Sunday, December 23, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十二章 時間論を超えられるか?/空間の存在の側からの絶対性に就いて

 意味は既に何に関しても直観的に明確である。それは意味が必ず実在的に最大級の主張をしているからである。それに対して概念は常に形骸的である。それは統語に近く語順的な言い方の癖の様に物事の理解の為の癖の様なものである。だから表層的で形式的な概念は変わり難く、実在的その時々で全体的なメッセージとなっている意味(意味とは常に世界への全体的な把握から齎される)は横溢しているが故に時代と共に、状況と共に変化しやすい。唯戦前であれ戦中であれ戦後であれ日本の女性ということを考える時その本質的な意味は変わらないと言う時、そこでは概念的な女性性への理解をよりメッセージ啓蒙的に分かりやすくしているだけのことである。
 哲学的には意味は移ろいやすい。
 だから意味はより時間論的範疇のことである。概念の方がなかなか執拗に歩くとか、大人とかの形式的な把握を変えないのでより時間を超越していると言えるが、それとて完全に不変ではない。ある概念はそれを必要とされなくなる大きな事態の変化というものには耐えられないからである。しかし空間はそうではない。時間から唯一影響を受けないものとして空間をカントは考えたとも言える。
 存在も意味も既に時間論の範疇の命題である(存在は存在する事実からしか語れない。従って存在事実は時間論的である。すると存在と言明する時既に我々という時間と無縁で居られない存在者の側からの言明となり存在自体も時間論外で居られなくなる)。そこでどうしても存在と意味を設定する場、つまり空間が求められる。それはどうしても思惟の上で相対的なことではなくなるのだ。絶対基準としての空間、絶対無ということになってしまう。それは唯単に思考上の便宜によるものなのか?もしそうなら存在も意味も時空間ということになるが、そうなると空間は相対的となる(現象学はそう考えている。カントは違う)。
 また意味が説明的であることは、仮に意味が不変であってもそれ自体時間的なことであることも免れないということである。要するに存在も意味も時間論へ吸収され、空間を場として考える余地をどうしても残してしまうということを意味している。
 空間的なこと、つまりカント的崇高なるものとの出会いは、身体論的であり、空間のエロスの問題である。実はここにありとあらゆる宗教的感情の発生の根拠があるものと思われる。空間の只中に立たされていることその事実は、空間の只中に「在る」固有の感じで疑いのないものである。そこで自己存在からは太刀打ちの出来ないメジャーさとして空間は覚知されるが、覚知している自分という認識は、あらゆる思惟が身体を事実化するロゴスによって生み出されていると我々は覚醒する。
 そこでロゴスとしての自己がエロスを際立たせていると知る。
 ところで一億年前も十億年前も地球が誕生したと言われる四十五億年前も、或いはビッグバンのあったと言われる137億年前からこのかた空間それ自体は全く変化してこなかったのだろうか?アインシュタイン的に空間の歪みと言うと、そこにはもう既に時間が介入してはいないだろうか?
 ここでも結局存在者である我々や地球や宇宙(要するに実在)からしか空間を考えることが出来ないのだから、時間の介在しない(時間、つまり自然のあらゆる変化を消去した後に残る)純粋な空間などは思惟に於ける論理的可能性でしかないということになる。
 しかし本当にそうなのだろうか?絶対無にしてありとあらゆる存在を包括する空間それ自体は137億年前から宇宙が消滅する迄変化しないものであるなら、その間の全時間は絶対無の現象となろう。ビッグバン以前と宇宙の消滅以後はではどうなるのだろうか?そこ迄考えるならやはり絶対無としての空間を想定することは無意味ではないのではないだろうか?
 結局物理学の未来の方向性も、この存在という既に変化を伴う時間が介入した自然と共に変化しつつある実在的側面(自然とは我々をも含めて全生命現象と全存在との総体とも言えるが、哲学者は我々を自然とは捉えないし、科学者も自然と自然を認識する我々は区別しよう)から空間を捉えている(認識している)のは、絶対無という絶対的場の上での現象(でしかない)ということなのか、それとも現象と言うそのこと(絶対的事実)こそが空間そのものなのか(それだとどうしても空間自体の認識は相対論となってしまう)、という哲学的認識如何で大分様相が変わっていくだろうし、いずれの立場も維持されていくと私には思われる。
 しかしここでも二元論的な認識体系が浮上してしまう。この夢魔から如何にして逃れられるのだろうか?
 最終的には存在自体が刹那であるのか、それとも永遠であるのかという認識の差によってありとあらゆる想定される問いは異なった様相で認識されることとなる。宇宙も誕生と死滅とがあるから、当然存在は刹那である。死があるものはたとえ悠久の時を持とうが刹那である。しかし我々自身は「我々の宇宙」の外から考えられないが、「我々の宇宙」の死滅「後」の世界も想定し得る。それは世界、つまり我々の世界を「世界」とすることから可能である。ここに無限背進構造が認められる。そうなると結局アリストテレス原理へと帰着してしまう。カントはプラトンは永遠を前提している(カントの謂いでは知性論者)が、アリストテレスはそうではないとしている(要するに永遠問題を不問に付している。カントの謂いでは経験論者)。フッサールのエポケーもこの不問に付す態度である。しかし刹那は永遠が生んでいるとは語義論的には言い得る。そしてここでも無限背進が浮上してしまう。結局存在が記述問題へと摩り替わってしまうジレンマから我々は自由になれない、ということ以外ではなくなる。
 空間は触覚的に体感される(tangible)。つまりそこで意味を食み出すのだ。何故なら意味とは説明的なことだからである(空間それ自体は説明出来ない)。
 空間を測量することは、そこに既に面積や体積やを求めるという測量行為を伴うが故に時間的な空間の認識をする、ということだ。それは時間化された空間なのである。時間化された空間とはそれ自体相対的空間なのである。
 それに対し何処迄も拡張可能な空間(カント『純・批』のアンチノミーとしての)は、それ自体絶対ではないだろうか?(尤もここで「自体」とする時名詞化されているから記述問題が絡んでしまう)
 無限性、そして永遠とはこの絶対無として想定された空間である。
 生そのものは時間的なことである。生は空間的ではない。生命も空間的ではない。空間はあらゆる存在(生をも含む)以前の絶対基準である(として考えられている。それは取り敢えずなのかも知れないが)。芸術で示せる空間も作品という点を提示する行為的空間故、限定的時間空間(パフォーマンス)であるとも言える。
 人間の身体自体がホメオスタシスとエントロピー縮小の賜物なので、空間に対して点でしかない。存在とは存在の認識であるが故に存在者という点からしか認識され得ない。点が存在しないとすれば存在も成立しない。
 そう思考すること自体が点から空間へ対峙していることなのである。
 ところでここで世界に存在する全ての存在者(現存在)の気持ちということを考えると、それは論じることの不可能領域となるだろう。それは空間が説明不能なのと同じくらい説明不能であり、現象的なことの無限と言うに近い。その問いは甚だ具体性を欠いてしまう。この抽象化された問いは、そこから逃避すると絶対正義などの観念を喚起する。しかし空間を絶対無として認識するその仕方は幾分それと似てはいないだろうか?つまり説明され得ぬと説明され得ることとしては全存在者の気持ちと空間とは酷似している。
 今回は意味と概念との往復運動それ自体が時間論であり、その時間論的堂々巡りをいい意味で発展的に進化させることの先に空間論が浮上するメカニズムに忠実に考えてみた次第である。
 次回はカントの三批判書に則して考えられる空間の今日的問題に就いて考えてみよう。