Tuesday, May 25, 2010

<感情と意味>第三章 第五節 神と不浄

 世界は最初、神や存在と分かち難いものとして実感されていたと私は述べた。しかし世界が「世界」となり、「私たち」にとってのものとなった時、明らかにそれは「私たちによってよく知られる世界」であった筈である。だからこそ逆に「私たちによってよく知られない世界」の存在も同時に誕生していた筈だ。しかしそれすらもお見通しの存在があってもおかしくはない、その時神は想念上では出現していたのだ。
 キリスト教の神の概念以前的にもそういう意味でなら、私たち日本人にも「カミ」はいた。それは不浄と言う観念と密接に生み出されてきたのだろうと私は思う。つまり努力しても報われないこと、全てを飲み込むくらいに無情な自然の脅威、不条理的、理不尽な現実が公平や平等と言う観念も生んだだろうが、それらの観念が定着した時とは、不浄という相も変らぬ現実への認識が定着した時でもあった筈だ。
 観念としての理想は不浄な現実、あるいは現実が不浄であるという認識が生んだ、と言うより同一の基盤を持っていると考えられる。不浄と理想は同時的発生のものであろう。
 すると理想を具現化するところの神は恐らくどの民族においても想念されただろう。神とは日本人にとって自然の守り神という側面も大きかっただろうが、少なくとも日本人にとってもユダヤ・キリスト教徒たちやイスラム教徒たちと同様どこかで永遠と言う想念と結びついている。勿論私たちは欧米人ほど永遠と言う想念に囚われていない。それでも観念上では永遠を理解出来る。だから必然的に神とは偶像なのである。理想もまた偶像なのだ。それは私たち全てに対しての他者であり、大いなる責任転嫁をし得る対象なのだ。
 つまり神という偶像は人間にとって絶対的他者の別名であり、絶対的孤独の別名なのだ。つまりだからこそ私たちはデカルトが「私」を持って神に拮抗したことの意味を噛み締めることが出来るのだ。それは神が絶対的孤独であることを知っているから、では私たち自身は確固とした孤独であり得るのかという問い、つまり自分が自分を作るという意味で自己の神足り得るのかという試練としてコギトは私たちの前に立ち塞がっているのである。
 しかしそのように自己の神足り得るコギトの前には、コギトという窓から見た「世界の見え」に対して不浄であると認識する主体としての「私」がいるということ、つまり自己の神足り得るか否かということは、そもそも「世界の見え」自体を構成しているのが「私」であり私の身体であることを知らなくてはならないが、私の身体は確かに私が作ったのではない。やはり私の両親であるが、私の両親も私を作る能力自体を作ったわけではない。するとそこにもやはり人類にとって神が立ち塞がった根拠が見えてくる。私は格別有神論者ではない。従ってその能力は自然に付与されたと感じる。しかしその能力を付与したものがたとえ神ではなく自然であったとしても、自然自体はやはり神的存在によって作られたと思えてしまう。勿論そうではないだろう。それは私たちの思惟の一つの傾向でしかない。自然は自然によって作られたのでも、自然自体で生まれたのでもなく、そもそも既にあったものなのだ。いつ生まれたのか、宇宙が生まれたということはあるかも知れないが、その宇宙が生まれるために生まれられるものとしての「世界」はあったのだ。そこでカントの「純・理」中、第四二律背反が想起される。それは世界の素地だったのかも知れない。宇宙が誕生する以前にも別の宇宙は存在し得たのかも知れないが、私たちにとっての宇宙と、それ以前の宇宙に何ら空間的な関係がないのであれば、それは時間的にも私たちの宇宙と相関性は皆無であろう。そして無関係であるのなら、宇宙Aが存在した事実と、仮に私たちの宇宙が存在Bであるとして、それらの間を関係づける何ものもないであろう。そもそも私たちは私たちや私たちの宇宙全体を存在であるとしたものと、そうではない存在とを比較したり、相関性を確認したりすることなど出来はしないのだから。
 断っておくが、その比較や相関とは、今眼前にあるパソコンと電話という存在しているもの同士の比較や相関とは訳が違う。何故なら私の眼前にあるパソコンと電話はあくまで私たちの知る空間内での出来事でしかないからである。
 つまりそのように存在を別の存在と比較したり相関性を論じたりすることが出来ないということが即ち世界が不浄であることの証拠である。何故なら私は既に首と顔の付け根が痛いとかそういう不具合という現実を離れた私であることが出来ないのだから。だからこそ思惟において思念において神を我々は想念上希求するのだ。それは認識上ではない。想念上なのだ。つまり想念上では私たちは神の如く自分を、自分の肉体から離れるということを想像出来る。勿論幽体離脱的な経験を持つ者ならいる。しかしそれはあくまで例外的なこととしての経験なのである。常に恣意的にそれが可能であるようなものとして神を想定し得ても、我々は実はそういう能力保持者にはなれないのである。そのなれなさが、そのようになれることを我々に神と呼ばせる。神のみが存在=宇宙Aと存在=宇宙Bという想念を確実性の下にあるかないかを見ることが出来るのだ、と私たちはするのである。
 しかし仮に私たちが住むこの宇宙を存在Bとする(それは私たち以前にも私たちの存在とは何ら無関係な別の存在として宇宙があったかも知れないという想定の下にそうしているのだが)と、それが誕生したのが仮に百億年前であるとして、ビッグバン以前には何も存在していなかったことになり、そしてそれ以前に別の宇宙が存在Aとして存在していて、その存在ごとある日消滅したとしたら、その間、つまり存在Aと存在Bを存在せしめる間が仮に一秒であっても、一兆年であったとしても無時間であるのと同じことになるだろう。何故なら何も存在しない状態では時間そのものが存在し得ないからである。すると何も存在し得ないということを挟み、存在Aと存在B(私たちが住む宇宙)との相関を確認し得る存在者という仮定(思念、想念)は矛盾を来たす。従って神は存在し得ないということに論理的にはそうなる。だから神は不浄であるなら存在し得る、という認識を持ってしまう。しかしそれは神が存在して欲しいと思う我々の思念能力がでっち上げてしまう一つの思惟傾向であるということにもなる。あるいはこう言ってもよい。神が存在し得たとしても、それでもそれは無限の能力を保持しているわけではない、と。そして神のなし得る能力は有限である、と。
 <付記 神がもし不浄であるなら存在Bにとってのみ神は存在し得る。しかし全知全能の神が存在するならそれは必然的に存在Aと存在Bを超越的視点から俯瞰し得ねばならなぬ。が存在Aと存在Bは事実上何の実在的関係を持たぬとすれば、それを超越する視点を持てる存在はあり得ない。それは「神が存在する」という定義を矛盾させる。しかもそもそも神が不浄であるという仮定そのものも神は絶対に不浄であってはならぬという我々の語義とも矛盾する。従って神は実在せず、我々の情報概念でしかないと言い得るのだ。>
 すると神は偶像であるし、私たちの知らない存在Aも偶像であるが、偶像とはそれが存在し得るということが確証し得ないものも多く含むことになる。すると「私のよく知る世界」から恐らくそれは正しいものであると私も確信するところの「私たちのよく知る世界」=「私たちにとって親しい世界」という真理、つまり存在B(勿論その中でも知り得ないことの方がずっと多いのであるが、仮想上では存在し得る全ての存在物とそれが存在する限り私は邂逅する可能性はある)ではない存在と、私が存在Bの中で私が終ぞ知り得ることなく終わる存在とは、私にとって価値的には等価であることになる。私という存在は私以外の今現在生きて生活している大半の地球市民にとって存在しないのと同じなのであるから、その意味では私にとっては存在Aにかかわる全ても、私たちの宇宙であるところの存在Bの中で生活する大半の地球市民も、宇宙の未だ人類にとって知り得ない領域や性質も全て仮想上での存在、つまり偶像である存在Aと価値論的には等価であることになる。そしてこれが重要であるが、私にとっても恐らく私たちにとっても存在し得るか否か定かではない存在Aも、存在Bの中の未確認の存在も、それが不浄であるかどうかは確定し得ない。たまたま我々が知る存在Bの中に存在し得るものであるなら、我々が不浄でないのなら、それと同じように不浄でないであろうと例えば化学的にとか物理学的にそう思われるだけのことである。

