Friday, November 20, 2009

〔意味の呪縛〕五、信用するということ

 他者存在は哲学的存在者たる我々にとって意思疎通という欲求を通して個という存在の存在理由という価値規範を生むということは、逆に言えば存在者という考えの中には他者という観念を前提しているということが出来る。脳科学ではミラーニューロンのような存在に関しても注目が集まっていたし、他者存在そのものに対する気配がまず幼児に言語習得へと向かわせる内的な動機を生むが、勿論幼児にはこれといった他者に対して説明出来るような根拠などない。しかし少なくとも最初は通常両親によって接近されることによって他者の気配を捉え、その気配に言語行為へと赴く前哨戦があるのだ。
 しかしそういう言語行為へと赴かしめるような気配というものはまず基本的に温もりのあるものでなくてはならないだろう。つまり意志伝達する意志そのものを生じさせるような相手として認知される必要が幼児には少なくともある。だから逆に大人になっても人間はこの相手が意思疎通し合えるか否かという判断において前者であるという気配をまず汲み取るのである。それは経済活動においても実践されている。資本主義社会とは端的に金銭を交換し合うことにおいて金を払ってくれるかとか、金を払う価値があるかとか、要するに金銭を通した相手に対する信用に基づいている。
 しかし昨今食品テロさえもが横行しているというモラルハザードの根幹には人が信用という無意識の是認を全ての商品に対して前提しているということを逆手にとって犯罪的事実があることを意味する。つまり信頼ある商店(それは往々にして商店名、つまりブランド力ということになるのだが)で買えばどのような商品でも大丈夫だろうという目算があるわけだ。だから逆に信頼あるブランドの商店において購入すれば一々商品そのものの欠陥などというものは考慮せずに済ますという時間節約主義がそもそも全ての食品テロリストの思惑にあるように思われる。
 即ち信用するという行為は、信用すべきか否かを一々点検することには手間がかかり、その信用そのものさえ金銭を払って買おうという意識が現代人にはあるのだ。だから逆に信用するということの意味をもう一度ここで哲学的に再点検する必要がありはしないだろうか?
 信用するということは信じたいということとは基本的に違う。
 信じたいというのは願望であり、サルトルも「存在と無」で言っているが、却って信頼出来ないものに対して、しかしそれが好きであったり、それまでは信頼してきたりしたということがあるために、継続して信頼したいという気持ちによって連動される一つの決心であるから逆に内心では疑惑に彩られているということを意味する。
 しかし信用するということはそれとは違う。信用するということは安心しているのだから、必然的に疑惑を介在させていないということを意味する。そして我々は往々にしてその信用というものを自らの主観的な判断よりは、あることを言った人、つまりニュースソースそのものの信頼性において判断する。有名な新聞紙、有名な評論家やコメンテーターの意見、ネット上で最も評判のブログとかブラウザーによる情報であるといったことを規準に我々はある情報に対する信憑性を判断する。例えばあるものが人気があるかどうかということをネット上で検索してみて、検索にひっかかる項目が多いものほど人気とか注目されているものだと判断するのだ。
 あるいはそれがかなりガセネタである可能性に対する検討において、全く異なったニュースソース、つまり各ニュースソース間に何の関係もないのに、全く詳細に同じ内容の情報である場合、その情報はまんざら捨て置けないものがあると判断するのだ。
 要するに何かを行動する時私たちは全てある信用の下に行動するのだ。ダニエル・デネットも指摘しているが、自販機でチケットとかドリンクその他を購入する場合にも、どこかに出掛ける時に電車を利用する時にも我々は金銭を投入すればチケットやドリンクが出てくるということをある信用の下に期待するし、ホームで待っていたら電車が入線してくることを期待し、電車に乗ればある場所で到着することを期待する。つまり信用とはあることをある手続きを経て待っていれば向こうで何とかやってくれるから、一々どうなるかこうなるかを目を見張っていなくてもいいということを意味するのだ。
 しかし昨今の食品テロでもそうだし、飛行機も電車も事故に遭わないとは決して限らない。つまり常に危険と隣り合わせで生活しているということだ。日本では禁じられているが、拳銃を所持することが許可されているアメリカ、タイ、ブラジル、フィンランドなどではいつ何時自分が拳銃によるテロに巻き込まれるか分からないという状況下で生活することを余儀なくされているということを意味するだろう。
 だがそういう安心と危険に対する懸念ということの常識は慣れによってその都度変化する。ある政治家の施政方針に沿った政治の動きに我々はいつの間には慣らされ、それがあまり芳しいものではない場合ですら庶民はその施政に徐々に慣れていく。だからこそ拳銃を所持することを許している国とそうではない国の差というものが生じてくるのだ。
 と言うことは、我々は慣れてしまったことに対しては一々懐疑的な目を向けずに生活することが可能だということが言える。つまり信用とは慣れによるものであるという風にも解釈することが可能となる。信用とは安心出来るということなのだが、安心ということは一々懸念することを怠るということだから、慣れによって生じるのだ。つまりそう考えれば、ある概念とか、ある法則とか、ある常識とか、ある社会通念とか、ある文化とかそういうものは総じて慣れ→安心→信用ということから普遍化されているということが言えよう。それは極めて自‐他の関係を基礎においた言語認識によるものが多大な領域を占めよう。それは本論において最初に示した幻想の一部なのである。
