Monday, November 16, 2009

〔意味の呪縛〕四、異なるということの意味

 存在理由があるということが価値であるということ、そしてその価値とは他との関係において異なっているということである意味とは他との異性であるということは明白化した。しかし同時に独自の判断に纏わる主張には、もしあなたが私の立場であったなら、同じように感じた筈だという同性を要請してもいることも明白化した。しかし厳密に言えばやはり同じようにということは同じにではない。つまりやはり同じようであるが異なるということなのだ。
 例えば遺伝子の配列が微妙に異なるということは、同一種としてのホモ・サピエンスとしての遺伝子配列という同性、つまり共通性を保持していながらも、全く同じではないというところに、たとえ全く私と同じ立場にあなたが立たされていたなら、同じように感じたではあろうが、全く同じにではないということをも意味する。そして私たちは同じようにではあるが、異なった感じ方においてある同一の立場を経験するという風に解釈する。
 そのことはしかしもう一つの問題を提起する。それはあることやものに対して同じようにある感じ方をしていたとしても尚、その感じ方そのものに対して同じようには意味づけないということである。
 例えば私とあなたは同じように赤い林檎を目にしている。そしてその赤味とか少しだけ黄ばんでいるとかそういうことは同じように見える。同じ位置から同じ林檎を見ればそうだろう。しかしその同じように見えるその見え方そのものを自分の中でどう位置付けるか、どこにでもあるただの林檎であるではないかとか、今日見る林檎の表面のつややかさは、新鮮な気持ちで昔、学校に通っていた通学路での道端での友達との会話を思い出させるとか、例えばそのように想起を誘うというような、要するに見え方からその見え方を意味的に位置付ける仕方がそれぞれ違うということである。
 それはその見え方がしているのが他ならぬ私でありあなたではないという意味における意味づけとは勿論違う。しかしある意味では赤い林檎を見て色んなことを連想するかしないかとかいうことの差異も、実は個人の記憶内容の違いからだけではなく、その時に赤い林檎を見る時の精神状態、つまり気分とかその時の感情の状態と無縁ではないだろう。そういう風にして考えると見え方そのものへの意味づけということは「これこれこういう感情の時にはただの赤い林檎でもこのように感じる」と言うような言い方さえ出来ることになり、それは感情とか気分と見え方を結びつける傾向性ということになるので、ある赤い林檎に対する見え方に対する意味づけもそれほど個人差というものなどない筈だということにもなる。勿論厳密には見え方も、それに対する感じ方も、その二つを結びつける傾向性も、個人毎に微妙に異なる。しかし異なるということを相互に述べるためには、やはり異なっているなりにどこか必ず共通性がある筈だということを前提にする。となると、異なるということそのものの中にある意味そのものは、その意味を他者に伝える動機にもなる。つまり他者に何かを伝達するということは、共通しているものの中の異質性そのものに対する発見の報告という性質があるのである。
 それは改めて欠如ということ、つまり外部世界で見た異質なこと(報告される者が見ていないということが前提される)に対する発見でもいいし、自分自身内部での性格的な被報告者との間の相違でもいいし、とにかく自分の欠如か相手の欠如に対する指摘そのものがコミュニケーションということになる。
 プラトンは全ての存在者は少しずつ不完全であり、完全なものは神のみであると考えた。だからイデアとしての神は完全なる存在者として存在するということである。その個々の存在者の不完全とは欠如という事実であり、存在者とは固有の欠如の保持者である。
 すると欠如認知事実の報告とは何かを伝えることを通してその伝えられる事実を知らない他者に対して報告者は固有の優越感情を抱いていることとなるし、他者に何かを伝えて欲しいと質問することとは、端的に他者に対して質問者である自分の欠如、つまり知らないという劣等的状態の告白(素直に負けを認めること)を意味する。
 つまり伝えられる事実が少なくとも報告という体裁を採る限り、我々はその伝達事実を巡る他者と自分との間での認知事実の差を認可していることとなる。それは記憶内容の差異というような個人的体験の違いというようなレヴェルではなく(そのような違いは誰でも持っている)知るということに対する常套さそのものに対する認識の告白という様相を帯びていることになる。
 だから他者に何かを教えるという行為は、自分がその者よりもその報告事実の認知に関する限り優越していることの表明であるので、他者と自己の間での認知の差異の報告ということを通して自己の存在理由(その他者と私との関係における)を誇示すること、あるいはその他者からその是認を求めることとは、認知の差を通して相互に優位性と、劣性そのものの所在を明白化する無意識の欲求が意志伝達そのものに介在していることを意味する。それはある意味では他者に対して花を持たせたり、自分の優位を誇示したりすることを通した他者存在に対する依存ということをも意味する。
 それは相互が相互に対して身を持たせかけること、つまり甘えることそのものへの容認という側面もあるのだ。そしてその甘え合うということは、実は異性の確認を通して異性保持事実という同性の確認でもあるのだ。それは即ち生が意味(差異存在であること)を通した他性に対する依存と甘えという欠如事実の補完という意味合いが自‐他関係にはあることになる。
 異なるということはそれだけで存在理由という価値であるが、その存在理由を確認し合うという依存と他に対する甘えの相互容認こそが自‐他の関係の本質なのである。
 そして報告し合うということ以外の意志伝達は仮に形容的感動報告であれ、同意であれ、他存在に対する感動共有者、同意者に対する存在要請という側面も持っている。だから少なくとも意志伝達を通した自‐他の関係とは異性そのものの、つまり相互の存在理由そのもの、つまり他であること、自であることの意味を相互の存在事実に依存し、甘えるということを意味することになる。だから相互に異なった家庭環境、幼児体験を報告し合う友人間の会話とは、もし私があなたの立場だったらという想像を、ある体験的事実の被報告者に対して報告者が要請していることを意味するし、何かを聞きたいと願う話者にとっては被質問者が返答する報告的事実を申告されたことを通してその報告的事実の体験者の立場に立ってその立場での見え方、感じ方を想像する意志を要請していることとなる。だから必然的に即自的存在としての事物と違って、哲学的存在者にとって質問をしたり、報告をしたりするということは、前者はそういった想像をすることを他者の返答を通して要求するのであり、後者はそういった想像を内的に思念することに対する他者に対しての許可と要請をする。「俺の気持ちをわかってくれ。俺の立場になって想像してみてくれ」ということである。と言うことは即ち俺の立場には君はなれないし、君の立場に俺はなれないという交換不可能性の是認、つまり諦観が質問と報告という行為には含まれていることになる。つまりそのような自‐他の交換不可能性に対する是認と諦観が依存と甘えの本質であるということにもなるのだ。だから哲学的存在者にとって異なるという存在理由、つまり個としての存在の価値とは交換不可能性に対する是認と諦観がその本質として横たわっているということが言える。
 もし容易に私があなたになれ、あなたが私になれるのであるなら、個々の存在理由も、自己同一的理性も、存在理由という価値も存在しなくなる。異なるということは即ち交換不可能性ということなのだが、だからこそ想像という内的な思念における交換(幻想なのだが)ということが意志伝達、つまり自‐他の存在事実確認たるコミュニケーションには不可欠となるのである。

No comments:

Post a Comment