Monday, November 30, 2009

〔意味の呪縛〕八、信じることと理解すること

 私たちは少なくとも哲学的存在者であると自覚したならば、人生とは、生とは意味化そのものであると知るだろう。意味化の基礎は意味され得ないもの全てに対する無化である。
 私は前章において他者の言語化と、自己の言語化ということの交互に執り行われる相補性について触れた。これは実は一番重要なことの内の一つである。つまり生を、人生を理解しようとする時、明らかに我々は生そのものを言語化しているという自分に気づく。そしてその言語化という認識そのものが既に第一章で述べた幻想の一部であることに気づく。だから今度は更にメタ認知して言語化ということの幻想性そのものを意味づけしようと試みるのだ。例えば通常我々が無意識に執り行っている私たちが他者に述べた言葉、言説に対して「もっとこういう風に言っておけばよかった」という後悔とかを含む、あるいはただ漠然と自分の言った言葉を心の内部で繰り返し想起している時我々は言語化と言うよりは、言語そのものの幻想性を意味づけしようとしている。
 これは端的に自己を認識的には他者化していることを意味する。だから第三章で私が述べた想像という心的活動において我々は他者の立場になっている場合を想像することを、他者の自己化と言ってもいいだろう。つまり他者を自己化したり、自己を他者化したりするということの内には、実は言語の意味化が潜んでいるということはこのことからも明白だろう。つまり言語行為そのものの存在理由、生において我々がそれを認識する際の価値へと至る道筋は、他者存在、自己にとってのそれであり、且つ自己そのものがそれによって育まれるところの他者存在理由そのものに存しているということを知るからである。言語行為に対する反省や分析から言語そのものを、つまり言語化という作用そのものを捉える時、我々は言語の存在理由を見いだしながら、実は自‐他の関係そのものを意味化しているということが言える。
 言語学者でこのことに対して自覚的だったのは、ソシュールではなくイェスペルセンであったと言ってよいだろう。しかしそのことはいずれ別の機会に詳述することとしよう。この章ではとりわけ信じるということが、実はその対象が他者である場合、他者存在を言語の呪縛から解き放つことであるということについて考えてみたい。つまり愛情とか友情とか言う場合、我々はどこかで言語そのものの枠を超えたと解釈しはしないだろうか?それは印象的な文章や感動的な文章や文面に対して充実した言語という位置づけを与えるのに対して、愛情や友情はそれらをも超える価値のものと規定したいからである。しかしこの言語を超える情の問題は、実は言語が生み出した幻想でもあるのだ。つまり言語を超えると言う段階で既にそれが言語的思考によるものであるということが明白だからである。そして言語の呪縛からその他者存在や存在理由を解き放つという行為的意味そのものが極めて言語的思惟によって生じたものであるからだ。
 だからこのことはエピソード記憶とかクオリアに関しても同様に非言語的であると思われていて、その実言語の最高度の思惟の果てに到達する別の言い方が許容されるのなら、言語の最高度の結晶化作用とでも言ってもいいものであると思われるのである。そもそも哲学的に何ものかの価値を認可する心的活動が無化にあるとしたら、それはそれ自体で存在認識による心の作用でもある。つまり認識には既に言語的な思惟が介在しているからである。他者存在、他者の存在理由を言語の呪縛から解き放つということは、即ち意味の呪縛から他者存在を解き放つことであり、そのことが即ち意味の呪縛を正直に認めることにもなるのである。言葉を超えたことは言葉からしか引き出せないし、言葉に囚われないことというのは、言葉からの通常の支配を認可したことになるのである。だから無意味も、<意味などなくてもいい>も、<意味などなかったとしても尚>という思惟には全て意味が含まれる。意味が価値を生むとも言えるし、価値が意味を生むとも言える。
 通常現象学では、フッサールもレヴィナスも論理的と心理的と言う風に分ける。しかし本来全ての論理的なことにはそれ固有の心理的なことがあり、全ての心理的なことにはそれ相応の論理的なことがある。ではこのことをどう考えればよいのだろうか?
 端的に心理的なことから極力論理的なことを意図的に排除しようとすることが信じることなのである。そしてある他者を信じるとはある他者に纏わる言語による存在理由そのものが意味化されたことであると認識することで意味の呪縛から解き放とうと意志することが信じるということなのだ。そして論理的なことで心理的なこと全てを説明し尽くそうとする脳内の活動を我々は通常理解すると言うのだ。これは茂木健一郎氏がアハ体験と呼ぶもののことでもあるかも知れない。
 何故そうなのかは、意外と容易に理解し得よう。信じるということは、要するに思考の停止なのだ。それは決定であり、それ以外の全ての選択肢を考慮に入れないということである。しかし理解することは理解出来ないことではないということの判明であり、理解出来ないということは信じられないということに尽きる。だから逆に信じるということは、理解出来るものの中でもトップクラスで記憶しておくべき価値があり、銘記しておくべきこととしての要記憶事項なのである。そして一旦決定されたことを後は履行するだけのことであり、全てのプロセスを省略することこそが信じるということに他ならない。
 私は第五章において「意味の規定ということの内には意味として通用するものに対しては一々検討する必要がないという通念が生活者全般に行き渡るので、前章で述べたような話者相互の相手にこちらの説明に対して想像したり、こちらが相手から何かを聞きだしてそれを説明されたことを想像するということを相互に了解し合あったりするというような関係に持ち込むまでのことはないという省略を意味する。」と述べた。それは要するにある言説において意味を伝達する時、私たちは一々自明なことを想像する必要などないということだから、逆にかつて何らかの意味でその意味について熟知する経験を誰しも持っており、それを一々具体的に想起する必要がないくらいに定着しているということ、つまり真理であり概念化された常識ということである。だがそれは誰にとってもそうなのであり、例えば女性は通常好きな男性の下へと出掛ける時には化粧をするものだとか、誕生日には家族の間ではプレゼントをするものだとか、日本では正月では初詣をするものだとか、個人としての存在者にとって切実であるとか、その者だけが体験した事実とは違う。つまり信じるということの場合、我々はある人物が素晴らしいとか、ある料理が美味しいという時、概ね誰でもそう感じるかも知れないが、それは絶対ではない、つまり個人差があるということにおいて特にある存在者個人にとって銘記すべきことこそ信じるということであり、正月に日本人が概して初詣をするものだとか、女性が化粧するとかそういうことは信じるということではなく、知るということである。
 だからある観光地で訪れた蕎麦屋の蕎麦が美味しかったので友人が同じ地を訪れる場合その店を勧めるということも、ある意味では私にとっては美味しかったということであり、親しい間柄では勧めることはあっても、全ての人、例えばそれほどよく知りはしない旅行の車中で隣り合わせた別の旅行客にまで勧めることは憚ることもあるかも知れない。
 しかしその車中で隣り合わせた客と会話している内に、その人が「あそこの蕎麦は美味かった」と言えば、その意見に賛同し、恐らくその客の主張する事実を理解するであろう。そういう意味では理解ということの内には想起されやすいということも含まれているだろう。「まさにその通りだ」と言う時我々はある言説が他者から発言される時、その言説内容に関して一瞬過去に自分も同じ経験をしていることを想起する筈である。だから意味とは記憶されるものであり、信じるということは常にそうである筈だと心的に決定しているのであり、記憶された意味とは異なる。そして理解するということはその理解されることを心的には想起して、その発言された内容と同一の体験を自らしたことを一瞬でも想起しているということが考えられる。恐らくそれはエピソード記憶によるものとか、運動記憶とか手続き記憶とかの場合は身体的に経験したことであり、カーブを曲がる時車のハンドルを切るのは体力が要るとか、自転車を渋滞の道路で車を避けて扱ぐことはきついとか、テキーラはきつい酒だとか、そういうことというのは、同意しても信じるということよりは理解出来るということの方に近い。信じるというのは決定を曲げないという意志的な心理であり、ひょっとしたら全く別の可能性もないではない時に、しかし敢えて別の選択肢を全て遮断するという意志に他ならない。だからそれは無意識的ではなく意識的なことなのだ。
 しかし理解出来ることでも時には反復して語られる時一々その度に想起することはないだろうから、そうなると反復される言説に対して異議を申し立てることを省略するようになるということにおいて、それは意味記憶的に、それが真理だと信じることはするかも知れない。つまり理解ということは意味そのものの習得の際には必ず起こることなのであり、理解出来たものから順に、しかしその中でもとりわけ個別の事象であっても、どこか頻繁にあるケースが普遍化されて記憶されていくということがあるのだろうと思う。つまり意味とは個別のケースにおいて記憶されたものたちの中で一般化される真理として理解されて一々想起する必要のなくなった真理に対して記憶される「起こり得ること」に他ならない。
 それはある女性が伴侶の浮気によって裏切られ、伴侶の相手の女性に対して憤りを感じる場合それを嫉妬と呼ぶとか要するに個別のケースの一般化された真理に対しての位置づけということとしてである。