 そして信用するということを基礎にあるものやことに対する意味が規定されていくことになるのだ。そしてこの意味の規定ということの内には意味として通用するものに対しては一々検討する必要がないという通念が生活者全般に行き渡るので、前章で述べたような話者相互の相手にこちらの説明に対して想像したり、こちらが相手から何かを聞きだしてそれを説明されたことを想像するということを相互に了解し合あったりするというような関係に持ち込むまでのことはないという省略を意味する。
 つまり意味とはそういう一々の納得(納得には想像が必要である。)に対する省略という側面がある。つまりこうも言える。意味とは信用の下に成立しているのだ。そして信用が慣れと安心とを経て成立している以上、慣れていけるものなら意味になり得るということが言えよう。それがたとえ悪い意味での慣れであったり、悪い意味での安心であったりしたとしてもである。例えば泥棒にとっての常套手段とか、どういう標的を狙うべきかということなどもその内に入るだろう。
 例えば一つの語彙がある共同体や国家において定着するということは、その語彙の意味が確定するということだから、必然的に前段階としてはその意味の流用が慣れとして定着するということがあったわけであるし、その流用されてきている意味を使用することに対して安心を得ているということを意味する。使用しやすいということと、使用することに何の違和感もないということが即ちそのものを利用することを安心して行うということなのだから、それは意味でもそうだし、道具でもそうだし、論理的に利用すべき法則や真理でもそうだし、私たちが他者に対して伝えるべき表情とか、感情的な表現の全ても同じように反復して利用することの出来る、つまり安心して利用することの出来るものだけが流用され続け、それではないものは淘汰されるということを意味する。それはあるものにおいては何かの問題に対処し得る有効な考えであり、あるものにおいては身体的な動きや条件に沿ったものである。
 だから逆にある極めて悪い習慣とか、安心が極めて社会生活を腐敗へと持ち込むこともあるということだ。
 銀行が誰かに金を貸す時に、その人が本当に信用があるかどうか、借金歴を調べたりすることも、小売店の店主が訪れる客の身なりに応じて、物色している客それぞれに応じた商品を薦めるのも、全て信用ということを規準にした応対なのである。だから逆に見てくれとか身なりということだけで判断するということは人間の騙されやすさを証明してもいるので、そこできちんと信用出来るデータを求め、それをベースに決定するのだ。そういう時しばしば「あの人は見かけによらず偉い人だ」とか「彼は根は悪い人ではない」というような言説が登場することになる。
 だから入社試験の時にそれまでの経歴や学歴を参考にして試験の合格者を決める際の手がかりにするということも、信用出来るということが、あるデータに照応することで得られるその人に対する信用出来るバロメータ次第だということだから、人間は常に信用したいがために信用出来ると思われるデータを求めているということになる。そのデータの信憑性というものもまた信用ということを我々が求めていることを意味する。
 だから一旦決定されたこと、例えばある人に金を貸すとか、ある人を会社に入社させるということは、そうすることで、自分のしたことが正しいという風に考え、安心するということであるので、決心ということはそうすることで安心を得たいということでもあることが了解されよう。つまり信用するということは、そうすることで一々心配したり、懸念したりすることを止めることが出来るということなのだ。あるいはそうすることで安心する、不安定さを取り除くということなのだ。
 世の中の出続きとは要するにそういったことなのである。だから逆に哲学ではそう簡単に安心していてよいものかという立場から、例えばそれまでに慣れて来ている方法や手続きそのものに対する再検討をも含めて常に安心状態に対して警告を発するかの如く提言し続けているのである。それは人間がより信頼出来るデータというものに安心してしまい、警戒心を安易に解除することそのものへの忠告の役割を果たしているのである。
 端的に人間は他者に対して警戒心を持ち過ぎてもいけないものの、かと言って信用し過ぎてもいけないのだ。と言うのも警戒し過ぎるとその者の能力を遺憾なく発揮する機会を奪うことになるが、信用し過ぎると傲慢や自信過剰、あるいは怠惰をその者に必然的に作り出すことになるからである。
 しかしやはり信用というものは社会においては絶対的に必要なのである。だから逆に信用を笠に多くの欺瞞的な怠惰が蔓延り、信頼出来る形式にだけ依拠し、それ以外のことは一切信じようとしないがために時には必要である冒険心を失い、ただ信頼出来る既存の手続きだけに終始することにもなるのである。
 つまり時には平素の信頼の仕方を裏切り、冒険してみるということも大事なのである。しかしそういう兼ね合いそのものもある一定の経験が要求されるのだ。その経験とは成功体験も重要だが、時には失敗体験も役に立つということだろう。つまり安心したいために用心するということである。

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