Friday, October 14, 2011

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第六章 存在の確信には羞恥があり、存在の認知には時間がある

 私達にとって極めて重要な事実としての個としての社会性は羞恥にあると言ってもよい。だからこそ本論では理解と他というレヴェルで考えてきた。しかしその社会的個や個の社会内での羞恥はもっと根源的な羞恥によって包まれている。それは何か?
 それは我々自身の卑小さである。それを誰しも理解している。否理解以前的に存在レヴェルで確信している。我々の力は限られている、世界に与えることの出来る力など高が知れたことだ、という風に。それは社会内的なことだけではない。もっと世界、地球、宇宙内での自らの存在に対する余りにも小ささに対する覚知によってである。
 古代の人類は或いは宇宙という形で我々が実感するものは神であったかも知れないし、その神という存在はもっと恐れるべき何かであり霊力的なことであったかも知れない。それは洋の東西に関わらず我々自身の非力に対する覚知に於ける存在し続けたであろう我々には計り知れない力である。只現代人はそれをある程度科学的認識で理解出来るだけである。自然の力自体のどうにもならなさは東日本大震災を経た日本人である我々には当然理解出来るし、世界中で何らかの形でどの民族もそういった経験はしてきている。それが神による怒りであると古代の人類の様に即座に判断しないだけである。
 カントの「判断力批判」では崇高さという形で自然に対する畏怖の念は汲み尽くされていた。その崇高なることは専ら我々にとっては空間的なことからである。
 最も論理的に割り切れないと感じさせるものこそ空間である。それは私が今居る部屋という空間ではない。それはあくまで仕切られた空間であるが、その仕切りを作っているのはもっと広い空間であり、それは無限に地球上に広がっている。
 だから空間こそが最も非言語的であると我々は知っている。それを表現上で最も巧く反映させているものこそ絵画である。絵画は人類による空間恐怖をさえ誘引する空間の持つ非論理性、エロスを存在として我々が認めつつ、しかし言語的思考者としての我々自身の存在と、その空間的無限性との間に媒介される盾の様なものである。
 だから逆に我々にとって最も論理的に理解出来るものこそ時間である。時間とは時間自体の感覚によってであるよりは、より言語的認識、言語的思考法それ自体が生み出している。端的に論理自体が時間を作っているのだ。論理なしに我々は時間自体を認識し得ないだろう。それは何故か?それは過去と現在と未来という最も基本的な思惟自体が論理空間上での秩序だからである。
 勿論永井均が考えている様に常に今だけが我々にとって最優先されている。しかし今意識を生じさせているのは過去があるということ、記憶の上で想起される全てが「過去」という名で呼ばれ得るという覚知なしに我々は今を理解することは出来ない。又今という意識は「これから」という意識によっても支えられている。今がこれからを支えているのか、これからが今を支えているかと言えば両方言えるかも知れないが、何か今している行為自体が常にこれからを志向している。従って行為を支える欲求と意志がこれからという意識を作っているし、それが心の中に存在すればこそ我々は今を特化し得る。
 そしてその時間認識、つまり想起され得る過去と、今している行為に於いてこれからのことを考えられ得る今という一連の連なり自体を我々はたまたま時間と名付けている。
 空間は常にある地点より先が想定される。それをカントは背進と呼んだ。従って全体として思い描くことがどうしても出来なさが発生してしまう。常に向こうがある、先があるという風に。そしてこの全体として思い描くことの出来ないという直観こそが無限性の母である。これが無限性の理解を可能にしている。
 それに対して時間は違う。時間は確かに空間同様その先はある。どんな過去でもそれより過去はある。しかし空間の様に「行く」ことが出来ない。勿論何億光年も先に空間的にも到達出来ない。しかしもし何らかの乗り物があれば可能だと空間なら想定出来るが、それが時間では出来ない。尤も現在ニュートリノが光より速いと立証されつつあるから、それを応用すれば我々にタイムマシーンさえ作れるかも知れないとまで言われつつある。
 空間が概念化されて感じられるのは天文学的な意味で夜空を見る時かも知れない。そこでは遥か彼方の銀河まで見渡せる。しかしそれは既に我々が概念的理解を得ているからである。そしてそれは言語的認識、言語的思考力によってであるし、それが時間を生み出しているとしたら、その生み出された時間認識によって実際には旅行することの出来ない銀河系の彼方をも図式化することが出来るし、想像上の旅行を試みることも出来る。
 その際には広大な空間を目の前にした存在自体が抱える自らの卑小さに対する羞恥はない。従って広大な空間自体の存在の認知には時間的理解、つまり言語的認識と言語的理解の産物が関わっているのだ。
 だからグランドキャニオンであれグレートバリアリーフであれ、広大な空間を目の前にして我々が自らの存在の卑小さ、つまり物理的卑小さを確信することが出来るが、それはそれだけ自らの身体の小ささを実感させながら、その認知に於いて自然全体へ羞恥的感情を呼び起こすことをカントは崇高さという語彙で示したのだ。
 ともあれ空間は時間と違って時間が経たなければ来ない未来ではない。既に現在存在する。只遥か彼方に行くには時間がかかる。そして銀河系全体を俯瞰する様に空を見上げること、銀河系の図を描くことは空間全体を認識すること、そこに現在認識が介在しているが、それを一瞬で俯瞰出来る様に鳥瞰するのだが、時間はそれが出来ない。それにも関わらず時間さえ中島義道が指摘している様に「時間を空間化」しつつ我々は図式化する。そうすることで過去・現在・未来の前後関係、先後関係を把握し、時間の全体を、ある期間、例えば我々の人生とか要するに区切られた単位として保険、遺産相続その他の必要性などから考える。
 しかしやはり未来は決して来るとは言えない。それまでに世界が消滅する(例えば地球自体が巨大隕石と衝突するなどして壊滅するか、我々人類全体が絶滅するかも知れない)可能性もある。そうなっても時間自体は、我々が把握する認識された時間は存続するだろう。しかしそれは概念理解可能な存在者の不在の時間であり、図式化することによって我々が我々自身の未来の為に役立てるものではない。ここで矛盾が明確化する。つまり我々は常にありもしないかも知れない未来を想定してしか言語行為が出来ない、ということである。だからこそ我々は記憶されたことを過去としてそれが現在に連なるという理解で、やがて未来が来るものとして全ての言語行為を行う。言語的認識、言語的思考には論理が必要であり、論理的理解が時間を作り、それに従って我々は同僚や上司部下に仕事を依頼したり命令したり、命令されてそれに従ったりする。
 時間は論理的思考が作り、その論理的思考内での時間認識に沿って未来には消滅しているかも知れない世界内部で(実際何時かは世界も地球も消滅することは分かっていて)あれこれ未来への意志、願望を相互に語るのだ。それは仕事上での建前であると言っても、それは建前的に語るという本音であり我々の意志と願望なのだ。
 全ての他者に嘘だけをついて虚偽的報告する成員が居たとしても、それはあくまでそうすることで生命を繋いでいる以上そういう欺瞞的生活自体が本音である。生きる為の本音である。従って嘘をも含めた言語活動全般を行うことそれ自体が、時間認識を論理的把握から発生させつつ全うされる我々の生きていく上での唯一の方法であり本音なのである。
 だからこそ逆に時々旅行という空間的移動をしたくなる我々にとって空間だけが論理から逃れられる唯一の世界の構成要素であり、それは明らかに構成要素としているものの、唯一論理的に割り切ることの出来ない存在レヴェルのメジャーな存在の謎であり、我々は太刀打ち出来はしない代物なのである。そこから我々は卑小な存在である身体にあらゆるリビドーを含めた欲求を抱いているという羞恥的事実を改めて実感し、身体という物理的存在事実にエロス的救いを求め、時間に対する待ち切れなさ、或いは悠久の時間内での余りに短い一生を覚知しつつ、空間だけはしかし今現時点で遥か彼方には行けないことを知っていても、同時に自己身体が存在し得ている様に共存していると太刀打ち出来ない代物を時間と対抗する為の味方にするのである。それはそういう一種の存在者の羞恥的性格による気休めなのである。

