Friday, March 26, 2010

<感情と意味>第二章 第五節 親しくなることの本質に潜む悪に対する直視を逸らすもの 

 何故他人と親しくなるのかというと、私たちは相互に相互の欠点や、外部世界から見られた場合の弱点を少なくとも親しくなった者同士の間では目を瞑ることを通して、一時外部世界からの自己の欠点や弱点に対する所在を巡る客観的な指摘を回避し得て、そこに憩いと寛ぎ、安らぐことが精神的に必要だからである。だからこそ時には私たちは親しい間柄の人間同士で積極的に冷厳な他者を敢えて作る必要もあるのだ。
 しかし親しくなるということの内には当然今の論理で行けば悪が潜んでいる。つまり共謀して結束して必要悪的な責任転嫁をすることを通して、偶像に過大な責任を負わせ、その偶像自体をいつでも挿げ替えることを可能なように監視する権利を相互に確認し合っているからである。全ての共同体、国家、法人はそのような内的な論理を持ったシステムに他ならない。親しくなるということの内には悪を相互に許容し合うと言うことがあることが判明した。つまり悪は端的に許容し合う範囲内で充足させることを通して、それ以外に悪を発現させないようにすることを無意識の内に我々が目論んでいるものなのだ。それをカント的に根本悪と呼んでも、もっと直裁的に理性的措置と呼んでも別に支障はない。理性が必要であると我々が思うのは、我々に既に悪が常に沸々と芽生えつつあることを常に自覚しているからに他ならない。だからこそ悪とは直視しないように用意周到に常に悪自体ではない方向に目線をやることを我々自身に促進していく必要があるのである。
 何故なら悪そのものを我々の中に発見することに躍起になっていると、平静な心理で全ての社会行動を営むことが出来なくなるからである。つまり我々自身の悪を直視することを逸らすこと自体が本来的に我々が我々自身に望むことなのであり、だからこそ自分自身に関係のない多大な量の情報を得ようと我々は躍起になるのである。そして端的に誰かと親しくなるということは、その親しい者同士の間では一時その自分自身に巣食う悪に対して直視的反省意識を持たないように相互に配慮し合うということに我々が無意識の内に意味を見出しているからこそ可能なのだ。と言うともそもそも我々は表象と言うものを大半の部分で実際に何かを見ることに費やしており、例えば過去想起とか想像ということも、睡眠時以外では殆ど言語的理解とか論理的理解とか経験的認知とか仮定法的推理とか記憶内容の整理によってなしており、実際の映像的想起というものが頻繁に到来するわけではないのだ。そして寧ろ我々は社会ゲーム内での対人関係と、言語行為上での思念・思考そして社会行動において取り得べき責任的意識に常に釘付けになっており、表象はそれらを意識上に顕現させることに費やされており、反省的意識によく見られる映像的想起や想像というものは、殆ど一人になった時にしか発揮され得ないものだからだ。つまり一人になった時に一気に沈み込む反省意識ということを我々は相互に知っているからこそ、親しい間柄でいる時には、反省を忘れさせること、とりわけ自分の内部に巣食っている悪に対する直視を相互に協定的に逸らしているのである。「一人でいる時に出来ることまで親しい間柄でいる時に相互にすることはない」という約定こそが実は我々が通常思い遣りと呼ぶものなのである。
 だからこそそこには極めてノンシャランとした相互のビンゾに対する意識が介在しているのである。だから逆にその相互ビンゾ性に対する意識が濃厚であることから、公平な眼で我々は親しい者同士とそうではない相手との間で持つことが不可能なのである。それは何も人間に限らず、住んでいる土地、している仕事、よく知っていることやものとそうではないことやものとの間でも言えることなのである。

 少し纏めてみよう。親しくなるということを人間同士に限定してみると、親しくなるということが成立するのに重要な条件とは相互に欠点を重々承知しているのにもかかわらず、その欠点を補い合うという発展的なものである場合なら何ら問題はないものの、存外親しい相手と自分との共通性、しかもそれは長所ばかりか欠点においてもそれを相互に認識し合えるということ、しかもそれは暗黙の内にそうなるのであり、そしてその欠点を相互に暗黙の策定的な意味で反省(哲学的な反省ではなく通常の意味での反省)し合わないという了解があり、自分の欠点や弱点を直視することを相互に回避していること自体にある種の慰安を感じ取っているのである。つまり親しくなるという間柄には往々にして逃避的な性格があるのである。そしてそれが一切ないような親密な関係というものはあり得ないし、またそのように弱点や欠点に対する逃避という性格が全くないような親しさがもしあるとすれば、それは居心地のいい物ではないから、長続きするものではないということも言えよう。そしてこの性格は個人の間の親交関係についても言えると同時に、共同体というもっと大きなスケールの人間関係にも該当することなのである。
 つまり人間とは一方では自分と無関係な事項に対して多大な情報量を摂取することを通して、自己内に限定される固有の事情やら関係がある切実なことから目を逸らすことを通して安心を得て、自らのいつかは迫り来る死に対しての恐怖や不安を除去しつつ生活しているということと、まるで相補的なことでもあるかのように、本来ならば克服すべき自らの内部に自覚する欠点や弱点をなるべく正面切って見まいとする逃避的な心理において親しい人間的な間柄を構築していくという側面もあるのである。
 そして偶像視する存在を常に自己の外部に希求するような心理が、その逃避的な人間の対人関係、マスメディア利用ということの行為において介在しているのではないかというのが第三節において私が示唆しておいたことなのである。意味とは本質的に差別を含有しており、差別することがそのことを通して自己の安定を保つことにあることは間違いないことだし、その安定希求ということにおいて我々は責任を自らに対して外部へ宣言することも、出来得る限りその範囲を限定すること(責任転嫁すること)を通して責任を遂行することで自己を安泰化するために共謀して同一の偶像を設置し、その偶像に自分たちにとって遂行し得ないものを仮託し、しかもその自分たちにとって無能力な責任を負えないことの遂行をまるで偶像であるなら当然のことであるかのように、いざその偶像が躓き、失墜した時には遠慮することなくその偶像を葬り去り、別の新種の偶像を捜し求めるその飽くなき反復の中に我々はいるのである。そして往々にして誰か特定の人と親しくなるという人間の行為には、端的に相互に相互の欠点や弱点を本来なら克服すべきことであるのに、そのことを重々承知しているが故に、寧ろその義務を相互に怠ること、つまり小さな悪を容認し合うような逃避願望において結びついているという性格が濃厚に漂っていると言ってよい。
 しかし私の偏見かも知れないが、日本人はことマスコミ、マスメディアの報道に見る限り権力者の側の人が失墜した場合、より外国よりもその失墜を追い討ちを駆けるようにまるで待ち望んでいた生贄を探し当てたように過剰にそのミステイクを騒ぎ立てはしないだろうか?そこにどこか品性のなさを感じ取ってしまうのだが、果たして私だけなのだろうか?
 再びまとめると、親しくなるということは少なからず相互に最低限許容し合える範囲内の悪を相互に容認するということにおいて、相互に憩いと寛ぎと安らぎを求める心的な活動であると言ってよい。そしてそれが一定限度を超えるとナアナアの馴れ合い関係に堕すということが言える。だから親密な関係とは最低限の必要悪として相互の悪を直視する機会を少なくとも親しい者同士でいる時だけは猶予されるという精神的権利として捉えることが出来る。
 そしてここで最後に述べておきたいこととして、意味とは往々にしてこの親密度の高いものに対して、それを重要であると考える傾向が我々にはあり、その親密にして重要であるということが言える場合と、そうではなく寧ろ弊害であるにもかかわらず、それを買い被り、過大評価していることによってバイアスにかかった考えを重要視し過ぎるという誤謬を犯すということがある。だから前者の場合それは本質的に意味があると言えるが、後者の場合は異なると言えよう。それは無意味という形でまさに意味にかかわっている。そしてそれは我々が設置している偶像に対しても十分言えることなのである。