Thursday, November 26, 2009

〔意味の呪縛〕七、 安心と自己欺瞞

 我々はある決定に対して、「それでよかったのだ」という心理的な安心を得るために他にもっといい方策や決定があったのではないかということに対する封印をすることで、つまりそのことに対してそれ以上は問わないということにおいて実践を滞りなくすることにしているのだ。
 それは職業的自己欺瞞、サルトルが「存在と無」で明快に示した「合わせる」行為の自己言語化作用においても全く該当することである。それは相手を信用するということにおいても、ああ先生ですか、ああ君か、と言う風に知っている人、その身分と行動に関する信用においてどこそこのルーム、例えば会議室や研究室といった場所への入所を保安管理の人々に対して許可されるという、つまり許可する立場の人間にとって安心して許可し得る立場の人という特権において私たちは最高度の自己欺瞞の例を見ることが出来る。だから当然ある特権を許可することを管理側の人間に対して滞りなくさせるものとしての社会的地位というものは許可する者の安心、つまり認可された権威として全ての役職、全ての職業的特権が、職務上での義務履行と共に許可される特権的行為を正当なものとして理解される、正当なものとして認識されるものとして哲学的自己欺瞞というものは遺憾なく発揮される。
 しかし本当にその許可された存在者たちの内心というものを推し量ることは出来ないし、通常エリートという階級は社会的には何一つ過不足なことのない生活であると勝手に想像するのは、非エリート的立場の人々固有の幻想にしか過ぎないのであって、自己欺瞞を滞りなく遂行するための社会的責務達成的理性と、習慣的な行為とによって内心がどのようなものであれ、その成員の人格にとってはどうでもいいことであるという判断こそが社会的理性なのである。だから逆に非哲学的であり、社会学的であり、法学的であり、要するに思惟することが特に社会的行為そのものに対しては通常疎まれるということは当然のことなのだ。何故なら社会では義務の履行によって権利を保障されるというごく単純な一般意志の基準でのみ全てを判断するように求められているからである。
 それはだから現象論的には形骸化された法秩序と、形式随順的、改革意志排他的な保守主義を人間心理に生むことは日常的なことである。端的に法言語とは決まりごとであり、ルティンな処理概念であるべきであり、空虚な言語である必要が積極的に求められるものなのだ。官僚が作成する文章が真意と、外面的秩序の差を意識させるものであってはならない。それは全て法秩序そのものであり、一般意志の基準でのみ理解しやすいようになっていなくてはならないので、職務、社会的責務、一般的幸福の基準、一般的公正の規準、一般的公平の基準に照応されていればそれでよいのである。
 だがそれは安心という心の規準には当て嵌まらない。それはあくまで社会秩序的にそうであるだけのことであって、本心、と言うより個人の願望とか、幸福感情とか、公平、公正、正義の規準と、社会が法的に容認しているそれらとは著しく異なるケースも出てくることはある。その両者が一致している状態こそが最も好ましいということは誰しも理解し得ることだろう。しかししばしばそれらは齟齬をきたす。従って安心の規準は治安の安寧そのものに限っては、法に随順する市民のみで構成された社会状態が最も好ましいことはわかっているが、自己欺瞞を社会的責務と、一般的常識的行為という名の下に合わせて生活している心理的行為論に照応すれば、別にどうということもないことであっても、現象的行為論的には内面的には仕方なく履行している行為が多く、個人の幸福や正義に対する諸価値と齟齬をきたしている場合、我々は自己欺瞞をネガティヴに捉える他はあるまいと思うのである。
 端的に安心ということの内には社会秩序としての法体系随順という名の治安安寧という、空虚な言語、つまり他者一般が他者一般によって言語化された状態と、個人の価値基準(感情的側面が見逃せないものとしての)、つまり充実した(ように少なくとも自分ではそう思える)言語との間には常にその都度変化する距離があると言ってよいだろう。このことは重要である。何故ならその距離に対する認知と覚醒がないのなら、我々は一切の哲学的問いなどというものを必要とすることなどないだろうからである。
 安心と自己欺瞞とはだから常に一般意志オンリーの社会的法秩序と、個人の内面における現象論的思惟においては常に変化し続ける距離を保持することによって、時々一致することはあるけれど、社会的に安心であることと、ある成員にとって個人にとって安心であることは違うことの方が多く、また自己欺瞞もそれ自体が歓迎すべきケースと、そうではなく息苦しいと思われるケースとは、安心と同じように捉えられるということである。つまり他者から立派な職業人であると思われ、尊敬さえされている成員でも、彼の内面においては「こういう職務、こういう社会的地位にいることは息苦しいのだ」という思念を払拭することは困難かも知れないからである。
 一般的に尊敬される人というのはその職業的能力と技能、そしてその職業に携わる人に通常求められる風格、人格的な素晴らしさに対してであり、能力と性格と社会的地位とが複合化された特徴に対してである。しかしロックスターであれ、野球選手であれ、サッカー選手であれ、テニスプレイヤーであれ、裁判官であれ、弁護士であれ、政治家であれ、安心してその仕事振りを見ていられるという行為に赴いている成員たちは全て必死でその状態を作り上げているのであり、その姿に憧れ、羨ましがっている全ての成員たちには通常耐えられないことに耐えているのであり、大勢の人々によって安心して見ていられる仕事振りから、そのことで羨ましがられている立場の成員にとっては、自分もまたただ安心して人の仕事振りを見て羨ましいとだけ感じていたいと願っていて尊敬される優秀だと社会的に見做される成員に対して羨ましがる立場そのものを最も羨ましがっているケースも多いのだ。勿論真にその仕事に生き甲斐を感じ、他人が一切羨ましがってなどいないというケースもあるだろうが。それは恐らく極めて少ない。と言うのもそう思えるということ自体が既にかなり病理的状態の精神であると私には思えるからである。そこには自己陶酔というより、もっと歪曲化されたナリシシズムが介在しているように私には思われる。

