Tuesday, December 1, 2009

〔意味の呪縛〕九、言語と行動の関係

 「起こり得ること」とはよくあること(のこと)である。起こり得るのだから以前にもあったのであり、これからもあることである。滅多にないことでも一度はあったのであり、一度もなかったことなどそう世の中にはあるものではない。例えばこの世界に一人も死なない人というのはいない。いたら、例えば五百年前に生まれてこのからずっと生き続けてきた者がいたとしても、この先いつ死ぬとも限らないから、結局のところ一度も今までなくて、それからも一度も起こらないことなど私たちは終ぞ確認することなど誰にも出来ない。そういうことをすらお見通しという意味で全知全能の者をかつて人類は神と呼んだ。理解出来ることというのはあったことを誰かが記憶していて、それが再び起こったのでそれをあの時のことであると了解することを基本としている。それは自分史的にもそうだし、人類史、地球史としてもそうである。だが信じるという心的活動はそういった理解のレヴェルとは全く層が違って、要するに何かをそうではないかも知れない可能性を知っていながら、絶対そんなことはない筈だという願望をも含み込みながらそれでもその可能性を信じないという決意の下であることを信じようという決心なのである。だからある行動へと身体を移す時私たちは何か特定の目的を持ってそうしている筈である。それがかなり習慣的なことであれば、ただ真剣に何かしようとその都度意識的にそうはしないで、殆ど自動的にそうするのだ。例えば自宅でトイレに行くとか、トイレを出る時には手を洗うとか、自販機で飲料を購入する時にはコインを入れるとかそういうことというのは、全て無意識の内に身体が動いていることの方が多いだろう。いきなり蝿が目の前に飛んできたなら、それを手で払い除けることもまた一々目的的意識などない行動である。
 しかし全ての行動は後で意味づけすることによって言語化し得る。自分の生活上での行動を無意識レヴェルの全ての行動をも後で反省的に言語によって表現することは可能である。
 では行動を採る場合、私たちは一々言語的に認識しているのだろうか?何か止むに止まれぬことをする場合とか、何か切羽詰まった時というのは、それでも普段の平静を保とうとして呪文のように「落ち着け。まずこれこれこうすることにしよう」と言葉を何度も何度も反芻して一つ一つ絡まった糸を解きほぐすように行動することだろう。意志とはそういう何か極めて危機的状況とか、不安や不安定な状況においてこそ意味を持つ心的な概念である。そして意志というのは、それは極めて不合理な感情であったり、説明不可な心理的なことが契機であったりしても、その<感情的契機によってある行動へと移す>ということにおいて明確に他者に説明し得ることである。
 例えば期待して入った映画館で、映画があまりにもつまらないために映画館を映画が終わらない内に出る時、人からもし「なんで今始まったばかりの映画を見ないで出るんですか」と聞かれれば即「あまりにも面白くなかったからです」とだけは返答出来るだろう。それは美味しくないレストランを出る時と同じで、その面白くなかった理由とか美味しくなかった理由そのものは説明し難いとしてもその面白くない、美味しくないということそのものは理由として挙げて説明することが可能だろう。
 つまり説明し得る理由というものは常に何らかの形で用意出来はする。しかしその理由の根源的な原因、つまり究極的な理由というのはほぼ説明不可能なことの方が多いということである。
 つまり意志と行動は常に直結しており、意志と行動の直結を他者に説明し得るということそのものが故意ということであり、明確な意志ということなのだ。そして意志が明確であるということがその行動そのものを行為として言語化可能であるということなのだ。
 勿論ある行動へと移された意志そのものの起源的な原因、つまり内的理由というのは一言では説明出来ない。例えばある趣味を止めて、別の趣味に没頭するようになったことというのを、心境の変化とか前の趣味に対して飽きがきたとかそういう理由を説明することは出来ても、ある意味ではそれ以上に、では何故飽きたのかということとなると、途端に説明が難しくなる、ただあまりにも頻繁にその趣味に精を出し過ぎたというのは理由としては説明になっていない。例えばあまりその行為が自分には向いていなかったのだと説明しても、では何故向いていなかったのかと問われれば途端に返答に窮することとなろう。
 だから必然的に私たちは人から何らかの行動の理由を問われれば、どこかでその理由で納得するということで常に落着させてきているということなのである。因果関係をあまりにも克明に究明し過ぎようとすると、明確な理由というものそのものが消滅してしまうことになりかねない。哲学、心理学、精神分析といった分野の学問はそのような理由の因果的遡及性をベースに汲まれた思想体系であると言える。
 そしてそれら全ての学問は言語によって営まれている。つまり言語とは何らかの出来事を過去にあったこととして現在において説明するためのものとして存在していると言うことも出来る。
