Friday, April 27, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第八章 土地と生活と旅

 社会的アイデンティティを自己の確立と共に確立させていくという事は発達心理学的所見を待たずとも要するに両親が子供に期待してきた事からの呪縛から自己を主体的に解放させていく事であり、例えば女子であるなら両親の前でいい子でいる事だけで成立させてきた社会生活を、自己が自己の独立に於いて異性愛等を含めて獲得する様に磨いていく事であるから、それは一度両親が子供に期待してきた理想像を打ち破る、要するに両親が固有のエゴイズムで子供を呪縛してきた事へ反意を示す事から出発するしかない。  
 しかしそれはそういう時期が誰しもやってくるという事を意味しているに過ぎず、いい意味で対立する様な素振りを示さずに抵抗と両親とか年配者との共存を図るという事が大人としての態度であるとも言えるだろう。そういう実現がし得るという事自体が抵抗を実現させるという事だろう。    
 自己は自己固有のエゴイズムで他者、社会、国家、世界を把握する。しかし重要な事はそのエゴイズムをどれくらい自己で把握しているかである。  
 旅というものを考えてみよう。世界中を毎日飛び回っている者だけが果たして世界を把握しているのだろうか?毎日飛行機でアメリカからヨーロッパからアフリカ、アジア全ての諸国を渡り歩いているという事が世界を真に理解する事なのだろうか?  
 そういう風に点から点へと移動する事だけで生活を成り立たせている者には固有の取り零しというものが派生し得るのではないだろうか?  
 ある意味では世界中毎日飛び回る生活とはある土地や場所に長く過ごす事を欠落させた生活であり、海外を飛び回る生活は日本に過ごす時間を短くする事であり、移動が多い生活とは一箇所の土地に過ごすという経験を欠落させる事に他ならない。ある意味では移動生活者は移動の手段である飛行機や車や電車に乗っている時間の方が長いという特殊な場所感覚だけを与えると言ってもいいかも知れない。  
 今現代人はスマホ等に一日中意識が釘付けであり、電車に乗っている時にも車窓を眺める心の余裕を失っている。しかし車窓が次から次へと様相を変えていく事自体を電車に乗っている時に観察し理解する事から我々は場所や土地を移動するとはどういう事かという事を真に理解する事が出来る。    
 従って毎日飛行機に乗って移動している者は移動のプロセスを知らない。大気圏内で地上の様子を探る事は出来ない。次の土地に着いたらそこで突然知らされる事も多いだろう。点から点の移動ではなし得ない事とは端的に土地とか場所というものが固有の意味を生活者に与えているという事実への覚醒である。それは只管移動だけに追われている者には理解出来ない事である。どんな地方都市であれ都会であれ、同じ場所に少なくとも数年から十年くらいは住んで初めて理解出来る事がある、という意味では人生で数箇所だけ引越しをしてきた人間が仮に八十歳迄生きたとしたら、そこで初めて例えば東京と横浜の違いとか東京と大阪の違いとか、京都と大阪の違いとか、要するに真実の土地や場所に根ざした文化を理解出来るというものである。それは毎日大阪と東京を往復している者には終ぞ理解し得ない事である。何故なら毎日大阪と東京を往復していたら、大阪で固有の事や東京で固有の事にはなかなか目が行かなくなるのである。その二つの土地で変わらぬ部分に主に目が行く様になるからである。  
 そういった意味ではビジネスの拡張という事とある一つの土地に長く暮らしてみなければ理解出来ない事というのは対立していく要素があるのだ。  
 それはある意味では政治家や実業家の様に日夜大勢の他者と次から次へと会う仕事に明け暮れている者には理解出来ない他者像というものがある、という事と似ている。  
 これは形而上的な問題ではなく、あくまで本シリーズの表題での日常性の問題なのである。そしてそれを欠いて只管形而上的なものだけを追求する事など実質的に人間には不可能である。形而上的意味とは常に日常的で現実的な要請や不可避的な体験から生み出される倫理的価値でなければ意味がない。従ってそれは端的に経験主義的に現実に基づいたものでない限りは形骸的な形式論争に終始し、悪い意味での堂々巡りだけを招聘する。    