Sunday, July 10, 2011

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第五章 理解と距離2

 既に起こってしまったことは必然の様に思えるが、最初はそうなっていく何らかの偶然(的契機)があったことが了解される。ある意味では人間の変化は人間が考える主体であるが故に「彼は変わった」と思っていても、そこに「そもそも彼はああいう風に変わる要素があった」と判断する。しかし今回の東日本大震災は少し違う。尤も科学が進歩すれば、その時は「やはり今となってはあの地震は予知し得たことだった」となるかも知れない。
 ガブリエル・タルドによる「模倣の法則」に於ける<歴史上の幾つかの原初的発明とその模倣>(85~89)にもよく書かれているし、或いはダニエル・デネットによる「ダーウィンの危険な思想」中の第四章3回顧的戴冠:ミトコンドリア・イヴと姿の見えない起源(P.134~140)にもよく書かれているのだが、要はリチャード・ドーキンス語ミーム(「利己的遺伝子」)に近い行為模倣的伝播と遺伝的伝播は内的メカニズムに於いてはいずれも、まさに「既に起こってしまったことは必然の様に思えるが、最初はそうなっていく何らかの偶然(的契機)があったが、そうなってしまった現在から、そうなる以前の状態があることを何らかの形で知り得た段階で、どこかで何らかの偶然(的契機)がある、と認識、理解することが出来るということに於いて相同だ、ということだ。
 勿論それがどの地点であったかということを究明することが、まさに人類がどの地点で言語行為を恒常的に慣用させていったかということを特定するのが極めて困難であることと同じ様に困難だし、デネットの言う「誰をミトコンドリア・イヴとするか」はどの様な形質とか表現型の元祖とするか、という性質の差への着目に依拠する。
 タルドの言う食肉用であった馬を乗用にした地点の特定に於ける困難さとは確かに性質は異なる。タルドの言う横の遺伝(収斂進化もその一つである。その点はRichard Dawkins Mount Improbableに詳しい)も縦の遺伝(それは同じくドーキンスの「祖先の物語」に詳しい)のアナロジーはしかし、デネットの言うある一点に於いて私達に確実な真理を伝えてくれる。 
 それは全く同一な他者は存在せず、他であること、他者とは即ち一つの個、或いは自己にとって「異」性そのものでしかない、ということである。
 アナロジーは同を基本として普遍性を、「異」性は分化・細分化を志向することは言うまでもない。だが少なくとも理解とは「異」性の持つ距離を前提とした、その無化と言ってよいだろう。
 或いは少なくともその努力の結果の「まるで距離がないことに様にしか感じられない」という心的状態であることだけは間違いない。

Sunday, June 19, 2011

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第四章 存在の形而上性、私の形而上性、存在の記号性、私の記号性