Saturday, November 21, 2009

〔意味の呪縛〕六、信用と欠如

 我々哲学的存在者は、基本的に他者を自己としての意識を持つために先験的に必要としている。そしてその事実に対して覚醒した時には、一々そのようなことを日常的は意識する必要がなくなっている自分をまず視ることになる。つまり見慣れた出来事、見慣れた習慣そのものを敢えてもう一度問うこと、それは一体どうしてなのかと考えることから哲学的思惟は明確化された形として我々の前に提示される。
 自己の意識を覚醒させるに足るような他者とは端的に他者としての生彩を保っているというお墨付きを自らその者に与えているということを意味する。それは初歩的な信用をその者に抱いているということだ。そしてその信用とは私たち自身が誰しも抱いている自らの中の欠如に対する意識と一体化されている。安心も用心もある意味では同じ範疇の心的作用である。ある者を自分にとって必要な他者であると認識することが出来るということはその者に対して信用するということだから必然的にその者への用心を取り敢えず解除するということも意味する。
 ここで興味深いことが私たちの間に起こる。それは他者としてある者を意識するということは只単なる他人として通りすがりの人に対して目線をやることとは違う。それは意思疎通し得るという認可を自然に相互になし得るほどの接近を持った時、それは電車でたまたま隣に座り合わせた他人でも他者となるからだ。それは言ってみれば他人から他者への昇格というよりは他者という存在が言語化された他人であるということが出来る。しかも一旦他者となった者はどのようなタイプの成員であれ、何らかの形で言語化され得る。つまり言語化された他人としての他者を更に言語化するわけである。つまり向こうから私が他者として存在容認された場合は、逆に向こうから私が他者として言語化されているということなのである。
 他者の言語化とは、私という一個の人間を通して、その者をどのようなタイプの成員であるかどうかという思惑と共に、否が応でも社会的地位を通した他者理解の範疇にその者を投げ込むということを意味する。またそれと同時にその者が何らかの形で固有の能力を秘めた存在者である意識する。その存在理由の一端であるその者の能力というものは、その者以外の全ての成員(私も含めた)との相関性において成立する。それは要するにある社員を就職させるための新入社員を公募した場合に審査員たちが査定するような意識的なそれではなくても、無意識の内にそのような目で見ているということである。
 そして社会的地位という取り敢えずの肩書きと、その肩書きを作るその者の能力以外にもその者に固有の性格、その者の育った環境が大きく左右するものだが、それをもその他全ての成員との相関性において私たちに判断させる。そしてその三つ、つまり社会的地位、能力、性格といったことが一緒になり合わさって我々はその者の特徴として把握する。つまりその者の特徴とは、端的にその者に対する査定、判断の全てが複合化されたものである。勿論その特徴とはそれを認識する私にとってのそれである。
 即ちそれらの思惟や認識の全てが他者の言語化である。
 しかしそのような他者に対する言語化というものは、ある意味ではそれだけでは成立してない。つまり自己の言語化と常に交互になされるということを見逃してはいけない。
 自己の言語化とは、反省意識、つまり過去エピソードに対する想起、その想起も忘れたくても向こうから勝手に私たちに思い出させざるを得ないものと、必死に眉間に皺を寄せて思い出だせるものとがあるだろう。そして意味記憶の想起もある。またそれらを総動員して現在において掛かりきりになっている諸問題に対するその都度の理解というものもある。つまり思考そのものである。その思考の中には論理的思惟から感性的な感受もあるだろうし、感情的な判断というものもあるだろう。
 つまりこれらが総体として自己の言語化と呼べるものである。そしてこの自己の言語化という脳内の作用と常に相補的になされているのが他者の言語化である。つまり気配としての存在者である他人が言語化されて他者となったその瞬間から他者は必然的に自己との相関によって言語化され得る運命にあるのである。それは自己内の欠如を知る意味で他者の充足を見出すことにおいてもそうなされるのだし、その者の欠如を自己の充足を通して知る意味でもそうなされるのである。
 だから信用するということは、ある意味ではその者の欠如を容認し合える仲としてその者を何らかの形で認識することであるし、信用されるということもまた自らの欠如をその者に示すことによって得られることなのである。そして自己の充足をその者の欠如から知ることを望むことでその者に臨むということに対する要請と、その者からの同様の要請を受け容れることそのものが他者と相対するということであり、そういう風に相対するということがそのまま哲学的存在者であるということなのである。
 だから信用することとは、欠如の相互容認と、自らの充足を相手の欠如を通して知ることにおいて成立する存在理由=人格的価値ということの発見が第一の他者との、つまり自‐他の関係の端緒においてあるということなのである。
 つまり信用と欠如のシナジーとは自己‐他者相互の言語化作用における実像なのである。

