Sunday, July 10, 2011

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第五章 理解と距離2

 既に起こってしまったことは必然の様に思えるが、最初はそうなっていく何らかの偶然(的契機)があったことが了解される。ある意味では人間の変化は人間が考える主体であるが故に「彼は変わった」と思っていても、そこに「そもそも彼はああいう風に変わる要素があった」と判断する。しかし今回の東日本大震災は少し違う。尤も科学が進歩すれば、その時は「やはり今となってはあの地震は予知し得たことだった」となるかも知れない。
 ガブリエル・タルドによる「模倣の法則」に於ける<歴史上の幾つかの原初的発明とその模倣>(85~89)にもよく書かれているし、或いはダニエル・デネットによる「ダーウィンの危険な思想」中の第四章3回顧的戴冠:ミトコンドリア・イヴと姿の見えない起源(P.134~140)にもよく書かれているのだが、要はリチャード・ドーキンス語ミーム(「利己的遺伝子」)に近い行為模倣的伝播と遺伝的伝播は内的メカニズムに於いてはいずれも、まさに「既に起こってしまったことは必然の様に思えるが、最初はそうなっていく何らかの偶然(的契機)があったが、そうなってしまった現在から、そうなる以前の状態があることを何らかの形で知り得た段階で、どこかで何らかの偶然(的契機)がある、と認識、理解することが出来るということに於いて相同だ、ということだ。
 勿論それがどの地点であったかということを究明することが、まさに人類がどの地点で言語行為を恒常的に慣用させていったかということを特定するのが極めて困難であることと同じ様に困難だし、デネットの言う「誰をミトコンドリア・イヴとするか」はどの様な形質とか表現型の元祖とするか、という性質の差への着目に依拠する。
 タルドの言う食肉用であった馬を乗用にした地点の特定に於ける困難さとは確かに性質は異なる。タルドの言う横の遺伝(収斂進化もその一つである。その点はRichard Dawkins Mount Improbableに詳しい)も縦の遺伝(それは同じくドーキンスの「祖先の物語」に詳しい)のアナロジーはしかし、デネットの言うある一点に於いて私達に確実な真理を伝えてくれる。 
 それは全く同一な他者は存在せず、他であること、他者とは即ち一つの個、或いは自己にとって「異」性そのものでしかない、ということである。
 アナロジーは同を基本として普遍性を、「異」性は分化・細分化を志向することは言うまでもない。だが少なくとも理解とは「異」性の持つ距離を前提とした、その無化と言ってよいだろう。
 或いは少なくともその努力の結果の「まるで距離がないことに様にしか感じられない」という心的状態であることだけは間違いない。