Tuesday, April 26, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 第二章 理解と距離

 元々私達は相手の顔色・表情・仕草である程度なら相手の意志を読み取れるし、大体のこと、つまり機嫌がいいか悪いかくらいは察知し合える、と知っている。
 しかしそのことは直ちに全てを了解し合えていることを決して意味しない。それどころか相互にそれ以上詮索し合わぬという相互不可侵了解によって必要以上の相手への問いを封殺している。勿論突然相手が血相を変えて傍らにいるこちらのことを顧みず、地団駄を踏んだり、憤りのあまり倒れ込んだりすれば、「どうしたのか」という問いを間髪を入れず発するだろう。しかしそうでない限り、こちらに何らかの問わねばならぬ理由がない限り、私達は問い質す理由を、多少異変があったと察知した場合すら知ろうとしないだろう。
 勿論親密さ、相手との対人関係の利害の深さにも依存し、その「問い質し」の決行の有無はそれに左右されよう。しかしいずれにせよ他者の事情を、自分の事情の様に隅から隅まで知ること自体は既に我々の胸中では試みることすら断念することこそ、他者への配慮と判断している。
 つまり配慮とは知りたいという欲求の封殺、つまり了解範囲の限定化、或いは全的了解の断念によって成立しているのである。それは逆に言えば、「了解し合う」こと、つまり相互了解をし合う(つまり相槌を打ち合う)こと自体が全的には「知り得ない」「分かり得ない」ことを相互に容認し合うことに他ならず、他者理解が相互に「知り得なさ」「分かり得なさ」の強制的納得によってのみ最終的には成立することを私達が誰との間でしようとも、相互に了解し合っていることを意味する。
 従って親しき仲での相互理解が勝手知った間柄での「知ったことにする」「分かったことにする」という言わば半ば欺瞞的な納得の上に成立していることを意味し、本当は何ら理解し合っていなかったのだ、ということへの相互覚醒をいつ何時招来しないとも限らないある脆弱さを理解が兼ね備えていることを意味する。
 従ってある部分、同僚間、友人間、いや夫婦間の信頼さえ相互理解を持続すること自体が極めて欺瞞的であり、社会的には形式的な契約関係の上の成立していることが了解される。つまりそれはある意味ではいつでも解除し得る関係であるとも言える。
 勿論通りすがりの旅先で道を尋ねる地元の他者等も含めて実は、全ての他者との間にも、当然のことながら強制的欺瞞的納得が親密な間柄の様に長期持続的ではないなりに、単発的、瞬発的にそれが発揮されているのである。
 つまりその相互不可侵的欺瞞的納得自体への不服の断念こそが、言語行為上の相互理解の不文律なのである。
 又実は倫理とはそこから発生しているとも言えるのだ。
 倫理的判断、つまり私達が自然に他者へ必要以上問い質しを断念させるもの(それは警察や検察が被疑者に対して保持され得るべきもの)こそ、他者への配慮だとすれば、それはとりもなおさず全てを了解されることから派生する他者への羞恥を「私」が、私が相手から「私」に纏わる全てを追及されることで付帯する羞恥を、私が内的に想定し得る限り、相手も又同様の心理へと追い込まれるであろう、という類推によってである。
 その類推も実は厳密に言えば、「私」と内的なものの感じ方は違うかも知れない、という全的な了解の断念によって成立している。そこにも実は個的な内部での欺瞞的納得を私達は自分でも気が付かぬ内に適用している(相互了解の相互不可侵的「分かり得なさ」「知り得なさ」の半ば強制的欺瞞的納得こそが、その内的納得を齎しているのか、それとも逆に内的納得こそが他者との相互了解上の欺瞞的納得を齎しているかとの問いは無意味であり、同じ一つの納得の中の二つの顕現である)。
 倫理的他者への眼差しも思念も共に、私達のその内的相互了解的欺瞞的納得の「飲み込み」自体への懐疑心のなさによって成立している。これは永井均による「倫理とは何か」「翔太と猫のインサイトの夏休み」等での重要な視点である(恐らくそれ以外でも多くの哲学者達がそれを問うている筈である)。