Friday, November 6, 2009

〔意味の呪縛〕一、意味を必要とするということ

 私たちは哲学的な意味では存在者である。ハイデッガーは現存在と私たちのことを呼んだ。私は取り敢えずここでは人間とか、人類とか、その時の文脈的な意味に応じてそれぞれ異なった言い方を採用しようと思う。
 しかし少なくとも哲学的な存在者であるという意味から私たちのことを私たち自身は他の存在、例えば私たちの身の回りにいる動物であるとか植物とかと同じものとして純粋客観的には捉えられない。生物学者は私たちの生命活動を純粋に他の生命体とか、地球環境における物質として取り扱っているように見えるが、実際私たちのこの目によって捉えられた客観的像である限り、それらもまた固有の主観的捉え方の一つに過ぎないと言える。
 哲学的な意味とか、文脈的な意味と私は言った。そこには私たちが相互に何事かを理解するために必要な知識とか、情報を糧にそれぞれの間の関係とか固有の存在理由(それはそれぞれの間の関係なしには成立し得ない)を何らかの形でその都度規定して相互に「そうだね」と確認し合うための便宜的な道具である。そういう観点からすれば意味もまた道具である。
 私たちの生活は、何らかの意味で寿命とか、年齢に応じた社会的能力とか、人間間相互の社会的適性とか、要するに人生というもののあり方を巡って「こうあるべきだ」とか「こうであってはいけない」といった考えによって規定を受けている。そして哲学的意味合い、あるいは文脈において、私たちの生は明らかに次の三つによって成立している。
 それは欠如、自己欺瞞、幻想である。
 最初の欠如とは、私たちが未来に向けて何かを思惟する時、「今まではこうだったが、次はこうでなければいけない」と考える。例えば営業社員は、営業成績に関して今までの成績を鑑みてこれからの目標を立てるだろうし、受験を控えている受験生は今現在の学科の理解を更に深めるために自分の弱点をこれこれこういう仕方で補う必要があるという風に考える。新婚夫婦には新婚夫婦にとっての生活設計があり、子どもを育て終えた夫婦には彼らなりの人生設計というものがある。
 つまり過去の自分で確認し得るデータを下に私たちは未来の像というものを常にその都度それなりにおぼろげながら提示し続ける。と言うことはつまり私たちは常に未来に向かって何らかの目標とか希望とか期待とか願望を携え、現在の在り方を欠乏した状態として捉え生きているということを意味する。そういう観点から人生、生というものを考える時この欠如というものを哲学的な意味での存在たる私たちを考える上で重要な観点であるとすることは極めて自然である。
 さて次の自己欺瞞とは、勿論最初はサルトルが「存在と無」で提出した概念であるが、彼の考えをそのまま適用しても十分納得のいくものであるが、今ここでは私なりそれを応用して考えてみよう。
 それをまず日常生活レヴェルでは職業的意識とか職業的義務、あるいは家族内での役割、あるいは地域社会での役割、要するに社会的存在者としての個々の役割というものがまずある。それに対してその役割に自分を適合させようとする時、納得のいく部分、つまり幸福感を感じられる部分というものは当然であるが、そうではない部分、つまり自分で対社会として適合させてはいるものの、自分の中では納得のいかない部分というものが常に付き纏う。この不幸とまでいかなくても不満とも言える部分と、幸福的感情というものをどこかで巧く、と言うより何とか折り合いをつけて生活を実践しているということそのものを私たちは自己欺瞞と呼ぼうと思う。この捉え方はサルトルの言ったことと極端には離れていないが、もっと理解しやすくしたものでもある。
 最後は幻想である。これはある意味では前の二つよりもかなり適用される範囲が広い。何故なら私たちにとって日常生活に欠くべからざる道具である言葉、法、理想、良心といったもの全てがこの幻想に入るからだ。断っておくが、哲学的幻想と言う時私たちはそれをただの幻であり、ないのにあるもののように思えるという意味ではないということである。つまりそれは実在すると確たる証拠をもののように突きつけることが困難であるという意味で、私たちの生活、人生、生に不可欠なのに、例えばそこらに転がっている石ころのような物質のように分子組成とか構造分析がしやすいものとは違うということである。そういう意味では私たちの心の中で考えることはたやすいが、物質のように容易にその組成とか、枠組みを規定し難いもの全てを哲学的に幻想と呼ぶことに私は加担したい。
 そして重要なこととは、この三つ、つまり欠如、自己欺瞞、幻想とはただ単にネガティヴな要素であるということではないということだ。それらは必要欠くべからざる重要な非実体的な観点なのである。
 
