Sunday, October 18, 2009

第十一章 時間と羞恥①

 しかし勿論実質的には私は私に固有の過去を他者と共有することは出来ない。それは映画を観ている観客たちが、その映画を作ったスタッフやキャストたちと同様にその映画を撮った現場に居合わせられないという意味ではなく、過去のある時点で一定時間ある空間で私と同席していた親友と私の間にさえ大きな溝がある。何故なら私の親友にとっては私が私にとっては親友が他者だからだ。
 私が私に固有の過去を誰かと共有したいと望む時私は実現し得ない幻想を求めている。そうなのだ。私が誰かに私に固有の体験を話して聞かせても文字化しても、言語化すること自体既に過去の共有化という実質的には実現不可能な幻想を生きることなのだ。だから私が私に固有の過去について誰かに話す時当然私には羞恥が到来する。絶えず私が他者に私にとって固有の感じるものを告白する時に羞恥がつき纏う。逆にこの羞恥を払拭し得るのは意味と時間だけだ。
 私は私の過去を客観的に捉え得る。しかし人生に対する思想をそうする中で見出していっても、過去とは現在に近ければ近いほど切実なことも間違いない。例えばもう五十になる私だが、19歳の頃の私に固有の悩みは、今現在の悩みと性質が違うし、同じ内容でも感じ方は違う。つまり過去にあったことでそれを思い出すだけで顔から火が出るような思いさえ、時間が長く経過するとじきに客観的に捉えられるようになる。少なくとも私にとってはそうだ。それはある意味であまりにも取り返しのつかないような失態は一度もなかったと振り返ってみてそう言えるからだ。勿論過ごした時間は戻せない。そして人類の未来はある程度まだかなり長くあっても、私にとっての未来はごく限られている。あるいはもっと長いスパンで見て人類の未来さえ限りもあるし、宇宙全体の未来は未だかなり先まである。未来のいつか人類以外の知的存在者が存在して私たち人類の存在があったと彼らに知られることが可能だろうか?
 私は著名人でも芸能人でもないので、私自身が実像として写ったフィルムやヴィデオを見ることが出来ない。しかしそれが可能な人たちにとって特に動く映像の場合、二十年前の自分を確認することは、それだけで羞恥の対象となるだろう。
 私が緑のものを見た時刻(私は最初に何か緑色のものを見た筈であり、それからその色を緑と呼ぶことを知った、あるいは緑という言葉を私は聴いて知って、それからある緑色のものを見てそれを「緑」と 対応する=言う と知った)→私がそれを緑であると呼んだ時刻について定かな記憶などない。しかし恐らく私は両親が緑と発話することと、私がその当時見ていた緑の対象物とをどこかでリンクさせて緑と呼んだのだ。ある色を緑だとすることは、それを誰かが緑と呼ぶのを聴いたことがあるからだ。それを模倣することは客観的日常を私たちが制度的に受容していくことである。
 制度に対する受容の本質は模倣である。だが模倣はそれを最初に行う時にはそれなりに羞恥が伴うだろう。コロッケがテレビで物真似することを職業としていることの背後にはそれら一切の羞恥を克服する過程自体が芸人としての力量を磨くことと同じ筈だ。綾小路きみまろが老いをテーマとして話芸を披露する裏には、老い自体が羞恥の対象であることを熟知しているように思う。しかしそれを誰かの羞恥ではなく、誰しもが抱く羞恥という形で一般化し得ているから笑いを誘う。コロッケの芸は特定の著名芸能人の物真似だが、それはやはり皆が知る類型としての有名人の姿であり、その意味ではやはり一般化されている。
 時間は固有の羞恥を一般化し、たじろがざるを得ないことややりきれなさを対象化する作用がある。特定の人物の仕草を、同じような仕草をする「人たち」とすることによって、あるいはその固有の仕草自体を把握する一般の人にあれだと理解させることで、その仕草の模倣は模倣された者にとっても、芸を見るファンたちにとっても、芸人にとっても固有の羞恥から羞恥一般へ開放される。
 この羞恥の一般的開放の心的なメカニズムは明らかに私に固有の感じるものの把握、つまり私に固有の過去のエピソードを他者に対して開放し、共有化することと同じである。模倣はそれ自体に対してはにかみを持っている内は羞恥の対象となる。永井均氏は「<魂>に対する態度」の中で学会終了間際に自分の発表をし終える時に「なーんちゃって」と言うことを控えることが制度的なある種の強制力に随順し、社会に同化することだと考えている。だからお笑い芸人たちが誰か特定の芸能人の物真似をする時羞恥の表情を一点でも見せたら、笑いをとれないだろう。自分で噴き出しても駄目だ。と言うのも私たちは自分の解釈や理解を他者に示すことが私的なことではなく、公的な責任を伴う行為であると信じているからである。
