Friday, October 30, 2009

第十七章あるいは結論に代わり得るもの②

 最後にレヴィナスの記述に続いて、武蔵、ヘーゲル、ハイデッガーの記述からその相互の相関を感じさせるものをピックアップして締め括ろうと思う。

 <レヴィナス>
 かの有名な≪死へとかかわる存在≫l etre‐pour la mortを超えて、私なしにあるような時間へとかかわる、私の時間の後の時間へとかかわる存在_つまり私に固有の持続を外挿するのは凡庸な思考ではなく、∧他なるもの∨の時間へと移行なのである。このような移行の極限へと到達する犠牲の可能性だけで、こうした外挿がけっしてあたりさわりがないわけではない性格を持っていることが発見される。すなわち、それは私の後に存在するものへとかかわるために死へとかかわる存在なのである。(「他者のユマニスム」中 意義と意味 Ⅵ意味と作品、86ページより)

 <宮本武蔵> Ⅰ
一、 場の次第といふ事
 場のくらゐを見わくる所、場において目をおふといふ事有り、日をうしろになしかまゆる也。若し所により、目をうしろにする事ならざる時は、右のわきへ日をなすやうにすべし。座敷にても、あかりをうしろ、右脇となす事同前也。うしろの場つまらざるやうに、左の場をくつろげ、右のわきの場をつめかまへたき事也。夜るにても敵のみゆる所にては、火をうしろにおひ、あかりを右脇にする事、同前と心得てかまゆるべきもの也。敵をみおろすといひけて、少し高き所にかまゆるやうに心得べし、座敷にては上座を高き所とおもふべし。扨戦になりて、敵を追い廻す事、我左の方へ追ひまわす心、難所を敵のうしろにさせ、いづれにても難所へ追掛くる事肝要也。難所にて、敵に場を見せずといひて、敵に顔をふらせず、油断なくせりつむる心也。難所にても、敷居・鴨居・戸障子・縁など、亦柱などの方へ追ひつむるにも、場をみせずといふ事同前也。いづれも敵を追懸くる方、足場のわるき所、亦は脇にかまひの有る所、いづれも場の徳を用ゐて、場のかちを得るといふ心専にして、能々吟味し鍛錬するべきもの也。

 〔訳文〕
 場とりの良否を見わけることが大切である。位置をしめるのに、太陽を背にするということがある。太陽をうしろにおいてかまえるのである。もし、その場所によって、太陽をうしろにすることができないようなときは、太陽を右わきにおくようにせよ。
 座敷のなかでもあかりをうしろ、または右わきにすることは、これと同様である。また、自分のうしろがつかえてしまわぬように、左側をひろくゆとりのあるようにし、右わきをつめてかまえたいものである。夜でも敵が見えるところならば、火をうしろに背負い、あかりを右わきにすること、同様に心得てかまえるべきである。
 敵を見下ろすといって、少しでも高いところでかまえるように心得よ。座敷においては上座を高いところと思わなければならない。さて、戦いとなり、敵を追いまわす場合には、敵を自分の左の方へと追いまわす気持ちで、難所が敵のうしろにくるように、どうしても難所の方へ追いかけることが肝要である。敵が難所において、場の位置を見る余裕を与えず、敵がまわりを見まわすことのできないように、油断なく追いつめていくのである。座敷においても、敷居・鴨居・戸障子・縁、あるいは柱などの方に追いつめるのに、敵にまわりを見させないということでは同様である。
 どのようなときにも、敵を追いかけるのに、足場のわるいところ、あるいはそばに障害物のあるところなど、すべてその位置の優位さを生かして、場所の上で勝利を得るということが大切なのである。よくよく調べ鍛錬しなければならない。
 (159~161ページより)

一、かどにさはるといふ事
 角にさはるといふは、物毎つよき物をおすに、其儘直にはおしこみがたきもの也。大分の兵法にしても、敵の人数を見て、はり出つよき所のかどにあたりて、其利を得べし。かど〱に心得て、勝利を受くる事肝要也。一分の兵法にしても、敵の躰のかどにいたみをつけ、その躰少しよわくなり、くづるゝ躰になりては、勝つ事やすきもの也。此事態々吟味して、勝つ所をわきまゆる事専也。