Tuesday, March 23, 2010

<感情と意味>第二章 第四節 自己と無関係のものごとに対する思念の必要性 

 今ホームの端にいる私から100メートル先にいるホームのもう一方の端の男女二人にとって私の存在が気づかれていないのなら、彼らにとって私は存在しないのに等しい。しかしにもかかわらず私にとって、私の視界の中に存在するその二人は私の世界にとっての今は重要な構成要素である。私が投げかけられる視線に気づかないその二人にとって存在しないのと同じ私にとってその二人は私の知覚にとって大いなる関心事なのである。
 私は私の知覚世界を生きる。しかしその私にとっての知覚世界には私にとって縁もゆかりもない多くの構成要素に満ち溢れている。それは一体何故なのだろうか?
 つまり全ての存在者にとって大半の他の存在者の存在事実も、存在理由も、自分の人生とは殆ど何の関係もないものである。もし私が他者に投げかける視線の全てがその視線を投げかけられた者たちによって確認され得たとしたのなら、私は私の視線が示す私の関心の全てが見透かされているように思い、全ての視線の動きを他者から監視されているように感じ、息が詰まってしまう。
 つまり私は世界の只中にある日突然投げ出されて存在しているのだが、その事実に対して孤独を感じていたとしても仮にその孤独の全てが解消され私の存在が他の私以外の全ての成員(存在者)によって認知され、関係づけられたのなら、寧ろ私は生きた心地がしないであろう。どこかの国の指導者でさえ、そういうことまで望んでいるとは限らない。
 つまり人間は自分以外の他の存在と大半が無関係で無縁であるが故に自由意志というものを実感し得るのである。私たちが自分にとっては大半が無縁の情報を積極的に好奇心に忠実に多く摂取する=自分と無関係な情報に関する認知量を増大させる(テレビ、新聞、ネット等を通じて知る情報の全てを指す)か、と言うと、実は大半の情報が今後の自分の人生における行為意志決定に関してさえ何の役にも立たないにもかかわらず、その摂取をやめないままでいるということの根拠とは端的に、自分の未来の行く末に無縁の情報に自分の関心が向けられている間は少なくとも自己内における自分に降りかかるかも知れない自分に対する災難(例えば私は明日死ぬかも知れない)が起き得るという可能性に対する思案、つまり不安を除去し得るからに他ならない。つまり出来る限り自分に直接降りかかることのない情報や認知内容を多く蓄積することで、自分に直接降りかかり得る事態に対する思念に忙殺されることを未然に防止しているのである。
 私は今ホームの端にいるが、その眼前の100メートル先に私の親しい知人が私の方に向かって歩いてきている。その時彼や彼の周囲にいたホームで電車を待っている人たちに向かってあまりにも大勢一挙に到着しかかっている電車に乗り遅れないようにホームまで階段を走って降りてこようとしていた矢先、将棋倒しになってしまいホームの先で電車を待つ一群の人たちに雪崩を打って押し寄せたとしよう。私はその時私の知人がどうなるかということだけに注意と関心を一気に集中させはするが、私の知人以外の人がどうなるかまでは考慮に入れることなどないだろう。
 つまり私は私にとって関心事であるものの全てが私にとって近しい存在であったり、親しい者であったり、要するに「私にとっての世界」ということからしか関心を寄せることなど出来はしないし、ましてや私の親しい知人がどうなるかという局面において私はその知人以外の人の安否などまで思慮の対象として認識している暇などないのだ。だから寧ろそれこそが正義というものの本質なのである。私たちは幾ら自分とは無関係なことに対して思念を集中させても、それは所詮正義からではないのであって、端的に自分のことだけを深刻に考えるということが極めて精神的には不安を呼び起こすということを知っているからなのである。私たちは自分の直面した問題から自分の関心を逸らすことによって、安心しているのだ。だからニュースの内容がどんなに悲惨なものであっても、そのニュースの当該の人たちが自分自身と関係がない人たちであれば、寧ろそのニュースが悲惨であればあるほど自分はセイフティーエリアに生存していることに感謝して安堵しているのである。それでいてその自分とは無関係な人々に対する心配をネタにして、自分たちがさも正義があるかのように錯覚して自分自身に中に巣食うエゴイズムに眼を背けるようにしているのである。もしその自分の中にある強烈なるエゴイズムを常に直視しているしかないのなら、我々は一刻も楽しい時間を過ごすことなど出来はしないのだ。私たちの日常においてより常に必要なこととは、端的に自らの中の悪から眼を逸らし、他者に対する正義の名の下に自分自身が存在しているという我々によって設定された「べきこと」の内に自分を当て嵌めて安心することなのである。と言うのも我々はそのように気休めを得ることなしには、一切の行動に踏み込めないのである。
 しかし自己と無関係なものごとに対して思念する必要性において、自分にとって切実なことだけを思念することが不安を増大させることに繋がるので耐えられないということであるなら、もう一度誰か特定の人と親しくなるということは、一体どうしてだろうか、理由的な根拠についてもう一度考察してみる必要がありそうだ。

