Sunday, September 19, 2010

<感情と意味>結論 感情と意味Part4 記憶と人格

 三十年前の自分とは今の自分にとって既に他人である。
 三十年前の自分とも今の私が出会え、しかも三年前の他人とも出会えるとしよう。恐らくその時今の私にとって三年前の他人の方が三十年前の自分よりもより身近に感じられ、話も合うことだろう。
 私にとって15年来の友人K氏と最初に出会った15年前の思い出も、5年くらい前の彼との思い出も、2年くらい前の哲学塾KでのF氏、S君、F君、I君、Y氏との思い出の方が三十年前にあったことよりも私にとっては懐かしい。
 何故なら三十年前には古い付き合いとなったK氏とも、今親しくしているT君、N君、Y氏、Y君らとも誰とも知り合っていず、しかも当時親しかった人達とは今では誰一人として親交がないからである。
 どうも人は(私だけかも知れないが)今現在重要な出会いとなっている人との間にあったことの方を時間の隔たりを持って記憶されていることよりも優先して思える様になっている様である。
 しかも今現在親しくしている人との間の思い出は、たとえ15年くらい前でも今年にあったことでも、どちらが思い出しやすいということなく変わりなく思い出せ、それはつい最近知り合った人達との間でのエピソードと比べても何の遜色もないくらいに私の記憶上存在するが、疎遠になっていった人々との思い出の方は、それがたとえ一、二年前、厭もっと三ヶ月くらい前のことであってさえ、未だに親しくしている人との15年前の思い出に比べて遠く感じるものである。明確に詳細を思い出せないことすらある。
 また、私自身に於いても今現在から見て三十年前の自分とは、今の私から見て三十年間歩んできた私自身の歴史を三十年前時点での自分故一切所有してはおらず、その後三十年歩んできた私しか知らない事に於いて、私は三十年前の私と話をすることが出来ない。そのことで私はいささか物足りなさを感じもするだろうし、それに引き換え三年前の他人であるなら、少なくとも今の私にとって、三十年前の自分より二十七年分の共有し合った時間があるのである。従って私は却って三十年前の私に対して、三年前の他人より余所余所しさをきっと感じる筈なのである。そして三十年前の私と、三年前の他人と二人同時に私が相対するのなら、私はより三年前の他人との間で話が合うことの方がずっと多いだろう。
 私は三十年の間に何度も身体の全ての細胞を入れ替えてきている。従って今の私がいきなり三十年前の私と出会ったなら、まるで他人の糞生意気な若造と相対しているかの様に思い、傍らに三年前の他人がいたのなら、その者と共に三十年前の私を非難さえしているかも知れない。
 ここで私が考えていることとは、懐かしさとは時間が隔てられているという単純な今現在との間の時間の長さによって与えられている感情ではない、ということである。しかしそれは何故か?
 それは恐らく記憶というものが、過去の再現ではなく、今現在による過去に得た経験的事実の意味(過去に得た)の再生であるからではないだろうか?
 従って1ケ月前のことも六年前のことも然程今の自分にとって重要度というものに違いがないのなら、双方とも克明に思い出すことは容易である。しかし昨日のことでさえ私は今の私にとって重要でないことを、今の私にとって重要なことと同じ様には思い出せないし、三十年前のことでも、今の私にとっては既に何の関わりもない出来事を、たとえ記憶していたとしても、私はそのことを今懐かしいという思いを持って想起することなどないだろう。懐かしいと感じられているのなら、それは今現在の私の、或いは私の感情(に於いて重要であると思えること)と関わりがあることなのである。そして三十年前にあった今の私から見て今の私には何の関わりも感慨も齎さないことよりは、ずっと私は半年前にあった今の私にとって重要なことを懐かしく思い出すだろう。
 それは記憶と人格の問いへと私達を誘う。
 何故そうなのか?
 それは端的に個々に於いて過去全体に対する思い出し方、想起する契機自体に差異があるからである。つまり記憶事実の再生という脳内思念自体に恐らく全ての個が固有の傾向を有している筈である。それは記憶が人格を形成しているという当然の事実以外に、人格が記憶事実を再生している、或いは人格が記憶を保有していて、全体を司っていると言うことも出来るからだ。
 例えば私は日々現在未来へ向けて努力したりして、何か実現したいと望み常に何か取り組んでいる。しかし同時にそのことで、過去はどうであったということを現在との比較で考える。しかしそれは過去にこれこれを習得出来ず失敗した、とか逆にあれは実現し得たということがあるから未来への今現在の設計も成立していることを私は知っており、そこではたと過去を想起することはある。何かを中断した時などである。何の気なしに外の風景を室内から眺めた時などにである。
 その時今何をしているかという状態もそうであるし、今現在を形成している自分の意志と行為全体を支えている私の人格が固有の読みを過去に対してするということはあり得る。つまり三十年前にあったことを今の私は今の私の人格を通して思い出している。その時の自分の気持ちを記憶はしているが、それはその後の三十年間の経験によってその時のままの気持ちからかけ離れている。
 当時辛かったことでさえある覚めた見方も出来る。そういう意味では常に記憶とは現在の作用である。そして過去全体の在り方を規定しているのも現在の自分である。そしてあたかも私は三十年前に辛かったことをありありと思い出せはするものの、それをあたかも他人の様に眺める様な感じで思惟することも可能なのである。それは過去の人格に今の私の人格が左右されている部分はほんの僅かであり、今の私の人格が過去の私の人格を俯瞰している部分の方がずっと広大であることを私が知っているからである。
 今の私の人格が過去の私の経験した事実の意味も変え得るということは、端的に認知が過去の感情を統制している、という側面も強い、ということを意味している。