付記
 知人で友人の谷口一平氏に対して私が第二章の結論とほぼ同一内容のメールを送信したのだが、それへの返信が届き、更に私はそれに返信した全部をここに記載する。
    
河口ミカルさま
 メールありがとうございます。

 ゾンビのお話ですが、おっしゃるとおり、ビンゾなどという得体のしれない存在よりは、ゾンビの方がよほど人間的であるということはいえるでしょうね。ゾンビは意味機能の 遂行能力があり、感情的・情緒的な反応をおこなえるわけですからね。ぼくとしては、 人間的かどうかというところには関係なく(ですからむろん、昆虫や非高等生命への優越感情にもかかわりなく)ビンゾの存在をみとめ、まさにゾンビがビンゾを偶有する という地点から考察をすすめてゆきたいとは思っていますが、河口さんの立場がそれなりに理解できないわけではありません。もちろん、ビンゾが「あるかのように思えてしまう」理由はどこまでも考究してゆくことができるでしょう。現象判断のパラドクスは、根本的に解くことのできない対立であるような気がします。
 
「意味」を、私‐あなた関係のなかにおいて捉えようとする見方は、面白いですが、「意味」より先に「あなた」を措定してしまうことは、ぼくにとっては飛躍に思われます。ぼくの立場としては、もちろん「意味」が先にあって、それが「あなた」を作り出すという考えです。この対立もしかし、やはり解くことのできない対立であるのかもしれません。河口さんは、「関係」ということを、どのぐらい重要視されるのでしょうか。関係(差異)と個物(実質)という対立において、どちらを先行させるのかということですね。廣松渉の共同主観性論は関係があってはじめて個物が成り立つという考え方ですし、逆に永井などは実質論者であると思います。以前ブログで論じたこともあるのですが、たとえば寺山修司の肉体言語観などは、関係一元論的であるようです。
  
責任転嫁という論点は、なかなか難しい。まあでも、人間関係などというものは、多かれ少なかれ責任転嫁的であるということは、ぼくもそう思いますけれどね。しかし、意味の本質に「責任転嫁性」を置いてしまった場合、それは批難することはできるのでしょうか。意味を所有するということが偶像崇拝するということであるのなら、むしろどんどん偶像を作って、役に立たなくなった偶像はどんどん捨て去ってゆく、という流れが、むしろ後押しされるのではないですかね。あるいは、もし「責任転嫁」ということが批難できるのであるならば、それは関係の網目のむこう側に、他者という触れられない「実質」を、じつは置いていることにはなりませんか。たとえば人が死んだとき、死者に対してわれわれはいかにしても関係をとりむすぶことができなくなります。まさにこのような無関係性こそ、永井的な〈他者〉であると思いますし、真に「責任転嫁」を逃れた存在であると思います。

 短いですがとりあえず。

    谷口一平 拝

谷口一平さま
 
 今回のあなたの返信はなかなかいいですね。

 >「意味」を、私‐あなた関係のなかにおいて捉えようとする見方は、面白いですが、「意味」より 先に「あなた」を措定してしまうことは、ぼくにとっては飛躍に思われます。ぼくの立場としては、もちろん「意味」が先にあって、それが「あなた」を作り出すという考えです。この対立もしかし、やはり解くことのできない対立であるのかもしれません。河口さんは、「関係」ということを、 どのぐらい重要視されるのでしょうか。関係(差異)と個物(実質)という対立において、どちらを 先行させるのかということですね。廣松渉の共同主観性論は関係があってはじめて個物が成り立つという考え方ですし、逆に永井などは実質論者であると思います。以前ブログで論じたこともあるのですが、たとえば寺山修司の肉体言語観などは、関係一元論的であるようです。 

