Tuesday, October 20, 2009

第十二章 羞恥と想起②

 私はずっと羞恥を克服すべきこととして扱ってきた。しかしそれは羞恥を本質的になくすことを旨としていたわけではない。それどころかどんなにそれは捨て去ろうとしても捨て去ることの出来ない代物であり、寧ろもし容易に捨て去れるものなら困るのであり、積極的にその都度克服するために温存しておく必要がある。何故そうかと言えば、それこそが我々の判断、決意を確固たるものにするからだ。これは「論語」にも書かれている。決心がその都度いい加減ならそれは決心と言えない。羞恥がなければ決心する気持ちにもなれないから、決心するためにも羞恥が必要なのだ。
 決心へと至るまでに多くの躊躇や逡巡があれば尚更その結果下した決断は確固なものであるような意味で羞恥を介在させることは、そういうプロセスの一切ない行動よりも熟慮がある。本章では羞恥が判断や決断へ踏み込むプロセスでなされる作用について考えよう。
 心理学・脳科学でプライミング効果とかプライミング記憶と呼ぶものがある。primeは英語で「入れ知恵をする」という意味もあるし、これは、一般に「手続き」という意味で使われている。私たちは予め何らかの概念を提示されておくと、その概念に関係ある別の概念を容易に連想しやすいし容易に思い出せる。それは記憶において私たちがある関連した事柄を一まとめにして学習したり、記憶したりしておくと便利であるということも意味する。
 そのような心理学・脳科学的な見解を詳細に論じたのはスピノザだった。スピノザはその主著「エチカ」において次のように述べている。
 
 定理一八 もし人間がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものを想起するであろう。
 証明 精神がある物体を表象するのは(前の系より)人間身体のいくつかの部分がかつて外部の物体自身から刺激されたのと同様の刺激・同様の影響を人間身体が外部の残した痕跡から受けることに基づくのである。ところが(仮定によれば)身体はかつて、精神が同時に二つの物体を表象するようなそうした状態に置かれていた。ゆえに精神は、今もまた、同時に二つのものを表象するであろう。そしてその一つを表象する場合、ただちに他のものを想起するであろう。Q・E・D・
 
 備考 このことから我々は、記憶の何たるかを明瞭に理解する。すなわちそれは、人間身体の外部に在る物の本性を含む観念のある連結にほかならない。そしてこの連結は精神の中に、人間身体の変状〔刺激状態〕の秩序および連結に相応して生ずる。
 私は第一に、それは単に人間身体の外部に在る物の本性を含む観念の連結であって、それらの物の本性を説明する観念の連結ではないと言う。なぜなら、それは実は人間身体の変状〔刺激状態〕の観念にほかならぬのであり、そしてこの観念は人間身体の本性と外部の物体の本性とを含んでいるからである(この部の定理一六により)。私は第二に、この連結は人間身体の変状〔刺激状態〕の秩序および連結に相応して生ずると言う。そのわけはこれを知性の観念の連結においては精神はその第一原因によって知覚する、そしてこの知性の観念の連結はすべて人間にあって同一なのである。
 さらにこれから我々は、なにゆえ精神が一つの物の思いからただちにそれとは少しも類似性のない他の物の思いへ移るかを明瞭に理解する。例えばローマ人はポームム(くだもの)という言葉の思いからただちにある果実の思いへと移るであろう。この果実はあの発音された音声とは何の類似性もなくまた何の共通点もない。ただ同じ人間の身体がこの両者からしばしば刺激されただけにすぎない。言いかえれば、人間がその果実自体を目にしながら同時に幾度もポームムという言葉を聞いたというにすぎない。このようにして各人は、自分の習慣が事物の表象像を身体の中で秩序づけているのに応じて一つの思いから他の思いへと移るであろう。例えば軍人は、砂の中に残された馬の足跡を見て、ただちに馬の思いから騎士の思いへ、また騎士の思いから戦争その他の思いへと移るであろう。ところが農夫は、馬の思いから鋤や畑その他の思いへと移るであろう。このようにして各人は、自分が事物の表象像をこのあるいはかの仕方で結合し、連結するように習慣づけられているのに応じて一つの思いからこのあるいはかの思いへと移るであろう。((上)畠中尚志訳、122~124ページより 岩波文庫)
 
