Sunday, June 10, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十一章 意味とは永遠のものなのか?/意味の変化と連鎖に就いて

 意味に就いて問うことほど多くの現代哲学者を悩ませてきたものはない。しかし意味はある部分では極めて時代的な思想とか国民(ある言語を使用する民族)の間での総意の様なものとして意思疎通上では明確なものであり続けてきた。
 だが意味はある民族から別の民族へと受け渡された時微妙に存在理由を変える。例えば日本人はアメリカ人と国家観も平和観も幸福観も微妙に異なっている。あらゆる普遍的意味さえ民族が違えばその在り方は異なっている。
 にも関わらず我々人類が民族の差などなく全ての民族が幸福を人生で求めるとかの普遍的意味というものはあり得る。そういった意味では意味が普遍的であり得る為には翻訳されても「変わらない」部分だけを意味とすべきだ、という考えも提出され得る。
 欧米では幼少の頃からキリスト教倫理的な教育を子供達は受けさせられる。その訓育的な厳しさは今の日本には希薄なものである。だからそういったある部分では宗教戒律的な規約の中で育まれてきた文化の一部として綿々と育まれてきた哲学は竹田青嗣の朝日カルチャーセンター講義での言に拠ると、「神という存在への克服」という形で文化史、生活史的には言い得る。
 しかしそういった文化的様相の差異以上にもし哲学の持つ命題の背景を無視したそれ自体の価値にだけ目をとめれば、当然哲学的論理とか形而上学的論理はそれ自体民族文化の差を越えたグローバリティを獲得し得るとも言える。その点にのみ着目すれば、意味とは翻訳されても変わらないものとなる。
 もしここに一台のパソコンがあったとして、そのパソコンと同じ機能を持つ同じ機種のパソコンはそれぞれそのパソコンメーカーが開発した製品であるから、設計図もあるだろうし、パソコン機器自体のハードからソフトに至る迄プログラミング言語であれパソコン本体の頭脳であれオリジナルは存在し得ようが、パソコンの利便性はそれをコピーして作られた全製品で差異なく(勿論中には不良品もあるだろうが、そういう意味ではなく)その一台の同機種のパソコンもそのパソコン自体の有用性という意味では変わりない筈だ。そしてその機種のパソコンの有用性と機能こそはそのパソコンの意味である、とすれば、当然そこにオリジナルとコピーの差など何の意味もない。
 つまり上の記述から考えれば意味とはオリジナルとコピーの差を無意味なものとすることに於いて成立する筈だ。
 例えばバッハが書いた直筆原稿自体は歴史的資料としての価値はあるだろうが、「ゴールドベルグ協奏曲」の持つ学理的意味はどの様な形で印刷されたものでも同じである。三島由紀夫の「金閣寺」は文庫本であれ初刊本であれ文章自体を鑑賞出来るという意味では同じである。
 カントールが直に書いた数式だけが価値があるのではない。彼の発見した公理自体に意味があり、それはオリジナルとコピーの差を無意味化させている。その点ではピカソの「ゲルニカ」が世界で一枚しかないというアートの価値は、今迄述べてきた楽譜とか小説の文章とか数式とは異なったものである(その点はそれなりに分析し、解釈していく必要がある)。
 しかしピカソの「ゲルニカ」さえ何時かは物体として消滅してしまうだろう。その意味では意味とは永遠なものではない、という哲学的時間論がここで浮上してくる。
 確かにある優れた方程式や公理はオリジナルとコピーの差を無意味化している。しかしその方程式や公理がもっと未来の人類にとっての数学では今ほどの価値を有さなくなっている可能性はある。あることの意味の内容は変わらずに未来へと伝達されたとしても尚、我々はかなり遠い未来ではその伝達されたものの価値は今と全く異なった意味を持っているかも知れない。
 つまり意味の意味は永遠不変ではない、ということである。しかしある時代に本質的な意味となることは、古代、中世、近世、近代、現代と変転してきた様な意味ではない、もっと基本的な(しかしそれ自体自明性の名の下に決定的な意味をその都度は持たない)意味は概念化されたものとしてかなり長期に渡って変わらない。日本語で「大きい」「小さい」「変わる」などがそう容易に変わらない様な意味でである。
 この事実は東北地方の広範囲で東日本大震災が勃発しても尚、東北諸方言がなくなることがないということや、彼らが大震災によって統語構造を変えていくことがないということとよく似ていはしないだろうか?