 さてこの三つの観点を常に主軸にしながらこれから話を進めていくつもりなのであるが、では最初に触れた意味というものとは一体どのよう発生してくるのだろうか?
 まず私は私の人生がもう駄目だと投げ槍になってはいないものの、もう全てをし尽くしたと完全に満足しているわけではない。故に私は私の人生をいつ死ぬかはわからないが、取り敢えず、あと何十年生きようが、後数年生きようが、ここ何年かのスパンで何らかの目標を立てようとするだろうし、常に何らかの目標は既に携えている。
 そういう事実を注視する時私たちは生そのものというのは常に未完了体であり、何らかの意味で未完成であると感じるし、事実死ぬまでは誰でもそうであろう。するとそのどこかで未完了であり未完成である部分、つまり欠如を穴埋めしようと常に努力することが何らかの意味で求められる。そういう意味ではもし敢えて人生の意味というものを規定しようと試みるなら、欠如としての我々の存在というものこそが、私たちの生の意味を求めさせるとも言える。そういう観点に立てば、人生の意味とは欠如を前にして、私たちがそのことに対して何とかしようという意志が生むと考えても間違いではないだろう。
 そしてあれこれでは次に何をなすべきか私たちは考える。そして何らかの結論を誰でも内心で抱く。そして我々はそれを行動に移す。つまり行動に移されて初めて我々はその行動する意志があったのだと言えることになる。そして行動する時というのは、どのような行動であれ、その行動以外の全ての行動を排除して、選択の埒外に追いやっているのだから、ある行動を採るということは、即ちヘーゲルやサルトルが言った対自ということを一先ず停止させて、自己を即自化しているということを意味する。
 しかしその行動を採った後必ず我々は自己によって採られた行動が自己の行動が及ぶ範囲内で何らかの反響を持ち、それらは私自身にも返ってきているので、要するにその行動の結果今現在私に齎されたことそのものに対して「ああしてよかった」とか「もっとこうすべきであった」とか考えるだろう。
 その時私たちの心はまさに哲学的には対自存在そのものであると言ってよい。
 そしてそのような対自的な心の在り方は反省意識である。そしてそれはどこか達成感があっても、後悔があっても何らかの形で欠如を意識させずにはおかない。何かをしても欠如を、何もしなくても欠如を感じるのが私たちである。そしてその欠如が私たちに次の意志を生む。勿論その意志とは、何らかの形で私たちにとって次になすべき行為への意志である。哲学的な行為とは何らかの行動を支える意味、何故その行動を採るのかということに対して言葉で説明がなされ得る行動の目的とか意味のことである。勿論それら全てが生きていく上で必要欠くべからざる幻想なのである。そしてその幻想を糧に生きること、そして反省意識によって顕在化された欠如を携えて生きているということを意識することそのものを理解するということもまた幻想を生きることの一部である。
 そして何故次にこれこれこういう行動を採る必要があるのかという行為全般に対する自分なりの指針を設けるか言えば、それは要するに私たちが自分なりに意識し得る欠如に対する私たちの意志の採り方そのものが価値というものを見いださせるからに他ならない。つまり私たちにとって何らかの形で意味ある行為と受け取られるものとは、必ず私たちが欠如であると感じられるものそのものに対してその欠如を穴埋めすると感じさせるものがあるからである。勿論意味ある行為とは価値ある行為のことである。
 するとここで価値というものは欠如を穴埋めする意味を誰にとっても意識することの出来るある明快さがあるということになる。それを私たちは見識とか、一般通念とか色々な言葉で表現してきた。それら全てを価値ということの中で繰り広げられる考えであると見做すこともまた間違いではないだろう。そしてその価値を巡る問題の中で道徳とか倫理とか良識とか正義といった幻想もまた含有されると考えることもまた理に適っている。
 すると私たちの生とは総じて次のように考えられることになる。生きることに何らかの意味を求めることが許されるなら、それは欠如を補うことを常に求めて次の行為へと意志することであるが、そのこと全体をより俯瞰的な立場から見据えると、それは行為することの意味そのものに私たちが常に支配されているとも言い得る。それは何もニヒリスティックにそう言っているのではない。哲学的に呪縛と言う時それは必ずしもネガティヴな意味合いからそう言っているのではない。それは幻想に対してと同様である。つまりある行為を意味ある行為とか価値ある行為であるとしたり、ある行為を意味がないとか価値がないとしているということは、共に意味とか価値そのものに支配されている、呪縛されているということを意味しよう。
 しかしまた意味などなくてもよいとか、もっと極端に価値などなくてもいいと言うとしよう。しかしその場合ですら私たちは意味とか価値の規定そのものには囚われているということを意味する。
 つまりそのような意味でここで私は哲学的存在者たる私たちにとって生とは意味そのものであると考えることが出来ると言いたいのである。つまり私たちにとって生を意味あるものとしたり、意味などどうでもよいとしてみても、どの道意味という規定、そして価値の所在ということを問うたり、そのように問うことそのものを否定したりするのだから、どの道我々は生が意味あるとか意味などないとしても生そのものが意味であり、その意味において価値の所在を問うことを余儀なくされる存在であるということが出来る。
 では何故そのように生そのものに私たちが意味を交えて理解する必要があるかと言えば、それは意味とか価値という言葉を生きているということだからとしか言いようがない。だから何故私たちにとって意味が必要かと言えば、それは意味を生きるということを理解する以外にこの生そのものの存在理由とか価値を理解することが出来ないからだとしか言いようがない。つまり同語反復的であるが、何故我々にとって意味が必要かと言えば、それを肯定したり、否定したりすることにおいて生が何故生として存在するのかという問いそのものを肯定化するから、つまりその問いの存在理由を明確化するからであるということになる。
 つまり今言ったような問題の中に言葉の意味や価値や美、あるいは正義とか理性とか良心とかモラルとかの一切が含まれているということになるのである。
 ここで本章なりの結論として次のように言っておこう。
 意味とは価値の所在を問うために設けられた幻想である。意味を生きるということは生が意味があっても意味などなくても、あるいは意味がなくてはならなくても、意味などなくてもよくても避けられない私たちの現実である、ということである。

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