このご質問に対する返答はこうですね。私は意味が先でもあなた(つまり私にとっての最初の他者ですが)が先でもないということですね。意味が把握された時あなたも把握され、あなたが把握された時意味も把握されるからです。廣松も永井も、そのことの一方からの解釈と捉えればよいでしょう。
 寺山の関係一元論はよく知りませんが、それは間主観性とも実質論でもないのでしょう。でも案外私の言っていることに近いかも知れません。つまり関係が意味を派生させるというのが私の考えです。関係を理解することは二つのものやことの差異を理解することですから、その時意味は納得する形で得られますね。

 >責任転嫁という論点は、なかなか難しい。まあでも、人間関係などというものは、多かれ 少なかれ責任転嫁的であるということは、ぼくもそう思いますけれどね。しかし、意味の本質に 「責任転嫁性」を置いてしまった場合、それは批難することはできるのでしょうか。意味を所有 するということが偶像崇拝するということであるのなら、むしろどんどん偶像を作って、役に立たなく なった偶像はどんどん捨て去ってゆく、という流れが、むしろ後押しされるのではないですかね。 あるいは、もし「責任転嫁」ということが批難できるのであるならば、それは関係の網目のむこう側に、 他者という触れられない「実質」を、じつは置いていることにはなりませんか。たとえば人が死んだとき、 死者に対してわれわれはいかにしても関係をとりむすぶことができなくなります。まさにこのような 無関係性こそ、永井的な〈他者〉であると思いますし、真に「責任転嫁」を逃れた存在であると思います。 

このことに関してお答え致しますと、本当はかなり長い論文例の「感情と意味」のあなたに渡した分の後続編ですが、大体23ページ(パソコンワードで四十八行×四十字)位のものを今のところ執筆致しまたのでご関心があれば添付送信致しますけれど、簡単に説明致しますとこうなります。 私には(だから恐らく私たちも)「よく知る世界=親しみのある世界」と「よく知らない世界=親しみにない世界」があり、それは勿論個人毎に内容も領域や所在も異なります。しかし少なくともその二つの総和こそが「世界」であるという認識は大半の存在者が持っている筈です。ですから世界とはその切れ端はファジーです。私が言う責任転嫁とは人間関係にも勿論適用出来ますが、「私がよく知る世界」外のこと(例えば私にとって法曹界も、芸能界もよく知りません)には私は責任を負いかねます。つまり例えば私はあなたにそれらのことを告げることが出来ません。そしてそれはあなたにとっても恐らくそうでしょう。私は私が住む町をあなたに案内出来ますが、あなたほど京都を他人に案内することが出来ません。従って自分の能力外のことは他者一般(誰かと特定など出来ない。特定出来たのなら、その知らない領域に私が責任を持ってしまうことになるから)へと責任転嫁します。 
 ですからあなたのお尋ねの他者も厳密に言えば私にとっては偶像とも言えますね。そしてまさに役に立たなくなった偶像はどんどん捨て去っていくという流れが後押しすることを私たちは日々していますよね。これってその通りだと思います。触れられない実質というよりも、私は谷口君のことを責任持てませんよね、そういう風に理解されるとよいのではないでしょうか?「人が死んだとき、 死者に対してわれわれはいかにしても関係をとりむすぶことができなくなります。まさにこのような 無関係性こそ、永井的な〈他者〉であると思いますし、真に「責任転嫁」を逃れた存在であると思います。」とはまさにその通りです。死者とは責任転嫁を逃れた存在ですが、私が責任転嫁し得る存在であるのではないでしょうかね?
 つまり絶対的他者であるところの死者の生前のことなんて私には責任をもてませんからね。それは過去でもそうですね。過去自体は誰も責任を取れませんからね。誰も過去に戻れないのだから。
 その時私は再び私が知る世界と、私がよく知らない(「よく」と付け加えているのは、あるということくらいは知っているから。例えば京都の伏見というところがあるということくらい私は知っている)世界(死もそうですし、死者もそうです)、つまり責任を負いかねる世界との間に意味があることを知ります。何故って意味とは知るということと知らないということ(親しいということと親しくないということでもよいし、馴染みがあるとないでもいいし、慣れていると慣れていないでもいい)の二つを同時に知っていなければ理解出来ないからです。どちらか一方であるということはあり得ません。知っていることだけでもし充足しているとしたのなら、その場合私(たち)は希望も、欲望も、期待も、関心も、予想も、好奇心も、思考さえもが一切ないということになりますから。それでは知っていることを知っているとも捉えられません。 
 意味を所有することが偶像崇拝することなのではなく、例えば自分で存在するかどうか確かめようがないけれど、あるかも知れないと思える例えば宇宙の物質とか、私と顔がそっくりでペニスの形まで殆ど変わりないフィンランド人がいるかも知れないと思うこと、それも偶像です。偶像とは「あるかも知れないと思えるような存在」つまり偶有的なことです。つまり存在が確証し得ないものは全て偶像です。神然り、我々の存在する宇宙をそれ以前にひょっとしたらあったかも知れない宇宙Aに対して宇宙Bとすると、宇宙Aは偶像です。あるいは宇宙Bに存在するかも知れない未知の物質も偶像です。
 つまり偶像は我々には、あるいは私にとって責任を負えないからです。しかし責任の負える微々たる世界と、責任の負えない広大な世界があることを私も恐らく私たちも知っているのです。その責任の負えることと、負えなさという二つの関係を把握することから意味が派生すると考えます。
 それから「ゾンビがビンゾを偶有するという地点から考察をすすめてゆきたい」とはまさに私も同じですね。しかし恐らくビンゾはゾンビであってもそうでなくてもいいですが、恐らくそういう風に<私たちは「何か」?>という問い自体が生んでいる何らかの幻想であることだけは確かではないでしょうか?
 何故ってこれも論文に詳しく書きましたがクオリアや意識だけが浮上することなど不可能ですからね、クオリアや意識とは要するに私が今日これからどういうことをしようと計画を立てたり、それを実行したりする中で目的や意図、願望といったさまざまな感情や思考と切り離してなど存在し得ないからです。その他にも記憶、想起もあるでしょうし、健康状態とか生理的作用もあるでしょうしね。でも案外その「ゾンビがビンゾを偶有するという地点から考察をすすめてゆきたい」ことが文学自体の存在理由となり、作品化され得るとは言えないですかね?つまりそこから先がいよいよ文学の出番ということですよ。
 まあそんなところでしょうか?今執筆中のものを少し時間を置いてその内送信致します。  