 私が妻に対して不貞を働いているという嫌疑をかけられている次のようなストーリーを考えてみよう。
 ある日妻は私が同僚の女性と親しげに話しながら歩いているのをみかける。たまたま私と彼女の帰路が途中まで同じだったので談笑しながらの徒歩を妻が買い物に出かけていて私たち二人と遭遇し目撃したのだ。そして別のある日私が社用でたまたま予約し忘れたがためにホテルに泊まれず、ビジネスホテルも満杯で急遽ラブホテルに一人で宿泊して、その時のレシートを捨てずに胸のポケットに入れたままにしておいて、妻はそれを出張後帰宅して脱いだ私の背広のポケットを探りそれを見つけてっきり私が彼女と不貞をしたと信じ込み、私の足の甲に台所にあった包丁で刺したとしよう。
 その時私は咄嗟に血が噴出すその足をタオルで覆って失血させまいとした。そして我に返りひどいことをしたと思った妻も百十九番に電話する。救急車がやってきて私は運ばれ、私は医師に対して、「実は私がいつもは妻がする調理を慣れない手つきでしたばっかりについうっかり包丁を自分の足元に落としてそれが刺さりました。」と言い訳するだろう。しかしその時の刺さり具合がたまたまあまり深くなかったので医師は納得していたが、あるいはもっと深く憎しみを込めて刺されていたなら、医師はきっと私と妻との間に何らかの諍いを連想して、警察に通報していたに違いない。妻を犯罪者にしたくない一念で私は嘘をついた。しかしその嘘は医師の持つ眼の確かさに応じて、つまり彼の連想力と、その連想力を働かせる部分が経験に裏打ちされた法医学的な知識によっても起動するか否かの差が生じてくる。私は妻がその後私にしたことを後悔したので、彼女を取り敢えず許しはしたものの今度は私が妻に対して見る眼を変えて、彼女は案外精神的に脆い部分がある、という風に今まで知っていた妻の性格から判断する人格像を修正する可能性がある。今回は些細なことだったもののそれはあるいは何かの兆候だったかも知れない、本当にひどい状態になった時に備え彼女のためにいい精神科医を紹介する必要性すら感じるようになるかも知れない。
 フッサールが「イデーン」などで言っている本質直観ということは、恐らくこの連想されるイメージとも協同していると私は考える。本質を見抜く力とは、端的に過去における類似した対象や状況からの想起に頼るところが大きい(スピノザの考えるように)からだ。
 また人間は同一性というものを懐疑的に捉えると、第五章で述べた個々の欲望の独立性ということに絡め取られるし、事実そういう見方も正しい。そしてこの個々のその時々の欲望が内的関係で捉えられる時、あの時感じたあの固有の気持ちは今の気持ちに似ていると気づく。内的関係が現在知覚にまで影響を与える。そして内的な想起事実やエピソード記憶内容と現在知覚が連動されると、今度は知覚判断や現在の感情的な受け取り方自体が、人生に対する思想を形成するのに貢献する。つまり私が前のページで引用したスピノザの定理18の主張が正しいと証明される。スピノザはこうも言う。