 概念は基本的なことであり、その上に時代毎に固有の本質的な意味が加わる。概念とは言ってみれば古層なのである。しかし古層はあくまで相対的な不変性しか常に引き継がれない。その相対的不変性に対してそのことが「ある時代」ではどう意味作用するかという部分に意味が感情的で情動的な我々からの感知或いは認知だと読み取ることが可能である。
 だから意味は不変ではない。永遠ではない。それは移ろいゆく。しかしその移ろいゆく部分こそが常に「ある時代」では本質的なのである。今の日本人にとって津波の持つ意味は大きく昨年の3.11以前迄とは変わった。だから或いはかなり時間はかかるだろうが、津波の持つ意味が変わる時には「かつて10メートル以上の津波は脅威であった」という意味となるかも知れない。しかし依然津波は津波であり、そういった意味では移ろいゆく意味を連綿と次代へと繋ぐものとは端的に基本的概念である。
 意味の連鎖を保証するものとは基本的概念だけなのだ。そしてその基本的概念への時代毎の「接し」「対応」こそが「ある時代」のその概念を有する事態の意味である。そして意味は連鎖されていくが、時代毎に意味の様相は大きく変わり、それは不変ではない。
 パソコンの機能と利便性にオリジナルとコピーの差はない。基本的概念は要するにパソコンの基本構造である。今の時代のパソコンの利便性は次代には不便なものとなるだろう。しかし次代で新たに利便性を獲得している(それがパソコンであるかどうかは別として)ものにもやはりオリジナルとコピーの差を無意味化させる作用があるだろう。しかし常に何時の時代の機器も基本構造の上に「ある時代」に固有の利便性と機能という意味を乗せている。
 要するにツールの利便性と機能という意味にはデネットが言うVIMがないということだ。それは機能さえ果たせば何だっていいということ以外ではない。それが利便性と機能の意味の本質である。
 だから言語的なこと、つまり記号としての機能という側面から意味を考えるならあるものに固有のアウラとかクオリアは余分なものでしかない。しかしピカソの「ゲルニカ」は世界で一点である。如何に精巧に作られたレプリカもコピーでしかないだろう。しかし時代が経つにつれオリジナルは劣化し、それを修復家が補修する。それは従って厳密には徐々にオリジナルをなぞったコピーへと移行しつつあるのと同じことなのだ。いずれ「ゲルニカ」もピカソの筆触を「再現した」コピーの最たるものこそがオリジナルだと言われる様になる。その意味ではアート作品のクオリアも所詮、「オリジナルの再現」へと移行せざるを得ない。
 次回は意味の非永遠性から意味の連鎖=基本概念の永続性という今回得た結論から再び概念から意味へ、意味から概念へという往復運動自体に内在することとは何なのか、ということを考えてみたい。

Friday, June 1, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十章 言語の無限連鎖から考える存在論と意味論

 人類も何時かは絶滅するだろう、と誰しもがそう考える。しかしそれを日がな一日と伸ばしていくことだけで何時迄も人類は存続する、とそう我々は思いたい。
 しかしでは逆に何時かは絶滅するのではなく、絶対に絶滅せずにずっと人類が永遠に存在し続けるとしよう。もしそうだった時に、人類の言語、例えば日本語とか英語はどうなっていくだろうか?
 例えばあと三百万年後の日本語や英語はどうなっているだろうか?或いは三京年後の日本語や英語はどうなっているだろうか?後者の時代には当然地球ももうないだろう。すると銀河系の何処かの星に辿りついた人類はどんな言葉を発しているだろうか?