〔訳文〕
 「角にさわる」というのは、どんな物でも強いものを押すのに、そのまま、まっすぐに押しこむのは容易ではないことである。
 多人数の戦いにあっては、敵の人数をよく見て、つよく突出した所を攻めて、優位に立つことができる。突出した角が減ると、全体も勢いがなくなる。その勢いのなくなるなかでも、出ている所、出ている所を攻めて、勝利を得ることが大切である。
 一対一の戦いでも、敵の体の角に損傷を与えれば、体全体が次第に弱まり、崩れた身体になっては、容易に勝を得ることができる。この道理を、よくよく検討して、勝をえることをわきまえることが大切である。
 (191~192ページより)
Ⅱ  
  一、ひしぐという事
  ひしぐといふは、縦へばよわく見なして、我つよめになって、ひしぐといふ心専也。大分の兵法にしても、敵小人数のくらゐを見こなし、又は大勢也とも、敵うろめきてよわみつく所なれば、ひしぐといひけて、かしらよりかさをかけて、おつぴしぐ心なり。ひしぐ事よわければ、もてかへす事あり。手の内ににぎってひしぐ心、能々分別すべし。亦一分の兵法の時も、我手に不足のもの、又は敵の拍子ちがひ、すさりめになる時、少しもいきをくれず、目を見合はせざるやうになし、真直にひしぎをつくる事肝要也。少しおきたてさせぬ所、第一也。能々吟味有るべし。

〔訳文〕
「ひしぐ」というのは、たとえば敵を弱く見なし、自分は強い気で、一気におしつぶすことをいう。
 多人数の戦いにあっては、敵が少人数であることを見ぬいたとき、または、たとえ多人数ではあっても、敵がうろたえて弱味が見えれば、はじめから優勢に乗じて、完膚なきまでにうちのめすのである。もし、一気におしつぶすことが弱いと、盛り返されることがある。手の内に握って、おしつぶすということをよく理解せよ。
 また一対一の戦いのときにも、自分より未熟なもの、または敵の拍子が狂ったとき、退り目になったときには、少しも息をつかせず、目を見合わせないようにして、一気にうちのめすことが肝要である。少し立ちなおることができないことが第一である。よくよく吟味せよ。
 (195~197ページ迄)

 一  そこを抜くといふ事
 底を抜くといふは、敵とたゝかふに、其道の利を以て、上は勝つと見ゆれ共、心をたえさゞるによって、上にてはまけ、下の心はまけぬ事あり。其義においては、我俄に替りたる心になつて、敵の心たやし、底よりまくる心に敵のなる所、見ゆる事専也。此底をぬく事、太刀にてもぬき、又身にてもぬき、心にてもぬく所有り、一道にわきまへべからず、底よりくづれたるは、我心残すに及ばず。さなき時はのこす心なり。残す心あれば、敵くづれがたき事也。大分小分の兵法にしても、底をぬく所、能々鍛錬あるべし。
 
〔訳文〕
「底を抜く」というのは、敵とたたかううちに、兵法のわざをもって形の上では敵に勝つように見えても、敵が敵愾心を持ちつづけているので、表面では負けていても心底では負けていないことがある。そのようなときには、こちらはす早くかわった心持で、敵に気力を負けた状態にしてしまうことが肝要である。こうして「底をぬく」ことは、太刀によっても、体によっても、また心によっても、ぬく場合があり、一概にわきまえることはできない。
 敵が心底から崩れてしまった場合には、こちらも心を残しておく必要はないが、そうでないときには心を残しておかねばならぬ。敵も心を残していれば、なかなか崩れないものである。
 多人数の戦いにも、一人一人の戦いにも、この底をぬくということを、よくよく鍛錬しなければならぬ。
 (199~200ページ)

 武蔵の兵法「五輪書」のここで示した∧火の巻∨は実際のところ大まかにその内容は技術論的戦法指南と、心理的戦法指南に大別される。Ⅰに示したものが前者であり、Ⅱに示したものが後者である。しかしこの二つは相互に絡み合っていて、敵に不利になるように仕向け自ら敵が不利な位置へと移行するように持っていく技術自体は、心理的な面も大きく手伝っている。そして心理的な面で優位に立てば後はゆっくり技で勝負し得るというわけである。
 しかし也と書いたかと思えば、別の箇所ではなりと平仮名で書いてみたり推敲とか校正をしたりしている暇のない武蔵の人生を彷彿する原文ではないだろうか?
 武蔵は次の「五輪書」で最後の大柱である「風之巻」を書いているが、これは一度も負けなかった者による自らの剣によって打ち滅ぼされた敵方の人々の弱点=自らによって打ち滅ぼされた理由、を描出している。つまり負けた中でも最も弱かった者から順に考えて述べているのだ。
 次はヘーゲルである。
 