Friday, September 17, 2010

<感情と意味>結論 感情と意味Part3

 私は今根幹の問題として同一性の問いが、情動の問いとどう関わるかということが最大である、と考え出している。何故そうなのか?
 意外と答えは単純である。
 まず我々は必ずいつかは死ぬ。しかし死ぬ瞬間まで死ぬといことがどういうことであるか、ということを明確に語れる者は残念ながらいない。瀕死の状態を経験したり、臨死体験を体験しても、それは即ちそこから帰還したという一事を持って例外なのであり、つまりそれは生の中での出来事であるに過ぎない。
 しかしその死ぬことが分かっているからこそ、「しかし今私は死んでいない、生きている」という形で私は自己同一性を、例えば私であるなら51年近く生きてきたという形で理解している。
 しかしそれはある意味では私自身が日々変化しつつあるという事実を無視した記憶としての過去から現在への同一性に支持されている、ある固有の想念でしかない。私は一日の間にそういった自己同一性について考えているわけでも想念しつつあるのでもない。厭寧ろ積極的にそういった思念はある時突如閃くくらいのことでしかない。私は何かの拍子に昨日の朝食で何を食べたか想起することがあるかも知れないが、その時までその必要性がなければ、一切それを敢えて思い出そうとは思わないし、そのまま何と言うことなく忘れ去っていくことであろう。しかし当然のことながらその事実に私は格別悲しくもない。それと同一性への問いはある意味では同じである。それは問えば分からなくなるが、問わなければ誰しも理解しているとも言えることであるからだ。
 つまり私は日々ある部分では大半のことを忘却しつつ生活していく、そしてだからこそ全ての自己同一性を自分の中に維持し得る。それはそういった連なりであることだけは理解出来る私の日々の中でもっと重要な幾多の事項が、ある時間系列に於いて前後関係だけは理解し得て、その詳細な日々をカレンダーに印をつけたこととかから「ああ、そうであった」と想起し得るに過ぎない。
 そして大半の私の想起は時間系列的であるよりは、よりエピソード的に個々のことに於いて想起される。只K氏と知遇を得たことと、N君と知遇を得たこととの間にある十数年という歳月を私が認知し得るが故に、個々のエピソードの先後関係をも認知し得るだけのことであり、それは個々のエピソードの重要性とは何の関わりもない。
 同一性は只単に時間系列的なことではなく、要するにある過去に経験した事項を私がいつでも即座に想起し得るという事実に於いて成立している。その意味では同一性とは記憶という名の別名でさえあると言える。ありありとした記憶を生きる私という事実に対する認知である。
 しかしそれはある意味では現在の様々な知覚と、現在進行しつつある関わりある出来事、関与と言う事に於いて認識され得る、つまり現在こそが想起させている、とも言える。つまりそれは現在の関わりや現在の諸問題にかかりきりになる、という意味で、過去を意味化している、つまり現在の側から過去を意味づけているとも言える。
 しかしその意味付け、つまり現在を現在として認識させる認知は明らかに、過去の記憶が総体として、或いは個別の想起を伴って理解されている、というやはりそれも現在の認知でもあるのだが、その事実が支えている。それは感情が情動的なことの現在に於ける意味づけに於いて、過去を過去性として、或いは過去を現在へと連なる何らかの因果的誘引材料として認識するが故に、記憶を一つの財産として認可している自分という、つまりそれも一つの大きな自己同一性なのであるが、それを伴っている。
 確かに過去は一つの記憶上での財産である。それは一つの価値的響きを持っている。勿論それは記憶能力に拠っている。記憶はそれを仮に「その時にそうであったこと」と多少ずれていたとしても尚、その事実が在ったという事に於ける想起能力の故である。
 記憶(同一性を支えているもの)が情動を誘引し、情動は感情的に過去から現在の系列の中でそれを意味づける。そうすることで、現在が過去を想起対象として秩序づけてもいる。つまり同一性が情動を、情動が同一性を支えている。それは凭れ合っているが故に、同一の作用でありながら、個々全く別のこととしても抽出し得る。
 欧米哲学的認識の要素還元思考的認識方法と、全てを連なりとする中国起源とする東洋指導とが一元化される、ということはそういう個別的に想起し得るということと、それを総括的に分かち難いとする、やはりそれも同一性の問いによってである。
 同一性はある意味では環境総体的には東洋的であるが、個別想起に見られる固有性に於いてはかなり欧米的である。つまりこの二つはやはり切り離して考えることは不可能なのである。