 私も存在も名詞であり記号だ。私の身体存在の外に私は在るか?答えは是(ネー、イエス、ウイ、ヤー、ダーetc)である。
 「私」と一般に言う時、それは私の身体の存在より、より意識、或いは意識内容(思考や現時点での知覚内容、記憶、感情等全ての心的作用)のことを指し、それは「心」とはとどのつまり脳が生み出している、という見解が脳科学者・認知科学者をはじめ心理学者や、より機能論者及び唯物哲学者の採り得る態度である。
 しかし形而上学者はそう考えない。幾らfMRIで説明されても、それは科学的認識ではあるものの、哲学的真実ではない、と考えるからだ。
 しかし「私」を思考や認知の存在事実に対する記号だとすれば、やはりそれはもう一度身体存在レヴェルに問題を戻すことによって一つの大きな命題を得ることは可能となろう。それは「心」とか「魂」とか「気持ち」とか「意識」とか、それ等は我々の身体を離れても(つまり消滅しても)今と同じ様にあり得る、つまり(今)の様に存在し得ようか、という命題である(これはカントも考えていたし、カントの「純・理」を分析したP.F.ストローソンも「意味の限界」に於いて考えていたことである)。
 ごく自然科学的事実を持ち出せば、それは“あり得ない”の一言で済まされるが、それでは私達は納得しない、というところにこそ、実は自然科学(形而下学)以外に形而上学が求められる由縁でもあるし、哲学や形而上学自体も又、何故我々はその魂の不滅が自然科学的にあり得ないということに納得しないのかということを考究する必要がある。
 つまりその納得し得なさこそが哲学を私達に生じさせた理由の大きな一つである、と我々は覚醒することによって、その納得し得なさが苦悩を生み出してきたという事実にも向き合うということである。
 多分にこれは既に宗教の存在理由への問いとも重複する。苦悩の除去の最大のメソッドは宗教で在り続けてきたからだ。
 世界の中の事実という観点を持ち込めば、「私」も又一つの存在事実を示す為の記号でしかなく、心理的には私達はその記号、例えば名前、或いは職業をも請け負い、背負い生きる。
 しかしそれは外的にも確認され得る客観的事実でしかなく、我々の内的な心では「私」とは記号ではない。ある「私」という記号(存在事実としての)を生きるこの「私」の感じ、或いは内容の全てである(私は私しか知らない多くの事実があり、それは一人の他者に全て告げることも出来ないし、それをする必要もない)。
 この「感じ」と内容の全ての反省的意識を取り敢えずここでは「私の形而上性」と呼んでおくこととしよう。するとこの「私の形而上性」は明らかに私自身からの私の生、人生、生きていることの承認ということになり、とりもなおさず私自身の側から私は私の生を「私」という記号、つまり存在事実へと照応させていることとなる。
 このこと自体を私が「私の存在承認している」が故に、「存在の形而上性」と呼ぼう。つまり「存在の形而上性」とは「私の形而上性」を通して私によって承認された私以外の全ての社会成員、或いは存在者からの承認を私自身が請け負う地点で得られた私に対する唯一の記号であり、それは私以外の全ての存在事実としての記号と等価であると私によって認められ、それを他者も私同様に認めることを私から期待もするし、他者も又私に対しその承認の下で私を理解する、そういう場である。
 これは少し古いがサルトルが言った言葉であるが対自的な意識を外在主義的に言う、つまり客観的に言うことと同じである。しかし存在承認自体には必ず価値認識が伴う。そして価値認識は実在の生活を営む中から生じてもいるから、世界の中の「私」という「存在の記号性」と、その「私」自身を生きるという事実の承認という言わば外在的視点、即ち対自己認識であるところの「私の記号性」という二義的な、或いはその二つが一致している地点に「私」が存在している、と言うことが出来る。
 勿論これは私によってそう承認されてもいるし、その承認が私以外の全ての他者、存在者(勿論これはハイデガー的な現存在である)に承認されることを私が見越してもいる。
 私は私の存在事実を私の外側の全てを日々創っている主体として規定し得る(勿論規定され得る形で私は私をそう規定する)。
 この二つの事実(私を私が外側から規定することと、私が私自身そういう存在事実として内側から生きることの二つでもあるし、私自身による私自身<の存在>への承認と、私の私以外の他者、存在者からの承認を私が覚知し得るということの二つでもある)を不可分のものにするものこそ存在に他ならない。
 しかしその存在は必ずしも実在の身体に縛られはしない。そのこと自体が極めて重要である。何故なら哲学はそこを自由にし得るか否かで全てが決するからである。
 そしてその認識を得ること自体が存在論が倫理的命題ともなり、要するに価値論、価値認識論と存在論が不可分でしかあり得ないと規定するところのことでもあるのである。

 要するに形而上学は価値の学問だと言える。しかもそれは「私」の内側(「私」という記号で示される時に、個々内面で感じる固有の感じを示すのではなく生きることから)から考える。社会哲学は世界の中の存在事実(或いはその承認)から考える学問と言ってもよい(勿論そう簡単に二分は出来ないこの両者ではあるのだが)。

Saturday, May 28, 2011

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第三章 羞恥と欺瞞

 眼差しを向ける側は向けられる側にその事を気づかれたら、何故自分という存在に関心があるか問い質され得る。これは眼差しを向ける側が向けられる側である相手に対して主導権を与えてしまうことである。
 これを極力回避したい欲求こそ羞恥と呼んでいいであろう。何故ならその様に問い質されることは内的な他者への関心を告白せざるを得なくなるからだ。
 内的な他者への関心とは要するに自己内の欠落部分への覚醒を伴っている場合が多いからだ。
 本来感情とは情感性や情緒的側面からのみ認識されがちであるが、功利的判断が後押ししている側面は意外と強く、その二つを容易に分離させることは困難である。
 価値が個に於いて自分以外の誰でもそう思えるだろうという判断自体が「そうである筈だ」と「そうであって欲しい」がそう容易に分離させ得ぬのと全く構造的には相同である。
 その意味では羞恥も又功利的感情とも密接である。
 身体を取り巻く習慣から言えば他人に裸を見られることに於ける人類学レヴェルの羞恥も、他者へ眼差すこちら側から他者へ向ける関心の根拠の説明に伴う羞恥、つまりそうではないことに対する偽装し得なさ等と、私的領域への認知を特定の他者に共有させてしまったり、他者一般(公衆とかの)に周知となること自体を回避したい欲求は、本質的に自己内功利的防衛性の保持自体の暴露という形を取ることと同一の事である。
 相手に裸を見られることは自分の身体的アイデンティティの無防備に対する羞恥を喚起し(後者)、相手にその裸を見たいという欲求を知られるということは覗き者の好奇心自体を知られる無防備に対する羞恥を喚起する(前者)。
 自分自身の嘘偽らざる真意が読まれることとは、他人に裸を見られる羞恥の表情を浮かべられる事によってである。