 そんなこと心配しなくてももっと早く人類なんて絶滅するよ、と敢えて今そう考えずに人類が太陽系崩壊後もずっと存続し続けることとしよう。
 その事態を可能化させる為の条件の一つとして個体が死滅しないで、どんどん子孫を繁栄させ尚且つ全ての世代の人類が共存していくということを考えよう。
 一億歳になったある人は生まれた時に話されていた日本語が大分変化してしまった、それこそ平安時代にpaと発音していたことがfaとなり、もっと時代が経つとhaとなっていくくらいの言葉の発音の変化ではなく、もっと激烈な変化を民族全体が来たしているだろうが、言葉は個人の記憶としてだけでなく、かなり集団全体でどう使われているかということで慣用されることであるので、今七十年代に流行った「ボイン」などと言う人が居ない様に、かつて「ボインはボインやでー。ボインは赤ちゃんが吸う為にあるんやでー。父ちゃんが吸う為にあるんやないんやでー」と言っていた月亭可朝でさえ、「巨乳」とか「爆乳」と居酒屋で若い人と語る時には言うだろう。
 要するに言葉はどんどん時代と共に変化していっている。それが百万年も経てばまるで言語行為の仕方さえ異なってきているかも知れない。それは個体が死滅しなくてもそうである。
 唯個体が死滅しなければ一億歳の人と八十歳の人とでは記憶している量が違う。七十数年前から今迄の記憶と九千九百九十九万九千九百九十年前から今迄の記憶とでは余りにも個体差が大き過ぎるから、ある部分では個体の死滅しない社会とは激烈なヒエラルキーが存在し続けよう。もう一億歳以上の人達は死んで貰おうということにさえなりかねない。要するに言語の無限連鎖では「りんご」が「るんご」や「れんご」になるくらいでは済まされない「ごんり」「ごんる」「ごんれ」も、「ごりん」「ごるん」「ごれん」にも変わり得る様なそれこそ無限に(とは言っても口は人類にとって一つであり続ければ発音される基本形は今とそう変わりないだろうから)三文字の語彙であれば「平仮名全文字」×「平仮名全文字-1」×「平仮名全文字-2」分だけの語彙は、例えば「りんご」に対応する意味のものとしてはやがて全て使い切られよう。
 すると仮にタイムマシーンが出来て何時の時代にも行ける様になったとしてもきちんとした古語辞典がなければ直ちにある時代の「りんご」に対応する語彙を識別出来ないかも知れない。
 「ごんり」や「ごりん」くらいなら想像が尽くが、「りんご」のある時代の変化形「りんげ」が「げんり」になったり、やはりある時代の別の「りんご」の変化形「りんぐ」が「ぐんり」になったら、林檎の意味をあくまで「りんご」と発音する時代の人であるなら直ちにそれを意味的に理解することは困難かも知れない。
 しかしもっと重要なことは人生が終わらず永遠に生き続けるのなら、我々は一体苦悩というものを持つだろうか?ということである。
 「りんご」に対応する果実も一億年も経てば変化もしよう。しかしその今から一億年後の時代に未だ個体が死滅しないのであるから今生きている全人類は何処かで生き続けて居る。永遠に死滅せず只管増殖し続ける人類は宇宙全体に散らばっていくだろう。
 もう一つの可能性は個体は死滅しても集団レヴェル、つまり種レヴェルでは人類は永遠に存続するとしたなら、一億年前の「りんご」が意味するところも、その意味に対応する物体も完全に変化しきってしまっている可能性もある(勿論薔薇が恐竜の時代から今とそう変わらず存続してきたことから言えば変化しない可能性も同じくらいあるだろう)。しかしその時代には「りんご」と発音している人は居なくなっているし、一億年前「これを」「りんご」と発音していたと記憶している人達も居ない。従って個体が死滅していく世界でも種レヴェルで絶滅しないのであれば、このケースでもタイムマシーンが発明されても一体一億年前の人類が何を話しているかを理解出来ないということは充分あり得る。そして個体が死滅しない世界よりはこちらの方が蓋然性は高い。そして個体が死滅するのであれば、人類はそれがたとえ三百歳でも三千歳でも苦悩というものはあり得よう。
 しかし最初に示した条件では苦悩とは存在し得ようか?死ねないということで、自己とか他者とかのアイデンティティを保持していくことが果たした可能だろうか?記憶するということに何か意味があるだろうか(これこそ大問題である)?