Friday, November 20, 2009

〔意味の呪縛〕五、信用するということ

 他者存在は哲学的存在者たる我々にとって意思疎通という欲求を通して個という存在の存在理由という価値規範を生むということは、逆に言えば存在者という考えの中には他者という観念を前提しているということが出来る。脳科学ではミラーニューロンのような存在に関しても注目が集まっていたし、他者存在そのものに対する気配がまず幼児に言語習得へと向かわせる内的な動機を生むが、勿論幼児にはこれといった他者に対して説明出来るような根拠などない。しかし少なくとも最初は通常両親によって接近されることによって他者の気配を捉え、その気配に言語行為へと赴く前哨戦があるのだ。
 しかしそういう言語行為へと赴かしめるような気配というものはまず基本的に温もりのあるものでなくてはならないだろう。つまり意志伝達する意志そのものを生じさせるような相手として認知される必要が幼児には少なくともある。だから逆に大人になっても人間はこの相手が意思疎通し合えるか否かという判断において前者であるという気配をまず汲み取るのである。それは経済活動においても実践されている。資本主義社会とは端的に金銭を交換し合うことにおいて金を払ってくれるかとか、金を払う価値があるかとか、要するに金銭を通した相手に対する信用に基づいている。
 しかし昨今食品テロさえもが横行しているというモラルハザードの根幹には人が信用という無意識の是認を全ての商品に対して前提しているということを逆手にとって犯罪的事実があることを意味する。つまり信頼ある商店(それは往々にして商店名、つまりブランド力ということになるのだが)で買えばどのような商品でも大丈夫だろうという目算があるわけだ。だから逆に信頼あるブランドの商店において購入すれば一々商品そのものの欠陥などというものは考慮せずに済ますという時間節約主義がそもそも全ての食品テロリストの思惑にあるように思われる。
 即ち信用するという行為は、信用すべきか否かを一々点検することには手間がかかり、その信用そのものさえ金銭を払って買おうという意識が現代人にはあるのだ。だから逆に信用するということの意味をもう一度ここで哲学的に再点検する必要がありはしないだろうか?
 信用するということは信じたいということとは基本的に違う。
 信じたいというのは願望であり、サルトルも「存在と無」で言っているが、却って信頼出来ないものに対して、しかしそれが好きであったり、それまでは信頼してきたりしたということがあるために、継続して信頼したいという気持ちによって連動される一つの決心であるから逆に内心では疑惑に彩られているということを意味する。
 しかし信用するということはそれとは違う。信用するということは安心しているのだから、必然的に疑惑を介在させていないということを意味する。そして我々は往々にしてその信用というものを自らの主観的な判断よりは、あることを言った人、つまりニュースソースそのものの信頼性において判断する。有名な新聞紙、有名な評論家やコメンテーターの意見、ネット上で最も評判のブログとかブラウザーによる情報であるといったことを規準に我々はある情報に対する信憑性を判断する。例えばあるものが人気があるかどうかということをネット上で検索してみて、検索にひっかかる項目が多いものほど人気とか注目されているものだと判断するのだ。
 あるいはそれがかなりガセネタである可能性に対する検討において、全く異なったニュースソース、つまり各ニュースソース間に何の関係もないのに、全く詳細に同じ内容の情報である場合、その情報はまんざら捨て置けないものがあると判断するのだ。
 要するに何かを行動する時私たちは全てある信用の下に行動するのだ。ダニエル・デネットも指摘しているが、自販機でチケットとかドリンクその他を購入する場合にも、どこかに出掛ける時に電車を利用する時にも我々は金銭を投入すればチケットやドリンクが出てくるということをある信用の下に期待するし、ホームで待っていたら電車が入線してくることを期待し、電車に乗ればある場所で到着することを期待する。つまり信用とはあることをある手続きを経て待っていれば向こうで何とかやってくれるから、一々どうなるかこうなるかを目を見張っていなくてもいいということを意味するのだ。
 しかし昨今の食品テロでもそうだし、飛行機も電車も事故に遭わないとは決して限らない。つまり常に危険と隣り合わせで生活しているということだ。日本では禁じられているが、拳銃を所持することが許可されているアメリカ、タイ、ブラジル、フィンランドなどではいつ何時自分が拳銃によるテロに巻き込まれるか分からないという状況下で生活することを余儀なくされているということを意味するだろう。
 だがそういう安心と危険に対する懸念ということの常識は慣れによってその都度変化する。ある政治家の施政方針に沿った政治の動きに我々はいつの間には慣らされ、それがあまり芳しいものではない場合ですら庶民はその施政に徐々に慣れていく。だからこそ拳銃を所持することを許している国とそうではない国の差というものが生じてくるのだ。
 と言うことは、我々は慣れてしまったことに対しては一々懐疑的な目を向けずに生活することが可能だということが言える。つまり信用とは慣れによるものであるという風にも解釈することが可能となる。信用とは安心出来るということなのだが、安心ということは一々懸念することを怠るということだから、慣れによって生じるのだ。つまりそう考えれば、ある概念とか、ある法則とか、ある常識とか、ある社会通念とか、ある文化とかそういうものは総じて慣れ→安心→信用ということから普遍化されているということが言えよう。それは極めて自‐他の関係を基礎においた言語認識によるものが多大な領域を占めよう。それは本論において最初に示した幻想の一部なのである。
 そして信用するということを基礎にあるものやことに対する意味が規定されていくことになるのだ。そしてこの意味の規定ということの内には意味として通用するものに対しては一々検討する必要がないという通念が生活者全般に行き渡るので、前章で述べたような話者相互の相手にこちらの説明に対して想像したり、こちらが相手から何かを聞きだしてそれを説明されたことを想像するということを相互に了解し合あったりするというような関係に持ち込むまでのことはないという省略を意味する。
 つまり意味とはそういう一々の納得(納得には想像が必要である。)に対する省略という側面がある。つまりこうも言える。意味とは信用の下に成立しているのだ。そして信用が慣れと安心とを経て成立している以上、慣れていけるものなら意味になり得るということが言えよう。それがたとえ悪い意味での慣れであったり、悪い意味での安心であったりしたとしてもである。例えば泥棒にとっての常套手段とか、どういう標的を狙うべきかということなどもその内に入るだろう。
 例えば一つの語彙がある共同体や国家において定着するということは、その語彙の意味が確定するということだから、必然的に前段階としてはその意味の流用が慣れとして定着するということがあったわけであるし、その流用されてきている意味を使用することに対して安心を得ているということを意味する。使用しやすいということと、使用することに何の違和感もないということが即ちそのものを利用することを安心して行うということなのだから、それは意味でもそうだし、道具でもそうだし、論理的に利用すべき法則や真理でもそうだし、私たちが他者に対して伝えるべき表情とか、感情的な表現の全ても同じように反復して利用することの出来る、つまり安心して利用することの出来るものだけが流用され続け、それではないものは淘汰されるということを意味する。それはあるものにおいては何かの問題に対処し得る有効な考えであり、あるものにおいては身体的な動きや条件に沿ったものである。
 だから逆にある極めて悪い習慣とか、安心が極めて社会生活を腐敗へと持ち込むこともあるということだ。
 銀行が誰かに金を貸す時に、その人が本当に信用があるかどうか、借金歴を調べたりすることも、小売店の店主が訪れる客の身なりに応じて、物色している客それぞれに応じた商品を薦めるのも、全て信用ということを規準にした応対なのである。だから逆に見てくれとか身なりということだけで判断するということは人間の騙されやすさを証明してもいるので、そこできちんと信用出来るデータを求め、それをベースに決定するのだ。そういう時しばしば「あの人は見かけによらず偉い人だ」とか「彼は根は悪い人ではない」というような言説が登場することになる。
 だから入社試験の時にそれまでの経歴や学歴を参考にして試験の合格者を決める際の手がかりにするということも、信用出来るということが、あるデータに照応することで得られるその人に対する信用出来るバロメータ次第だということだから、人間は常に信用したいがために信用出来ると思われるデータを求めているということになる。そのデータの信憑性というものもまた信用ということを我々が求めていることを意味する。
 だから一旦決定されたこと、例えばある人に金を貸すとか、ある人を会社に入社させるということは、そうすることで、自分のしたことが正しいという風に考え、安心するということであるので、決心ということはそうすることで安心を得たいということでもあることが了解されよう。つまり信用するということは、そうすることで一々心配したり、懸念したりすることを止めることが出来るということなのだ。あるいはそうすることで安心する、不安定さを取り除くということなのだ。
 世の中の出続きとは要するにそういったことなのである。だから逆に哲学ではそう簡単に安心していてよいものかという立場から、例えばそれまでに慣れて来ている方法や手続きそのものに対する再検討をも含めて常に安心状態に対して警告を発するかの如く提言し続けているのである。それは人間がより信頼出来るデータというものに安心してしまい、警戒心を安易に解除することそのものへの忠告の役割を果たしているのである。
 端的に人間は他者に対して警戒心を持ち過ぎてもいけないものの、かと言って信用し過ぎてもいけないのだ。と言うのも警戒し過ぎるとその者の能力を遺憾なく発揮する機会を奪うことになるが、信用し過ぎると傲慢や自信過剰、あるいは怠惰をその者に必然的に作り出すことになるからである。
 しかしやはり信用というものは社会においては絶対的に必要なのである。だから逆に信用を笠に多くの欺瞞的な怠惰が蔓延り、信頼出来る形式にだけ依拠し、それ以外のことは一切信じようとしないがために時には必要である冒険心を失い、ただ信頼出来る既存の手続きだけに終始することにもなるのである。
 つまり時には平素の信頼の仕方を裏切り、冒険してみるということも大事なのである。しかしそういう兼ね合いそのものもある一定の経験が要求されるのだ。その経験とは成功体験も重要だが、時には失敗体験も役に立つということだろう。つまり安心したいために用心するということである。