河口ミカル

Sunday, May 16, 2010

<感情と意味>第三章 第四節 意味・観念としての理想・理性と原罪・受肉そして「世界」 

 大雑把に言えば、ユダヤ・キリスト教文化圏の宗教的慣例や儀礼性の全ては、肉に始まって肉に終わると言ってよい。カインによって殺害されるアベルは羊の肉を神に捧げたし、それに対して穀物を捧げたカインは弟を殺害することによって理性を得たのだ。理性はそれが隣接しているが故にその存在理由を知っている悪を必要とするのであり、アベルには理性は要らない。
 時代が下ってキリストが登場し、受肉という観念がキリスト教布教後に定着する。カントが他律といったことの背景には受肉を通して原罪(主に肉欲)を克服するということの必要性から遡及された考えがある。他律に感けるということは快楽に耽るということだからだ。キリストは神性と人性との一致としてその存在が問われることになった。そう認識することで人という親しみある存在が初めて理想であるところの神と合体したのだ。だからこそそこに意味の世界が親しさと親しくなさ(理想や神はその象徴である)の合体として理解されたのだ。欧米の哲学はそういった宗教的観念を生むユダヤ・キリスト教的宗教対話全体への対話と理解しなくてはその本質が見えてこないところがある。
 日本人は余暇の過ごし方が欧米人に比べて下手だと言われるが、それは中島義道氏的(「たまたま地上に僕は生まれた」、「英語コンプレックス 脱出」)に言えば欧米人からの暴力であるということになる。しかしそもそも日本人にとっての快と欧米人にとっての快がその性質を異にするというところがあるのだからある程度仕方ない。祭りに関しての常識も日本人と欧米人とでは確かに異なっている。
 謝肉祭(カーニヴァル)は肉を抛るということから道化・滑稽・歓楽が許されるとされるが、それは形を変えた意味の世界の獲得でもある。
 意味は親しいものとそうではないものの差別に起因するとした。欧米では親しいものとは家族であり、肉を運んでくれる父親であり、父親が公の原点である。母親は公において第一に親しい者である父以前的な意味で最大級の親しい者、血肉である。父が家の柱を支えている。その柱に支えられた家を母が子を儲け守るのだ。アメリカやカナダでは感謝祭をする。私たち日本人も祭をするが、肉よりは穀物への感謝である。
 しかし私たち日本人にとっても恐らく意味は親しいものへと最初は向けられて、その後親しくはないものにも拡張される。観念は一方で肉の報酬があり、原罪があり、それを克服する過程で得た労働を価値として認定することを通した共同体の作為にその根源がある。意味は個人のものであっても、意味を統一することが共同体の仕事だからだ。意味は個々に異なっていてもそれが統一されることで観念が派生するというわけだ。私は第三章において意味は「一つの共同体とか国家とか、要するに集団や意味観念が集合された場合、そう変化しない」と言ったが、それは意味世界を個が意識していることを集団管理体制の名において理解している為政者によって統括されている概念規定性において意味が「誰にとっても同一の意味を持ち得る」という幻想を与えられていることを示してもいる。
 誰にとっても同じであると「思わされている」だけであり、本質的には違うのだ。しかしその本質は隠蔽されなくてはならない。隠蔽されること自体が一つの理性の束となって作用しているのだ。理性も本来は個的なことであり、個人の肉体の欲望と衝動に起因する筈であるが、それもまた一般化される。つまり一方では個人毎に異なる本質があるということがあり、他方その本質は隠蔽される必要があるという隠蔽自体を招聘する本質がある。
 つまり本質と本質否定の本質との奇妙な共存が私たちの社会を現実に機能させている。そのことを明確に示し得た哲学者はヘーゲルだった。しかしその隠蔽を悪として捉えたのはニーチェが最初だったのかも知れない。しかしニーチェ以前にもホッブスもルソーもその前哨戦的な役割は果たしていた。
 デカルトの私は永井均によると確かに神への抵抗だったのだろう。それを近代的自我と表現することをよしとしても非としても、エゴやスーパーエゴといったフロイト的観念もまたデカルト的コギトを出発点としていることだけは確かである。
 しかし言語行為はそれ自体が既に責任倫理を携えており、対他的責任の産物である。対他的に責任を明示的にすることを通して意味世界が開示される。意味とは責任が取り得るという親しい世界と、それと隣接して神秘化されやすい親しくない世界、それがあるとだけは理解出来るが、それ自体はよく知られていない世界、つまり責任を取り得ない世界との間に生じる。自分だけしか知らないことというのがあるが、自分だけ知らないことというのもあるからこそそれを伝え合うという行為が成立し得る。つまり自分だけが知っている世界を他者に提供することで、その報酬を得る、つまり自分だけが知らなかった世界を自分が知る世界へと取り込む(教わる=告げ知らされる)という形で言語行為が成立しているという事実自体が、意味を責任が取り得ること(自分だけが知っている世界)のトレードオフとして責任を取り得ないこと(自分だけが知らない世界)をも獲得するという意味を言語行為において責任論的に成立させている。