 自己や他者のアイデンティティが保持出来ないのであれば言葉など存在し得ないだろう。それはまさに死滅しないウィルスの様なものである。
 では一体アイデンティティを保持させるものとは何なのだろうか?
 確かに宗教家は人間は何時かは死ぬからこそ幸福感情とか様々な感情を持ち価値観を持てるのだ、と考えている。では死ねないのであれば本当にそういったものなど持てないのだろうか?
 一億歳でもそれが寿命であるなら、それは個体の死滅である。だからそれは永遠に生きることではない。この違いは極めて大きい。
 要するに条件設定としては死滅するかしないかの二値論理である。
 これはとどのつまり永遠という概念の実在性を巡る設問である。
 我々は通常永遠とはあり得ない、少なくとも我々個々の生命がそうではないと知っているからこそ、それは永遠ではないという形で永遠を知っている。
 しかし同じことは太陽系や地球には寿命があるという形ではない形でなら難しくなる。銀河系も含め宇宙全体も何時かは終わるという形で理解していても、それを確かめることは我々には出来ない。
 宇宙全体が死滅しても、それは「その」宇宙が我々一個人と同じことであるなら、「他の」宇宙も存在し得よう。そして分析哲学の中の独在論者達が現象性という形で理解していることと同じで、「他の」宇宙のことなんて「私達の宇宙」に住んでいる我々には分からない。その分からないこと迄分かろうとする視点から考えたのがある意味ではデヴィッド・ルイスかも知れない。マクタガートのA系列時間を模して言えばA系列的世界認識である。ルイスは「こうであったかも知れない」可能性全てさえ実在「として」考えた。
 私という視点からすれば決してそれを全て把握することが出来ないことを把握可能なものとして捉えるのは、要するにフレーゲの「存在し得る数は全て存在する」ということと構造的には同じである。
 私は確かに主観から自由になれないから、「他の」宇宙を想定し得ても体験し得ないので、私以外の他者は全てゾンビである可能性を排除しないという意味で分析哲学の独我論、独在論にも説得力がある。
 その考えではフレーゲやルイスにとっての数とか世界とは現象的であることの意味を無化する数とか世界であろう。だがそのゾンビでなどあり得ないという形で我々が日々日常的に他者存在を認めている地点からすれば「他の」宇宙や、かつて在ったかも知れないが、それは「かつて」在ったという形で連続している必然性が見出されぬのなら、それを問題としても意味はない、という形での理解こそがウィトゲンシュタインの「論考」の主旨であった。
 だからある「りんご」を私が知る「りんご」の実在の意味=音であるとして全他者が慣用する「りんご」だと思っていたこと自体が幻想である可能性も常に想定上ではゼロではないという形で考えられる「りんご」は、ある部分ではある個人にとっての幼児体験から現在迄の林檎という果実の持つ固有の意味は各個人で全て異なるという意味からも了解可能である。
 そういった中での無限連鎖としての「りんご」は確かに一億歳で死滅する個人であったなら「りんご」から「れんげ」となって死ぬ間際には「げれん」になっていたとしても、粗方ある個人に於いて「ボイン」と「爆乳」が同じものを指すと知っている様に記憶されているだろうが、もしあらゆる生命個体が死滅しないのであれば、努力して何かを達成するという意志が存在し得るだろうか、という問題を再び派生させる。
 死滅しない最初の条件での個体にとって「りんご」が「げれん」になっていく全てのプロセスは最早意味を持ち得るだろうか?
 確かに林檎には林檎のDNAを持っているということを古代の人達は知らなかった。だから林檎を食べられると知った人類の曙の人達が死滅していないのであれば(今尚)そしてこれからもずっと永遠に生きていくのであれば、では林檎の意味自体は意味足り得るだろうか?
 そうなると意味とは永遠のものであり得るかという設問を用意することとなる。意味は意味される対象への把握が作っているが、その対象も通常は永遠ではないし、常に固定化されているのでもないからである。
 次章では意味の永遠性が可能であるかということを考えたい。その際に前章で考えたオリジナルとコピーの差ということを大きく取り上げて考えたい。