Monday, November 16, 2009

〔意味の呪縛〕四、異なるということの意味

 存在理由があるということが価値であるということ、そしてその価値とは他との関係において異なっているということである意味とは他との異性であるということは明白化した。しかし同時に独自の判断に纏わる主張には、もしあなたが私の立場であったなら、同じように感じた筈だという同性を要請してもいることも明白化した。しかし厳密に言えばやはり同じようにということは同じにではない。つまりやはり同じようであるが異なるということなのだ。
 例えば遺伝子の配列が微妙に異なるということは、同一種としてのホモ・サピエンスとしての遺伝子配列という同性、つまり共通性を保持していながらも、全く同じではないというところに、たとえ全く私と同じ立場にあなたが立たされていたなら、同じように感じたではあろうが、全く同じにではないということをも意味する。そして私たちは同じようにではあるが、異なった感じ方においてある同一の立場を経験するという風に解釈する。
 そのことはしかしもう一つの問題を提起する。それはあることやものに対して同じようにある感じ方をしていたとしても尚、その感じ方そのものに対して同じようには意味づけないということである。
 例えば私とあなたは同じように赤い林檎を目にしている。そしてその赤味とか少しだけ黄ばんでいるとかそういうことは同じように見える。同じ位置から同じ林檎を見ればそうだろう。しかしその同じように見えるその見え方そのものを自分の中でどう位置付けるか、どこにでもあるただの林檎であるではないかとか、今日見る林檎の表面のつややかさは、新鮮な気持ちで昔、学校に通っていた通学路での道端での友達との会話を思い出させるとか、例えばそのように想起を誘うというような、要するに見え方からその見え方を意味的に位置付ける仕方がそれぞれ違うということである。
 それはその見え方がしているのが他ならぬ私でありあなたではないという意味における意味づけとは勿論違う。しかしある意味では赤い林檎を見て色んなことを連想するかしないかとかいうことの差異も、実は個人の記憶内容の違いからだけではなく、その時に赤い林檎を見る時の精神状態、つまり気分とかその時の感情の状態と無縁ではないだろう。そういう風にして考えると見え方そのものへの意味づけということは「これこれこういう感情の時にはただの赤い林檎でもこのように感じる」と言うような言い方さえ出来ることになり、それは感情とか気分と見え方を結びつける傾向性ということになるので、ある赤い林檎に対する見え方に対する意味づけもそれほど個人差というものなどない筈だということにもなる。勿論厳密には見え方も、それに対する感じ方も、その二つを結びつける傾向性も、個人毎に微妙に異なる。しかし異なるということを相互に述べるためには、やはり異なっているなりにどこか必ず共通性がある筈だということを前提にする。となると、異なるということそのものの中にある意味そのものは、その意味を他者に伝える動機にもなる。つまり他者に何かを伝達するということは、共通しているものの中の異質性そのものに対する発見の報告という性質があるのである。
 それは改めて欠如ということ、つまり外部世界で見た異質なこと(報告される者が見ていないということが前提される)に対する発見でもいいし、自分自身内部での性格的な被報告者との間の相違でもいいし、とにかく自分の欠如か相手の欠如に対する指摘そのものがコミュニケーションということになる。
 プラトンは全ての存在者は少しずつ不完全であり、完全なものは神のみであると考えた。だからイデアとしての神は完全なる存在者として存在するということである。その個々の存在者の不完全とは欠如という事実であり、存在者とは固有の欠如の保持者である。
 すると欠如認知事実の報告とは何かを伝えることを通してその伝えられる事実を知らない他者に対して報告者は固有の優越感情を抱いていることとなるし、他者に何かを伝えて欲しいと質問することとは、端的に他者に対して質問者である自分の欠如、つまり知らないという劣等的状態の告白(素直に負けを認めること)を意味する。
 つまり伝えられる事実が少なくとも報告という体裁を採る限り、我々はその伝達事実を巡る他者と自分との間での認知事実の差を認可していることとなる。それは記憶内容の差異というような個人的体験の違いというようなレヴェルではなく(そのような違いは誰でも持っている)知るということに対する常套さそのものに対する認識の告白という様相を帯びていることになる。
 だから他者に何かを教えるという行為は、自分がその者よりもその報告事実の認知に関する限り優越していることの表明であるので、他者と自己の間での認知の差異の報告ということを通して自己の存在理由(その他者と私との関係における)を誇示すること、あるいはその他者からその是認を求めることとは、認知の差を通して相互に優位性と、劣性そのものの所在を明白化する無意識の欲求が意志伝達そのものに介在していることを意味する。それはある意味では他者に対して花を持たせたり、自分の優位を誇示したりすることを通した他者存在に対する依存ということをも意味する。
 それは相互が相互に対して身を持たせかけること、つまり甘えることそのものへの容認という側面もあるのだ。そしてその甘え合うということは、実は異性の確認を通して異性保持事実という同性の確認でもあるのだ。それは即ち生が意味(差異存在であること)を通した他性に対する依存と甘えという欠如事実の補完という意味合いが自‐他関係にはあることになる。
 異なるということはそれだけで存在理由という価値であるが、その存在理由を確認し合うという依存と他に対する甘えの相互容認こそが自‐他の関係の本質なのである。
 そして報告し合うということ以外の意志伝達は仮に形容的感動報告であれ、同意であれ、他存在に対する感動共有者、同意者に対する存在要請という側面も持っている。だから少なくとも意志伝達を通した自‐他の関係とは異性そのものの、つまり相互の存在理由そのもの、つまり他であること、自であることの意味を相互の存在事実に依存し、甘えるということを意味することになる。だから相互に異なった家庭環境、幼児体験を報告し合う友人間の会話とは、もし私があなたの立場だったらという想像を、ある体験的事実の被報告者に対して報告者が要請していることを意味するし、何かを聞きたいと願う話者にとっては被質問者が返答する報告的事実を申告されたことを通してその報告的事実の体験者の立場に立ってその立場での見え方、感じ方を想像する意志を要請していることとなる。だから必然的に即自的存在としての事物と違って、哲学的存在者にとって質問をしたり、報告をしたりするということは、前者はそういった想像をすることを他者の返答を通して要求するのであり、後者はそういった想像を内的に思念することに対する他者に対しての許可と要請をする。「俺の気持ちをわかってくれ。俺の立場になって想像してみてくれ」ということである。と言うことは即ち俺の立場には君はなれないし、君の立場に俺はなれないという交換不可能性の是認、つまり諦観が質問と報告という行為には含まれていることになる。つまりそのような自‐他の交換不可能性に対する是認と諦観が依存と甘えの本質であるということにもなるのだ。だから哲学的存在者にとって異なるという存在理由、つまり個としての存在の価値とは交換不可能性に対する是認と諦観がその本質として横たわっているということが言える。
 もし容易に私があなたになれ、あなたが私になれるのであるなら、個々の存在理由も、自己同一的理性も、存在理由という価値も存在しなくなる。異なるということは即ち交換不可能性ということなのだが、だからこそ想像という内的な思念における交換(幻想なのだが)ということが意志伝達、つまり自‐他の存在事実確認たるコミュニケーションには不可欠となるのである。