(前略)知る必要のあることは決して洩らさないために、私は「有」、「物」、「ある物」のようないわゆる超絶的名辞が起こった原因をついでに示すであろう。これらの名辞は、人間身体は限定されたものであるから自らのうちに一定数の表象像(中略)しか同時に判然と形成することができないということからも生ずる。もしこの数が超過されれば表象像は混乱し始めるであろう。そしてもし身体が自らのうちに同時に明瞭に形成しうる表象像のこの数が非常に超過されればすべての表象像は相互にまったく混乱するであろう。こんな次第であるから、この部の定理一七の条ならびに一八からして、人間精神は、その身体の中で同時に形成されうる表象の数だけの物体しか同時に判然と表象しえないということが明らかである。これに反して表象像が身体の中でまったく混乱するような場合には、精神もまたすべての物体を混乱してまったく差別なしに表象するであろう。なおこのことは表象像が常に等しく活撥でないということからも導き出される。しかしそれをここに説明することは必要でない。我々の目指す目的のためにはただ一つの原因を考察するだけで十分である。なぜなら、どの原因を持ってきてみても、それは結局、超絶的名辞はきわめて混乱した観念を表示することに落ち着くからである。
 次に「人間」「馬」「犬」などのような一般的概念と呼ばれる概念が生じたのも同様の原因からである。すなわちそれは人間身体の中で同時に形成される表象像、例えば「人間」の表象像の数が表象力を徹底的に超過しないがある程度には超過する場合、つまり精神がその個々の人間の些細な相違(例えばおのおのの人間の色、大いさなど)ならびにそれらの人間の定数をもはや表象することができずにただそれらの人間全体の一致点_のみを判然と表象しうる(なぜならその点において身体は最も多くそれら個々の人間から刺激されたのだから)ような場合である。そしてこの場合、精神はこの一致点を人間なる名前で表現し、これを無数に多くの個人に賦与するのである。今も言ったように精神はそれらの個々の人間の定数を表象しえないのであるから。しかし注意しなければならならぬのは、これら概念はすべての人から同じ仕方で形成されはしないこと、身体がよりしばしば刺激されたもの、したがってまた精神がよりしばしば表象しまたは想起するものに応じてそれは各人において異なっていることである。例えばよりしばしば人間の姿を驚歎して観想した者は人間という名前を直立した姿の動物と解するであろう。これに反して人間を別なふうに観想するのに慣れた者は人間に関して他の共通の表象像を形成するであろう。だから自然の事物を事物の単なる表象像によって説明しようとした哲学者たちの間にあれほど多くの論争が起こったのも不思議はないのである。(「エチカ」上、畠中尚志訳、岩波文庫、140~142ページより)

 すると職業的風体に繋がるタイプの認識が想起される。
 人間にはある社会的経験や人生体験によって形成される人生に対する思想の違いから、平素の「世界」への見方、ものの見方自体に異なった判断をする部分があると思うが、それは外にも現われる。
 私は先日東京から帰宅する時電車に乗っていた。私は郊外に住むが自宅の最寄り駅近くに差し掛かった電車内は比較的空いていたので傍の空席に腰掛ていると、隣に座る中年男性二人の会話内容が容易に聞き取れ彼らが会社員であるらしいと了解出来た。つまり日本ではビジネス外的な公的な状況(例えば電車に乗り合わせるとか)で、乗客の身なりとか、二人以上で会話している場合その会話内容から概ね働いている者とそうではない者、その二つから大きな分類に漏れるタイプの成員は極めて珍しいと思う。つまりそれだけ何らかのタイプに分類されてしまうくらい無個性である。タイプ分類を試みると、小中高生等の生徒や学生、大学生、会社員、地方公務員、国家公務員、その中でも官僚という風に分類出来る。それ以外は国公立の教育機関及び私立の小中高校・大学の教育者を合わせると、殆ど八十パーセント以上を占め、それ以外の小売店主、中小零細企業経営者、自由業者等は恐らく十パーセントにも満たないだろう。そして彼らそれぞれが個以上に集団帰属性に準じた行動パターンと、人生観を対外的に示し、日常的所作と会話内容をする。派遣社員さえ正社員に同化しようとして正社員的な会話をすると思う。
 しかしこの見方はある意味で極めてステレオタイプ化された見解とも言える。つまりそれは外面では自己欺瞞的にそのように振舞っている日本人の公衆道徳を物語っているに過ぎない。真に重要なのは、そう振舞う内的関係を形成する対自レヴェルでの真意である。
 内的関係とは文化論的な社会学的様相や行動パターンとは本質的に異なる。内的欲望自体はヘーゲルが法を考える時に礎としたものだ。(次章で詳しく論じる。)そしてこれが知覚と連動してある固有の想起内容を決定する。例えばスピノザ的な意味で連想を働かせると、特定の他者への警戒心とは過去における特定の自分にネガティヴな印象を刻印させた他者のエピソードに起因する。それはその他者に纏わる体験があまり芳しいものではないためにその者が眼前にいる場合必ず固有の「構え」を作ることへ直結する。それが最も通常に見られる拒否反応とすると、それは明らかに原羞恥に触れる。つまり自己の内的な「構え」の全てを形成するものとして私が考える原音楽を根底から支える内的な感情的記憶や、それによって形成されるある対象に出会った時に示す我々の個に固有の反応類型だ。赤い色への好き嫌いは、その赤い色をしたものを巡る経験事実の集積から形成された人生に対する思想にも繋がる固有の連想作用だ。
 それは当然ネガティヴな他者像に対してだけでなく、好きなタイプの他者像にも直結する。つまり好きなタイプの成員に対して我々は協調しようと自然と脳が働く。逆に拒否反応を起こす場合にはその心理は後退する。好感が持てれば率先し協調しようと思い、自然と行動は他者に「合わせる」原音楽へ発展するが、そうでないとそんな気持ちは萎える。「合わせる」行動はぎこちなくなる。
 つまり拒否反応、拒絶反応の場合の方がより、私たちは自己内の羞恥の本質、つまり原羞恥に接近している。だから嫌いな人に対してその態度を見せまいとする場合、防衛本能的原音楽で繕う。勿論好きなタイプの考え方、行動、所作、物腰の他者に対して共感する場合でも原羞恥が判断しているから防衛本能を解除するので、我々は絵を描く時の武蔵の心境のように好きな他者に対して接する。
 今述べたことは、人生に対する思想を形成する個々に異なった体験に根差した判断の問題である。しかし第五章で考えた個々の欲望の独立性という時間論的な意味での判断は、好き嫌いの問題とか、心に防衛本能を構えたり解除したりすることとも少し違う。そのことについてはフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の次の記述から考えることが役に立つ。この記述は第五章の欲望の独立性と同一性の問いを蘇らす。

