言語行為を行う。言語的認識、言語的思考には論理が必要であり、論理的理解が時間を作り、それに従って我々は同僚や上司部下に仕事を依頼したり命令したり、命令されてそれに従ったりする。
 時間は論理的思考が作り、その論理的思考内での時間認識に沿って未来には消滅しているかも知れない世界内部で(実際何時かは世界も地球も消滅することは分かっていて)あれこれ未来への意志、願望を相互に語るのだ。それは仕事上での建前であると言っても、それは建前的に語るという本音であり我々の意志と願望なのだ。
 全ての他者に嘘だけをついて虚偽的報告する成員が居たとしても、それはあくまでそうすることで生命を繋いでいる以上そういう欺瞞的生活自体が本音である。生きる為の本音である。従って嘘をも含めた言語活動全般を行うことそれ自体が、時間認識を論理的把握から発生させつつ全うされる我々の生きていく上での唯一の方法であり本音なのである。
 だからこそ逆に時々旅行という空間的移動をしたくなる我々にとって空間だけが論理から逃れられる唯一の世界の構成要素であり、それは明らかに構成要素としているものの、唯一論理的に割り切ることの出来ない存在レヴェルのメジャーな存在の謎であり、我々は太刀打ち出来はしない代物なのである。そこから我々は卑小な存在である身体にあらゆるリビドーを含めた欲求を抱いているという羞恥的事実を改めて実感し、身体という物理的存在事実にエロス的救いを求め、時間に対する待ち切れなさ、或いは悠久の時間内での余りに短い一生を覚知しつつ、空間だけはしかし今現時点で遥か彼方には行けないことを知っていても、同時に自己身体が存在し得ている様に共存していると太刀打ち出来ない代物を時間と対抗する為の味方にするのである。それはそういう一種の存在者の羞恥的性格による気休めなのである。