Thursday, November 12, 2009

〔意味の呪縛〕三、独自であることの意味と、私と他者

 独自の価値判断を下すことの出来る存在者という規定が我々に対して成立するのなら、我々はその独自のという部分が一体どういうことを意味するのかという意味の呪縛に対してもっと自覚的であらねばならないだろう。
 カントは「判断力批判」において美しいという形容が自らの内心に成立する時、その美しさそのものが他の全ての人々においても同様に成立することを望むと言っているし、モラルとは他の全ての人において考えられる格律でもあるという一致を常に志向せよと考えている。それは即ち個人独自の価値判断というものが常に隣接した他者の視線を意識したものであるということを意味する。
 正しいと思えることというのは、どのような個人において判断されたにせよ、自分以外の者ならきっとこう考える筈だという推測において成立するのではないだろうか?
 それは判断というものの中に既に私によってなされた判断であってさえも、実はその私という思惟そのものが、たまたまこれを判断したのが私だが、私以外の誰であっても私が今下したようなことと同じように判断していたに違いないという推測において成立しているということが言えるからである。
 何が正しいかという時、もしそうでなかったなら矛盾するということがある場合反証可能性というものとして捉えられる時明らかにそれは科学的な判断であるということになる。
 現代の哲学の中では現象学が唯一この科学的判断というものそのものに対する我々自身の信憑性そのものがガリレイとデカルトによって正しいと思われる蓋然性そのものが正しいとか正しくないとかの範疇を超えるような判断を用意周到に隠蔽することによって成立してきた科学史全体に対する批判を、フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」というテクストの中で示したことに端を発している20世紀以来の新たな問題として「ありうべきこと」とは「ありうべきこととして規定してしまう私たちの思い込み」という見方を提供している。
 この時独自の価値判断という個人毎の判断の中に明らかに自分で下したにもかかわらず、自分以外の大勢という観念が拭い難く介在しているという先ほど来の問題が再び持ち出される可能性を示している。
 昨今の脳科学で茂木健一郎氏などがクオリアという概念に拘るのも、このガリレイとデカルトの隠蔽というものの中に個人の事象に纏わる質感とか生き生きした感触というもの全てが一般的に了解され得る判断としてではなく主観性としてだけ考えられてきた物理学の観念の歴史を逆に物語っている。
 しかし人間は最後の砦である個人の主観にまで脳が作用していると考えると、では一体個人の自由などどこにあるのだろうと訝しくなる存在者なのである。事実脳科学という分野はクオリアを普遍化することによって逆に個人の主観などというものは思い込みであるに過ぎず、全てが脳内現象として説明が尽くという極端な合理主義を要請することに直結する。
 私が「そうであるに違いないと思った」ということの中には「私以外の誰もがそう思うに違いない」という思惟に直結するとしたら、明らかに私の脳が独自に判断することは、私固有の脳内現象だと思うというその思い込みそのものが幻想かも知れないという思惟へと立ち致らせる。
 つまり私以外の誰の脳であっても、私の脳が固有に感じたある事象Aに対する感じ方は、殆ど私の場合と同じように脳内でニューロンが発火するさまを演じるのだとしたら、個人の主観という言葉は甚だ誰もが同じように感じる筈なのに、そのことを感じたというまさにその事実がその個人の存在に属していたというもう一つのメタ事実にこそ私という人間(仮にその感じたのが他ならぬこの私であるなら)の存在理由に直結するように思えるからこそ、敢えて同じような脳内の発火現象の事実的所有者という観念においてその感じ方を事実的固有性の下に理解しようとする、いや理解したい欲求が生み出した幻想であると言える。もっと簡単に言えば個人の主観性という名の下に我々は誰であっても同じように感じる筈の当の事象に対してその場に居合わせたということにおいて脳の固有性を主張することで個人の存在理由を見いだしているということになる。
 これは独自であることというのが、その場に私以外の誰が居合わせたとしても同じように感じる筈の当のクオリアへの感受という事実そのものの当該者という規定によって、初めて個人の存在理由を附与するという社会的了解がある。
 これはサラリーマンの生活とはつましく質素であり尚且つ忙しいという社会的了解の上でどの個人も同じように感じているのだが、そのサラリーマンの立場が他ならぬ私であるという偶然性は、他の誰であっても私の立場に立てば、私が感じることと同じことを感じる筈だ、しかしあなたはサラリーマンではなく裕福な資本家である、故にあなたには私のこの辛い立場などわかるまいという個人の立場に対する了解そのものが、当該の事実の所有者という規定によってしか成立し得ないということを物語っている。と言うことは私があなたのような裕福な資本家であるなら、私もまた今のあなたと同じように今の私のサラリーマンとしての生活のつましさなんてわかる筈がなかっただろうということでもある。
 独自の立場という他者に対する主張とはとりもなおさず私の立場に立てば誰でもという意識を孕んでいるのだ。
 ここで一つ重要な真理が見出された。それは独自ということは私が他者に対して私の立場なら誰でもそう感じる筈だという他者への了解の要請を孕んでいるのだ、ということである。
 このことはある意味では主観とは客観と背中合わせであり、個人ということが集団と背中合わせであるという当たり前の事実へと突き当たらせる。だから私たちが「彼独自の判断があって」と語る時そこには、彼の立場に他の誰が立ってもということがない限り、彼の判断そのものの正当性はいつまで立っても得られないということをも意味する。
 このことはまたもや個という存在が常に他の成員との関係において成立しているということは即ち存在理由というものの在り方が存在するもの全ての中でのある存在ということにおいて存在の意味が与えられているというやはり意味の呪縛が支配していることを意味する。
 つまり意味とはあるものの他のものとの関係のことだということである。そして意味に呪縛されているということはあるものが他のものとの関係においてしかそれが存在していると言い得ることが出来ないという存在論そのものを物語っている。