Friday, March 19, 2010

<感情と意味>第二章 第三節 意味と差別と偶像

 一般に差別とは、社会的な現象として顕著なこととして、差別を否定的に叫ぶことからスタートする。また差別する人を差別するということから考えると、実は誰かが誰かを差別しているのだと思えるということも、それ自体差別である。そこには自意識と自己愛と他者の視線が異様に気になるという神経症的な症状が立ち現われている。
 また差別のないところでは意味が生じないということからも、差別のない状態からは何も生まれない。だから差別に対する克服が何かを生むということでもないのだ。寧ろ差別するとかしないとかそういうことを忘れることからしか自然に何も生まれないのだ。
 つまり相手からの差別だけを考えるのではなく、差別されていると感じるということの正体を考えることが重要であるということだ。また差別の眼差しを向けられると感じる自分とは、一番相手を差別したがっている自分であるとも言える。一体差別と言うことはある意味では同化ということに対する使命感から発生するとも言える。つまり差別されないような自分を設定して、それに自己を当て嵌めようと画策することから、実は差別される側から差別する側へと自己を転化しようとしているからである。だからまず同化と言うことが必要であるかどうかということは問われるべき命題として存在する。もしかしたら、その同化への使命感とはただ単なる幻想であるかも知れないからである。異化ということはでは、差別とどう違うのだろうか?これもまた一考を必要とする問題である。
 差別とここで言っているのは、内的感情、間主観性に関してもそうだし、認識上での差別化、つまり類別、価値設定といった理性レヴェルから悟性レヴェルにまで全てに対して行き渡っている。それは例えば自由ということが、内的感情のレヴェルから、可能性条件として敷衍出来るような意味で、差別とは感情もそうであるが、認識や判断においてもあり得ることである。ただ我々は内的感情だと理解しやすく、そうではなく概念的判断であると途端に理解し難くなる。そうである筈だということこそ最も思い込みである可能性が大きい。待てよ、或いは違うか知れない、とそう思えなくなるということが一つの陥穽なのだ、と思わなくてはならない。
 最初私たちは何かに対して、誰かに対して親しくなる時、何らかの意味をそこに見出していた筈である。しかし一旦親しくなるとその親しくなった根拠がどうでもよいものとなり、次第に形骸化の一途を辿る。形骸化された親しさとは馴れ合い以外のものではない。
 それは何事かに対する理解ということにも言える。友情関係や同僚や仲間の関係という人間同士の関係ではなくても、真理命題とか、論理的理解ということにも言える。納得するということが、しばしば人間関係的な意味では妥協と、無理矢理こじつけた理解である場合があり得るということからも、理解ということが理解したいので、お互いに理解したことにする(手打ち)ということが多いのだ。
 最初の問題に戻ると、誰かに差別して欲しくないということは、とりもなおさず、誰かから一定のレヴェルで特別扱いして欲しいという願望と表裏一体である。そもそもそういった願望を一切持たなければ誰かから差別されているという気持ちになどならないものだ。誰かと親しくなるということは、親しくなることによって外部から押し付けられる責任転嫁をその親しくなった相手からは免れ得るということを願望的には意味している。そしてその親しくなった相手と共謀関係に陥り、他の成員に責任転嫁し得るということの共謀行為の正当化と、その正当化によって孤立を未然に防ぐということが誰か特定の人と親しくなるということなのである。
 何かに対して重要であると思えるということは、そのように自分にとってそれが重要に思えるだけであるということを常に念頭に置いておけるということは、実は簡単そうでいて、そうではない。何かが自分にとって重要であるということは、とりもなおさず、別の自分にとっては重要ではないものに対して重要さを認める成員が必ず存在するということを意味するということがなかなか人間には当たり前なのに念頭において置けないのだ。
 人間は自分が責任を負えない範囲のもの(その方がそうではなく自分で責任を負えるものよりもずっと認知量としては多い)に対しては、それをさえ責任を負えるような存在として偶像を置く。
 ある意味では何かを無意味であると決め付けることとは、それに意味があることを薄々(いやある時には明確に)知りながら、無意味であってくれればいいということと同一である場合もあるのだ。願望と決意を一致させてしまうこと、しかも惰性的な無視ということが我々に取りやすい不安を除去する手段なのである。無意味であると判断することはそうすることで責任転嫁しているということであり、責任転嫁するということは、責任転嫁し得る対象として便利な偶像を置くことであり、その偶像に対して自分たちは責任を共謀して負わないということの決意の共同声明なのである。責任転嫁したい成員同士の結束こそが偶像を生む最も大きな要因である。しかし不思議なことに責任転嫁しておいたのだから、当然その転嫁された当の偶像が失敗したとしても、そのことに対して責任を追及すべきではないのに、偶像の失敗を我々は許容し難いのである。つまりあくまで子供の立場にありながら、過大な期待を大人たる偶像に寄せるのである。つまりこちら側から勝手に押し付けておいた課題をこなさない偶像をぽいと背を向け別の偶像を探しだすのである。勿論失墜した偶像を蔑み、精神的な生贄にその堕した偶像を位置づけることを忘れずに。
 人間の存在様相として一番その性格をよく表していることこそ、責任転嫁ということなのである。それは殆ど無防備でいることで不覚にも得てしまう損失を極力未然に防止する無意識の策謀であり、防衛本能なのである。

