Friday, February 14, 2014

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十三章 現実の嘘臭さを克服する処方の持つ運命

 現実を嘘臭くしか感じられないとするなら、それは完全に自分の望み、そうである筈だと思う像と現実が乖離していると感じられるということであるから、必然的にそれは現実感覚以前的なイデア的感覚を感性的に何事に対して判断するにしても、捨てられないということを意味しよう。
 空間的なことをカントが考えていた様だとは今言えるが、今回は直接彼のテクストへ向かうのではなく、一体哲学的想念とはどの様に形成されるのかということから少し考えてみよう。
 空間は時間を運ぶわけではない。何故なら時間が存在すると言い切れる程我々は時間自体の正体を知らない。要するに事物や空間内の全事象が変化する。我々は空間を移動する。移動する際に時間を要す。従って空間は時間的な移動に拠って体感されるし、空間の移動に拠って我々は空間の存在的絶対性を覚知(把捉)する。
 その空間とは事物や事象を全て包み込む場だと取り敢えず見做し、その内部での(この内部という考えもそれ自体検証する必要があるが、これも取り敢えずそう単純にしておこう)あらゆる変化や移動、動き一般全体を嘘臭く感じてしまうとしたなら、それは要するに現実以前的な「現実とは~である筈だ」とか「現実は~であるに違いない」という想念が立ち上がっているからだ。
 しかし我々はやはり決定的にそういった想念があればこそ、実際の現実で起きることに対して一喜一憂したり、こんなことがあり得るのかと驚いたりする。つまり現実を現実の侭に受け入れることとは、最初から単純になし得ることではなく、現実への否定という形で想念的にはまず立ち現れる。しかしこれはヘーゲル的な視座である。彼は否定ということをあらゆる名辞に対してなし得ると考えた。それが止揚ということを生む。何事かとは何事かではないということと対にしてしか認識され得ない。
 現実が嘘の様にしか見えないという感性こそが、現実のどうしようもない抗い難さの前でどう対処するかの全ての判断を促進する。
 デカルトは今観ている全事実が幻想かも知れない、悪霊に拠ってそう見える様に仕向けられているのではないかと考えた。しかしその仕向けそれ自体をそう認識すること、つまり現実に今~が起きつつあるということそれ自体を幻想ではないかと疑うこの私だけは否定し得ないとした。今私が目の前で確認出来る全てを私は確かに疑うことは出来る。昨日観た夢の続きかも知れないとも言い得る。つまり昨日夢を観たと察知して起きて今こうしてパソコンの前に居ることそれ自体が、実は昨日の夢の唯の続きで、夢から覚めてパソコンに向かっているという夢かも知れない。そしてそうではないと私は確かに一方では知っている。しかし確かに今起きて文章を打ち込む私の行為それ自体を、もう一人のそれを夢かも知れないとする私は、実は先程の現実の方が実は私が脳内で想念する現実とは~である筈だということよりずっと嘘なのかも知れないと言い得る。何故なら私は恐らく後数十年の間に必ず死に、その後は今世界をこうであるとか、こうであって欲しいとか、そう認識したり把捉したりすること全てが今の様ではなくなるだろう。そしてそうなっていった後の(それは私そのものではないかも知れないが)何かを感じるということがないその状態の方こそ真実に現実であり、今私が仮に現実に対して疑いを持つということ、嘘の様にしか感じられないと思うその感じ方の方こそ全て幻想かも知れないからである。これはある意味ではデカルトの何かが何かであるということ自体を疑う、現実だと思う全てがそうではないかも知れないと思う私そのもの(デカルトはそれだけが疑い得ないものとしたのだが)をも俯瞰する地点に別の私が居ることを意味する。
 これは二重の意味での懐疑論である。しかしこの懐疑論はそうメタ私の様なものを規定した瞬間、実はこの規定の仕方自体が一種の痛烈なるどうしようもなく展開するこの現実、世界のあらましの全てをそうなっている、そう展開している(様に見える)ことそれ自体は否定しようがないということを主張してもいるのだ。
 事実仮に今私は夢から覚めて起きてパソコンの前に座ってワードを打ち込んでいるこのリアル自体も夢かも知れないと思うことも、又仮にそれこそが事実で、現実に起きてパソコンの前に座ってワードを打ち込んでいる夢を見ているということそれ自体だけはやはり決定的に夢ではなく現実である。或いは事実である。
 つまり今観ているのが現実であるかとか、そうではなく夢か幻想かということの是非が重大なのではないのだ。寧ろその様に現実に起きているのか、あたかも現実に起きているかの様にそう見える、或いは幻想している、ということ(という事実)の方が重大なのである。その点ではこの現実に起きていることとか、現実に起きているとそう感じられる、そう認識出来るという事実だけを抽出すれば、当然そういう事実を抽出し得るこの私こそ、或いはデカルトが考えた私なのかも知れない。恐らく寧ろこちらの方をこそデカルトは私と考えたのだ。
 これはしかしある意味では極めて認識というものが、認識する主体である私と不可分で、同時にその認識をすること(その事実)自体に対しては肯定的であるということは、即ち結局現実が本当にそうであるのかとか、否そう本当の様にそう見えているかということなどは、それ程重大なことではなく寧ろ些末なことであり、兎に角現実にはそう起きている様にしか見えないということこそが重大だということとなり、このことは結局、現実とか「~であるべきだ」という倫理的な現実認識をも含み、その様に実際にはその様に、あるべき姿としては展開していない現実を、しかし「~であるべきだ」と、あたかもヘーゲルが考えた否定を通してしか現実の事実AもBも、名辞としてのそのAもBも認識し得ないという把捉的な在り方をも含め、その様に想念すること、その様に思念すること、その様に認識することそれ自体からの不可避性とは、其の侭ダイレクトに結局それこそが現実肯定であるとしか言い得ないという結論へと持ち込まれるのだ。
 従って現実の嘘臭さを克服する処方の持つ運命の名辞とは、唯一現実を嘘の様だとか幻想の様だとか、そうである筈はないとか、こうである筈だとか、こうであるべきだとそう想念すること、そう思念すること、そう認識すること、そう把捉することそれ自体の、ある意味では恐らくそれこそがデカルトの言いたかったことである処の事実性こそが、現実を肯定するしか我々には残されていない、というある種の唯一の意味となり得るのではないか、とは取り敢えず言い得る処のことである。
 しかし同時に先程の私が死んだ後に恐らく現実が嘘臭く見えるということそれ自体さえ無さだけである様な処の感じ方でさえないかも知れないことが現実であるとしたなら、やはり決定的にこうなっていまっている、今その様に展開しつつあるこの世界の、現実としての全ての変化、動き、移動等の事実も所詮幻想でしかない、或いはそれは存在していようが、いまいがそんなことなど寧ろどうでもいいこと、つまり本当らしさも嘘臭さも所詮決定的に無でしかあり得ないという想念も、又二重にメタ的に湧き出て来るとも言い得る様に思われる。