 だからこれ以上は報酬を得ることを望むまいという決意(そのことによって限定的ではあるが確実な報酬が得られるし、そのことを我々は皆選択している)が他者全般という偶像を自分だけの力は所詮限られているという諦念と共に派生させているのだ。私たち個にとって偶像は共同体成員としては権力者であり責任統括者全般であるが、私とあなたという二人にとっては二人以外の全ての他者であり、要するに他者全般である。
 前章で触れたことの繰り返しになるが、ある意味では私たちが持つ理想という観念が人間は動物とは違うという観念を生んだとも言える。つまり哲学的ゾンビとは、私たちが実は直観的に昆虫とさして変わりがないのではないかと思う気持ちを出来る限り有効に抑制するために儲けられた概念なのかも知れないのである。自然科学では人間もまた生存機械であり他の生物と同様ただ必死に生きているだけであると捉える。しかしそうではないとどこかで思いたい気持ちもずっと消えずに残り、だからこそゾンビという概念を提出することによって、哲学ではゾンビならぬビンゾ(永井均氏の提出した概念)を考える余地を作ったのだ。この二つを対にすることによって哲学の存在理由を探ったのだ。しかし私も実はただの昆虫(彼らには感情はないと生命学者たちは考えている)と同じゾンビ体でしかないのであって、偶然的に私たちだけある固有の言語という手段を持ってしまっただけのことである。
 第二章の結語で私が「要するに人間も昆虫と同じでゾンビとしての自分を対他的責任の名において、たまたま昆虫たちのようではない別のタイプの言語をも併せ持った意味世界の中を生き抜いていくしかないのである」と述べた根拠はそこにある。
 尤も言語が感情を整えているという側面はあるだろうが、言語がなくても感情はあり得る。事実哺乳類以上の知性的生命体は感情を持っている。
 それなのに人間だけは違うのだという想念は観念としての理想が生んでいる。だからヒーロー志向的偶像対象と同時にマイナーの極致である犯罪者や死刑囚たちは生贄の対象と言う形でやはりそれもまた偶像なのである。私たちの深層心理には要するに生贄が磔にされるところを見物したいという野次馬根性があるのだ。生贄にされるところを見物する野次馬根性とは実は人間がややもするとただの動物になり下がると言うことをどこかで知っていた我々の祖先が「しかしやはりそうであってはいけないのだ」ということを覚醒するために我々に恐らく付与された心理なのだ。実はそれもまた原罪を構成することに一役買っている。だから前節で私があまり世渡りの巧くない読者に向けた書いた指南では、原罪を熟知している成員はブラックジョークを理解することが出来るという意味で言ったのだ。何故ならブラックジョークとは生贄にされるところを見物する野次馬根性の持ち主であるということに対する自覚が生むものだからだ。つまり我々が観念としての理想を持つということの本質には同時に理想を持たなくてはならないくらいに原罪を背負っているのだという風に己の原罪について自覚的である必要があり、その二つ、つまり理想を抱くということと、原罪があることは抱き合わせで理解されなくてはならない。そう考えてしまうのもやはり私たちが言語を持ってしまったということに起因するのだ。言語を持つということは物語を持つということへと必然的に能力開示を促進する。物語自体にも原罪は潜んでいた。
 しかしそれを知るにはあまりにも安穏としているがために理想や理性という観念だけを知ろうとして、その背後に原罪という観念が控えていることに対して無自覚な成員は日本には多い。つまり観念としての理想も理性も実は原罪そのもの、つまり我々の性悪的部分が作っているのである。日本人の中にも性悪的概念は何らかの形で存在した筈なのだ。勿論仏教が導入されてから煩悩という概念は移入されたのだが、それ以前的にもあった筈だ。
 しかし恐らく理想という観念よりももっとずっと早く「世界」という概念は出現していた筈である。私たちは皆「私にとって親しみのある(私のよく知る)世界」と「私にとって親しみのない(私のよく知らない)世界」の総和が「世界」であることを知っている。勿論人類は最初はもっと漠然とした、茫漠たる「世界」しか持っていなかったであろう。つまり最初人類にとって世界は神やら存在と明確には分かち難いものとして実感されていたに違いない。しかし何かがそれを世界として位置づけさせた。それこそが「自分」だったのかも知れない。これはデカルトの「私=コギト」とも違う。デカルトの言う「私=コギト」は永井が言うように神=創造者に対する抵抗を示したものだったのだ。そして私たちはデカルトの提唱した私を生きる。だから人類にとって最初「自分にとって見える」世界こそが「世界」となっていたのだろう。つまりヴュー自体の所有者という意識である。しかし意識はその時点では世界そのものへの意味づけ、つまり「世界」の構成ということのためにただ張り付いていただけである。しかし勿論それは私たちにとっても本質的には変わらずにそうなのである。ただ私たちは意識をデカルトの恩恵の範疇で格別のものとして捉えがちなだけのことなのだ。
 人類にとって最初は確かに「世界」は「あるということだけは分かるがよくは知られない」ものだった筈だ。しかし徐々に「自分にとって見える」世界は「自分たちにとって見える」世界になっていき、やがて名辞が形成されるようになる。空、雲、海、川、林、森、鳥といったように。それらの名辞が定着していった時私たちは「世界」を「よく知る世界という窓を通してよく知らない世界を見る」という意識を持った可能性はある。これはデネット的カルテジアン劇場に近い感覚のものである。