Sunday, March 14, 2010

<感情と意味>第二章 第二節 唯意味論 

 哲学的ゾンビということが言われる背景には、寧ろ私たちにとっての日常生活がいかに何らの反省もなく進行しているという思いがあるように思われる。例えば慣例、習慣、儀礼といったことが、ある部分では何の疑問も呈されない形で滞りなく、恙無く執り行われるということ自体にそのことが実感される。全て生理的にも神経学的にも同一の、思考力も判断力もありながら、ただ唯一あらゆるクオリアや意識がないという存在としての哲学的ゾンビ、現象ゾンビというものが取り沙汰されるのは、そういう無反省な日常の中での習慣依拠的な部分、前例逸脱恐怖に根差している。
 しかしよく考えてみると、永井均氏が最近ゾンビに対してビンゾということを<私>の命題論的範疇で提唱しているが、ビンゾとか<私>という非ゾンビなどというものが成立する余地が果たしてあり得るのだろうかということに対して私はいささか疑念を持っているのだ。
 つまり我々はそもそも本質的に生存していて、それをドーキンスのように生存機械と呼ぶことの方が寧ろ相応しい生きる屍なのではないかという思いが私を支配している。そう思う根拠として私たちは全ての行動や全ての思考に対して何らかの意味づけをしているということがある。意味は言語行為においてより顕在化されるようになっている。言語行為は話者、記述者同士の責任の確認以外のものではないのであって、責任倫理を問うということの内に全ての行動が何らかの外在的な意味を持ち得るということを通して、個々の個人が携えるべき意識やクオリアといった現象的な価値を無化することにおいて我々の日常生活が成り立っているということが判然とする。
 何に対して視覚的に、聴覚的に、味覚的に、触覚的に感動するのかということさえ、ある部分完全に選考性の遺伝子の作用であるとさえ言い得るのであれば、私たちはこう言うことが出来る。私たちはゾンビであることを誇らしげに生きていくべきなのであって、現象論的価値規範であるクオリアとか意識といったことは、体よく私たちの生が何か意義深いものであるかのように錯覚させ得ることを知った者による統制原理以外のものではないのだ、と。
 赤いリンゴやトマトはそれ自体で美しさを確かに持っている。しかしその美しさは現代アートのオブジェとしてのそれではない。リンゴもトマトも食べるために存在しているのであり、観賞用であってもそれは眼を楽しませるという目的において位置づけられる。全ての価値は意味づけ作用を必要とし、全ての人間の行動は責任によって、あるいは個人に付与された自由によって意味づけられている。従って私たちの存在そのものが意味づけから漏れるということなどあり得ない。すると行為は責任と義務に対する自由と権利という二分性において意味の世界において解釈され得る存在以外ではあり得ず、生存に対して死もそうであり、死は既に生きられた生ということの範疇で理解され得る全ての価値の無化という形で一定の位置を与えられている。私たちの存在自体が既に意味の呪縛を免れ得ない。つまり存在物として、生命存在として、存在事実として、存在意味連関として解釈され、理解され、判断され得る対象としてしか全ての存在物、存在様相は把握され得ない。このことは意味世界の意味連関のサイクルの中でしか全てが存在意義の命脈を得ていないということから、必然的に全ての存在は非生命であれ、生命であれ、人間であれ、非人間であれゾンビ以外のものとして存在し得る全ての可能性を剥奪される。要するに明るく肯定的に私たちは与えられたソンビとしての運命を生きていくしかないのである。
 そのことはこう言い換えられる。私たちに直面している現実に対する哲学的命題論的定義とは唯意味論だけである、と。
 意味は目的が作る。目的は意味に対する問いかけが作る。すると意識やクオリアとは目的行為連関の中で何らの静止した静観すべき猶予も与えられていない。それらはとどのつまり解釈の問題に帰する。すると唯意味論とは「私たちは明るく肯定的にゾンビとして与えられた運命を生き抜くしかない」というスローガンの別名であることになる。
 意味を知る、意味を追求する、意味を確認するということは、その行為自体で安心するためではないし、ましてや幸福になりたいためではない。それで安心出来るとか幸福でいられるというような問いかけは寧ろ大した問いかけではないとさえ言える。意味を意味として見つめるところにある意味では意味を知るために、意味を見出すために思考することだけはその時間内に保証され得る。そのことのためだけに意味は意味である意味がある。
 日本人は前例逸脱恐怖に常に苛まれていると言ってよい。何故なら官僚によって支配されていることを重々知っていながら、そのことに対する抵抗を示すことに億劫だからである。日本人は端的に過大な義務と責任を負うことさえ回避出来るのなら、多少不自由であったり、多少権利が削減されていったりしても、それくらいは我慢しようという心積もりでいることが多いと私は思う。このことを権利欲求削減的責任回避と呼ぼう。つまりそのような不自由さに耐える惰性こそが私たちにさもクオリアに価値があり、意識だけが価値があるような出版言説を提供しているのである。確かにクオリアにも意識にも考察するだけに価値があることは認めよう。しかしクオリアや意識は格別新しい概念ではない。それをさも新しいように装わせることによってムーヴメントを作ることにある僭越な謀略を感じ取らざるを得ない。企業が人を作るのではない。人によって経営されている企業によって人が育ち、人によって企業が育つようになっていくべきなのだ。しかし日本では企業に自分自身の人性を提供してしまっているケースの方が昔から多いと思う。
 その一番の原因とは、責任の重圧に耐えられないということの根拠として、端的に一回失敗した敗者や挫折者に復活の機会が与えられていないというところにあると思う。
 そういう社会構造であることが、引いては失敗や義務放棄せざるを得ないような状況になることを未然に防止する保守的な選択肢をしか我々に思い浮かばせないままになってしまうのだ。それは世間的に白い眼で見られるということに対する不文律的な懲罰に対する恐怖の念を呼び起こす。一度失脚した者を何となく差別してしまうというところに私たちの社会の穢れ忌避性があるのだ。そういう雰囲気に支配されている社会では、必然的に暗黙の了解を把捉することの下手な成員を爪弾きにしていく傾向を有することになる。その際たる処遇とは黙殺である。
 何故そうなるかと言うと、肯定的にゾンビ的存在である我々の性格を知ることを躊躇しているからである。私たちは全て所詮社会のロボットにしか過ぎないのだ。間主観性における判断のゾンビでしかないのだ。
 つまりこう考えればよいだろう。私たちにとって生きるということは、世界にとって自分がどういう存在であるかということを自分の側から世界に対して返答することであり、世界が自分をどういう風に見ているか、どういうことを期待しているかということに対する返答であり、それが仕事となり、その仕事に対する報酬となっている。しかし仕事に関しても報酬に関しても、そういった一連の行為においても、必ず巧くいくとは限らない。失敗することの方が多いし、要するにそういう巧く行かなさ自体が私たちにそれまで信じてきた信条や思想や信念を変更せざるを得ない局面にしばしば立たされる。そこで私たちは考える。これがこうなるからこうであるべきだという考え自体を成立させるものとは一体何か、と。その因果論的な考察の彼方に私たちは行為を目的や意味として捉える仕方の中に既成の仕方に対する認識外的な何かがある筈だ、と。
 そこに永井均氏が「なぜ意識は実在しないのか」において規定したようにある事象に面した時に感じること、ある事象に面した時に考えること、そういった全てのことを心理的なこととして、その心理的なことを包摂する現象的なことという価値を見出した。つまりそうである筈であること、そうなっていく必然性があることを全て説明原理的にある認識事実へと後退させることを通して実は、それを後退させるべき筈のもう一つの価値として見出されるべきものとして意識やクオリアを現出させたのだ。永井氏はそれを<私>とか昨今ではビンゾと呼んでいる。
 しかし極めて重要なこととは、そういった価値は常に通り一遍であるとして後退させられたゾンビということ、あるいはゾンビをゾンビであると思いもしない心理的なことによって支えられているということだ。現象とは心理が作っているとも言えるのだ。あるいは根拠とは判断によって作られていると言ってもよい。それは現象よりも心理の方が偉いとか、根拠よりも判断の方が偉いということでもない。つまり心理とはある角度から推察すれば現象的な価値を他方に必要とするということであり、判断とはある角度から推察すれば根拠という価値を他方に必要とするということであるだけのことである。
 それは生き甲斐とか、存在の根拠という形で私たちが常に問いの彼方にある価値を見出しているということを意味し、その価値とは端的に存在することの意味を見出す衝動の駆動力なのである。
 意味を問うということは、存在を存在するものの間で階層を作らないということを前提にする。しかし親しさとは常に階層を求める。私にとって一番大切な人、私にとって最も慣れた仕方、私にとって最も馴染みある今住んでいる町という風に。要するに親しくなることとは、習慣化することを厭わないということであり、習慣化すること自体に拒否反応を自己内で見出せないということであり、端的に全ての存在に対して公平ではいられないということであり、全ての存在に対して一定の差別を表明することなのである。
 そして意味を問うということの内には、私たちの内部に巣食っている差別感情そのものが、実は何かに対して親しくなり、それが行為であれば習慣化し、その習慣依拠的な日常生活上での行為こそが、意味というものを作っているということ、つまり意味とは意味することや意味するものを、意味しないものや意味しないことと併置することに他ならないからである。つまり何かに対して親しくなるということは、そう親しくはないものをも同時に作ることであり、疎遠なものや絶縁するものをも作るということなのである。それはある者にとって親しいもの(者、物)が意味あるものであるということからも明白である。
 つまりそういった決断の中に全ての権利も自由も含有されているのだ。
 するとこの節の結論としてはこう言わなくてはならない。意味論とは意味するものと意味しないものとの間の階層を設けることだから、必然的に唯意味論であるところの生存ということは差別感情を介在させて生きること、何かに対して親しくすることを通して何かに対しては疎遠になり絶縁することを意味する生とは差別を生きることであるという現実自体を問わずして何も究明し得ない、と。

