Friday, December 11, 2009

<感情と意味>第一章 記憶‐同一性‐エゴ 第一節 私ということはあり得るだろうか? 

 私が誰か特定の相手に対して不愉快であるとか、好感が持てるという感情を抱く時果たして私ということを客観的に捉えられているのだろうか?
 例えばある関心事に心を奪われている時というのは忘我的、没我的心の状態にあり、その心の状態自体に私のことを特定的に捉える心の余裕は寧ろない場合の方が多いだろう。その場合寧ろ私たちは心の状態から言えば、誰か自分の中にありはするが、私自身に命令する何か得体の知れぬ力に突き動かされてその関心事にのめり込んでいる。
 例えば野球の試合をしている時選手たちは外野で守りに入っている時にもバッターボックスに立っている時にも案外そうしている自分に対して冷ややかに観察している視点は仮にあったとしても、その視点を「支えている自分」という意識などないに違いない。
 つまり私たちはそういう状態の時には、対自的な意識であっても、対自体であること自体には自覚的ではないだろう。そういう意識になれるのは、勝つか負けるかして試合において一応の決着がついて然る後に、今日一日のことを反省する時に初めて訪れることではないだろうか?
 つまり自分という意識とは意外とそう多くの日常的な時間において私たちの心を占めているわけではないのである。例えば今私は今この文章を書いているわけだが、書くことの内容もそうだし、書くために考えることには没頭していても、その没頭している自分ということは、勿論時たま私の脳裏を掠めはするが、それはあくまでどこか息継ぎにおいて、ほんの一瞬訪れる間隙のような時以外ではあり得ない。
 あるいは私が交際しているある友人や知人の心ない一言において私がその者に対して懐疑的感情を抱いている時、そういう懐疑の感情を抱く私とか自分という意識は、その感情の渦中でではなく、そういう感情が幾分潮が引くように小さくなってからのことである。
 そもそも感情とは、何事か、何物かに対してその在り方を巡ってその存在理由を自分にとって好ましいとか忌まわしいとか自己主観的に判断することによって定着された心そのものの志向性の一つの固定化=決定である。だからその決定の際には何らかの形で言語的認識がかかわっている。勿論言語的要素だけによって占められてはいないだろう。その心の中での固定化的、価値規定的な決定の末に、しかしそれにしても素晴らしいとか、頭に来るとか感情を増幅することはあるが、その増幅されていく心の状態は言語的ではないものの、増幅させるものとは好ましいとか忌まわしいとかの双方とも言葉の力、あるいはその言葉に我々が与えている感情的意味であろう。つまりこう考えていけば、感情とは極めて言葉の意味と相補的に立ち現われていると言うことが出来る。
 しかし哲学では意味というと多く理性とか判断の合理性とか、要するに知性や悟性レヴェルで語られてきたということが言える。つまり意味は真理と同様、感情とかそういうこととは無縁の位置に存在し得る、あるいは存在すべき価値のように考えられてきた。しかし私は意味とはそれ自体一つの感情以外のものではないと考えるのである。
 それは感情自体が一つの何らかの対象や事象に対する心の志向性の位置づけである以上意味づけ以外のものではないという事実とまさに表裏の問題なのである。
 例えばある者が宗教的信仰を何らかの人生経験によって得たとしよう。そして彼は神というものを存在し得る、と言うより存在しなくてはならないという信念を持った時彼にとって神とは存在すること自体で一つの意味を、そしてここが重要であるが、彼自身にとって実在的価値のあるものなのである。すると彼にとって神という存在の意味とは、彼の神そのものに対する信仰を彼の内部で正当のものとする、つまり彼をそういう判断を決意の下で可能とする感情的様相と無縁であるわけはないだろう。つまり意味とは存在理由のことであり、その存在理由を確固とした形で心の中に現前させる当のものとは、世界全体、つまり彼の人生そのものが志向する先に見出される意味、つまり彼の日頃の平静であったり、時には緊急の怒りを抱かせたりする感情の様相に立脚した感情調節作用そのものである筈なのだ。