Thursday, September 2, 2010

<感情と意味>結論 感情と意味Part2

 少しもっと日常的視野を求めて考えてみたい。
 前章で私は基本的に私達が如何にエゴイスティックに生活しようとしても、それを成立させようとする中で必然的に利他的にならざるを得ないと述べた。
 そこで私は「青年に特有のエゴイスティックな正義観やら、年配者に対して不純なものを感じ取ってしまう固有のヒロイズムもまた、そういった他者に対するお節介的な利他主義である」と言ったし、「もし仮にある青年が酷く中年以上の人々の生活全般に対して反抗的意図を持ち合わせているとしたら、それこそその反抗する相手に対して何らかの自己内で言説的に設定した理想を当て嵌め、その理想と著しく乖離していることに不満であるからである」とも言ったが、そのことに就いて前章では特に言及しなかったので、そのことを軸に考えてみたい。
 青年期に抱く固有のヒロイズムは個人主義と自己責任への気負いから他者をも巻き込む固有のお節介型の利他主義であることは確かだが、自分より年長者全てが自分より不純に見えるとしたら、それは端的に社会的に責任者としても自己への要請としても認知されていなさがそういう気負いを、武者震い的に与えているとも言える。しかしこれはやはり立派な共同体成員意識であるが故に利他的である。何故なら自分と志を同じうする者への配慮を意識が控えさせているからだ。
 ヒロイズムとはどんなものであれ、気負いから成立しているが故に義務的感性を自己に強制することに愉悦を感じているが故にその感性に共鳴する者に対しては結束心を共有するという意識をどんな者にも持たせる。
 しかし後半の反抗的意図となると、それはもっと過激である。要するに自己の自己への期待とか責任付与に於ける実現されなさが鬱屈した社会的存在理由の認知されなさと自己へ付与されなさに対する焦燥がそういう態度へと主に年配者へと注がれるわけだ。
 従ってこれだけやる気があるのに、社会はそれ相応の責務を自分に与えてくれないという意識がある以上その意識には社会に対する信頼が根底にはあることとなる。つまり「反抗する相手に対して何らかの自己内で言説的に設定した理想を当て嵌め、その理想と著しく乖離していることに不満である」状態とは、端的に社会とか自分が期待したのに期待外れに終わった多くの年配者に対して少なくともその一定程度の信頼と技量に対する容認の意識を持っている。つまり少なくとも相手に不満を抱けるということ自体に、相手の能力を(それが社会一般であるなら、その社会に同化しようという意識を植え付けさせる社会への希望を)信頼していることを我々は読み取ることが可能なのである。
 もしどんな年配者へも、そういった人達全体としてある青年個人に降りかかってくる社会一般に対して信頼もなければ、又その社会や社会成員への能力的評定自体へ懐疑心が自己内で蔓延しているのなら、いっそもっとニヒリスティッシュな態度へと青年を駆り立てる筈だ。
 しかし不満を持つということは、その不満を不平を誰かに漏らし、そこから打開策を見出したいという欲求を認めることが出来るが故に、我々はその青年の希望を容易に読み取ることが出来る。最早何の不満も漏らしてもどうすることも出来ないという者に不満という感情は起こらない。
 勿論通常の人生でも一度や二度くらいならそういう気分へと陥ることもあるだろう。或いは本当の意味で不幸な境遇とは、そういう風に一切の不満さえ抱けないという状態にある、と考えることも可能である。だが逆にそのことは、不満さえ抱ける様になるということは希望の萌芽であるということになるのだ。