Wednesday, March 10, 2010

<感情と意味>第二章 親しくなることの弊害 第一節 一般化と普遍化

 私たちがある本に接する時、最も心がけなくてはならないことの一つはその本が示す意味である。例えば今の本は、多くが本のカバーの脇などに著者の写真が掲げられているが、その著者固有のプロフィールは正論としては何らその本が示す意味世界とは関係がない筈である。しかし正論とはしばしば退屈である。従って本の装丁とか、著者のプロフィールとは、初めてその本を手にする全ての読者にとって、そして初めてその著者の本に接する読者こそを最も大切にしなければならないという正論からすれば、何らどうでもいいことなのに、往々にして正論が退屈であるという理屈からか、しばしば本がどのような装丁でどのようなプロフィールを持つ著者によって出版されるかということの方に、その本が示す意味世界よりもウエイトがかけられるということは、出版企業界自体の運営や維持上必然的な展開になってしまう。
 そのことは政治の世界において為政者がどんどん交代していくような場合、その時々の為政者にとって掲げられたスローガンにいかに説得力があるものであっても、その為政者が退いた後までは一切マスメディアでは取り上げることすらなくなる。私たちにとって最も大切な議題とすべき命題よりも、その都度の為政者にとっての関心と、それに対する世間一般の反応の方がずっと大事ということになってしまう。
 茂木健一郎氏は「化粧する脳」や「脳を活かす生活術」といった近著において、自分の顔くらいよく知っているようでいて、本当はその実像を知らないものはないという考えを適用すれば、私たちは自分にとって親しい他者(家族や友人といった)ほどある意味ではよく知らないと言うことがあり得る。つまり親しくなるということは、その親しくなってしまったものに対しては純粋に公平な眼で他のものと突き合わせることが出来なくなるということを意味する。それは言い換えれば親しいものほど純粋に意味連関の世界から逸脱し、客観的価値の世界から(そんなものがあったとしての話であるが)逸脱し、要するに個人的感情論の世界の構築物に堕するということである。
 それを堕するとするか、昇格するとするかによっても、論点は完全に異なってくるが、重要なこととは、言語行為とは全て実はこの責任の世界のことであるということ、そして責任とは親しいものと親しくないものとを敢えて等価なものとして取り扱うという意識以外のものではないということをここでは言いたいのである。
 意味とはそれが伝わるということにおいて、語彙や文章や、発話技巧を通して話者や記述者による伝える技量や語彙文章、語りにおける技術駆使能力の優越性そのものによって相手(そのメッセージを伝えたいとメッセージ伝達者が目論むところの読み手、聞き手)に何かが伝えられること自体が円滑に捗るということと、そういう意図があるにせよ、意図的には希薄にせよ、言語行為自体が私たちの意図とは無縁に既に持ってしまっているそれ自体の力によって伝わってしまうということの二つの相反すること、つまり意図的・恣意的なことと、無意識なことや自動的なことの双方の間にこそあると私は考えている。すると本を出版する時著者は、これだけは読者に伝えたいと望み、事実その意図に忠実に意識的に技巧を凝らすということと同時に、ある一定以上の技巧を凝らした後は、言語行為自体の運搬、つまり自然になるに任せる部分というものが共存したまま進行するということが言えるのではないだろうか?これは何も出版や発話といったことだけではなく全ての行為に言えることではないだろうか?
 すると親しい間柄であればあるほど見え難くなる部分があるように、親しんだ技巧や技術や分野や専門であればあるほど意図的にしても無意味になるような領域があるのではないかという問題が発生してしまうことになる。つまり慣れ自体が著しくその行為自体の本意であるメッセージ性や意味を殺してしまうということがあるのではないだろうか?
 それは親しい者が犯したミスや誤りに対して寛大になり過ぎることが、社会一般では不正入札や甚大に利害においてバイアスがかかってしまうような政治献金などで法的に逸脱するような事態を招聘するような意味で、我々は一個一個の言語行為においてもメッセージの持つ意味性が有効に作用し得る場合とそうではない場合というのが出てくることがあるということへと繋がる。
 つまり「そんなことは言われなくても分かっていること」という領域が全ての親しい者同士には付帯してくるということ、そして実は「そんなことは言わなくても分かっていること」という領域自体が実は最も真理命題論的に重要なことなのにもかかわらず、それを等閑にしていくことが往々にしてあるということを物語っている。少なくとも哲学的には何度も何度も立ち現われる命題こそが最重要な場合が多いと思われる。そしてその重要性を親しさが意味論的に無化してしまうということがあり得るのである。
 だから一般化ということ、あるいは普遍化ということは、一度自分にとって親しくなってしまったものに対して、それが何であっても一旦突き放してみるということ、わが子を谷に突き落とすライオンの心理になるという意図的な決意である。つまり敢えてそうすることによって意味連関の世界の冷たいとさえ言える公平な眼(それは完全にそうであることは不可能であるにせよ)を最低限だけでも確保しておいて、少なくとも親しくなってしまったことによって失う慣れ的な主観、つまり習慣依拠的な無思考性を排除していくことを意味する。そしてそれが困難であるのは、エロス論的な存在に対する配慮や気配に対する親しみが愛であるという側面と、そうではなく客観的意味連関の世界における存在理由に対する明確な自覚こそが愛であるという、共に相反する価値が常に同伴しているということが常に愛をかける部分を四捨五入してしまうようになってしまうということと同じように、よく知っている者(や物)に対してそれを公平な価値規範という相貌の下に見ることが出来なくなってしまうということが双方とも弊害として立ち塞がるという事態によって示されるということである。
 と言うことは、逆に一般化や普遍化においても、親しくなってしまったものに対して認めるべき価値と同じように全てに関して見よということが言えるように思われる。
 つまり他者に愛情を注げという「汝の隣人を愛せよ」とか「汝の敵を愛せよ」というキリスト教の原理がここで必然的な真理として持ち出されて得る余地が出てくるということである。キリスト教の原理の一つだからそれが正しいのではない。逆である。それが正しいからこそキリスト教の原理としても定着されてきたのである。
 つまり本節において私が最も言いたいこととは、一般化や普遍化は、それはあたかも前例的に一般化し得るから、普遍化し得るからそうすべきなのではなく、その都度その一般化と普遍化をすることに愛着が持てるくらいに親しくなれ得るからこそするのだということと、ただ親しくなっていってしまったものの馴れ合い性を排除して、平等や公平ということを意志的に正しいことであると冷たく四捨五入してそう思うのではなく、暖かく切り捨てられるということを自覚して実行するということが大切であると、そう思うということである。

