Thursday, November 12, 2009

〔意味の呪縛〕三、独自であることの意味と、私と他者

 独自の価値判断を下すことの出来る存在者という規定が我々に対して成立するのなら、我々はその独自のという部分が一体どういうことを意味するのかという意味の呪縛に対してもっと自覚的であらねばならないだろう。
 カントは「判断力批判」において美しいという形容が自らの内心に成立する時、その美しさそのものが他の全ての人々においても同様に成立することを望むと言っているし、モラルとは他の全ての人において考えられる格律でもあるという一致を常に志向せよと考えている。それは即ち個人独自の価値判断というものが常に隣接した他者の視線を意識したものであるということを意味する。
 正しいと思えることというのは、どのような個人において判断されたにせよ、自分以外の者ならきっとこう考える筈だという推測において成立するのではないだろうか?
 それは判断というものの中に既に私によってなされた判断であってさえも、実はその私という思惟そのものが、たまたまこれを判断したのが私だが、私以外の誰であっても私が今下したようなことと同じように判断していたに違いないという推測において成立しているということが言えるからである。
 何が正しいかという時、もしそうでなかったなら矛盾するということがある場合反証可能性というものとして捉えられる時明らかにそれは科学的な判断であるということになる。
 現代の哲学の中では現象学が唯一この科学的判断というものそのものに対する我々自身の信憑性そのものがガリレイとデカルトによって正しいと思われる蓋然性そのものが正しいとか正しくないとかの範疇を超えるような判断を用意周到に隠蔽することによって成立してきた科学史全体に対する批判を、フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」というテクストの中で示したことに端を発している20世紀以来の新たな問題として「ありうべきこと」とは「ありうべきこととして規定してしまう私たちの思い込み」という見方を提供している。
 この時独自の価値判断という個人毎の判断の中に明らかに自分で下したにもかかわらず、自分以外の大勢という観念が拭い難く介在しているという先ほど来の問題が再び持ち出される可能性を示している。
 昨今の脳科学で茂木健一郎氏などがクオリアという概念に拘るのも、このガリレイとデカルトの隠蔽というものの中に個人の事象に纏わる質感とか生き生きした感触というもの全てが一般的に了解され得る判断としてではなく主観性としてだけ考えられてきた物理学の観念の歴史を逆に物語っている。
 しかし人間は最後の砦である個人の主観にまで脳が作用していると考えると、では一体個人の自由などどこにあるのだろうと訝しくなる存在者なのである。事実脳科学という分野はクオリアを普遍化することによって逆に個人の主観などというものは思い込みであるに過ぎず、全てが脳内現象として説明が尽くという極端な合理主義を要請することに直結する。
 私が「そうであるに違いないと思った」ということの中には「私以外の誰もがそう思うに違いない」という思惟に直結するとしたら、明らかに私の脳が独自に判断することは、私固有の脳内現象だと思うというその思い込みそのものが幻想かも知れないという思惟へと立ち致らせる。
 つまり私以外の誰の脳であっても、私の脳が固有に感じたある事象Aに対する感じ方は、殆ど私の場合と同じように脳内でニューロンが発火するさまを演じるのだとしたら、個人の主観という言葉は甚だ誰もが同じように感じる筈なのに、そのことを感じたというまさにその事実がその個人の存在に属していたというもう一つのメタ事実にこそ私という人間(仮にその感じたのが他ならぬこの私であるなら)の存在理由に直結するように思えるからこそ、敢えて同じような脳内の発火現象の事実的所有者という観念においてその感じ方を事実的固有性の下に理解しようとする、いや理解したい欲求が生み出した幻想であると言える。もっと簡単に言えば個人の主観性という名の下に我々は誰であっても同じように感じる筈の当の事象に対してその場に居合わせたということにおいて脳の固有性を主張することで個人の存在理由を見いだしているということになる。
 これは独自であることというのが、その場に私以外の誰が居合わせたとしても同じように感じる筈の当のクオリアへの感受という事実そのものの当該者という規定によって、初めて個人の存在理由を附与するという社会的了解がある。
 これはサラリーマンの生活とはつましく質素であり尚且つ忙しいという社会的了解の上でどの個人も同じように感じているのだが、そのサラリーマンの立場が他ならぬ私であるという偶然性は、他の誰であっても私の立場に立てば、私が感じることと同じことを感じる筈だ、しかしあなたはサラリーマンではなく裕福な資本家である、故にあなたには私のこの辛い立場などわかるまいという個人の立場に対する了解そのものが、当該の事実の所有者という規定によってしか成立し得ないということを物語っている。と言うことは私があなたのような裕福な資本家であるなら、私もまた今のあなたと同じように今の私のサラリーマンとしての生活のつましさなんてわかる筈がなかっただろうということでもある。
 独自の立場という他者に対する主張とはとりもなおさず私の立場に立てば誰でもという意識を孕んでいるのだ。
 ここで一つ重要な真理が見出された。それは独自ということは私が他者に対して私の立場なら誰でもそう感じる筈だという他者への了解の要請を孕んでいるのだ、ということである。
 このことはある意味では主観とは客観と背中合わせであり、個人ということが集団と背中合わせであるという当たり前の事実へと突き当たらせる。だから私たちが「彼独自の判断があって」と語る時そこには、彼の立場に他の誰が立ってもということがない限り、彼の判断そのものの正当性はいつまで立っても得られないということをも意味する。
 このことはまたもや個という存在が常に他の成員との関係において成立しているということは即ち存在理由というものの在り方が存在するもの全ての中でのある存在ということにおいて存在の意味が与えられているというやはり意味の呪縛が支配していることを意味する。
 つまり意味とはあるものの他のものとの関係のことだということである。そして意味に呪縛されているということはあるものが他のものとの関係においてしかそれが存在していると言い得ることが出来ないという存在論そのものを物語っている。

No comments:

Post a Comment