 <ヘーゲル>
追加
〔婚姻の神聖であること〕婚姻が内縁と区別される点は、内縁では主として自然衝動を満足させることがねらいであるのに対し、婚姻では自然衝動が抑制されているという点である。それゆえ婚姻でない間柄では羞恥をおぼえさせるような肉体上の出来事が、婚姻においては顔を赤らめないで語られる。しかしまた、婚姻がそれ自体においては解消しがたいものとみなされなければならないのも右の理由による。というのは、婚姻の目的は倫理的な目的であり、倫理的な目的はきわめて高いところにあるので、これに比べればその他のすべてが無力であり、これの支配下にあると思われるからである。
 婚姻は情熱によってかき乱されてはならない。情熱は婚姻より下位のものであるからである。しかしながら婚姻が解消しがたいのはただそれ自体においてだけである。キリストの言うように、「彼らの心が無情いがゆえにのみ離婚は許されている」からである。婚姻には感情の契機が含まれているから、婚姻は絶対的ではなくて動揺するものであり、解消の可能性を含んでいる。しかし立法はこの可能性をきわめて困難なものにし、気に入るとか入らないとかいった気ままな意向に対して、倫理の法を堅持しなければならない。(「法の哲学Ⅱ」第三部倫理中 §163の追加 45ページより)

 最後にハイデッガーを記しておこう。
 
 <ハイデッガー>
 ①現存在が現事実的に実存することは総じて無差別的に、被投された世界内存在しうることであるばかりではなく、配慮的に気遣われた世界のうちにつねにいちはやく没入してしまってもいる。
 
 ②おのれに先んじてなんらかの世界の内ですでに存在していることのうちには、配慮的に気遣われた世界内部的な道具的存在者のもとで頽落しつつある存在が、本質上ともに、含まれているのである。

 ③現存在の存在は(世界内部的に出会われる存在者)のもとでの存在としておのれに先んじて(世界)の内にすでに存在している

 ④世界内存在が本質上気遣いとして、また世界内部的に出会われる他者たちの共現存在と共なる存在が、顧慮的な気遣いとして、とらえられたのである。何かのもとでの存在は配慮的な気遣いである。というのは何かのもとでの存在は内存在の在り方として、この内存在の根本構造である気遣いによって規定されているからである。

 ⑤気遣いは自己へととる或る特殊な態度を意味することはできないのである。というのは、自己とは、存在論的にはすでに、おのれに先んじて存在するということによって性格づけられているからである。
 
 ⑥おのれに先んじて存在するということは、最も固有な存在しうることへとかかわる存在にほかならないが、このことのうちには、本来的な実存的な諸可能性に向かって自由であることの可能性の実存論的・存在論的条件がひそんでいる。