(前略)客観性のあらゆる範疇、すなわち、科学的生活において心の客観的な世界を考えるさいの科学的範疇や、日常生活において同じことを考えるさいの前学問的範疇は、すべて虚構である。まず、数、量、連続性、幾何学的形象などの数学的観念がそうである。われわれの立場からすれば、これらは直観的な所与の方法的に必然的な理念化というべきものなのであるが、ヒュームの考えでは、それらの概念は虚構であり、さらに進んで、必当然的と考えられている数学全体が虚構だというのである。これらの虚構の根源は、心理学的に(すなわち、内在感覚論の地盤の上で)きわめてうまく説明できる。すなわち観念相互間の連合と関係に内在する法則性からうまく説明できるのである。さらにまた前学問的な、端的に直観的な世界の範疇、たとえば物体間の範疇(直接に経験する直観のうちに存在すると思われている、永続的な物体の同一性)、さらに進んで直接に経験されると思われている人格の同一性も、同様に虚構以外のものではない。たとえばわれわれは、あそこにある「あの」樹木というようなことをいい、そのいろいろに変わる現われ方をそれから区別している。しかし内在的、心的なものとしては、この「現われ方」以外には何ものも存在しない。あるのは感覚所与の複合であり、そのつどちがった所与の複合なのである。もちろんそれらは相互に、連合によって規則的に「結びつけ」られているのであり、同一のものが経験されているかのような錯覚も、これによって説明される、というのである。同じことは人格についてもいえる。同一の「私」は決して所与ではなく、たえず変移する所与の束である。同一性とは、心理学的虚構にすぎない。必然的な継起である因果性も、またこの種の虚構に属する。内在的経験の示すのは、ただ(中略、原語)〔それのあとに〕ということだけなのであって、それを(中略、原語)〔それによって〕、すなわち継起の必然性とするのは、虚構的なすりかえである。こうしてヒュームの著作『人生論』においては、世界一般、すなわち自己同一的物体の総体である自然も、自己同一的人格の世界も、さらにはそれらをその客観的真理として認識する客観的科学も、虚構に変じてしまう。その当然の結果として、われわれは、理性も認識も、真の価値の認識や、倫理的なものをも含めたすべての純粋理想の認識も、すべて虚構であるといわねばならなくなる。(細谷恒夫・木田元訳、中央公論社刊、122~12
3ページより)