Thursday, May 13, 2010

<感情と意味>第三章 第三節 偶像崇拝的逃避の効用 

 しかし私たちは偶像崇拝的逃避に感ける無自覚者に対する認識と共に、その一定量の保持者が、有効にそれを活用していることに目を向け、偶像崇拝的逃避自体が我々の生活上で何らかのメリットを齎している事実にも注目する必要がある。
 それを考える上でまずもし偶像崇拝的逃避が一切ない生活とはどんなものになるかを想像すればよい。偶像崇拝することによって対他的に自分に出来ないことは他者に委ね、自分の中の欠如を知り、その欠如を少しでも埋めようと決意する時人間は向上しようという意志を持つ。だから逆に何に対しても偶像崇拝を一切出来ない成員は何に対しても「世界とは所詮こんなものである」という判断並びに諦観を抱いてしまうのだ。つまり偶像崇拝をすることで一旦は自己内の能力の限界を知ることによって、逆にその欠如に対する方策を考えるというところに偶像崇拝することで一旦捨て去る責任を安易に取り得ると考えることを諦めることや自己内の能力に対する過信を捨て去ることが、もし一切の偶像崇拝的逃避がない状態であるならなされ得ないのである。だから逆に理性的偶像崇拝逃避自覚論者とは、この偶像崇拝を有効活用する術に長けた人物であると言ってよい。
 
 これから先は全く観点を変えて考えてみたい。本来哲学とか言語学とか学問と処世術は何の関係もない。しかし世の中には大勢何故自分は巧く社会に対応して生活していけないのかと悩んでいる人がいる。そこで本節の内容の残りをそういうタイプの人へ向けて書いてみたい。だから自分の信念を一切曲げずに処世ということを考える必要など自分にはないと考えられている方はこの節の先は読み飛ばして頂いてよい。

 まず人生はそう長くない。しかもさまざまなストレスに苛まれること必定である。そこで他者と会話したり、対話したりする時に、相手があまり信用出来ないタイプの人である場合、なるべくなら相互に衝突を避けてしかも相手にあまり侮られることなくその時間を終了させたいと願っている人へ向けてハウツー的指南を書いてみたい。
 本来サラリーマンやビジネスマンたちはゴルフの話が無難であるとか、接待の際に切り出す話題において、避けるべき内容とそうではなく無難である内容をその都度選択している。しかし重要なことは、ビジネスシーンであれ、地域社会であれ相手に対してこちらがより有能であり、能力的にも教養的にも信頼するに足る成員であるという印象を持たれるように少なくともこれ見よがしではない形でさりげなく示せればこれに勝るものはないと言ってよい。
 そこで常々私は市民感情というものを考慮した時、我々が抱く偶像自体への観念において二つのタイプのものを誰しも抱いていると思う。それはヒーロー志向的偶像観と、アンチ・ヒーロー志向的偶像観である。後者はヒール志向的と言い換えてもよい。
 正論というものは公平であり、適度に安定した思想を持つ成員には常に求められるから、市民感情として健全かつ道義的な感情を抱いているということを表明するという観点からも、多くの成員が贔屓にしたり、認可したりする偶像を自分も賛同出来るという意志を、少なくともあまり抵抗を感じずに済む対象を選択して話題に出すということは効果的である。そして一定の賛同を相手から得られたなら次の段階では、最初に切り出したものよりは多少マイナーな認知度の存在に対して相手の趣味嗜好、あるいは社会的地位や伺える思想に応じて切り出すことが効果的である。つまり相手に対する趣味や信条の傾向を把握するにつれて少しずつマイナープレゼンスへと移行させていくのである。そしてもうこの相手に対しては擬装的態度を表明する必要がないと判明したのなら、かなり俗なレヴェルの話題をしても構わないと言えるだろう。つまりそうであるか否かの判断を適切にし得るか否かということがかなり大事なのである。それ以前に既に我々はこの方法を取るのであれば、もうこれ以上は移行出来ない相手かそうではないかということくらいなら分かる筈である。だから最初に示した対象に対する反応を見てその顔色からもっとマイナーなものを相手が話題として望んでいるか、逆にもっと杓子定規なものを望んでいるかということの直観的な判定こそが重要なのである。だから後者であるなら、あなたは最早長時間相手と真意を探り合う努力を出来る限り速やかに断念して、手続き的な常套手段で切り上げるに越したことはない。逆にもっとマイナーな話題へと移行を望んでいるのなら、マイナーレヴェルの偶像対象を話題対象として模索することが望まれる。
 そして相手を信用するに足ると判断し得たのなら、最終的にはいっそアンチ・ヒーロー的な偶像嗜好を表明することがより人間同士の信頼を得ることへと直結する。例えばその究極は好きなタイプの犯罪者を話題にするのである。そこまでする勇気がないのであれば少なくとも当初は有望視されていたのにもかかわらず期待を裏切った偶像、つまり敗残者的な立場の偶像、例えば例の朦朧会見をしたかつての財務大臣のようなタイプの政治家が実は自分は好きであるというような告白が相手次第では効果的な信頼獲得へと繋がるのである。その偶像対象は惨敗的イメージが強烈であればあるほどいいのである(この文章を最初に書いた時には例の大臣は存命中であった。冥福を祈る)。
 どんな人間でも表の顔と裏の顔というものがあり、その双方をTPO的に使い分けている。この使い分けが有効になされ得るか否かもまた、ある部分かなり偶像崇拝的逃避の心理を有効活用し得るか否かにかかっている。つまり話題をシフトさせる可能性としてよりマイナー度の強烈なタイプの偶像対象を模索し得る相手かそうではないかということの判定こそが私は偶像崇拝的逃避心理を有効活用し得るということであると思う。
 再度断っておくがこれはあまり社会的地位的な意味で成功していないタイプで、しかも極度に世渡りの下手な臆病な成員にのみ適用し得るアドヴァイスである。それくらいのことならとっくに分かっている、と言えるタイプの成員はもっと高度な段階に進んでいいのだ。いきなり相手と哲学や精神分析の話をしてもいい。しかしそういう話題を出すことの可能な相手というものは常に限られる。そこで相手がそういう風にいきなり高度な話題を共有し合える相手かどうかを判定するために私が先に述べた方法はかなり効果的である。
 私の経験では一般に知的教養度の高い成員ほど反体制アートや反戦文学、あるいはブラックジョークを理解し、そういう話題に共鳴し得る。つまり彼(女)は体制的なポーズと日常生活上でのプライヴェートな信条を常に二本立てで両立させて生活しているからである。つまり適度に本音と建前を使い分けつつ、仕事や社会的地位を離れて考えると、より青年期に夢想した幾多のロマンティックなアイデアに満ちているということが、人間性において魅力を醸し出しているものだ。逆にそういうタイプではない成員に対しては、一定の正論をパロディー化するような高度のジョークは一切通じないと踏んで至って健康的であると一般にされる建前的な話題を選択することが無難であろう。そしてそういうタイプの成員とは一対一の対話を長時間することは避けた方がよい。
 要するにユーモアをもともと解さないタイプの成員に対して高度なジョークや反体制的メッセージを辛辣に語ると言うことは無意味なのである。何故ならそういうタイプの成員は逸脱するということの意図的な知性を理解することがないからである。彼らは端的に品行方正であることと自らの嗜好とが完全に一致している、と言うより一致していなければいけないということ以外の選択肢が思い浮かばないからである。
 責任の取り方は高度なものから通り一遍のものまで様々である。つまり誰しも集団同化意識と、個的自由領域沈潜的態度の両方を持っているが、得てして前者が義務的に肥大している成員は後者を持つ余裕をなくしている。そしてそれを十分持っている成員に対する嫉妬の感情を持っている。従って仮にそういう余裕を持っている人が自分よりも社会的地位的に上位にいる人間であるなら問題ないが、逆に自分より下位な人間であるなら、精神的に許容し難いのである。そこでことあるごとにそういうタイプの成員を見下す機会を伺っている。「お前は偉そうなことを言っても、社会的に成功していないではないか」と。
 偶像崇拝的逃避を巧く調節することの出来る成員は、一切の個的自由領域沈潜的態度を他者には悟られまいとする。そうすることによって、他者からの羨望の眼差しを向けられることで示さなくてはならない横柄な態度を採ることを未然に自己に対して防いでいるのだ。そうしながら、休日や一人でいる時間を彼は楽しむ。
 巧くやっていかれることを祈る。