Friday, March 5, 2010

<感情と意味>第一章 第十四節 言語行為と第三者、そして孤独

 「私」という主語を明示する西欧諸語では何らかの外在的真理に対しても、それが客観的にあるという報告ではなく、I thinkとかI believeという風に行為主体の信念として語られる。しかしそれは古来、人類言語創世の頃からそうだったとは言い切れない。寧ろ言語行為が成立するためには、「私」や「あなた」より先に(私)にも(あなた)にも共通して認められる何らかの外在的対象、それは事物でもいいし、自分たちの立たされている状況であってもいいし、自分たちの身体部位的な呼称でもいいし、第三者という言語行為能力保持者でもいい。要するに「私」でも「あなた」でもない第三者こそが共通した二人の認識における同意を得ることの出来る存在として、言語行為を可能ならしめる媒介足り得たと考えることが出来る。と言うのも「私」と「あなた」という二人称表現とは、端的に集合され成員間での各成員の同一性峻別とは違った対峙ということが控えているので、それは社会共同体全体が一定の階層性や責任分担という水準に達してから後に、個的な対話というものが成立してからのことだと考えられるからである。もっと簡単に言えば、「私」と「あなた」は敵対的対話の場合、責任の擦り合いとして機能し得るし、逆に友愛的対話であるなら責任転嫁を共謀する者同士の打ち合わせとしても機能し得る。
 つまり「私」の内面感情は「あなた」に伝えても、「あなた」にとっては伝えられるものでしかないということこそが逆に敵対していても友愛的であっても所詮そこに壁があるという意味で設けさせた諦念的な差別こそが「私」と「あなた」なのである。またたとえ「私」が「あなた」にそれを伝えるように求めても「あなた」はそれを「私」に伝えたくはないかも知れないし、伝えたとしても嘘かも知れない。それは「あなた」にとっての「私」からの報告に対する「あなた」の中の査定においても同様なのである。そして「私」も「あなた」もそういう風に「私」、「あなた」という語彙を使用する限りそのことを知っていて、それを前提に話を進めている。
 しかし少なくとも例えば戸外で仕事をするために一緒にいる「私」と「あなた」との間で外在的事実である「今日は酷い雨だ」ということは「私」にとっても「あなた」にとっても自明的であり嘘が利かない。するとそもそも「公」とは「私」が「あなた」や他の誰かに「合わせる」以前に既に「私」にとっても「あなた」にとっても、いや他の誰(少なくとも「私」や「あなた」が認める範囲内の)にとっても自明である認識事実が同意されてあること自体に存していたと言える。要するに「公」とは「私」や「あなた」が「私たち」に加担する以前に既に「私」によっても「あなた」によっても個人毎の主観を交えることなく自明に同意出来ることに対する確認にあったと考えることが出来る。と言うことは逆に「公」とは哲学的思惟の優先的な内的関係からのものではなく、そのことの断念、哲学的思惟の抹消が前提されてあるということになる。
 しかし私たちには私たち全員によって確認出来ることと、そうではなく一切確認出来ないことというのがあり、その中でも「自分だけしか知らないこと」こそが他者への報告自体の存在理由を構成する。だから社会行為ということから考えれば、自分の内面とか感情とかは自分にだけ適用される(と少なくとも自分ではそう思う<このことについてはカントがそのことを考えたと私は思うので後で記述する>)こととなる事情とかも、この「自分だけしか知らないこと」の延長線上にある。しかし同時にその自分だけ適用され得る事情が優先される(権利の獲得)には、それ以前に公的にそれを要求し得る代価として「自分にしか出来ないこと」を「あなた」や他の人々に対して「私」が分担していく(責任の遂行)必要があり、且つその分担された業務こそが仕事となり、そこに責任が生じる。また責任遂行に伴って必然的に内的なことの抹消という事実が個人には大きく圧し掛かり、個的なことから内面的なことへと思惟が発展していくこととなる。そのことを社会が予め熟知しているからこそ、責任を果たした者にのみ獲得され得る権利が与えられる。
 つまりその段になって初めて我々は「私」とか「あなた」とかいうことを明示することが可能となるし、内的事情を相互に報告し合える心の余裕が生まれるのだ。
 すると今迄の論理から行けば、「私」や「あなた」ということを明示することが可能となる礎として起源的に全ての「私」や「あなた」にとって共通する自明的で外在的な事実や存在や現象が居座っているということになる。するとある言語共同体にとって自分たちの話す言語が通じない未知の言語を話す共同体こそが自分の共同体全体にとっての他者であり、異民族の異邦人のどの成員も起源的な第三者ということになる。勿論この第三者の中のほんの一部は彼にとっての自民族から離脱して「私」や「あなた」にとっての共同体に加入してきたであろうし、逆にそれまで「あなた」だった誰かは他者共同体へと所属を鞍替えして行ったであろう。(裏切りの派生)
 私たちの中に権威や共同体の公権力に付き従う面、つまり社会責任の意識がある反面、権力の座からの失墜を来たす成員や犯罪者たちに同情したり、ある時はそういうアウトサイダー、アウトロー、アンチ・ヒーローを応援したりするところにあるものは実はこの第三者(他者)へ向かうべき加担したり(つまり常に「あなた」とだけの関係でいること自体は友情で同僚同士でも夫婦でもストレスが溜まるから)ある時は裏切ってしまった私たちの祖先が幾ばくかの人々のDNAが疼くような遺伝子の記憶による作用があるかも知れない。
 つまり「私」や「あなた」が言表として定着する以前に既にいずれ表面化する「私」にとっても「あなた」にとっても自明な空、土地、海、川、朝、昼、夜などがあり、然る後<私たち>(ここで<>としたのは、「私たち」とは「私」や「あなた」という言表が定着した後に成立するが故、それを無意識に理解していることとしてである)にとって第三者が<私たち>の自明的外在的対象となったとは容易に想像がつく。
 そしてそのことは「私」にとっての家族において例えば「私」が「妻」との間で妻を「あなた」としながら、二人にとって共通の存在、息子や娘あるいは知人を話題とする時にも適用されたであろう。
 つまり同一言語共同体内での共通言語(公用語)の応用が個別の家族関係、友人、同僚関係にも有効となるという寸法である。
 だから逆に「あなた」が第三者となる時初めて「私たち」にとって他者とは「私」以外の全て、つまり「あなた」を含むということが自明化する。つまり永井均的<私>が登場し得るのは「私」と「あなた」のコンビネーションの解消ということが、行為事実にせよ、認識論的事実にせよ前提されている。そこで他者とは「私」以外の全てであるという認識こそが社会学的ではない形での哲学的なコミュニケーション論の出発となるのである。それは孤独とは何かという問いを必然化するのだ。その時「私」も孤独であるのなら恐らく「あなた」もまた孤独であろうという考えも生まれる。(それが確認し得ないということがあったとしても)

 それにしても中島義道氏の本とは理屈抜きに面白い。何故か?それは氏が自称カイン型人間(協調性を重んじないばかりか単独行動主義であり、集団優先しない生き方)、感性的エゴイスト(普通とか まとも といった定義に入るようなマジョリティー的「合わせる」意識を徹底的に排除する生き方、例えば肉や魚が一切食べられないからといって無理して食べることなどないと開き直る)、環境テロリスト(一般の市民にとって苦痛でも何でもない騒音や景観に対して徹底的にマイノリティー的感性を貫く)だからだ。マイノリティーということに相応しい叙述をここで引用しておこう。

 思いっきり暗い雰囲気の会社を創りたい

 さて「いつも前向きに生きている人」は、自分だけそっとその信念に従って生きてくれれば害は少ないのですが、おうおうにしてこの信念を周囲の者たちに「布教」しようとする。「いつも前向きに生きている人」は、とにかく「後ろ向きに生きている人」が嫌いなのです。
 こういう人は「後ろ向きに生きている人」が目障りでしかたがない。これは男でも女でも、むしろいかなる組織でも一般的に当てはまるのですが、後ろ向きに生きている人を見つけるや否や、全身で「調教」しようとする。こうして、─私は会社に勤めたことがないので、よくわかりませんが─日本国中の会社は「いつも前向きに生きている人」を望むようです。
 私には、死ぬまでにいくつか実現したい、いや実現できないでしょうから、ただ思っているだけの夢があります。その一つは、思いっきり暗い雰囲気の会社、「いつも後ろ向きに生きていける」姿勢を崩さない会社を設立すること。私が社員を採用するときは、その仕事能力は高くなければならないが、それに加えて、儲けることも働くことも無限に虚しいと思っている人だけを採る。もちろん、会社ですから、働かない者は容赦なくクビにし、ますが、生き生きと働かなくてもよい。いやいやながら仕事をこなしていればいい。いや、その方がいい。そして、あらゆる行事やレクレーションはしない。ただ働くだけの場所です。ずいぶん人が集まってくる優良企業になると思うのです。
 というのも、私は、哲学科の大学院に入ったものの、修士論文が書けそうもなく、家でしばらく寝ていたのですが、生きていくなら会社に勤めるほかないと思って、足を引きずるように家を出て、いろいろな会社に行ってみたのですが、そこには、みんな死ぬことなんかないかのような、世の中に理不尽なことなどないかのような写真や文章が載せられている。強烈な違和感を覚えながらも、選び抜いた(中途採用の)入社試験でたまたま面接まで行くことがあっても、やはり私の「暗さ」は会社の雰囲気にそぐわない。そして、ひとはよく見ているもので、結果としてやはりすべての会社の採用試験に落ちました。「いつも後ろ向きに生きている」姿勢が許される会社があればいいなあ、と痛感したしだいです。
 しかし、現実の会社は「いつも前向きに生きている人」、少なくともそういうふうにすることに抵抗のない人が大手を振って闊歩しており、彼らが上司であると、「いつも前向きに生きている」姿勢の弱い部下を見つけるや、戦前の特高警察のように、たたきなおそうとするのです。(「私の嫌いな10の人々」4いつも前向きに生きている人中95から
7ページより)