 意思疎通上の相槌とは理解し合えたことに「する」サインだが、それは相互に相互の羞恥を喚起させない様にする了解である。だからこそよく分からなくても分かったこととして進行させていく時、途中から本当に分かる様になることもあるのだ。しかしこれは相互に羞恥を喚起させない形でのみ可能なのであって、この覗き者と覗かれ者との間の相互羞恥によっては成立しない。理解とエロスの問題は幾分距離がある。勿論両者は無縁ではない。しかしこの二つの間には幾分のクッションがある。それを今後の命題にしていく価値はある。

 相互に相互の羞恥は悟り悟られることは、相手から羞恥心を表情などによって表示されることによって実感される。つまり相手にこちらが相手を理解したということを表示しない限り相手はこちらに対し羞恥を喚起しない。だから相手を理解した旨を相手から示すことを要請されぬ限り、それをおくびに出すということはある意味ではこちらの相手に対する無防備に起因する、と言ってよい。
 これを容易にはしないことがマナーとなっている場合が社会通念上では多い。
 しかしこのマナーを敢えて無視するところに友情とか個人的親密な感情が発生する基盤を作っているとも言える。
 だから逆に言えば相手に羞恥を喚起させずに相手を理解している旨を示せるかということがある種の「付き合い」に於ける大人性を示す度合いになっている。
 つまり相手にリラックスさせてこちら側の羞恥を喚起させることを相手に言わしめる、つまり気楽に何でも言わせる雰囲気を作るということが相手からこちらに対し大人性を発揮することである。これは対人処世術的民間心理学の定石である。
 だからマナー無視というリラックスを相互に暗黙の内に確認出来るというところに社会機能維持的マナー踏襲の中で唯一の憩いであるところの自然人的付き合いを相互に持つ心の余裕を人生に与えている。そしてマナーを一切無視しないという前提の下では信用とか心を許す事態自体を封鎖していくという決意があることになる。
 これは一度親しかった者との間で友情的な関係を維持していくことを解除していく際には持たれる態度であり、意志表示である。
 私は意志表示せず只連絡を怠る様にだけする。
 連絡しないということが最も容易に、しかし無駄な傷つけ合いをせずに交流自体を解除していくことを可能にする。
 ここら辺は哲学的な叙述ではなく友情論であり、対人処世訓的随筆である。
 しかし哲学にも実はそれが必要なのである。つまり俗な感情の遣り取りを注視してから、再び存在論レヴェルの命題に回帰するということに意味があるのだ。
 次回以降は存在の形而上性と記号性、そして理解の持つ「異」性への着目に命題論を移行させていこう。

Monday, May 16, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 インターミッション①アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存

 書籍刊行物は何時の時代も残すべき価値のもののみをミーム的に出版者・編集者が断続的に継続的に誰かの言葉を出版し、出版ビジネスとして成立させる様に選別者達も世に送り込んできた。

 しかしウェブサイトはそれとは基本的に全く異なっている。例えばツイッターはツイーター各人異なったフォロワーが居て、異なった人達をフォロウしている。あるツイーターが死ねば、じきそのツイーターのフォロワーはそのツイーターをアンフォロウするだろう(尤もかなり以前にフォロウしていた人なら一々アンフォロウする手間をかけずうっちゃられておかれるだろうが)し、その死したツイーターによってフォロウされていて、ツイッターとして展開していたTL画面は誰にも除去されずに、ウェブサイト自体が消滅しない限り、永遠に表示され続ける。その死者ツイーターのフォロワーが生存し続ける限り、少しずつTLの画面を変えながら、しかし全てのフォロワーが死ねばある時点から全くの静止画像となって消去されずに永遠に残ってしまう。

 しかもツイッターのツイートは良質のもののみが残されるのではなく、全てが残される。そういった意味ではツイッター上での文字の永続性、消去不可能性は非ミーム的なものである。

 このウェブサイトの非ミーム性は、しかし同時にユーザーにとっての使い勝手(利用しやすさ)という面では、完全にミーム的に全てのツールを広める。
 つまりウェブサイトとは、それ自体TLそのものは全て非ミーム的に消去され得ず、送信記録を永続せしめるが、そのダウンロードのメソッド自体は常にミーム的な対ツール的なランダムアクセスなのである。
 これを「アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存」と呼ぼう。

 この事実からもあらゆる出版ビジネスはその大半が電子書籍化していかざるを得ないだろうが、それはウェブサイト的無限のバックグラウンドを地とする特権的図となってゆくであろう。
 しかしこういった無限のバックグラウンド的地に於ける図の在り方は、そういったウェブサイト的地のなかった時代の図とは自ずと変わっていかざるを得ない。
 ウェブサイト的地を前提にしたミーム化された図は、現在の一般書籍オンリーの時代の文字及びその配列とは自ずと異なった性格を帯びていこう。
 それは一言で言えば、全人類に共通した文字情報のニーズではなくオタク的クラスターのニーズに即応した個別的マニアックなミームの林立、乱立であろう。この点では東浩紀の「動物化するポストモダン」の読みは正しい。

 しかしやがて時代の変遷と共に、無限の永続的情報という非ミーム的地への我々による慣れから、再び意味化がなされていくことだろう。それは東語の「動物化」からの再意味化である。そしてその時かつて乱立していたミーム・クラスターの中から幾つかの纏まりが形成され、新たに古典化していくだろう。

