Wednesday, October 21, 2009

第十三章 責任と羞恥

 あの人は存在感があると言う時、私たちはその人に対してある潔さを感じる。潔さとは端的に私的なことを棚に置き内的な羞恥を払拭し、自信を持って臨む行動全般に責任感があることである。
 このことは公衆の面前で何かを述べたり責任ある立場に立ち自分につき従う者に対して責務的に何かを命じたり、委託したりすることにおいて政治家、企業の経営者、テレビやメディアに頻繁に登場する機会の多いアナウンサー、スポーツ選手一般に通用する。
 ある職業や立場に準じた能力とはその仕事に脇目も振らず邁進する姿を示すことだから、必然的に私的なことを処理する巧みさ、羞恥を払拭することが求められる。克服する対象として人間は各自固有の羞恥を持ち、克服すべきだからこそ大切だと既に述べた。
 権力はその種の私的な羞恥を払拭することの意志と勇気、潔さにより強力になる。だから逆に羞恥の本質を見抜くためには、権力と責任の関係を十分見極めなくてはならない。
 私は存在者の存在理由は、内的関係における羞恥の保持にあると考える。あらゆるピアプレッシャーや責務の裏には、私的事情とそれを大切にしつつも公的にはそれを第一の要求から外し他人に求めないことが公的・私的の区別となり、権利と義務の関係を作る。
 私たちは一方で他者に対する理想を職務上では私的欲求を抑制しつつ周囲の他者には私的要求を考慮する余裕を持ち、他方自分の権利として当然幸福追求する姿を垣間見せるという姿に見る。公私どちらか一方しか満たさない場合私的欲求だけに感けている人を私たちは責任能力のない者、あるいは法的に逸脱していれば犯罪者と呼び、公的義務だけをこなしている人に対し私たちは堅物とか、偏った変人とか、酷い場合には狂人だと捉える。しかし公私のバランスは実際周囲に巧く示すことは困難だし、要するに私たちは他者に対する印象をそれが外面に表された態度や所作によって判断するものの、その示し方から私的なこと、内的なことを想像するだけで、内的なことは当人だけが知り、当人さえ当人の全体を知ることは出来ない。当人はその者が外面的にどう見られているかには疎いことも多いからだ。存在者の全ては<明示される人格+内的な気持ち>だ。 
 だから当然羞恥は生理学的に判断がつく統計的な態度や外的に示される発話等でかなり理解出来ても、実際ある態度が示される時当人はどういう気持ちでいるかとは、他人には理解出来ないブラックボックスの部分もある。しかし責任はその者が努力しているかどうかや、あまり真剣に取り組んでいない風だとかの表面的態度からの判断とは別個に何らかの形で業務や成果によって示され観察され得る以上、非ブラックボックスだ。だからこそ責任と羞恥の関係は重要だ。私たちは尊敬する他者が責任を果たしていると内的にも充実しているだろうと、勝手に自分の経験から判断する。しかし本人が好んでその責任を果たしているか否かは全く別だ。
 宮本武蔵は剣客として生涯を費やしたが、本人の剣一筋の技能と精神の追求という意味(剣豪の責任)は、示される態度や決闘の際の勝敗、つまり生死を分けた結果によって示されている。しかしそれが真に本人の望んだ結果だったか否かは、武蔵が生涯幸福だったか当人に問うしかないが、彼はそう問われても返答しなかったろう。  
 そういう意味ではアーティスト、哲学者、文学者等にも共通して問われることとして家庭的幸福や出会う他者たちとの交流等があるが、仮にそれが充実していたとしても、いい仕事をしたという気持ちでいられたか(達成感)は全く別だし(外面的成功と裏腹に)、逆に仕事に充実感を得ていても家庭が不幸で辛いという場合もあるだろう。つまり幸福や人生の充実ということの意味を問う時、私たちはどういう人生が果たして幸福や充実の名に値するのかという判断自体が一律でないし、各自の主観に委ねられているとしか言いようがない。だから脱獄することだけを目的として所内で過ごす囚人たちの生活を不幸だと決めつけも出来ない。脱獄した後で仮に掴んだ幸福よりも脱獄までの緊張の方が幸福だったということさえあり得る。(「アルカトラズからの脱出」を見よ)
 だから羞恥は、その在り方や内容を刻々変化させていくものだとは、前章での欲望の独立性や年齢に応じた身体的精神的条件の変化を考慮に入れると一律に真理化し得ないし、責任となったら尚更である。と言うのも私たちはある成員個人の責任遂行能力を判定する場合、その者の年齢や経験もだが最も能力で判断するからだ。しかも能力を周囲に認可されていても図太い物もあれば小心者もいる。また良心を天秤にかけると同じ責任遂行においても、羞恥を払拭してなすべき責任の方が勿論職務上では大半ではあるものの、時と場合によっては羞恥を表明した方が有効な責任もある。最も顕著な例は陳謝、謝罪する時の態度だ。我々は何かを断る時、それが自らの羞恥にかかわることなら、決然としている(恥ずかしがらない)必要があるし、権利上正当だからそうあるべきだが、本当は断りたくはないのだが、止むに止まれず断る時には羞恥を表明する方が効果的だ。あるいは些細な苦情を言う時などもその典型だ。その苦情も迷惑をかけた者に対して言う場合でも、相手が明らかに悪意である場合は決然としていなければならないが、こちらも多少その者の世話になっている立場の場合、その者への苦情は羞恥を示しながらする方が効果的である。また何か否定する時でも自信過剰に言い張る相手に対しては決然とした言い方よりも躊躇する言い方の方が相手の良心を擽り精神的な威嚇効果がある(逆効果もある)。