 ある土地に長く続けて住み、一箇所で同じ仕事を数年から十年するという経験こそが土地や場所固有の有難さや固有の有用性を理解する事を強いる。    
 それだけのある程度纏まった安定性というものが人間生活で確固たる信念を醸成していく上では必要ではないだろうか?それは最終的には終の棲家という事へも直結していくだろう。そしてそれはどう生きていくかという事、そしてどう世界への返礼を示していくかという問題である。  
 一箇所に長く過ごすという事は清濁併せ飲んである土地を愛し憎むという事以外ではない。全てに関して理想である土地や場所等世界中何処を訪ねても一平方メートルもない。  
 だから旅は余りにも目まぐるしく移動から移動だけに明け暮れるものであるなら、それは深く人間性へ土地と場所の意味や特質、或いは存在理由を明確に心に刻む事は出来ない。  
 又それを承知の上で各地域を飛び回るビジネス行為にも意味が生じるとは言い得るだろう。点から点の移動は安易な瞬間的なある土地と別の土地との比較しか成立し得ない。しかし纏まって数年から十数年、或いは人生全体で数十年と数十年というスパンで二つの土地を住んでみて初めて分かる事もある。    
 そういった意味では恋人も配偶者も出会う人数ではない。もし常に数人以上の愛人や恋人を同時並行的に付き合っていくのなら(イスラム教では一度に経済力さえ適えば数人の妻を娶る事さえ可能であるが)、その者は相手への誠実な愛の対応も心の平静も勝ち得る事は出来ないだろう。それはそれでよい。しかしその様に常に同時に相手をする事を唯実現させていく生き方ではパートナーに対する着実な善悪全てを含んだ真の理解は得られず、あくまで安易な相関的比較理解しか得られないだろう。  
 土地と他者とは存在の仕方が我々人間にとって似ているとは言えないだろうか?  
 そしてそれは最初に述べた両親と子供の関係から友人同士、同僚や同志同士全てに於いてある他者像というもの自体が自己に於ける対他者欲求というエゴイズムに当て嵌めているという性悪と同じ心理で土地や場所に接しているという我々の実存的事実にも覚醒していかざるを得ないだろう。日常的経験と判断という事はあくまでこの様に善悪、現実と理想を清濁併せ飲むのたうち回る経験だけから引き出されていくものであり、そこに初めてだからこそ今自分が共存する他者と同じ様にある土地やある場所への愛着とか愛憎といった事が語られ得るのである。その時だけ真に形而上的な土地や場所の意味を向こうから自然と語りかけてくるのである。そうである。形而上的存在理由とは強引にこちらから求めるものではなく、あくまで現実に根ざした愛憎と愛着と嫌悪全ての感情的駆け引きと遣り取りだけが経験的に誘引してくれる自然と環境からの愛の手紙なのである。  
付記 今回はあるケースとしてビジーな実業家や政治家を挙げたが、真にいい事業や政治だって実はかなりい意味で心の余裕がなければ生まれないので、長期休養や一箇所の土地や場所への愛着が持てる様にしていかなければ実現し得ない筈なのである。それは移動する為に一箇所に留まるのではなく、あくまで一箇所に留まる中で世界への理解を土地と場所への愛着と共に持つという自然な成り行き(それは初期人類の狩猟採集生活での移動でも一定の範囲に限られていたという事からも)からも理解出来る事である。しかし同時に人類は民族の大移動という事もしてきたのであり、その二律背反に就いても今後問題にしていくべきであろう。

Monday, April 2, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第七章 家族観の固定化と教育に見られる親のエゴイズム、そして他者と自己、素の自分なんてない①


 我々は自己というものがどういうものかを知らない。何故なら何時も他者と接していれば他者をどう見るかに追われ、自分一人で過ごす時間は、自分の未来のこととか、今迄してきたことなどを振り返るが、それらは全て自分自身のことであり、過去に関する記憶であり、それを通した未来への展望(願望とか、予定とかそういった全て)でしかなく、それは自己という固有の客観的姿ではない。
 自己はだから外面的にどうであるかを知りたいと望めば他者に問い質すしかない。何故なら自己とは自分がどういう風に他者から見えているかということへの意識だからである。その意識は他者が半分は決め、その他者の持つ自分への像に対して自分でどうその見られている像を維持したり修正したりしようかと考える主体である。