 だから羞恥とは一瞬行為に踏み切る前での勇気のなさと他者に対して精神的にレスキューを求める甘えであり、依存心理であると了解出来る。責任の明示は余計な羞恥、責任遂行への信頼に水を刺す雰囲気を他者に示す羞恥を排除することで遂行し得る。羞恥が愛嬌として許される例は限られている。責任遂行を他者に示す有効な方法は他者に対し依存する態度を微塵も見せないことでそれが権威的威嚇になる。そういう態度を我々は「毅然とした」と言う。羞恥と時間の解消関係を一瞬で断ち切れるのは責任だけだと言える。
 羞恥が時間と共に解消されることは羞恥に内在する無責任の責任への移行過程である。勿論生をもって償うくらいの罪に纏わる羞恥は別だ。罪が現実に社会で自己‐他者間で生じ得る法逸脱ではない責任転嫁・回避の際に生じる羞恥は時間と共に潰え去る。
 説明責任は説明さえすれば、後は何とかなるという役割建前主義的自己欺瞞がある。それは真実を語ること以上に真実を語っているよう振舞うことが求められる。だからこそ会議が終わる直前参加者の面前で「なーんちゃって」と言うことは憚られる。つまり本当のことを言ってもそれが嘘っぽく響くなら言わない方がいい。説明責任とは、責任を果たしている風の解釈を説明されている側が安心して得られるか否かで正否が決まる。それはお笑い芸人が観客を笑わす時に、自分の所作やギャグや落ちに笑わないことと相通じる。
 宮本武蔵くらいの剣豪となったら、周囲にもその一匹狼振りに対して批判的な輩もいただろうが、賛同者とか協力者もいた。そんな協力者の良心に対して武蔵は恐らく素直に受けて、はにかむことなどなかったろう。はにかむことは、プロデビューするかどうかの瀬戸際の若い天才ゴルフプレイヤーにのみ許されるのであり、天才剣士という孤高の生き方にはそぐわない。つまり権力から手を差し伸ばされても、待ってましたとばかり羞恥を隠し切れずに喜ぶのではない堂々とした毅然とした笑顔で、レスキューを得ることが当然の権利であるように相手の良心を受け取るのがそもそも権力に阿ることなく孤高に努力してきた人間に身についた所作だった筈である。武蔵などはそのような態度にならなかった筈がないと私は思う。
 ここに羞恥と時間の解消関係と対極にある羞恥の克服に伴う自信がある。過去の何らかの失態に対して羞恥を感じ続けている内は、時間の経過が十分ではない。しかし一定の期間が過ぎれば小さな誤ちは羞恥から果たすべき責任外のものへと追い遣られる。しかし羞恥を常に克服して他者に対して過ちを示すことなく生きていることは、それだけで甘えを払拭している。羞恥を他者に示すことが愛嬌の度合いを過ぎれば、それは示される側から責任放棄と映る。つまり他者に対する羞恥の明示の態度は私たちにその者に対する私たちからの利用価値という悪意を生む。端的にその者の臆する態度が責任の不在を示してしまい、その者へ私たちが問う罪を作る。だからこそ堂々としていることは特に権力者には求められ、毅然としていることが責任遂行の明示となり、端的にそれが自信を作る。
 それは時間がたつにつれ忘れる羞恥を問題にすることなく他者と接する時、その者との間で一期一会的に人生を作品化することからのみ得られる自信だ。それは人生全体に対する思想における大きな羞恥(自信が持てないということに対する)を克服した時得られる自信だ。忘れた方がいい小さな羞恥に拘るのは時間の無駄だが、人間は案外これに拘る。しかし自信があり過ぎると些細な良心の発動に逆に羞恥を伴うが、その根幹にある傲慢もまた克服すべき対象だ。それは良心の発動が意外と格好悪いことに起因する。だからその羞恥の払拭が理性的な判断となる(良心の発動の毅然)。私たちは知性的に格好がよい典型をテロリストの颯爽とした姿に見る。全てのアーミールックは正直格好いい。それに比べ良心の発動や理性的行為の実現(思い遣り)はその場では敗けを認めることも多いので、格好悪いことも多い。私たちは格好悪さに対する羞恥の克服と、一々他者に示すべきでない羞恥の克服をし、長い時間的スパンで責任を全うするためにどの瞬間も堂々とする(責任を果たしているよう振舞う)ことで、信頼を獲得すべきなのだ。

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