Sunday, May 9, 2010

<感情と意味>第三章 第二節 偶像崇拝的逃避無自覚者による弊害とは何か 

 本節では具体的に偶像崇拝的逃避無自覚者のよって齎される実害について考えてみたい。まず私は次のようにその実害を捉えている。

① 偶像崇拝的逃避を習慣化すると、新しい能力や未発見の潜在能力を自己内において開発することを怠ってしまう。
② 偶像崇拝的逃避を他者にも適用すると、社会にとって新たな才能や能力を持った者がその才能や能力を発揮する場を提供することを阻んでしまう

 つまり大きく分けてまず自分自身を発展させることを著しく阻害すると同時に、他人に対しても発展的な事態を展開させることを阻んでしまう。そして自分自身が進化しないようでいて、そのことに無頓着な成員とは往々にして自己能力開発努力を怠らない成員に対して多大な嫉妬を覚えるようになる。それどころかそういう前向きで将来ある人材を発見するや否や即座に爪弾きにしていこうという悪意さえ抱いてしまう。
 通常人間は自分自身が進歩しようと心がけているのなら、他人に対してもそのような努力をすることと、そういう機会を与えることに躊躇しなくなるものである。社会の発展や進歩とは、ある意味ではこういう精神的なこと如何だとさえ言い得るのだ。勿論そういったことが出来る限りスムーズに行っていたとしても尚犯罪がなくなる社会などは到来しないであろう。しかし少なくとも理性的偶像崇拝逃避自覚論者が多くなればなるほど私たちは自分自身の潜在能力を開拓することがしやすくなる筈である。要するに世間的な滓に対して理性的偶像崇拝逃避自覚論者は抵抗の意図を少なくとも捨てていないと言うことだけは言える。これはつまらぬ慣例や習慣を撤廃することを勇気を持って実行する事、勿論最初はそれを自分の生活において実践することから始めるのが最もやりやすい仕方だろう。
 偶像化作用とは、自らの努力を怠ることの理由づけに利用されがちなのだ。それを私は偶像崇拝的逃避と呼んだのだ。