 我々は生まれ落ちた時からずっと自分自身にとってどの他者が自分に対して協力的であるかとか、どの他者が自分にとって警戒すべき対象となり得るかを査定することだけで過ごしてきている。これは厳密に言えば運命でも宿命でもなく、現実である(人生を価値的に見れば、その価値自体への感慨的溜息から我々はそれを運命とか宿命と捉えたいだけである)。
 我々は他者と接する時、親しくなっていく他者に対して友情であるとか、或いは家族となる配偶者とか親子関係に於いて愛情であるとかの感情とか気持ちで接すると思うが、実は信頼であれ友情であれ愛情であれ、それらは皆形式である。形式という語彙を使うと何処か味気ないとか、無味乾燥で即物的で人間味を感じないと言うのなら、それら一個一個を固有の価値と呼び換えてもいい。
 要するにそれにある他者が、自分にとってどういう感情や気持ちで接しているかという心情的事実から、ある他者を愛しているとか、ある他者を信じているとか、その様に自分内部の規定に当て嵌めているのである。その事自体に「それでは余りに人生全体を形式として考え過ぎる」と非難したとしても尚、それは人生自体をそう考える事は形式的で物足りないと捉える価値でしかないのだ。その事にまず気がついておく必要がある(そうでなければ以降私が書く事の意味を捉え損ねるだろう)。
 人間は他者全般に、それがどんなに気心の知れた家族であれ他人であれ、最終的にはある他者はある感情や気持ちを喚起する存在であるという内的な規定なしに接する事は出来ない。端的にそれは精神病理的に分析しても(私はその種の専門家ではないが)普通の事である。
 と言う事は、我々は誰しも他者へのそういった認識の上で意思疎通しているわけであり、それは行動原理的には社会学的に分析し得る事であるとか、色々に捉える事は出来るが、もっと日常的な事実であり、文学等は全てそういった日常的な自己と他者との遣り取りの中から書かれているものである。
 だから我々は他者と接している時にはその特定の他者と接する時にしか発しない内的な他者像への査定と認識と、それを自分自身で「信用している」とか「尊敬している」と規定し得る何かを持って相手へ臨んでいるのであり、その瞬間は勿論の事、一人で物思いに耽ったり、考え事をしている時でさえ素の自分である、ということは在り得ないのである。
 何故なら一人で居る時には次に誰かと、或いは何らかの集団と一緒に居合わせる機会を想定して、その時の為に自分自身で外面的に自分を他者一般に晒す為の自己を模索しているからである。
 しかし人間は誰しも何らかの家庭環境とか生育環境から自らを社会に同化させてきたのであり、その人間形成期に於ける家庭環境や育成環境(それは地域社会から、どういった他者と出会ってきたかということ迄含めた)に多大の心理的影響を蒙っている。それは端的にどの個人に於いても何らかの形で固有のバイアスを持って社会に臨んでいるという事以外ではない。
 どういう性格でどういうタイプの職業の両親や育ててくれた人と関わり、その過程でどんな教育的な訓戒やアドヴァイスを得てきたかという事は多大の人格形成に預かっている。そしてそれは各家庭、個人毎でも全て違う。当然本人の性格とか資質といったものも多分に作用しているが、その個人の性格や資質は、あくまでどういう経緯で育っていったかという事実関係とかその性格に大いに影響を蒙っているのだ。
 しかし当然のことながら他者とはどの人間も心の中に抱いている全ての他者への感情を言葉や態度によって示す事はない。こちらもそうであるなら向こうもそうである。だからこそ相手に対してある相手に対してならこういう事は気兼ねなく言えるし、こういう事に於いては信用出来るし、こちらに対する接し方でも信頼出来ると査定している。その人に拠って違う接し方と心の置き方こそが私が形式とか価値と呼んだものである。
 そしてそれは青年期にはやはり大人になる迄育てて貰った両親からの影響、例えば幼い頃から躾けられた事から教訓的に言葉を通して伝えられた事等が大きく自分自身の判断(世界や社会内の事、対人関係の全て)に逐一左右している。両親や育ててくれた人の持つ社会観や境遇から得た彼等独自の世界観が青年の心には深く影を落としている。
 しかし中年の秋も深まっていくに連れ、自分自身の青年期に経験した事、体験した事の方が両親や育ててくれた人達からの影響より大きくなっていく。