 その当の希望とか信頼ということ自体既に感情的な様相であるし、その感情的様相を快として、或いはその快を得ることを理性的に善しとすることに於いて決然としていること自体に、生の意味を我々は感知し認知している。そこでも感情と意味が希望も信頼も支えている。
 否それどころから我々は挫折や裏切りに遭い、或いは理不尽に誰かに殺害されようとしかかっている瞬間でさえ絶望という名の希望と信頼という俎板でのみ成立する感情に満たされている。
 もし今まさに殺されかかっている人があったとしても、その者に愛情とか信頼とか希望という観念自体が全く欠如していたなら、その者は絶望に打ちひしがれることすらないだろう。或いは容易に殺されること自体を受け入れる(受け入れるという積極性さえない状態で只機械的に)だろう。
 つまり感情と意味の相補的一体性こそが制度へ受容する様に積極的に社会や共同体に同化しようと試み、その中でピアプレッシャーを感じつつ生活する中での全ての反省意識を支えているとも言えるし、又そういった日常生活全般を支える根源的な意志(volition)を育んでいるとも言える。
 信頼も希望も実はかなり深く時間感覚に根ざしている。
 例えばある人が今教授してくれることは、将来の自分にとって何らかの役に立つだろうという目算で何らかの専門教育を受ける受講生にとってその教授自身への信頼は自らの学者とか技術者という専門家としての将来への展望に根差しているし、ある日の講義で先週その日することとなっている講義内容にわくわくするという希望に満ちた朝の学生にとっての気持ちはその日の正午前に終了する一時限目の講義という近い将来へ向けられているという意味では、全ての信頼や希望は時間なしに成立し得ない。
 それは過去から現在までに渡る時間的推移と、これからもまた継続されるであろう、そういう時間の推移に対する移行過程そのものへの直観でもある。

Wednesday, September 1, 2010

<感情と意味>結論 感情と意味Part1

 私たちにとって言葉によって語ること、何かを記すこと、それら全てはそうすることによって決意を固めているということだ。それは感情自体を認識することであると同時に、感情を意味の相貌で理解することでもある。つまり感情と意味とはそうすることで実は一つのことにおける異なった現われであることを我々は知る。利己的であるとか利他的であるとかいう査定自体は極めて状況依拠的であり、それらは往々にしてより利他的でありたいと願う心理が、それ以前の状態を利己的であると認識したり、あまりにも他者に対する気遣いが過ぎるということから、もっと利己的になってもいいという風に判断したりするような意味で、要するにそれらは相対的に二分法を利用することで我々が自己の立ち位置を確認しているのである。それは感情自体もそういう風に捉えられることを意味している。つまり感情それ自体は極めて衝動的ではあるが、その衝動を意味づけるために我々は意味を利用するのである。つまり何かをしようと決意する時確かにその行為自体に対してある論理的筋道をつけて、意志決定を合理化するが、その意志決定を整える意味で言語が意志を明確化するために利用される。そしてその言語を誘引しているのは、そうすること、つまり行為を欲求が促進していることの中でその欲求を意味づけたいというもう一つの欲求である。欲求もまた一つの衝動だし、その欲求という名の衝動を理性的に整えることを通して決意を固める。そしてその固められた決意の下で行為をすることを我々は価値と感じるのだ。
 そもそも感情自体が、情動を意味づけられたものであるが、その感情自体を行為へと直結させるために我々は感情自体への意味づけを行う。そこで感情は意味づけされたものとして意味範疇に収められる。そうすることで感情を価値ある欲求であると我々は認識するのである。
 私たちは何をするにせよ、そこですることに価値があると思えないのであれば、それ以上何事も続行出来ない。そこでしたいという欲求自体に対して、検証する。しかしそのしたいことが出来ることであり、それが害悪ではない限りで躊躇する必要がないが、することが害悪となり得る可能性を少しでも感じ取っているのなら、即刻断念する必要性に迫られる。つまり行為がする価値あるものと捉えるかという意味づけに苦心するわけだ。だから感情自体はその感情の赴くままで進行させるのであれば、何に対しても感情は志向する。嫌いな人間はいなくなればいいとも思うし、死んでも構わないとさえ思う。しかしその感情を「考え」の上で判断すれば、それが誤りであったり、よくないことであると道徳的に考えれば、我々はそれを判断において抑制したり、そう思わないように心がける。そのように心がけること自体が一つの決心となり、その心がけ自体がより履行されることがあれば、我々は自己に対して自信を持つことが出来る。この時自己に対する自信とは端的に人格の陶冶ということに他ならない。だからこそ、つまりそういった陶冶する必要性を価値として認識しているからこそ、我々は感情を意味づけて、その感情を行為へと直決せしめることが可能であるか、あるいはそれは正しいことかと問う。その時感情自体がより客体化されることによって判断は円滑になされよう。
 勿論人間は道徳的なこと、倫理的価値があることだけをすることも出来ないし、適度の個人的快を求め、それが他者一般、社会に対して害悪とならない限りで嗜好であるとしても構わないと判断する。嗜好自体は害悪とならない限りで許される個人の快である。しかしそれ自体はとりたてて人生や生全体に秀でた価値を有するわけではない。しかし気休め、気晴らしといった気分の問題を処理する意味では、快を感情論的には有効なものとして認識することは出来る。
 つまりそういった意味づけにおいて価値が充満していないからこそ、真理的な価値を見出す心の余裕が育まれるとも言えるからだ。