 そこら辺の駆け引き自体が既に内的には羞恥領域に組み込まれているし、外的関係でも客観的立場の他者からの裁定を要する場合考慮される。刑法上の判断で情状酌量の余地ありとされるには改悛の情が必要であり、将来の更生可能性を考慮する基準になる。
 責任の重大性に応じて羞恥の払拭が重要になってくるし、内的には決断するために躊躇を吹っ切る勇気が必要なものも多くなる。つまり躊躇し、苦慮し、ある決断に踏み切るのに懊悩が伴うこと自体我々が羞恥的存在者であることの証だ。ハイデッガーはそれを存在の配慮と言ったのだ。
 ある決断が英断だったとされるのは、その決断が苦慮するに値するものだという目測からだ。だからこそ悩まずにあんな決断が出来たとしたら、それは人間的に尊敬に値しないと判断されることは、私的・公的の使い分けとどこか似た判断の構造がある。これはかつてよく言われた日本人は恥の民族だということともちょっと位相の異なる問題だ。恐らく恥と言えば欧米人には欧米人に固有の恥があるに違いないが、そういう文化規範的レヴェルの問題でなく、もっと普遍的かつ日常的なこととしての<羞恥の克服の問題>である。苦慮して決断に踏み切るからこそ、失敗して恥をかくことを怖れずに踏み切ったということで他者は潔いと判断する。そのことに恐らく洋の東西は関係ない。
 しかしそのことに関しては他者からそのように判断されるだろうと目論んで振舞う演技もあるだろうが、なかなかそう巧く人の気持ちを操縦することは出来ない。心底懊悩して出した結論と、そうではない結論とをいかに巧みに振舞っていても見抜くことの方がずっと普通だ。しかし時には稀代の天才詐欺師もいるかも知れないので、そこら辺の用心は時には必要かも知れない。つまり当然過ぎる真理の前で我々はそれが悪辣な詐欺であると知らずに騙されることもある。つまり虚栄とか虚構も手が込んでくるとそのあまりに巧みなあまり美と表裏一体な場合もある。嘘について考察などをする分析哲学がこの参考になる。思想や宗教もこれと似た真理があるだろう。
 私は「私は存在者の存在理由は、内的関係における羞恥の保持にあると考える。」と言った。そのことは他者に対して発話行為をする時のことを考えても納得がいく。他者と何か発話する内容に関しても、発話意義も、意図から鑑みても他の発話との間の意味的差異や情報的価値があるか否かにかかっている。だが問題なのは、そういう発話行為の意義や存在理由があるか否かは一度話してみないことにはわからない。伝達内容が自分から相手に期待したほどよい反応を得るか否か確認出来ない。だから勇気が要るし、相手の機嫌を損ねるかも知れない。だから何を話すにしてもその時に脳はあらゆる思考を巡らせて発話する。しかし知性を巡らした割にその語るべき意味内容が相手に聞く価値がないとされる場合もあれば、逆にそう深く考えていなかったのに思った以上に説得力を持つ場合もある。そのことを考慮するとつい何も語らずに終えたいという気持ちになることもある。それは保守的な判断だ。しかしそれではいけないと思いもする。そして再び積極的に他者に対話しようとする。その際知性ではなく理性で判断している。どんなに努力しても意思疎通が円滑にいかない、相互の利益にならない、こちらが工夫を凝らして発話しても、その意味内容に向こうは一向に溜飲を下げないケースもある。しかしそれでもそれを思い直すことが必要な時もある。それが羞恥の克服だ。羞恥を大事にして他者に何も悟られないよう配慮ばかりしていたのではやはり進歩はない。
 逆にこうも考えられる。私たちは他者に対して羞恥を感じるが、それは他人だからであり、せめて親密な関係の他者に対してはそんな配慮が億劫だという気持ちから、家庭くらいは羞恥をかなぐり捨てていられる場所にしたいと決め込む。だがこれも陥穽だ。例の綾小路きみまろの「あれから四十年」というフレーズで始まるギャグが飛び出すのもここからである。この家庭内での羞恥の欠如こそが家庭内離婚、そして遂には籍を抜くということに繋がる。家族もまた大いなる他者である。
 一般的な経験則はこのようなほろ苦い思い出に根差している。想起とは、ネガティヴなことの中にほんの少しよかったや幸福だったが普通であり、身に沁みて云々の有り難味が理解出来たということは、それまではそれが欠如した状態を知らず過ごしてきただけであり、だからこそ何か竹箆返しを食らった(大概他者からだが)ことを意味し、後悔も全くなく幸福だったというポジティヴな想起など滅多にない。
 責任は失敗体験に根差し、次は滞りなく遂行したいという気持ちが生む決意であり、羞恥と想起が織り成すほろ苦さが次は責任を全うしようと決意させるし、責任は羞恥による想起、想起の中の羞恥が促す。

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