 ここに示されている考えは、作家のリリー・フランキー氏の考えに近い。私も実はかなり同感である。しかしもっと興味深いのは、この中島氏の考えはエゴ的側面から語られているということである。つまり「この私」という意識であるということだ。
 この「この私」とは必然的に「あなた」とか「彼、彼女」を含んでいる。つまり氏の感性とは、氏が受け入れられない「いつも前向きに生きている人」を積極的に必要なのである。これは社会的な相関関係において成立する孤独の絶対条件である。例えばそれは氏の作家としてのデビュー作である「ウィーン愛憎」において叙述されたアパートメントを引越しする時に、リフォームしてからその自宅を引き渡す段になって、大家であるオーストリア人夫妻がリフォーム代を請求されることを恐れて元に戻すように要求してきたという体験談が、積極的に日本とオーストリアとの文化間の差異を示すために必要であったということと同じで、そこには対立すべく他者そのものが必要であり、「この私」の立場にはその他者存在が抜き差しがたく厳然と存在理由を自己内におけるある区画において占めているのだ。これは社会ゲーム上での規範的な孤独であり、絶対的な弧絶ではない。
 中島義道的「この私」とは常に<私たち>や「私」や「あなた」から「あなた」が「彼・彼女」という第三者になり得るという覚知を経て、それが「私たち」となって以降の「あなた」や「彼・彼女」にとっての「私」という哲学的な意味では最新の段階のものなのである。
 そのことを語る上でミシェル・アンリの「身体の哲学と現象学」中の幾つかの記述は大いに関係があると思われる。

 動物的生という考えがこの考えがこの存在論の基本的諸テーゼと両立しえないということは、しかし、完全に気づかれないままには済まされえない。このような両立不可能性は、内的生のついての理論がぶつかる諸困難においてあらわとなる。直観と想像力とは全的に昏さのうちに浴し、ビラニズムは「直観の内的器官」にも「想像力の内的器官」にも、いかなる正確なステイタスをも授けることができない。一方には明晰な思惟の諸様態(知性および意志)を、他方には昏い諸情感、諸イマージュ、内的感性を投げ分けることによって、真のコギトの分離を遂行したあとで、ビランは諸体験(Elebnisse)というこの第二のカテゴリーに対して、二つの重大な誤謬を犯している。すなわち、一方では彼はきわめて性急に、これら諸体験を下意識的諸様態として扱うのだが、このようなまったく消極的な仕方でよりほかにこれらの諸体験を規定することは、われわれにはできないのである。他方ではまさしく、ほんらいの心的な生についてのかくも低くおとしめられたこれらの諸体験が、それらの根本的な有機的生の諸様態に、すなわち自然的かつ超越的な諸要素に同化するのである。このときビランは、惨憺たる混乱に陥っている。彼はみずからこのような混乱を、「諸記号の二重の使用」の名のもとにたゆまず告発していたというのに。それゆえ有機的ないし動物的な生ということによって理解すべきは、あるいは自然的な諸過程であり、あるいはほんらいの意味での諸体験、しかし生理学的実在から出発して条件づけられることがつねに肯定されるような諸体験である。この最後のカテゴリーに、たとえばわれわれの諸イマージュの展開は、たんに機械的な、エゴからは独立した法則に従っているのである。同様に、われわれは情感的な生、われわれの諸共感、われわれの諸反応は、「自然に疎遠」であると言われる。それゆえ、今度はコギトそれ自身の次元において、分割があらわれる。つまりコギトとエゴとは、もはや合致しないのである。侵害されているのは、エゴについての存在論的理論の根拠そのものなのである。(第六章 メーヌ・ド・ビランの思想の批判。受動性の問題中、232~233ページより)

 意識が行為[能動]と同一視されてしまうので、受動性の経験は、このような受動性のは外的な或る原理から出発して説明されなければならない。そしてエゴが受動的であると言うことはおそらく、エゴがまさに経験しているラディカルに異なる或る存在という超越的な関係のただなかにエゴによって生きられるがままのこのような経験を現象学的に記述することと、体験を、いわば意識の背後から意識に働きかける三人称の因果的な或る過程の結果として説明すると主張することとは別のことである。しかし意識がその本質そのものにおいて、自ら展開するひとつの行為[能動]であるなら、そのようなものとしてこの本質には、感覚すること、こうむること、触発‐されることは属しえない。印象は運動的能動性[活動]のうちに汲み尽くされるような存在論的構造とは、すなわちビランが考えるがままのエゴとは、両立しえないように思える。しかしそれでも日常的な経験に属しているのである。この印象は、このようなエゴの構造から出発して理解されうるのでなければならないからこそ、このようなエゴの最も固有の存在論的諸可能性のひとつとして現われうるのでなければならない。エゴのその諸印象への関係は、まさしく内感(sense intime)のひとつであるからこそ、ビラニズムが完全に避けて通ることのできなかったひとつの問題を構成しているのである。(第六章 メーヌ・ド・ビランの思想の批判。受動性の問題中、235ページより)

決然たる呼気の努力と香りの非意志的な主観的把捉とのあいだに、本質的な存在論的差異があるわけではない。それどころかむしろ、能動性と受動性とは、唯一にして同じひとつの基本的力能の二つの異なる諸様態であり、この基本的力能が、主観的身体の根源的存在にほかならないのである。(同書同一章内、240ページより)
 