 脳科学では感情はエピソード記憶や意味記憶などから喚起されると考えているようだ。それは正しい一つの捉え方である。感情自体が想起を促しているとも言えるし、そもそも何らかの記憶とは、その記憶された事柄に対する感情に対する記憶でもある故、我々は感情を有してある場面に居合わせたという事実認識からも、感情が我々が存在したということを明確化している、つまり意味化しているということである。存在するものは我々の感情によって、存在するものとして意味づけられることによって物として理解される。カントが物自体と言ったことの背景にはやがてハイデッガーによって存在への配慮と言われることを可能性が予兆している。つまり物自体に対する意識を有すことによって我々は我々自身を存在せしめるのだ。そこには物ではない我々という認識を通じて、生の一回性に対する認識を生じさせている。つまり意味自体が存在することを、我々と物という対比で考えることを促している。何故なら存在するとは、一回性の生の価値認識に他ならないからである。
 我々が何度でも空間を行ったり来たりするように時間を往来出来るのであれば、そもそも我々は価値という認識を持たないだろう。価値とはやがて失われていくからこそ意味を生ずる。失われていくことは我々の生命のことである。それ故価値は一つの固有の感情である。認識であるばかりではないのは当然である。そしてその価値という感情はそれ自体意味づけられており、意味とも持たれあっている。意味が価値という固有の感情から感じられると同時に、全感情は意味づけという脳内思考の習慣が齎してもいて、その二つは先後関係では示し得られない。
 つまり感情を意味づけるからこそ、我々は感情を有している存在者としての自らの命脈を生きることが出来る。いや意味が感情を喚起しているとも言えるのだ。
 意味が感情を喚起しているということは、言い換えれば我々は意味づけなしに生きることを虚しいと感じてもいて、その気分こそが根源的なことである、と認めてもいることを意味する。
 つまり最大の気分とは只単に瞬間的な衝動やその時々での気まぐれでは虚しいという生への意味づけなのだ。
 意味が感情を喚起する様に感情も意味を喚起する。この二つは勿論後付的に認識すればそうなるだけで、本来二極に意味と感情を分離することすら実在的には不毛だし、観念的な理解に於いて我々はたまたまそういう図式を思い描くに過ぎない。
 元々身体を持って存在する我々にとって環境とは多様な意味を持つ。
 自然環境も社会環境も、それぞれの他者も実在的には環境であり、自己身体の存在すら環境である。実在的にそうであることは、観念的には自分の考えとか決意に支配されるという意味では考えや意図、意志、欲求もまた自己にとって環境である。
 時間自体も物理学的な考えでは空間と同じ様に交換可能であるらしいが、それはそういう物理学の抽象世界を理解すること自体を我々が意味として認識しているからであり、その意味を真理であるともし受け取るとしたら、それは端的にそういう意味づけを価値として自己内に受容して認可していることであり、そういった価値基準を保有することの決意を促すものもまた一つの感情であり、意味であろう。その場合感情や意味は客観的理解とか真理的洞察への価値を認めることに吝かではないある種の探究心である。
 探究心は抽象的レヴェルから具体的、日常的レヴェルまでグラデーションがあるが、それらは相互に価値的に交換可能であり、故にこそ我々は日常会話を自分の専門外の人達とも交わせるし、具体的日常的場面で自己専門領域の知は活かされるし、応用適用され得るし、同時に自己専門外のことへの知の好奇心と敬意を持って他者と接することを可能としている。