 私が形式とか価値と呼んだ事は従って何か言葉上での観念とか概念とかだけでなく、勿論そういった言葉上、観念上、概念上での理解も含まれているものの、それを部分とする様なもっと大きな出会い、つまり身体的であり、体感的であり、痛みや悩み(これも精神的且つ身体的肉体的でもある)の蓄積といったものである。要するに頭の中だけの事ではないという事である。
 それは記憶に刻まれている。どういう体験内容、どういったコミュニティに親しんできたかといった事が判断や思考の契機となっている。
 例えばウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で最終部で触れられているスペクトル盲に就いて、私はあの図を見るとまず先にアヒルの形として目に飛び込んで来る。しかし私とは逆にウサギの形として目に飛び込んで来る人も居るだろう。それはその形の認識に対して私個人の経験内容とか、出会って来たものの内容とか種類とかその出会いの性質や性格に拠るものと思われる(それは精神科医の人も私があるシンポジウムに参加して質問した時にそう返答されていた)。それは知覚や判断の私自身の否定し難い傾向を記憶内容が司っている証拠である。
 だから価値観念的な事は青年期は両親や育てた人達の価値観念的なバイアスに拠って先入見を刷り込まれている訳だから(それは人に拠ってはかなり老齢に達しても拭い難く残存している場合すらある)、そこからの自己自身での独立という意識がかなり青年期を過ぎてからは重要となってくる。率直に言って人を育てるという事は自らの価値観念のエゴイズムに育てる相手、つまり子供を巻き込んでいくという事以外ではないのだ。
 だからその洗脳に近い形で刷り込まれた観念自体を自己対象化して、第三者的な目でメタ認知し得た時初めて大人の判断というものを持つ事に成功する(その点で幼形のまま中年を迎えている人が意外に多いという事が一つの日本人の精神的問題でもあるのだ)。
 この様な認識はある意味では発達心理学などの分野で専門的に研究されているかも知れない。しかしここからここ迄が哲学で、ここからは何学であるという認識も、実はかなり個々人で異なっている。どういう形で哲学と関わっているかとか、それは哲学でなくても医学でも心理学でもどの様な専門の領域でもいいのだが、それはかなり考究していく際には揺らぎとか大きな振り幅があったっていいのである。
 その極めて社会制度的な職業分担的な規制が強ければ強いほどその学問や専門分野にとっても、その事に関わる個人にとっても、その規制を外部から観察出来る一般の人達にとっても不幸な事ではないだろうか?
 その仕切りの様なものをどういう立場の人達であれ感じ取っているのなら、その事自体も問題とするべきではないだろうか?
 そして今回の結論としては、その様に対人関係的には家族から他人の友人や知人と接する際にも、その都度の他者としての相手へのこちら側の認識に応じて、その接し方の違いに於いて我々は人間関係の形式とか価値に自己自身を賛同させ、相手とその対自的賛同の地点に導く様にしている、という意味ではTwitterの対人関係が自己固有のタイムラインを保有してそれを常に眺めているにも関わらずフォロワー同士でレスし合う場合には、明らかに向こうも又自分と「同じ様なタイムラインを眺めながら」レスしているのだ、という幻想にツイートする行為自体が乗っかっている事がそれを象徴している。しかし向こうはまるで自分とは違う(多少重なった共有し合うフォロワーやフォロウしているユーザー<ツイーター>は居るにせよ)タイムラインの内容でこちらに接しているという事を忘れるべきではない様な意味で、向こうは向こうでこちらが向こうと共有していると思っている価値観念や形式とは違った価値観念と形式で接して居るという事なのである。
 そしてだからこそ、相互に素の自分というもの自体も対自的にも対他的にも幻想なのである。何故なら私は一人で居る時も誰かと一緒に居る時はどういう風に相手から見られているか、周囲から感じ取られているかという事の不安や疑問の中でしか一人で居る自分というものを意識する事は出来ないからである。つまりそういった他者一般、或いはその時々で特定の他者と接するという社会的行為の人生上での散発的ではあるもののかなり人生の大半の時期を持続しているそういった接しの在り方への自己自身からの認識からしか、一人で過ごす時間の意味を特化出来ないからである。