 何か特定のものに対する感情を構成するものとは記憶であり、記憶内容である。それは心の中のデータベースそのものであると言ってよい。通常古代ギリシャの哲学以来感情というと、悪によって囁かれる悪意とか、捩れた欲望と捉えられることが多かった。そして理性はそれを抑制し、道徳心がそれを補佐するという風に考えられてきたのである。
 しかしそもそも道徳とは一体何なのだろうか?例えばある他者の行為を見て、それを正しいこととか善いことであるする心の作用とは、その行為を行為として成立させる別の行為やその行為者の日頃の行為や考え、あるいはそれらによって得られた自らのその者に対する像(記憶による一つのデータ)を結集させて判断していることが多い。
 つまりその他者の行為を行為として位置づける時、行為自体の意味もさることながら、その行為自体が独立して持つ意味以外にも、その行為者に関する過去のデータや、その行為者の思惑といったことをも加味して「善い」とか「正しい」と判断しているのである。
 すると誰がどんな状況においてなしてもそれを「善いこと」であり「正しいこと」であるとしている判断とは、その行為者自身のデータとは無縁に成立し得るものとすると、それはカントが定言命法と呼んだものをここに想起しても差し支えないが、そういう道徳法則とか道徳律ということになるかも知れない。
 しかしその道徳律とか道徳法則と呼ばれるもの自体も、実は過去においてある行為をなした者を我々はいつか目撃して、それを「素晴らしいことだ」とか「美しいことだ」とか逆に「忌むべきことだ」とか「汚らわしいことだ」と判断してきたことに立脚している。
 そしてここが重要であるが、そういう場合に我々は一々私にとってとか、私の内心においてということを意外に多く意識していないで判断しているのである。
 寧ろ私ということを心の中で言う時とは、一般的に「正しい」とか「悪い」とか「間違っている」とか「清らかだ」と判断していること自体を判断として一方で持ちながら、その判断における感情(私は悟性的、理性的、道徳的判断の全てを感情と見做している)を適用する先に自分自身を持って行く時になって初めて登場する対象であるとさえ言える。
 つまり私とはそういう風にかなり高次の自己‐他者関連における最終段階において登場する判断であり概念であると言ってよい。しかし一旦そういう意識を持つと、途端にそれがそれまでの全ての心の作用を私自身が(それは私の脳であり私の身体ということなのだが)なしてきたという風にまるで強烈にその存在感を私自身の心に巣食わせる一個の脳内幻想である可能性もかなり強いのである。
 つまり「自分は今まである他人のことに就いてあれこれ「いい」とか「悪い」とか判断してきたのだが、ではそういうこの自分自身とは一体どうだと言うのだ」と自問した時に初めてそれまで主観で他者は外界について全て知覚されたことを通して判断してきた感情的意味づけに対して「そういうお前は一体」という自問自答において初めて顕在化する意識であると言ってよい。だからサルトルが「存在と無」で言っていた対自ということの内にも実は自己を他者との比較とか、相関において意識するということがなければ実はあまり大きく私という意識は介在してこないのではないかということが私が考えるということの真実なのである。
 このことはある意味では哲学者、永井均氏の<私>ということをその命題論的には容認し得ても、認識論的に、あるいは心の実在論的には幻想であるという判断をせざるを得ないことにある考えでもある。しかも永井氏は形而上学的可能性において<私>を考えておられるのだが、果たしてその形而上学的な論究可能性自体がどれほどの想定意義のあるものであるのか、その有効性自体を検証し直すことを提言することを強いる考えとなる。
 つまり私は<私>は先験的に在り得るという心理自体に到達し、そこから逃れられないジレンマとして、本論ではそういう<私>という極めて魅力ある幻想を脳が私たちに付与し得る内実として心の内部の意味づけ作用と、感情的対外的処理という判断という位相で、考えていきたいのである。つまり本論はある意味で「私が成立し得るのか」と「成立している私とは本当に私か」ということに対する問いでもあるのである。

 付記 本ブログは来年(2010年)正月明けまで休暇を頂きます。またお会い致しましょう。(河口ミカル)

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