中島氏が後ろ向きな人ばかり集めて会社を創設しようというエッセイで示しているところの主張は明らかにエゴ論的なことである。しかしそのエゴ論的な自分を観察しているところの自分とはコギト論的なことであると言えるだろう。だから氏の著作物中の述懐は、総じてエゴ論的な自分に対するコギト的な自分からの解析という意味合いを持っている。
 中島義道氏はカント解釈の哲学者としても知られるが、何故カント解釈において手腕を発揮するかというと、それは彼が日常生活において日本社会における無意識の内に対立を避け、暗黙の「「ことなかれ」主義」で進行する対人関係における宥和性に対して自我論的な抵抗を試みているからである。しかしその著術家としてのスタンスは現象学が拠って立つ身体論的な超越性、つまり根源的顕示とアンリが示すところの無意識や意識前的な覚知レヴェルの実在論からすれば、全く異なった哲学スタンスである。つまり中島氏は意識前的な覚知レヴェルとは哲学者としての命題論的にはどうでもいいことなのである。何故なら氏は自己の立場や意志を説明し得るレヴェルで全ての哲学の存在理由を考えておられるからである。
 中島義道氏は「醜い日本の私」において、市街地の景観を乱すだけでなく氏自身のおせっかいで市民の主体的思考力を尊重しない倫理的不快を招く大文字を記された垂れ幕、夥しい電柱と電線、四六時中同じことを繰り返す公共放送、市街地の放置自転車などに対する不快を訴え続けていて、マジョリティーはそれらに一向に頓着しないことを論って、では大勢がそうであるから自分もそういうことは些細なことであるとして気にしないようにする努力などしたくはないという決然とした意志を示して終えている。
 だがこの一切の意志すらもあるいは選好性の遺伝子による仕業ではないかと思念するに至った時、あることに対して不快であるということ自体に対して、その感受性を大切にしたいと思うことも、いやマジョリティーの「気にしなさ」に「合わせる」ように自分を訓練するべきなのかということに対して、どちらかに加担しつつそうしようと決意することも双方ともその時点での苦悩の結果どちらかを選択しているわけだから、ただ考えもせず「気にする」ことの感性を大事にして「不快だ」と訴えることをしていたらそれは選好性の遺伝子による直観的判断であるとしてそれを敢えて鈍感であると氏が考えておられる感性のマジョリティーに合わせて「気にならない」ようにするか、いやそういうことを敢えて妥協することを潔しとすることは社会全体の意思決定の合理化における判断基準的には不完全であると意志して敢えて抵抗するかという判断になって、前者の判断を下した場合は初めてそれがただ苦情を言うことと違って意志的な妥協的選択であると溜飲を下げることになるだろうし、後者においてはそういうなし崩し的な妥協が極めて感性のファシズムに加担することになるから抵抗していくということは正しいことであると判断していくということであるだろうが、いずれにしても、恐らく双方とも意志的な意味では熟慮の末に下したのだから理性論的にはいいことであるものの、それは純粋な意志であるかと言うと、どうもそういう時に自分の感受性を尊重することも、それを皆の「気にしなさ」に「合わせて」諦めてしまうということも実はその人間の性格決定遺伝子の仕業ではないのかと問うことになるとすると、ここから先はいつまでたっても埒の開かない無限後退を招聘する。
 しかもこの「気になること」と「気にしなさ」ということは哲学的にどう捉えたらよいのだろうか?あるいは「気になることを大切にする」ことはただ単にエゴなのだろうか?それとも「気になるのに気にしないように努力すること」もまたエゴなのだろうか?そしてコギトとはそのエゴとは全く無縁に成立するのだろうか?
 中島義道氏は「時間論」や「私の秘密」などの純粋哲学テクストにおいて、今意識をより恣意的・相対的にその都度の振幅を持ったものとして絶対的今、絶対的現在を否定しているし、受動的綜合(現象学に顕著であるフッサールの提出した概念)も否定しているし、そういう観点からはカント的な判断の構造主義者であるように見えるが、こと感受性のマイノリティーを自覚することを通した著作物からは、感情の哲学者のようにも見える。そして純粋哲学テクスト創造者としてはコギト的な哲学を標榜していながら、社会悪告発スタイルのテクストではエゴ的な哲学を展開しているように見受けられる。そこに一種の分裂的傾向を認めることも可能である。しかしこれはミシェル・アンリが示している哲学者一般の苦悩(彼自身もそうであるし、メーヌ・ド・ビランも苦悩していたと捉えている)を示してもいる。
 現象学では概してアンリの言葉を借りれば存在論的力能を重んじ、超越的表象に道を譲り渡すことを潔しとしない。ではカントはそこら辺に関してはどう考えていたのだろうか?
 カントが物自体という形で示した考えとは端的にある言説とは、最初は実在する現実界において認められる認識を言葉に置き換えているのだが、そのことを説明する段になると、徐々にその説明原理の方により意識内でかけられる比重が増加して、次第に実在したこと、現実に認められたこと自体の実像そのものがどうであったとか、それに対して写像された説明そのものに迫心性が込められているか否かというような判断そのものがどうでもよくなるということ、つまりよりよい説明を施す段になった認められる思惟や算段といったことの方が意識において大きな比重を占めていくということを示しているように私は思われる。それは意識において支配される言葉のフェティッシュの問題に対するソシュールを先駆けた言及であったとさえ言えると思う。
 それは中島義道氏が説明原理と言葉による意思疎通の本来あるべき対話の姿勢に対して口を酸っぱくして力説している対話論の本論として「意識して語る」という行為の社会法的な有用性ということが多くのエッセイで示した主旨であることを鑑みるとカントは氏の主旨を先取りした判断論者であることが理解出来る。つまりカントはまさに現象学者たちがカントの欠如を捕捉するのに余りある身体実在に関する根源的覚知論者であるのに対して、では脳内で根源的意識や身体的覚知とは別個に「考えること」、「思考すること」をクローズアップすると現象学では捉え切れなかったことに関して即座に立ち現われる思考原理ということに思いを馳せる真に切実な哲学者となるその問題に言及するそういう存在なのである。つまり現象学とはカント的な説明原理を一方で常に必要とするそういう哲学スタンスであるということになる。あるいはカントの哲学は他方に存在する現象学という存在を念頭に置いた思惟論ということにもなるのである。
 最終章ではカントの捉えた重要観念である物自体に焦点を当ててそのことに関する記述の引用を通して考えてみよう。

 付記 リリー・フランキー氏は「笑っていいとも!」において司会のタモリ氏の対談コーナーで「前向きではなく後ろ向きの気持ちをもっと重視していった方がいいですよね」というようなことをタモリ氏と語り合いタモリ氏の共感を得ていた。その主張は中島義道氏の主張と極めて近似的であるように私には思えたのである。(河口ミカル)

Tuesday, March 2, 2010

<感情と意味>第一章 第十三節「私」があるから痛みが増すのか

 「私」は他者がいなければ「私」であり得ないだろうか、という問いは実は傷みの問題にもかかわりがある。「痛い」とは他者に訴えることである。ダニエル・デネットは「解明される意識」において痛みとは、それを感覚する主体が痛さも度を越せば、死へと直結するということ、つまりもっと深刻な怪我なら死に至ることもあると我々が知るからこそ倍加されると述べている。では一人でいる時に怪我をしたら我々はどうするか?その時だって我々は「痛い」と一人で叫ぶことだろう。それは私たちが一人でいても、自分の中に他者を作ることをするからである。独り言とは他者存在を通過した主体が自己内他者へ対話するということなのだ。だから他者存在そのものを知らない者は痛みとか痛さを「痛み」、「痛さ」という形では認識し得ないだろう。
 だから痛いということもそうだが、痒い、くすぐったいということもただ感覚されるだけではない語彙の力(「痒さ」、「くすぐったさ」)によってより倍加される。だから逆に本当は痛くないのに痛いと他者に申告することによって本来は痛くはない感覚が段々痛くなってくるということもあり得るだろう。仮病が本当の病になるということである。幻痛ということである。そこには良心もかかわっているだろう。良心が痛くもないのに痛いと申告しているものだから、痛くない状態でいることそのものにブレーキをかけて、痛さを自ら作り出すのである。
 しかし痛さの申告という問題はやはり言語行為と第三者ということ、そして「私」と「あなた」という問題へも直結する。そして孤独とは何かという問題へも。次節ではそのことを主体に考えてみよう。