 哲学は要するに生とは何か、つまり幸福とか行為の目的とは何かとそういうことを考えていった先に見出される根源的な問いを問う学問である。しかしその問うことは全て言語によって行われる。心理学は生とは何かということの問いの究明のために必要な様々な人間の精神生活上での心理全般を扱うし、精神分析はその心理が病理的状態であることを前提とした治癒という目的に沿った分析を旨とする。しかし全ての学問上での言語的営みは、総じて過去にあった出来事から類推された言語、例えば名詞や動詞は全て過去にあった事物や動作が規準になっているし、一見そうは見えない形容詞や副詞も過去の何らかの事象との出会いによって得られた感想とかその時々の判断に対する記憶がベースになっている。奇麗な花という形容も、凄く奇麗な花という副詞によって強調された形容も全て実はそれ以前に見たものの中でという比較とか最近過ごしてきた生活の単調さそのものをぶち破るくらいの感動を与えるという意味では過去の出来事との類比において成立している。
 いやもっと過去の事実と関係のなさそうな間投詞や、助詞(英語では前置詞)といったものでも、それらはそういう品詞の使用の仕方を習得した人間によるその時の感情的な様相を示すものなのであり、方法記憶の中に入るし、要するに記憶という最も重要な能力なしには我々は言語行為を執り行うことなど出来はしないのだ。そもそも身体的動作とか行動全般が、そういった過去による習得、過去の記憶を手がかりに行なわれるのだ。だから行動と言語を繋げるものもまた記憶である。行動とはそういう行動を採ったことがあり、その行動の結果どうなるかということが過去の経験によって知っているということをベースになされるのだし、そういう過去の記憶を瞬時に想起させることを手助けするものは言語である。つまり言語的認識が論理的道筋を立てて、考えることを促進しているわけである。
 私たちの生活では全てが言語的認識によって勿論成り立っているわけではない。例えばまさに感覚的な神経活動による授受などもそうだし、クオリアと言われるものもそうである。
 しかし少なくともこれらも常に言語的認識に助けられているということは言える。視知覚とは事物を対象化して捉えることであるから、あるいは痛みの感覚すらも、その痛みが身体のどこの部位において感じられているかという判断や、その原因について思念するわけだから、基本的に全ての感覚は言語的認識に助けられている。そしてそれは感情についても言える。そもそも感情とは対人関係において得られるものが殆どなので、仮に誰かから侮蔑的な言辞を貰い受けるという経験があったとしたら、まず言語的認識から我々は感情的な動揺へと至るし、仮にそのことを契機に日々憂鬱になっていったとしても、それは身体的情動を何らかの形で意味づけしてそれが感情となっているわけだから、感情ということそのものが極めて言語的なものなのだ。
 あるいは友人と出掛けた旅行の思い出そのものも、エピソード記憶として共に眺めた景色や車窓といったものもまた、それがいつ何時であったかとか、何処そこであったとか、要するに記憶内容を整理する際に私たちはたとえ感覚的な事柄であっても、その感覚を意味づけ、知識や経験を参考にして心的に何らかの判断を下す時、感情的な様相で理解したとしても、合理的に何かを判断したとしても、全て言語的認識に助けられているのである。
 それはクオリアについても言える。クオリア自体は確かに非言語的要素が強い。しかしその非言語的要素を自分で何らかの形で認識し、そのクオリアによって得た感動とか体験を記憶として保存して整理したり、自分の生活や人生に意味づけたり、位置づけたりする時明らかに言語の助けを得ているのだ。しかもクオリアとは過去に得た何らかの似た経験とか、エピソード記憶とかとも密接なので、必然的にそれらと現在感じていることとの対比とか、人生の全過程に潜む潜在的記憶と現在とは密接に関係しているから、それもまた極めて言語的認識(時間把握)と深い関係にあると見てよいだろう。
 つまりそういった風に言語や言語的認識と不可分の関係にある感覚とか感覚的授受によって我々は日々生活している以上、我々の行動全般も、たとえ身体生理的な原因による不随意運動に対してさえ、何らかの形で言語的に判断しているし、寝ている時、とりわけレム睡眠時に見る夢そのものもまた、言語的認識と無関係なものなどないだろう。だから必然的に何らかの無意識な身体的動作に関してさえ、ある言葉を聴いた時に条件反射的に連想することによって採られる身体的動作とか、要するに行動全般が既に言語的影響下にあると言ってよいだろう。
 記憶そのものも記憶間の連動ということも考えられるし、意味記憶化するエピソード記憶と言うものもあるだろうし、逆に意味記憶から喚起されるエピソード記憶というものもあるだろうし、何より身体的な運動記憶、手続き記憶などが言語を心的に誘発するといったことも稀ではないだろう。

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