Sunday, November 8, 2009

〔意味の呪縛〕二、存在理由という価値

 私たちが通常映画を観に行ったり、小説を余暇に読んだりする時、その観た映画や読んだ小説が面白ければそれでいいのだが、では何故その映画や小説が面白かったのかと単純に問うてみると意外とそれが容易に返答することが出来ないということに気づく。
 それは感動する絵画の名画とか、好きな音楽についても言えるだろう。しかしそれらは歌曲以外の部分で全て言語的な表現ではないので取り敢えずここで問うのを止そう。そこで映画とか小説のような(但しアヴァンギャルド映像作品は除外する。)登場人物があり、会話があるような表現メディアの何が面白かったかと問うてみると、それはそれまで観た全ての映画、それまで読んだ全ての小説という私たちの体験的記憶に照らし合わせてその作品が私たちに何らかの形で訴えかけてくる主張そのものに釘付けにされたということを意味するだろう。するとその面白さというものはストーリーや登場人物の描写とか文体とか演技力とかいうことと共にそういう描写そのものをその映画や小説の中に作者(映画監督、シナリオライター、小説家)が盛り込んだ意図とか、果てはその作家たちが何故そのような作品を今こういう時期を選んで発表したかということ(そういう作品そのものに纏わる背景に対する認識を持つことを通常メタ認知と呼ぶ。)そのものを加味して考えると、何故その作品に対して私たちが面白いと思ったか、感じたかということの根拠が次第に明快になっていく。つまりそれまで観た映画や読んだ小説にあったスタイルもそうだが、その作者がその作品を世に送り出した根拠、創造上の、創作上のモティヴェーションと、その作品の細かい出来栄えそのものとの絡み合いそのものに対して感動していたというわけである。それはその作品の私たち観客や読者にとって、彼らがそれまで接してきた他の全ての作品の中でのそのものに対する記憶上での存在理由なのである。 
 何故その作品が面白かったのかは、ただそれを観ている間、あるいは読んでいる間にストーリーや役者の演技とか文体に惹かれていたということも勿論だが、やはりそれだけではなく、そのストーリーや演技や文体そのものを意味あるものにしているもの、それを作者の作品を世に送り出す意志に纏わる情熱とか確固たる信念とかにやはり感動している筈なのである。さてそういった作者のその作品を作るための意気込みとか信念とか作品作りに関する思想とかというものは、作者自身が作品を通したその作品に接する人たち全員に対して訴えかける何らかのメッセージ、つまり作品を通して観客や読者と接するとはどういうことかという作家としての生の意味、つまり価値規範が重要なものとして浮かび上がってくる。
 例えばコンピューターは、あるものを取って来いと命じられるとただそれを忠実に履行する。つまりもしそのものの上に爆発物が置かれていても、それを取り除くことを自らの意志で選択することは出来ない。もしそれを要求するなら、「持ってくるものの上に置かれているものの正体を突き止め、それに応じてそれが危険なものであるなら、別の場所に置き換えて(そのものの上から除去して)それから持って来い」という条件を指示しなくてはならない。すると持ってくるものの下とか横に関してはまた別の指示を与えなくてはならないということになり、要するにそういう安全に何かを持ってくるということに関して主体的に自らの意志で検討するという知性は未だないと言う。そのような問題全体を問うことを現代哲学ではフレーム問題と呼ぶが、そのフレーム問題を考慮すると、私たち人間は自ら意志的にそれらに纏わる問題を自分で考え処理しているということだ。つまり先ほど言ったメタ認知の問題に関して言えば、自ら主体的に、と言うより一々そのように意識せずとも自ずとそういう判断を下して生きている、生活しているというのが私たちの実像ということになる。
 つまり人間存在の存在理由というのは、とどのつまり他のもの、それは他者もそうだし、他に存在する事物とか規定されたルールとかそのものにただ闇雲に忠実に従って生きていくということではなく、絶えずその規定されたものそのものの意味とか価値を再検討してその判断に従って、ある時にはある規約に沿って、ある時には別の判断を採用してという風にその都度の判断を下して生きているというある種選択の自由と、その選択そのものに対する正当性を自ら下す能力を保持している存在者であるということが出来るのではないか?
 つまりそのことは哲学的に言えば、何らかの意味で絶えず、ある規約とか、考えとかに対してそれ以外の全てとの対比、あるいはそのものだけを見ていても、何の不都合もなく下すことの出来るそのものに対する判断を、自らの考えにおいてその都度捻り出すことが出来るという意味では次のように定義することがここでは許されるのではないだろうか?
 つまり、哲学的存在者、つまり人間とはある事物、ある考え、ある現象、ある規約それら全てに対して独自の価値判断を下すことが出来る存在者である。そしてその価値判断とは、それらのものに対する何らかの意味での存在理由を認めているということ、つまり存在理由そのものをそれらに与えているということである。つまりもし私たちがそれらに対して何ら存在理由を与えていなければ、私たちはそれらをその後も話題にしたり、記憶にとどめておいたりしていることなどないだろう。つまり存在理由というものは、そのものに対する存在価値そのものに対する認可であり、存在することに対する同意であり、記憶しておくべきものとして自然に受け容れるということなのである。
 もしそういった存在理由が全くないのであれば、私たちはそのもの再び想起したり、話題にしたり、考えたりすることなどないということになる。だから当然のことながらそのものは、ポジティヴなものだけではなく、ネガティヴなものである場合も往々にしてあるということである。つまりポジティヴでもネガティヴでもないものであるなら、少なくとも私たちはそんなものを存在理由という観念で再び振り返ることなど決してないということである。

Friday, November 6, 2009

〔意味の呪縛〕一、意味を必要とするということ

 私たちは哲学的な意味では存在者である。ハイデッガーは現存在と私たちのことを呼んだ。私は取り敢えずここでは人間とか、人類とか、その時の文脈的な意味に応じてそれぞれ異なった言い方を採用しようと思う。
 しかし少なくとも哲学的な存在者であるという意味から私たちのことを私たち自身は他の存在、例えば私たちの身の回りにいる動物であるとか植物とかと同じものとして純粋客観的には捉えられない。生物学者は私たちの生命活動を純粋に他の生命体とか、地球環境における物質として取り扱っているように見えるが、実際私たちのこの目によって捉えられた客観的像である限り、それらもまた固有の主観的捉え方の一つに過ぎないと言える。
 哲学的な意味とか、文脈的な意味と私は言った。そこには私たちが相互に何事かを理解するために必要な知識とか、情報を糧にそれぞれの間の関係とか固有の存在理由(それはそれぞれの間の関係なしには成立し得ない)を何らかの形でその都度規定して相互に「そうだね」と確認し合うための便宜的な道具である。そういう観点からすれば意味もまた道具である。
 私たちの生活は、何らかの意味で寿命とか、年齢に応じた社会的能力とか、人間間相互の社会的適性とか、要するに人生というもののあり方を巡って「こうあるべきだ」とか「こうであってはいけない」といった考えによって規定を受けている。そして哲学的意味合い、あるいは文脈において、私たちの生は明らかに次の三つによって成立している。
 それは欠如、自己欺瞞、幻想である。
 最初の欠如とは、私たちが未来に向けて何かを思惟する時、「今まではこうだったが、次はこうでなければいけない」と考える。例えば営業社員は、営業成績に関して今までの成績を鑑みてこれからの目標を立てるだろうし、受験を控えている受験生は今現在の学科の理解を更に深めるために自分の弱点をこれこれこういう仕方で補う必要があるという風に考える。新婚夫婦には新婚夫婦にとっての生活設計があり、子どもを育て終えた夫婦には彼らなりの人生設計というものがある。
 つまり過去の自分で確認し得るデータを下に私たちは未来の像というものを常にその都度それなりにおぼろげながら提示し続ける。と言うことはつまり私たちは常に未来に向かって何らかの目標とか希望とか期待とか願望を携え、現在の在り方を欠乏した状態として捉え生きているということを意味する。そういう観点から人生、生というものを考える時この欠如というものを哲学的な意味での存在たる私たちを考える上で重要な観点であるとすることは極めて自然である。
 さて次の自己欺瞞とは、勿論最初はサルトルが「存在と無」で提出した概念であるが、彼の考えをそのまま適用しても十分納得のいくものであるが、今ここでは私なりそれを応用して考えてみよう。
 それをまず日常生活レヴェルでは職業的意識とか職業的義務、あるいは家族内での役割、あるいは地域社会での役割、要するに社会的存在者としての個々の役割というものがまずある。それに対してその役割に自分を適合させようとする時、納得のいく部分、つまり幸福感を感じられる部分というものは当然であるが、そうではない部分、つまり自分で対社会として適合させてはいるものの、自分の中では納得のいかない部分というものが常に付き纏う。この不幸とまでいかなくても不満とも言える部分と、幸福的感情というものをどこかで巧く、と言うより何とか折り合いをつけて生活を実践しているということそのものを私たちは自己欺瞞と呼ぼうと思う。この捉え方はサルトルの言ったことと極端には離れていないが、もっと理解しやすくしたものでもある。
 最後は幻想である。これはある意味では前の二つよりもかなり適用される範囲が広い。何故なら私たちにとって日常生活に欠くべからざる道具である言葉、法、理想、良心といったもの全てがこの幻想に入るからだ。断っておくが、哲学的幻想と言う時私たちはそれをただの幻であり、ないのにあるもののように思えるという意味ではないということである。つまりそれは実在すると確たる証拠をもののように突きつけることが困難であるという意味で、私たちの生活、人生、生に不可欠なのに、例えばそこらに転がっている石ころのような物質のように分子組成とか構造分析がしやすいものとは違うということである。そういう意味では私たちの心の中で考えることはたやすいが、物質のように容易にその組成とか、枠組みを規定し難いもの全てを哲学的に幻想と呼ぶことに私は加担したい。
 そして重要なこととは、この三つ、つまり欠如、自己欺瞞、幻想とはただ単にネガティヴな要素であるということではないということだ。それらは必要欠くべからざる重要な非実体的な観点なのである。
 