 ⑦現存在は、非本来的に存在しうるのであって、現事実的には、差しあたってたいていこうした在り方において存在している。
 
 レヴィナスによる記述は明らかに私の死後、永遠ということの想念を生み出す契機として私が私であることのハイデッガーによる認識が語られている。しかしハイデッガーの考えていた歴史的存在である現存在や、死の個人性ということは、その後も形を変えて様々な論述において登場する。例えば推移ということで言えばハイデッガーにはない形で既にベルグソンが純粋持続ということを言っていたが、ベルグソンにとっての時間は、空無の中に漂う生<死としての背景に成立する変化>であるよりは、私たち存在者にとっての自由を生み出す場であった。自由という考えはサルトルが継承する。倫理学的、道徳論的な意味でベルグソンは明らかにサルトルの師であった。勿論サルトルはハイデッガーの死の概念や、存在論にも多大の啓示を得ている。
 自由とは時間をどう捉えるかという観点からしか生じ得ない。時間と私、あるいは私一般ということから考えることだ。その際に私にとってあるいは私一般にとって時間とは何かということから社会、私たちにとってという風に考慮した時、歴史という認識が生じる。
 その歴史を意義として捉えるという意味ではクリプキは「名指しと必然性」において、「そうであったこと」と「そうであるものとして語られたこと」が一致すること、つまりその差異に眼を瞑ることこそが歴史だという見解によって示している。本当の歴史的真実とはこれこれこうであったものの、言説上、通説としてこのように罷り通っているという考え自体は、逆にある「固定化された歴史的言説」という観念を通説に従って構成し、その存在を通して私たちが想像するものでしかない。それは歴史的真実の意義においては何ら重要なことではないとクリプキは考えたと思う。つまり「そうではなかったかも知れない可能性」とは、「そうであったとして伝えられること」によって構成されているわけだが、実際それが仮に「そうではなかったかも知れない可能性」の方に真実味があったとしても、その通説に対する変更自体に多大な歴史的認識全体を揺るがす意味合いがない場合、通説通りとしておいて何ら歴史的認識全体に修正を加える意味などないというのがクリプキの考えだ。言語と思考の関係に喩えられる。通説通りでも通説通りではなくても大意は変更されないのが思考であり、通説と非通説の間の差異を敢えて技術的な側面から考えることが出来るのが言語なのだ。通説とはしばしば現時点から見たその事実で変更可能なのだ。(第十五章参照)言語は思考を円滑にし、運路を整えるという、エドワード・サピアの「言語」の中で示されている「道」説(道を通るのが思考である。)に近いものとして考えればよいと思う。
 前頁の記述はそれぞれそういった考えを説明するのにもってこいである。例えばレヴィナスのものには、「私の時間の後の時間へとかかわる存在」(つまり他者ということ)で、ハイデッガーの「存在と時間」に対する解釈として、「私にとっての時間」が「私たちにとっての時間」に転換されること自体に内在する言語的認識をも含む思考の運命が示されている。この考えこそ永井均氏がライトモティーフにされているものの起源だと私は思う。しかもレヴィナスのこの記述は個体の死が生者の存在を理由づけ、全ての存在者は死して、他の生者を支えているという主張ともなっている。
 そしてヘーゲルのもの(「法の哲学Ⅱ」中45頁の引用記述。第三章参照のこと)には私秘的な出来事で行為でもある性行為自体が羞恥を含むものでありながら、それが公認されると婚姻が自然的衝動の抑制という形で社会通念として語られ存在者に対する権利となる。それ自体「私にとっての肉体関係」が「私たちにとっての肉体関係」へと転換される、つまり自然的衝動(性的快楽)の満足や肉欲である衝動を抑制し理性的愛へと転換される時には確かに権利上容認されつつも、実は社会機能維持功利性という観点からは社会的不安定要因を排除するという形で権利的に個へ付与するという機能主義的側面の主張となっている。これはアイロニーとして法秩序を語る視点であり、ホッブスの「リヴァイアサン」にはない側面である。(第三章を参照されたし。)
 
 武蔵の考えは家庭的平和という観念が完全に欠如している。それは求道者による記述以外の何物でもないのであり社会的成功と俗世間的な幸福を享受したヘーゲルと最もかけ離れている。よって武蔵にとって羞恥があるとすれば、それは羞恥について考えることであって、克服されるものとして語ることではなく、克服されてしまっていなくてならない。羞恥は武蔵にとって迷いや逡巡を生む最大悪だったのだ。それに比べヘーゲルは武蔵よりずっと俗な感性の持ち主だし、幾つかの婚姻に関する記述は妻との性行為を想起しつつ書いたようにさえ思われる。
 ところで家庭的平和ということで言えば武蔵に近いのは寧ろサルトルだっただろう。彼の「存在と無」には性交渉のことについて触れた箇所があるが、ヘーゲルのものと比較すると極めて即物的な快楽原則的記述である。ここに行動者としてのマニフェステーションに徹するサルトルの資質が伺われる。
 ハイデッガーは私が「存在と意味」という表題をこの論文につけた当の根拠である。サルトルの「存在と無」は確かにハイデッガーの「存在と時間」抜きには存在し得なかった。つまりその根拠の一つが存在の気遣いという概念である。
 ①は故に他者一般のことである。そして②は他者と自己の関係が与えられてはいるが、それを当然のこととして問うことをしないでいることであり、それを彼は頽落と呼ぶ。(第十五章参照)③はだから、そのような他者‐自己という合一的現実に現存在としての我が既に組み込まれていることを言っている。私たちは他者と離別することがある。だがその人物は今現在自分の日常において不在であるが故にかつては切実な存在だったと了解し得る。④はそういう他者存在への気遣いとして現存在としての我があると捉えている。
 ハイデッガーにとって気遣いということは既に運命づけられているのであり、それは性格づけられているという謂いで表されているが、それは自分に対するえこ贔屓というつまらぬ感情をさえ飲み込むものだという考えが⑤によって示され、「今の自分」の内にある過去から引き摺った「本来あるべき自分」から、別な形での「本来あるべき自分」を再設定することの内に私たちが自由であることを⑥に示し、そのことの別の言い方として旧「本来あるべき自分」に対し「今の自分」を新「本来あるべき自分」として見直すことにおいて、非本来的という概念を使用している。

