Sunday, June 19, 2011

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第四章 存在の形而上性、私の形而上性、存在の記号性、私の記号性

 私も存在も名詞であり記号だ。私の身体存在の外に私は在るか?答えは是(ネー、イエス、ウイ、ヤー、ダーetc)である。
 「私」と一般に言う時、それは私の身体の存在より、より意識、或いは意識内容(思考や現時点での知覚内容、記憶、感情等全ての心的作用)のことを指し、それは「心」とはとどのつまり脳が生み出している、という見解が脳科学者・認知科学者をはじめ心理学者や、より機能論者及び唯物哲学者の採り得る態度である。
 しかし形而上学者はそう考えない。幾らfMRIで説明されても、それは科学的認識ではあるものの、哲学的真実ではない、と考えるからだ。
 しかし「私」を思考や認知の存在事実に対する記号だとすれば、やはりそれはもう一度身体存在レヴェルに問題を戻すことによって一つの大きな命題を得ることは可能となろう。それは「心」とか「魂」とか「気持ち」とか「意識」とか、それ等は我々の身体を離れても(つまり消滅しても)今と同じ様にあり得る、つまり(今)の様に存在し得ようか、という命題である(これはカントも考えていたし、カントの「純・理」を分析したP.F.ストローソンも「意味の限界」に於いて考えていたことである)。
 ごく自然科学的事実を持ち出せば、それは“あり得ない”の一言で済まされるが、それでは私達は納得しない、というところにこそ、実は自然科学(形而下学)以外に形而上学が求められる由縁でもあるし、哲学や形而上学自体も又、何故我々はその魂の不滅が自然科学的にあり得ないということに納得しないのかということを考究する必要がある。
 つまりその納得し得なさこそが哲学を私達に生じさせた理由の大きな一つである、と我々は覚醒することによって、その納得し得なさが苦悩を生み出してきたという事実にも向き合うということである。
 多分にこれは既に宗教の存在理由への問いとも重複する。苦悩の除去の最大のメソッドは宗教で在り続けてきたからだ。
 世界の中の事実という観点を持ち込めば、「私」も又一つの存在事実を示す為の記号でしかなく、心理的には私達はその記号、例えば名前、或いは職業をも請け負い、背負い生きる。
 しかしそれは外的にも確認され得る客観的事実でしかなく、我々の内的な心では「私」とは記号ではない。ある「私」という記号(存在事実としての)を生きるこの「私」の感じ、或いは内容の全てである(私は私しか知らない多くの事実があり、それは一人の他者に全て告げることも出来ないし、それをする必要もない)。
 この「感じ」と内容の全ての反省的意識を取り敢えずここでは「私の形而上性」と呼んでおくこととしよう。するとこの「私の形而上性」は明らかに私自身からの私の生、人生、生きていることの承認ということになり、とりもなおさず私自身の側から私は私の生を「私」という記号、つまり存在事実へと照応させていることとなる。
 このこと自体を私が「私の存在承認している」が故に、「存在の形而上性」と呼ぼう。つまり「存在の形而上性」とは「私の形而上性」を通して私によって承認された私以外の全ての社会成員、或いは存在者からの承認を私自身が請け負う地点で得られた私に対する唯一の記号であり、それは私以外の全ての存在事実としての記号と等価であると私によって認められ、それを他者も私同様に認めることを私から期待もするし、他者も又私に対しその承認の下で私を理解する、そういう場である。
 これは少し古いがサルトルが言った言葉であるが対自的な意識を外在主義的に言う、つまり客観的に言うことと同じである。しかし存在承認自体には必ず価値認識が伴う。そして価値認識は実在の生活を営む中から生じてもいるから、世界の中の「私」という「存在の記号性」と、その「私」自身を生きるという事実の承認という言わば外在的視点、即ち対自己認識であるところの「私の記号性」という二義的な、或いはその二つが一致している地点に「私」が存在している、と言うことが出来る。
 勿論これは私によってそう承認されてもいるし、その承認が私以外の全ての他者、存在者(勿論これはハイデガー的な現存在である)に承認されることを私が見越してもいる。
 私は私の存在事実を私の外側の全てを日々創っている主体として規定し得る(勿論規定され得る形で私は私をそう規定する)。
 この二つの事実(私を私が外側から規定することと、私が私自身そういう存在事実として内側から生きることの二つでもあるし、私自身による私自身<の存在>への承認と、私の私以外の他者、存在者からの承認を私が覚知し得るということの二つでもある)を不可分のものにするものこそ存在に他ならない。
 しかしその存在は必ずしも実在の身体に縛られはしない。そのこと自体が極めて重要である。何故なら哲学はそこを自由にし得るか否かで全てが決するからである。
 そしてその認識を得ること自体が存在論が倫理的命題ともなり、要するに価値論、価値認識論と存在論が不可分でしかあり得ないと規定するところのことでもあるのである。

 要するに形而上学は価値の学問だと言える。しかもそれは「私」の内側(「私」という記号で示される時に、個々内面で感じる固有の感じを示すのではなく生きることから)から考える。社会哲学は世界の中の存在事実(或いはその承認)から考える学問と言ってもよい(勿論そう簡単に二分は出来ないこの両者ではあるのだが)。