 言葉の感覚、意味の在り方は現在も日々変化していっている。それはミーム的なスピードの速いものほど早く廃り、遅いものほど長く残るという古典的法則を守りながらも職種的階層的に併存している。
 つまりある職種や階層クラスターで永続的なミームは他のクラスターで永続的なミームとは邂逅し難い、ということである。そしてそれはかなりしぶとく容易には相互に融合し合わず、不干渉的に非関係的に併存し続けるだろう。
 しかしその異質のクラスターへの性格づけを大別させ続けるものは、職種・階層と言っても、ある職種が人格のかなりのパーセンテージで充足し得る人々と職種はあくまで生活の為の方便である人々とで大きく分断されてゆくのではないか、と私は予感するのだ。
 これはある意味では権威主義(権威追随)者と反権威主義者のクラスターが相互に相手の是認をし合わぬ相互に自分達を是とすることを譲り合わぬ状況の長期永続を意味しよう。
 私は要するに決して邂逅し合わぬミーム達を「生き方」に於ける価値観、そして社会に対する自己の適合させ方に対するヴィジョンの質的差異(異)に於いて考え予想するのだ。
 端的に人生観の違いとは、ニーズの違いを生む。そして仕事観も娯楽観も社会義務観も国家観も郷土愛観も民族観も大きく違えさせよう。
 そのクラスターの各個別的性質の違いは、大まかに分けて次の様になるのではないか?

① 集団、及び組織内協調主義且つ他者相互不干渉主義
② 一匹狼的単独行動主義且つ他者相互不干渉主義
③ ①②共、①②の併存に対する容認派と非容認派とへ分派していくだろう。

これはある部分では①はミームをより求め、②はより非ミームを自然とする考えへと落着し、①の②への容認派、並びに②の①の容認派はその中間を普通とし、非容認派は①の唯ミーム派、②の唯ミーム派ということになろう。
 ミームにも意識的ミーム(意味に対して自覚的、意識的)であるものと無意識的ミームとがあり、最初は後者であり、やがてその中でしぶとく長く残っていくものはやがて前者へと変貌していく。

 「アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存」は一方で我々は誰しもが永続的にメッセージを発信し且つ残すことが出来る一方、それとは別に多くの人々に受ける情報内容(便利な情報か、書き手の個性)を益々追い求めているということだ。
 誰しもが公共掲示板に書き込めはするが、エリートの書き手を別に求めるという偶像希求はミーム的魅力を別に必要だ、ということだ。しかし誰しもが容易にメッセージを送信可能なアップローディッドの非ミーム性が地であるウェブサイト上では皆がミームと認めるものの様相は上述の様に非ミームともずれた異なった存在にならざるを得ない。そしてそれは出版刊行物(紙による)オンリーであった時代のミームとはかなり異なった質の情報となっていくということは容易に想像出来る。

Tuesday, April 26, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 第二章 理解と距離

 元々私達は相手の顔色・表情・仕草である程度なら相手の意志を読み取れるし、大体のこと、つまり機嫌がいいか悪いかくらいは察知し合える、と知っている。
 しかしそのことは直ちに全てを了解し合えていることを決して意味しない。それどころか相互にそれ以上詮索し合わぬという相互不可侵了解によって必要以上の相手への問いを封殺している。勿論突然相手が血相を変えて傍らにいるこちらのことを顧みず、地団駄を踏んだり、憤りのあまり倒れ込んだりすれば、「どうしたのか」という問いを間髪を入れず発するだろう。しかしそうでない限り、こちらに何らかの問わねばならぬ理由がない限り、私達は問い質す理由を、多少異変があったと察知した場合すら知ろうとしないだろう。
 勿論親密さ、相手との対人関係の利害の深さにも依存し、その「問い質し」の決行の有無はそれに左右されよう。しかしいずれにせよ他者の事情を、自分の事情の様に隅から隅まで知ること自体は既に我々の胸中では試みることすら断念することこそ、他者への配慮と判断している。
 つまり配慮とは知りたいという欲求の封殺、つまり了解範囲の限定化、或いは全的了解の断念によって成立しているのである。それは逆に言えば、「了解し合う」こと、つまり相互了解をし合う(つまり相槌を打ち合う)こと自体が全的には「知り得ない」「分かり得ない」ことを相互に容認し合うことに他ならず、他者理解が相互に「知り得なさ」「分かり得なさ」の強制的納得によってのみ最終的には成立することを私達が誰との間でしようとも、相互に了解し合っていることを意味する。
 従って親しき仲での相互理解が勝手知った間柄での「知ったことにする」「分かったことにする」という言わば半ば欺瞞的な納得の上に成立していることを意味し、本当は何ら理解し合っていなかったのだ、ということへの相互覚醒をいつ何時招来しないとも限らないある脆弱さを理解が兼ね備えていることを意味する。
 従ってある部分、同僚間、友人間、いや夫婦間の信頼さえ相互理解を持続すること自体が極めて欺瞞的であり、社会的には形式的な契約関係の上の成立していることが了解される。つまりそれはある意味ではいつでも解除し得る関係であるとも言える。
 勿論通りすがりの旅先で道を尋ねる地元の他者等も含めて実は、全ての他者との間にも、当然のことながら強制的欺瞞的納得が親密な間柄の様に長期持続的ではないなりに、単発的、瞬発的にそれが発揮されているのである。
 つまりその相互不可侵的欺瞞的納得自体への不服の断念こそが、言語行為上の相互理解の不文律なのである。
 又実は倫理とはそこから発生しているとも言えるのだ。
 倫理的判断、つまり私達が自然に他者へ必要以上問い質しを断念させるもの(それは警察や検察が被疑者に対して保持され得るべきもの)こそ、他者への配慮だとすれば、それはとりもなおさず全てを了解されることから派生する他者への羞恥を「私」が、私が相手から「私」に纏わる全てを追及されることで付帯する羞恥を、私が内的に想定し得る限り、相手も又同様の心理へと追い込まれるであろう、という類推によってである。
 その類推も実は厳密に言えば、「私」と内的なものの感じ方は違うかも知れない、という全的な了解の断念によって成立している。そこにも実は個的な内部での欺瞞的納得を私達は自分でも気が付かぬ内に適用している(相互了解の相互不可侵的「分かり得なさ」「知り得なさ」の半ば強制的欺瞞的納得こそが、その内的納得を齎しているのか、それとも逆に内的納得こそが他者との相互了解上の欺瞞的納得を齎しているかとの問いは無意味であり、同じ一つの納得の中の二つの顕現である)。
 倫理的他者への眼差しも思念も共に、私達のその内的相互了解的欺瞞的納得の「飲み込み」自体への懐疑心のなさによって成立している。これは永井均による「倫理とは何か」「翔太と猫のインサイトの夏休み」等での重要な視点である(恐らくそれ以外でも多くの哲学者達がそれを問うている筈である)。