 要するフッサールよればヒュームはその都度の異なった所与の複合として人間の像を考えていたのである。同一性とはフッサールによるこの謂いを借りれば心理的虚構なのだ。この心理的虚構が実は一番曲者だ。想起すらも実はこの心理的虚構が構築している場合もあるからだ。つまりあるエピソードを想起する場合、必ずしも我々は完全に「今の自分」とか「本来あるべき自分」から自由なわけではない。ある決断や決心は、その時々の気分や衝動に左右される場合も多いが、その気分や衝動を支えているものは、実は言語的認識自体の癖(あるいは判断の傾向)でもある。だが同時に判断の癖の方も次第に形成された人生に対する思想に左右される。つまりどんな一大決心であっても、百八十度の人生の転換であってもそこには必ず伏線がある。つまり体験的事実と、そのことに対するその都度の感情的な判断やその体験記憶の蓄積の仕方に応じて個々に固有の沈殿の仕方、判断の癖が我々に身体的にも精神的にも自然と形成されていて、直接的な言語認識的局面でも、クオリアを感受する仕方にさえ固有の傾向の癖として定着している。
 それこそが「今の自分」と「本来あるべき自分」を作る。この二つは常に連動している。つまり「今の自分」は「本来あるべき自分」に「沿っている」か「反している」という判断が成り立つ。
 しかしこの二つは他者への行動を決する時長期的展望においてザッハリッヒに物事を考え、人生に臨むか、それともそういう互恵的利他主義的正義や良識以上にその時の自分にとっての感情論的功利(気分や衝動に従う)を優先して臨むかという判断にも浮上する。それらは記憶内容の形成仕方や想起内容の傾向性とも関係がある。
 精神状態の在り方毎に全く異なった想起内容の傾向というものがあるだろうし、度忘れ、逆にある時何らかの拍子に思い出すことさえなかったことをすっかり思い出すことがある。ここら辺のことは池谷裕二氏やダニエル・シャクター氏の考えを参考にするといいかも知れないし、躁鬱(ポスト・フェストゥム)や、統合失調(アンテ・フェストゥム)、あるいは癲癇タイプ(イントラ・フェストゥム)に顕著なそれぞれ固有の時間認識の分析で知られる木村敏氏の考えを更に参考にしてもいいかも知れない。
 しかしこれは精神分析的にも脳科学的にもかなり困難な問題だが、哲学的にもそうだ。だがこの問題は次の問題へと収斂する気もする。それは想起する自分とは一体何によって構成されるのかということだ。つまりあることを想起する時、想起することで「今の自分」を何らかの形で認識している筈である。しかしこの「今の自分」と、何らかの意味で自分が考える「本来あるべき自分」は「ずれ」ている。つまりこの対自的な意味で恒常的な「ずれ」に対する無意識の判断自体がその都度の想起を促していると考えられないだろうか?
 人間はあるネガティヴなことばかり(人間は誰しも苦い体験、あるいはある状況に立たされた時に焦った経験などを持ち合わせている)想起することが多い悲観的な精神状態に固有の「今の自分」に対する認識を持っている。しかし同時にその「今の自分」とは常に「本来あるべき自分」の像を参考にして形成されてもいる。そして「本来あるべき自分」という「今の自分」にとって固有の像もまた、常に変化し続けており、その像の変化を支えているのは、その都度に固有の独立した欲望である。そしてその都度に固有の独立した欲望は、やはり「今の自分」という認識に支えられており、その「今の自分」は徐々に変化し続けてきているのに、「本来あるべき自分」という像に対して我々が持っている<同一性に対する幻想>によって辛うじて支えられ命脈を保っている。
 そしてここからが重要だが、この「本来あるべき自分」も「今の自分」も共に何らかの形で身体論的な要請から出ているということだ。つまり思考や言語的認識もまた、この身体的な同一性と不可分である(ある程度老いを経験してみないと理解出来ない心理もあるし、逆に若い世代の人間に固有の身体的な悩みもある)。このことに関しては分析哲学系の考えよりも現象学系の考えの方が参考になる。そして思考も、思考を言語化する作用と同時的な言語を思考化する作用(このことはメルロ・ポンティーが「言語の現象学」で詳述している。特に<アルゴリズムと言語の秘儀>)も身体的な条件とか、その時々の身体的同一性に支えられている。しかしこの身体的条件や身体的な同一性の方もまた、逆に言語的思考や思考的言語、あるいはそれらその都度の傾向性、考え方の癖に支えられている。その癖もまた、ある年代に固有の思考判断的な同一性(自分を規定するのに都合よい幻想である信条や人生に対する思想で作る)に支えられている。この点に関しては分析哲学系の考えが参考になる。

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