 さてこの三つの観点を常に主軸にしながらこれから話を進めていくつもりなのであるが、では最初に触れた意味というものとは一体どのよう発生してくるのだろうか?
 まず私は私の人生がもう駄目だと投げ槍になってはいないものの、もう全てをし尽くしたと完全に満足しているわけではない。故に私は私の人生をいつ死ぬかはわからないが、取り敢えず、あと何十年生きようが、後数年生きようが、ここ何年かのスパンで何らかの目標を立てようとするだろうし、常に何らかの目標は既に携えている。
 そういう事実を注視する時私たちは生そのものというのは常に未完了体であり、何らかの意味で未完成であると感じるし、事実死ぬまでは誰でもそうであろう。するとそのどこかで未完了であり未完成である部分、つまり欠如を穴埋めしようと常に努力することが何らかの意味で求められる。そういう意味ではもし敢えて人生の意味というものを規定しようと試みるなら、欠如としての我々の存在というものこそが、私たちの生の意味を求めさせるとも言える。そういう観点に立てば、人生の意味とは欠如を前にして、私たちがそのことに対して何とかしようという意志が生むと考えても間違いではないだろう。
 そしてあれこれでは次に何をなすべきか私たちは考える。そして何らかの結論を誰でも内心で抱く。そして我々はそれを行動に移す。つまり行動に移されて初めて我々はその行動する意志があったのだと言えることになる。そして行動する時というのは、どのような行動であれ、その行動以外の全ての行動を排除して、選択の埒外に追いやっているのだから、ある行動を採るということは、即ちヘーゲルやサルトルが言った対自ということを一先ず停止させて、自己を即自化しているということを意味する。
 しかしその行動を採った後必ず我々は自己によって採られた行動が自己の行動が及ぶ範囲内で何らかの反響を持ち、それらは私自身にも返ってきているので、要するにその行動の結果今現在私に齎されたことそのものに対して「ああしてよかった」とか「もっとこうすべきであった」とか考えるだろう。
 その時私たちの心はまさに哲学的には対自存在そのものであると言ってよい。
 そしてそのような対自的な心の在り方は反省意識である。そしてそれはどこか達成感があっても、後悔があっても何らかの形で欠如を意識させずにはおかない。何かをしても欠如を、何もしなくても欠如を感じるのが私たちである。そしてその欠如が私たちに次の意志を生む。勿論その意志とは、何らかの形で私たちにとって次になすべき行為への意志である。哲学的な行為とは何らかの行動を支える意味、何故その行動を採るのかということに対して言葉で説明がなされ得る行動の目的とか意味のことである。勿論それら全てが生きていく上で必要欠くべからざる幻想なのである。そしてその幻想を糧に生きること、そして反省意識によって顕在化された欠如を携えて生きているということを意識することそのものを理解するということもまた幻想を生きることの一部である。
 そして何故次にこれこれこういう行動を採る必要があるのかという行為全般に対する自分なりの指針を設けるか言えば、それは要するに私たちが自分なりに意識し得る欠如に対する私たちの意志の採り方そのものが価値というものを見いださせるからに他ならない。つまり私たちにとって何らかの形で意味ある行為と受け取られるものとは、必ず私たちが欠如であると感じられるものそのものに対してその欠如を穴埋めすると感じさせるものがあるからである。勿論意味ある行為とは価値ある行為のことである。
 するとここで価値というものは欠如を穴埋めする意味を誰にとっても意識することの出来るある明快さがあるということになる。それを私たちは見識とか、一般通念とか色々な言葉で表現してきた。それら全てを価値ということの中で繰り広げられる考えであると見做すこともまた間違いではないだろう。そしてその価値を巡る問題の中で道徳とか倫理とか良識とか正義といった幻想もまた含有されると考えることもまた理に適っている。
 すると私たちの生とは総じて次のように考えられることになる。生きることに何らかの意味を求めることが許されるなら、それは欠如を補うことを常に求めて次の行為へと意志することであるが、そのこと全体をより俯瞰的な立場から見据えると、それは行為することの意味そのものに私たちが常に支配されているとも言い得る。それは何もニヒリスティックにそう言っているのではない。哲学的に呪縛と言う時それは必ずしもネガティヴな意味合いからそう言っているのではない。それは幻想に対してと同様である。つまりある行為を意味ある行為とか価値ある行為であるとしたり、ある行為を意味がないとか価値がないとしているということは、共に意味とか価値そのものに支配されている、呪縛されているということを意味しよう。
 しかしまた意味などなくてもよいとか、もっと極端に価値などなくてもいいと言うとしよう。しかしその場合ですら私たちは意味とか価値の規定そのものには囚われているということを意味する。
 つまりそのような意味でここで私は哲学的存在者たる私たちにとって生とは意味そのものであると考えることが出来ると言いたいのである。つまり私たちにとって生を意味あるものとしたり、意味などどうでもよいとしてみても、どの道意味という規定、そして価値の所在ということを問うたり、そのように問うことそのものを否定したりするのだから、どの道我々は生が意味あるとか意味などないとしても生そのものが意味であり、その意味において価値の所在を問うことを余儀なくされる存在であるということが出来る。
 では何故そのように生そのものに私たちが意味を交えて理解する必要があるかと言えば、それは意味とか価値という言葉を生きているということだからとしか言いようがない。だから何故私たちにとって意味が必要かと言えば、それは意味を生きるということを理解する以外にこの生そのものの存在理由とか価値を理解することが出来ないからだとしか言いようがない。つまり同語反復的であるが、何故我々にとって意味が必要かと言えば、それを肯定したり、否定したりすることにおいて生が何故生として存在するのかという問いそのものを肯定化するから、つまりその問いの存在理由を明確化するからであるということになる。
 つまり今言ったような問題の中に言葉の意味や価値や美、あるいは正義とか理性とか良心とかモラルとかの一切が含まれているということになるのである。
 ここで本章なりの結論として次のように言っておこう。
 意味とは価値の所在を問うために設けられた幻想である。意味を生きるということは生が意味があっても意味などなくても、あるいは意味がなくてはならなくても、意味などなくてもよくても避けられない私たちの現実である、ということである。