Friday, March 4, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 第一章 羞恥と欺瞞

 世界が四人で構成されているとしよう。この四人共別々で勝手に考えている、とされるのが私達の住む世界での通念だ。
 しかしもしこの四人の脳が何らかの仕方で離れ離れになっていたとしても相互に全部四つの脳の意志が一つに纏められているとすると、この四人は態々会って話し合う必要がない故に、そういった脳の在り方をする世界では私達の世界での様な言語行為は人類学的にも進化しようがない。
 しかしたまさか私達の世界では四人の脳は別々で勝手に考え、その四つの脳が一つの脳として統括されるということはない。そこで私達は自分自身の脳からのみ世界の全てを把握し、その把握されたもの全てこそが世界である。
 それはある意味では他者の脳(脳は心と言ってよい)から、自分自身の脳(の中で考えていること)を容易に察知され得ぬという覚知を自分自身に齎すと同時に、他者の脳の中を読み(知り)得ないという事実を突き付ける。
 この時、例えばその四人の内一人が私だとすれば、私は残りの三人に対し、私の脳の中の全てを知って欲しくないという欲望を自然に持つ。何故なら私の脳の中の幾分かは、私が私以外の三人と渡り合う為に、その三人の脳の中を推し量ろうと画策してもいるからだ。私はその部分での私の思考だけは容易に私以外の三人には察知されたくはなく、他の三人のこと以外の当たり障りのない、私の脳の中の考えだけを、三人から察知されてもいいと考え、その様に、私以外の三人と接する様になるだろう。
 これを私の中に芽生えた羞恥と呼ぶこととしよう。
 しかし、私はこの私の中の羞恥が私以外の三人にもあるのではないか、と思う。
 そう思って私が三人と接すれば、三人共確かに、私が私の中のこの三人には知られたくはないと思い三人に接する様な接し方を、この三人は私に対して採る様に思える。
 この時私は確信する。私以外の三人にも私と同じ様な他者には知られたくはない羞恥があるに違いない、と。
 つまり私も残りの三人も恐らくこの様にして、相互に相手と接する。それは言い換えれば、私も私以外の三人も常に残りの相手全てには知られたくはない故、仮に相手がそれを知ろうと努めても、決して相手へ悟られない様にする部分が自分にも相手にもあることだから、結局「分からないこと」を相互に携え合って生活するということを意味する。
 それは痛さとかくすぐったさ、痒さの様なことも、積極的に告げる(痛さなどは仕事に支障をきたすからそうだ)ことを厭わぬ部分と、逆にそうではない(例えば電車の中などで好みの異性へ性的な感触を想像力等を伴って身体で感じたとかの様な)部分があることでもあり、告げずに済ます部分は概ね「分からないこと」となっていく。
 そして言語行為では「分からないこと」(他者に関しては)が相互にある、ということを、暗黙の内に容認し合う形で、全ての言語的意思疎通し合う様になる。この時「言わなくてもよい」権利を「プライヴァシー」と呼び、にも関わらず逆に、相手のプライヴァシーに就いて直接聞くことなく忖度し合うことを「駆け引き」と呼び、その「駆け引き」言語を相互に暗示し合わぬ限りで、相互に暗黙に容認し合うことを「取り引き」と呼ぶこととしよう。
 ここで言語的意思疎通を私達は相手にとっては「分からないこと」を相互に認め合い、その「分からなさ」(それは痛いので仕事を休みたいという請求をして(告げて)よく、そうしなければいけないことをも含めて)が相互に携えられているということを了解し合う(「分かる」)ことを通して、成立していることを知る。
 それをもっと簡単に言えば、言語的意思疎通とは相互に相手のことは全て「分からない」ことを前提に、ということは「分からなさ」を「分かる」こととして育まれる、ということとなる。
 これは私達の世界でのある部分では、四人の人間の脳が相互に一つに統括され得なさが必然的に齎す言語行為(言語的意思疎通)の発生論的必然性であると同時に、言語的成立条件としての論理的必然性である、とも言える。

Friday, February 25, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 序・「語る」と「語らない」の並立から考える哲学