 つけ加えておけば、第五章で祭りについて記述したが、この章の考えは当時読んでいた木村敏氏の「時間と自己」とバタイユの「エロティシズム」中の死に対する忌避が濃厚に影響を与えている。

 武蔵の晩年の絵画、例えば枯木鳴鵙図を見たのは京都旅行よりずっと前だった。しかし今回若い日の彼による観智院での仕事を見て彼は当時から既に心の仏像制作に取り掛かっていたと感じた。
 私にとっての心の仏像を作る旅は始まったばかりである。この旅がどれぐらい続けられるかは私にも未だ分からない。しかしこの心の仏像制作が日々私の平凡な毎日に何らかの心の旅、心の祭りにしてくれるのではないかという期待と共に筆を置こうと思う。(了)

 
参考文献
 プラトン「国家(下)」藤沢令夫訳 岩波文庫
 ホッブス「リヴァイアサン2」水田洋訳 岩波文庫
 スピノザ「エチカ(上)」畠中尚志訳 岩波文庫
 コンディヤック「人間認識起源論」古茂田宏訳 岩波文庫
 カント「道徳形而上学原論」篠田英夫訳 岩波文庫
 ヘーゲル「法の哲学Ⅱ」藤野渉・赤沢正敏訳 中公クラシックス
 エトムント・フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」細谷恒夫・木田元訳 中央公論新社刊
 アンリ・ベルグソン「時間と自由」中村文郎訳 岩波文庫
 エドワード・サピア「言語」安藤貞雄訳 岩波文庫
 ルドウィヒ・ウィトゲンシュタイン「哲学探究」藤本隆志訳 大修館書店刊
 マルチン・ハイデッガー「存在と時間Ⅱ」原佑・渡邊二郎訳 中公クラシックス
 エマニュエル・レヴィナス「他者のユマニスム」小林康夫訳 書肆 風の薔薇
 ジャン・ポール・サルトル「存在と無」松浪信三郎訳 人文書院刊
 カール・グスタフ・ユング「無意識の心理」高橋義孝訳、人文書院刊
 オイゲン・フィンク「実存と人間」座小田豊/信太光郎/池田準訳 法政大学出版局
 ギルバート・ライル「心の概念」坂本百大・井上治子・服部裕幸訳 みすず書房
 ジョルジュ・バタイユ「エロティシズム」室淳介訳 ダヴィッド社刊
 モーリス・メルロ・ポンティー「言語の現象学」木田元、竹内芳郎、滝浦静雄訳 みすず書房刊
 ジョー・ラングショー・オースティン「言語と行為」坂本百大訳 大修館書店刊 
 ソール・クリプキ「名指しと必然性」八木沢敦、野家啓一訳 産業図書刊、「ウィトゲンシュタインのパラドックスー規則・私的言語・他人の心―」黒崎宏訳 産業図書刊
 ダニエル・C・デネット「解明される意識」山口泰司訳 青土社刊
 ジョン・オルコック「社会生物学の勝利」長谷川真理子訳 新曜社刊
 リチャード・ドーキンス「神は妄想である」垂水雄二訳 早川書房刊 他多くの著作
 ジョセフ・ルドゥー「シナプスが人格をつくる 脳細胞から自己の総体へ」森憲作・谷垣暁美訳 みすず書房刊
 金谷治 訳注「論語」岩波文庫
 木村敏「時間と自己」中公新書
 中村元「龍樹」講談社学術文庫
 鎌谷茂雄「五輪書」講談社学術文庫
 小此木圭吾「自己愛人間」ちくま学芸文庫
 養老孟司「脳のシワ」新潮文庫
 中島義道「哲学の教科書」講談社学術文庫、「私の秘密」岩波書店刊 他氏の殆ど全ての著作
 永井均「倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦」産業図書刊 哲学教育シリーズ、「転校生とブラックジャック」岩波書店刊 他氏の殆ど全ての著作
 小浜逸郎「言葉ななぜ通じないのか」PHP新書
 和田秀樹「<自己愛>と<依存>の精神分析」PHP新書
 茂木健一郎「脳とクオリア」日経サイエンス社刊、「「脳」整理法」ちくま新書 他多くの著作
 池谷裕二「ゆらぐ脳」文芸春秋社他多くの著作
 前野隆司「脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説」

 付記 私の論文「存在と意味」はこれで終了ですが、引き続き「意味の呪縛」(短論文)そして「感情と意味」(長論文)を更新掲載致しますが、数日休暇を頂きます。(河口ミカル)

No comments:

Post a Comment