Wednesday, May 5, 2010

<感情と意味>第三章 第一節 偶像崇拝的逃避

 私たちはたいてい誰でも自分にとって容認出来ない(感性的に)感覚や、考え方、あるいは職業といった偏見を持っている。それが我慢出来る範囲内のものであれば殊更非難することなどないだろうが、たまりかねると時々非難をしてみたくなる。しかしそれも公的に可能なのは許される範囲内のことである。しかし親しい間柄ではそれをよくする。
 嫌いな職業を友人や家族に告げることくらい誰もしている。そして頭の悪い人というのは、思い遣りもないとそう考えたりする。礼節を重んじる人が礼儀や配慮でしていることを頭の悪い人は、そういう態度を自分に対して採る人に対して自分の方が優位にあると思い込み、その者を利用出来ると思ったり、見下す材料になると思ったりする。それは一種の軽蔑であるが、そういう軽蔑を容易に他者になす人に対しても、それをされた者は軽蔑する。そしてそういう人に対しては容易に近づかないように心がける。これらは一つの差別である。
 しかし同時に「あの人は別格だから」と無自覚に崇拝するような場合それもまた一種の差別に他ならない。尊敬心というものさえ実は一つの差別感情である。つまりそれは自分とは違う人であるという認識を持つことによって「自分にとって親しみのある存在ではない」とか「自分にとって馴染みがない特別の能力を持っている存在」として別格に扱うことなので、それもまた差別感情なのだ。
 だから軽蔑と尊敬という心理は裏腹であり、一つの感情の表裏であることが分かる。尊敬的認識や、崇拝的意識といった一切はそういう形で自分とはかかわりのないものに対して責任を負うことを拒否(宣言)していることだから、それ自体一つの差別感情なのである。住んでいる町にも知らない場所というのはあり、道を聞かれて知っている範囲内ならその人に返答するが、知らないことに関してたいてい人は「知りません」と返答して、そのことに関する知識の責任を拒否する。親しくない人とあまり関わりを持ちたくはないと思うこともその人の言動全体に対して信用もしなければ、疑いもしないという静観を決め込み、関わり自体を避けることだから、その人の存在全体に対して無責任を決め込むことである。それは親しい間柄の人や家族に接する時と差別してその人の存在を扱っている証拠である。勿論道を歩いていて誰かが急に道端に倒れたら、救急車を呼ぶとか警察官を呼ぶとかするだろうが、その程度の社会的な責任(しかしその時道を歩いていた人が自分一人だけでないのなら、法的にそれをしなくても罰せられることがない)がある程度である。
 つまり特に都会ではそうなのだが、災難が自己に対して降りかかりそうに思えることであるなら、自分で責任を取らねばならぬもの以外に関しては自分とは一切関わりのないことであると知らぬ存ぜぬを通すことで他者からの責任転嫁を未然に防止し、自らは内的には積極的に他者に対して責任転嫁していくことこそが、生活する上での知恵である。これを誰も否定することは出来ない。
 だから逆に自分の生活に殆ど関係のない幾多の偶像に関して私たちはおぼろげな知識しかないし、認識も、関心もない。しかし自分の生活に物質的にも精神的にも大いに関わりのあるものに対しては別扱いをする。それ自体も一つの差別である。そういう意味において生活者、存在者の全ては差別者であると言ってもよい。
 本節では差別感情の中でも保守的で怠惰な尊敬心を扱おうと思う。これをすることによって、逆に自分がそのような尊敬する者と同じような立場になることなどないだろうから、そういうこと一切を尊敬することの出来る人に任せておけばよいとすることによって、その尊敬する人の発揮し得る能力に関して自分に関しては努力することを怠ることを私は勝手に偶像崇拝的逃避と呼んでいる。そして私に考えるところこれを実行していない人間など一人もいない。この心理が異様に強い人々は社会の至るところ跋扈している。例えば盲目的にエリートやインテリを持ち上げ、先生、先生と呼ぶようなタイプの人々である。このような呼称を使用することで、積極的に自分の側からその呼称で呼ばれる人たちの専門とする職業領域に関する権威や発言権をそう呼ぶ人たちに対して委譲しているのだ。そして不思議とそのように容易に権威づけすることによってエリートやインテリを持ち上げる人は、そうしない人たち、つまりあまり権威を持ち上げないでいる人たちに対して軽蔑心を抱き、時には、その自分が持ち上げる権威者の前で侮辱したりする。
 つまり権威持ち上げ者とは往々にして自分が尊崇する権威を権威として持ち上げないこと自体を自分のような立場にある者に対する侮辱と受け取り、自己防衛的に偶像崇拝的逃避をしないタイプの成員をいじめようとするのである。だから逆にこの偶像崇拝的逃避は少なからず誰でも一定の割合でしていることであるのだが、この逃避を回避する能力こそが自己に対して自分もまた差別する存在であるということを認識し、他者に相対する時に配慮すべしであると認識し得る知性の持ち主であるということになる。このような自己内の差別意識に自覚的で常に他者に対して公平でありたいと願うタイプの人を取り敢えずここで理性的自己内偶像崇拝逃避自覚論者(的を省略する)と呼ぶことにしよう。
 私は通常この理性的自己内偶像崇拝逃避自覚論者ならば、あまり表立って他者を愚弄したり、軽蔑したりすることが少ないだろうと思っている。何故なら権威を盲目的に持ち上げること自体が、そういう惰性的判断でする行為をしない勇気ある者を差別する、軽蔑する傾向があると思うからである。権威に対して盲目的に阿ることでその権威者からの実利を期待するということのない理性的自己内偶像崇拝逃避自覚論者は他者の立場を独立したものとして認めているだろうからである。そもそも軽蔑という心理は尊敬すべきエリアに対して無頓着な者へと向けられる心理に根差していると思われるからである。
 だから理性的偶像崇拝逃避自覚論者ならば、権威というものが差別感情を跋扈させるということを熟知している筈である。権威というものは全てこの偶像崇拝的逃避が形成すると私は考えるのだ。権力も確かにそういう一面があるが、権力は私たちが生活上必要であると考える。しかしその必要である権力自体を必要以上に持ち上げ、そうすることでそうしない成員を軽蔑する特権を得るような成員、つまり偶像崇拝的逃避無自覚者が権威を著しく歪曲したものへと持っていく。自らの性癖に対して無自覚であり、それを極力抑制しようと努めないタイプの成員を私はここで自己内偶像崇拝的無自覚者であるとしておこう。
 人間とは不思議なもので、自分が住む地域を愛する一方、自分が住んでいないエリアをどこか偶像化している。だから時々観光旅行に赴いたりするのだ。
 あるいは自分が就いている職業を愛する一方、そこから離れたいという欲望も常に持っている。そして自分がよく知る世界の汚さを知っている一方、往々にして自分のよく知らない世界に対して偶像化する傾向もある。だから恐らくここでも理性的偶像崇拝逃避自覚論者であるなら、どうせどこの世界も似たり寄ったりであると類推し得る余地を常に残すことだろう。そういう意味では理性的偶像崇拝逃避自覚論者は懐疑的である。しかしこれもあまり度が過ぎると逆に相反する立場であった筈の偶像崇拝的逃避無自覚者に成り下がってしまう。つまり理性的偶像崇拝自覚論者ならば、理性的であるのだから、当然「どこの世界も似たり寄ったりだろう」と思う一方、「しかし違うかも知れない」ということへの思念も忘れないのである。つまりここが偶像崇拝的逃避無自覚者との大いなる違いである。