 私達にとって「語る」はどの様な意味を持つのだろうか?「語らない」の意味は「語る」の意味に規定される。しかしそれは少なくとも沈黙ではない。沈黙は一種の饒舌である、だからこそそれは「語らない」ことで何かを多いに「語る」。しかしこれは「語らない」の本質ではない。「語らない」の真性の性質はあくまで「語らない」である。
 本論では言語、或いは言葉を「語る」ことに起因させる。それはジャック・デリダが「グラマトロジーについて」で原(アルシ)エクリチュールから言語を考えたことと丁度逆のベクトルである。しかし本論では書くこと、読むことの本質も「語る」「語らない」の本質の規定から読み解くことが可能であると説く。
 要するに「語る」と並立された「語らない」はあくまで「聴く」であり「受け留める」であり「考える」であり「理解する」であり、「語らない」ことで言外のニュアンスを伝えると、ある種の日本人が得意な戦略だとされることではない。即座に応答しないということ以外の意味を「語らない」は持たない。
 しかしそれを語る前にやはり「語る」とは何かを考えていかねばならない。しかしやはりそれも「語らない」をも対比的に捉えていかざるを得ない。
 例えば「語らない」を「語る」を無視することである、と捉えれば、それも本質から外れる。何故なら「語る」を無視することは「語らない」時間に「語る」ことを期待する者に、その期待を拒絶する意味合いがあるからである。故にこれは「語らない」の真性の本質に逆らう。
 だから「語る」は「語らない」を含み込むのではなく、あくまで並立するのである。
 これはある部分では西欧形而上学に対する批判的立場でもある。何故なら西欧形而上学は「語る」ことの中に全てを含み込ませようとする意図でもあるからである。
 しかしそれでは既に我々のコミュニケーションの内実も、意志や自由や行為の本質も解明され得ない。そこで本論では東洋的なこととか日本的なこととしてではなく、もっとユニヴァーサルなこととして「語る」と「語らない」の並立に就いて考えていこうということなのである。
 だから逆に「語らない」が学問に対する芸術とか、経済に対する文化といった様な相並び立つ存在として「語る」の傍らに存在しているという価値観から言えば、「語る」の本質は常にそれ自体充分意味していることだけを、それ以上でもそれ以下でもなく「語る」という意味以外ではない。「語る」はあくまで、それだけで充分で、本質を余す所なく伝えることだけによって成立している。従ってそれは冗長性(これはドゥルーズ=ガタリによって「ミル・プラトー」で大きく取り上げられていたが)でも欠損でも未完成でもない。完成という試行錯誤すら無効化する様なある自立した結晶の様なものである。

 意味は行為によって派生する。意味自体が行為を突き動かすのは、意味了解を我々自身果たして後のことである。しかしその事実を我々はつい忘れる。つまり意味が行為を我々に急き立てる。しかし我々はそもそも赤ん坊の時にはいはいをして、次第に人の名を、自分の名を、挨拶を習得していく様に言葉を習得していく過程で、派生してくる意味を価値として受け取る。しかしその意味自体が価値として我々を呪縛して我々は大人になる。そして芸術家とは意義深い仕事だ、とか公務員は世間一般の人達の幸福の手助けをするとかといった職業倫理とか社会的使命とかいった生自体を意味づける定義を信条として生活していく。
 しかしそれは社会慣習とそれへの同化を果たしつつある私達の条件反射的社会行動から条件づけられた考えにしか過ぎない。だからこそ「語る」ことはその中で意味に支配され、次第に「語る」こと自体を、それ自体として受け入れる余地を失っていく。
 例えば職業であるから文章を書くとか、それは市役所で書類を作成することもそうであるし、作家であるから頼まれてエッセイを書くとかもそうである。しかしそれは意味を規定通りに一切の疑いを持たずに決められた行為の為に従属させているのである。行為自体は決められてなどいない。そして決められた行為に従属する意味などに意味はない。そんなものはない。あるのは只意味を作っていくべきである、ということと、行為自体に何らかの価値があるべきだ、ということだけである。
 何かの為に行為があり、意味があるのではなく、行為自体にするべき価値があり、意味自体に作られるべき価値があるのであり、行為と意味とは我々は存在しているということの証なのである。従ってそれらは無規定的に可能性として与えられているだけで、踏襲すべき体のものではない。
 行為が意味づけられたり、意味が行為によって立証されたり、それはそういう風に逆転を果たしつつ我々は生活しているが、行為自体に何かやはり最初から価値があった筈なのである。三輪車に最初に乗った時もそうであった筈だし、最初に隣のみよちゃんと遊んだ時もそうであった筈なのである。しかしみよちゃんは大人になり、自分も大人になり、そこで我々は意味から入って時間を節約しようとする。
 時間の節約は端的に、生活上で何か仕事をすることが、義務であるが故に、一時義務から解放されるオフの時間を安らぎあるものとして過ごそうという刹那的な人生の解放感への価値から派生している。しかし仕事自体に生き甲斐を見出せないのなら、それは義務ではなく苦役であり、拷問であろう。或いはオフの時間がオンの時間の辛さと憂さを晴らす為にのみ存在し得るのなら、それこそ一時の快楽でだけ人生を肯定しようとする儚い試みということになろう。刹那自体を追求しているのなら未だいい。しかしそういう生き方が出来る様になる為には全ての義務を履行して、全ての規制の価値を踏襲してかいなければならない。しかしそれが出来る者は極めて少ない。何故ならそれを可能化する為には限りなく生活上、経済力上のパワーを必要とするからである。
 それが出来る者を真に世間的俗人であるとするなら、その者の構成する全ての対話では「語る」ことの中に「語らない」ことも吸収させ得るであろう。彼のする「語らない」こそは全て予め意味化されたサインであろう。それはそれでそれが完全に成し遂げられるなら、それは俗人の極みであり、権力施行である。つまりそういった価値自体の、行為意味充足性自体の体現だけで生を送るとしたら、それは本論の主張とは全く真逆の、しかしそれはそれで極めて完成された意図的人生である。全ての無言はそれ自体沈黙としての言語として意味づけられている。
 しかしそれをし得る権力と、それを成し遂げられる冷徹さと、それだけを価値とし得る須らく完璧なる残酷でさえあると言ってよい保守性を保持し得ぬ者に、その理想を語る資格はあるまい。従って我々一般的な人間は「語らない」ことを完璧に意味づけられた沈黙として戦略として利用することを潔く諦め、肯定的な諦観、つまり俗人の極みが成し遂げられる否定的なまでの、ペシミズムの極致の、ニヒリスティックなまでに伝統的コードと有有職故実性に遵守した従順なる諦観を持てるだけの精神的ゆとりのない者には、創造的な諦観が必要なのである。創造的諦観とは、私は宮本武蔵の様には生きられない、織田信長の様には生きられない、坂本龍馬の様には生きられないが故に、人が言うことを聴く時も、自分の意見を語る時も「語る」ことだけでなく、「語らない」ままにして、結論を即座に提出することを控えて、常にエポケーを懐に忍ばせて、あるがままに他者存在を受け入れ、自己を他者に恣意的に構えることなく、生活していくことしか残されてはいない。
 これは本質主義と実在主義の一致にのみ、生を意味づけていくということに他ならない。そこでは当然プラトニズムへの懐疑、デカルト主義への懐疑、デヴィッド・ルイスの可能世界論への懐疑を持ち込まざるを得ない。しかしそれを持ち込む為に今一度それらの思想を我々の前に批判対象として提出させなければいけない。
 次回からはその都度そういった批判対象の慎重なる検証を旨として記述を行っていくことになるだろう。常に一人の批判対象だけを提出させるわけではなく、あくまで常に並行させて提出させ、批判対象の中にも肯定的部分、或いは価値再考的部分を見出し、我々自身にとって「創造的価値」のあるものとしてその都度修正して完成させる意図も必要であろう。
 取り敢えず本論では、「語る」ことの余白に位置すると思われる「語らない」時のことに焦点を当てて考えていこうと思う。そうする中で炙り出される「語る」ことこそが、真性の意味であり、冗長的でも欠損しているのでもないメッセージであると受け取ることが可能である。しかし「語らない」ことの本質には無駄を省くとか、先ほど述べた時間の節約とは当然相反する考えがある。それを理解する為に、まさに「理解する」とは何かという問いを次回から暫く関わっていきたい。

Friday, January 21, 2011

世界の影(インターミッション、詩1月17日作)

俺の歩く方向に俺の世界がある
俺の世界に俺自身は見えない
俺は気に入った景色をカメラに収める
そこに俺はいない
俺の影がたまに写り込んでいるだけだ
俺は俺を俺自身で写真には撮れない
俺は俺自身が見た世界の様に俺を撮れないし、見れない
だからこそ俺は歩くことが出来る
俺は俺が歩く姿を正確には知らない
外側から俺が歩く姿を見れるのは俺以外の人だけだ
俺は俺を誰よりも知っている
だが俺は俺の姿を誰よりも知らない
世界はどうなんだろう?
世界もまた俺の様に俺のことを一番俺が知ると言う様に考えることが出来るのだろうか?
世界にも俺が俺の前方を撮る時に写り込む影の様なものがあるに違いない
それは勿論地球の影が月に映ると言う様なものでもない
それはほんの影の中の一部だ

世界は恐らく考える 考えるからこそ世界に関わる俺たちを俺たち自身の考え以外で俺たちを動かす
世界の影は恐らく世界しか知らない 世界しか見れない
世界の影を俺も見たいだって
だって君は自分の影だって全部は知らないだろう
世界が世界の影を全部把握出来るなんてことないんだからさ
君も世界の影を見つめる前に自分の影への気がつかなさに気づくべきなんじゃないのかな?

Tuesday, January 4, 2011

<感情と意味>結論 懐かしさも作られるし、慣れも作られる<感情と意味・最終記事>

 毎日鏡で見ている自分の姿や顔形はいつもの「今日の顔」だ。しかし私は昨日の自分の顔も覚えているし、それよりもずっと前の自分の顔も覚えている。だから例えば三年前の写真を見ると、それよりは今の自分が大分年とっていると感じる。その途端に今の顔を鏡に映して見ると、その写真に見られる自分の顔よりもずっと老けていると知ることも出来る。
 つまり常に今はこれまでの姿の対比で感得される。毎日の顔の変化は余り気がつかない。しかし急激に老ける時以外でも、少しずつ毎日老けていくことは一年前の写真を見て感じる。少し前だとその変化は顕著に示されている。
 要するに懐かしいという感情は、そういったある種の肉体的変化と共に、今の様ではなかった過去の状態を思い出すことによっても作られる。そして今の状態が如何様であっても、過去から決別するかの如く、その状態に慣れていく様に我々は常に自然と考えも感じ方も移行させている。
 懐かしいという感情と、慣れとは対極のものかも知れない。何故なら懐かしいとはそれ以前の状態を恋焦がれているということであるが故に、現在の若干の否定が含まれているからだ。
 しかしにも拘らず恐らくこの二つは相補的でもあるのだ。何故なら懐かしさを一方で感じつつ、しかし今は今でよいと決然と考えることによって、全てを過去化しているのが我々の心の実態だからである。
 ある部分では忘れていたことを思い出す時には確かにそれが懐かしく感じられる。しかし昨日のことの様に克明に覚えていることは懐かしくはない。従って記憶力が少し減退した時こそ懐かしさは襲ってくるとも言える。つまりかなり老いが訪れる年齢でも明確な記憶が今の様に常に蘇ってくるのであれば、それは常に今であることに慣れていて、今こそが最高であると思えることだから、必然的に懐かしさとは別種の感情でも過去を捉えられるとも言えるからだ。要するに現在自分が立たされている状況をどれくらい愛せるかということに尽きる。従ってこれはある部分では哲学的だが、ある部分では哲学的でなくてもいいのだ。
 もし私達の感情が途切れることなく死の瞬間まであるとすれば、それは常に過去にあったことを意味づけ、それは当然現在からのことだが、又過去に比して今はどうであると感じられることから発生する意味に全てがある筈だ。本ブログでは最初の「存在と意味」から二段目の「感情と意味」をお届けしてきたが、今回で一度この「感情と意味」を締め括ろうと思う。
 本ブログは次回からは再び存在に少し重きを置いて考えてみたい。時間論も含有させていきたいと考えている。価値論や形而上学的要素も付け加わるが、かなり現代的なテーマを別ブログ「トラフィック・モメント」とも併行させて考えていきたい。少し休みを置いて再びお会い致しましょう。