 勿論知ることの深度という意味では自己専門以外には自ずと限界はあるし、漠然とした大雑把な理解に留めおくことを自然と我々に決意させる様な態度を他者に取ることを、他者からも期待しつつ自己もまた他者に許可される様に望む。
 そこには当然他者存在の自己生にとっての環境的意味合いに於ける偶像的認識がある。
 他者に責任を明示し得る範囲は業務責務的にも、余暇娯楽的にも態度としては等価に示され得る。要するにそういう態度明示によって自己内の把握や理解と、他者に対する把握や理解を「自分なりにしている」ことを極自然に表明し、その限界を限界として相手に認可して貰うことを通して相手にもそこに完璧を求めないという態度を示すことによって、相互に相互を適度に偶像化している。
 他者環境自体は、自己身体という環境の絶対的理解の不能同様ここで、そのものの絶対的踏み越えられなさに対する自覚を相互に認可し合うことで、社会環境へと自己と他者の関係を位置づけている。 
 従って自己は相対的であるが故に、哲学的現象性という概念が「自分にしか感知し得ないし、他者に伝えられないクオリアや意識の在り方」を規定するのだ。
 逆ではない。だからこそ意味が固有の「自分自身であることの切実さ」という感情を喚起している、とも言い得るのだ。
 情動的に自然環境に溶け込みたかったり、自然環境から人工的自然環境に移行して空気を吸ってみたかったり、自己内思念という思考環境に身を委ね他者存在を思念上でのみ受け付ける様な他者との意思疎通性全体を客体化したりしたかったりという、ある種の自分勝手こそが、意味によってその存在を保証されているとも言える。それがあるから意味が派生する様に思えてきても、そうではない。
 意味に対する認識力、意味に対する存在的価値認識、人生全体をそれを通して価値づける行為の連鎖の中でこそ我々はそういった個々の欲求を刹那的気分とか衝動として理解する。
 全ては言語的認識と、言語習得的社会規範的理解の範疇で意味づけられている。
 確かにクオリアも切実だし、意識が随伴現象的なものであれ、絶対的なものであれ、相対的に理解し得るものの範囲に留まるものであれ、それを切実に感じさせる、つまりそういう固有の価値の感情を保有すること自体が、そういう意味づけする脳内思念の環境から我々が自由ではないという事実へと自覚させる。
 他者と妥協したり、ものや道具と共生したり、社会環境に自己を適応させたりする中で、他者をも含めた全ての環境を意味づけ、そうしないで漠然と日々を送ることを空虚と感じたり、物足りなさを感じたりすること、つまりそういう感情を保有すること自体も我々が意味を理解する動物であると我々自身が深く考えても考えなくても知っているということを物語っている。
 意味は確かに理解されるし、理解されると行為も言語的認識も、脳内思念もある切実さで、存在価値を帯びてくることを我々は知っているからこそ、それを他者との間で意思疎通し合うことの意味の中に自己存在を社会的な意味合いに於いても、生自体を生物学的に自然な欲求として認めても尚、いずれにせよ「生きることには価値がある」と思える。
 つまりそういう感情自体を我々は価値と認めることに吝かではない。その感情自体への億劫でなさこそが、生きる気力である。その気力は恐らく他者との意思疎通で理解し合えるとどこかで(どんなに哲学的懐疑主義者であれ)信頼しているからである。
 それを現象学者の様に共通了解と呼ぼうが、デヴィドソンの様にチャリティ原理と呼ぼうが、取り敢えずはその選択自体に重大性はない。
 意味は理解される、と言った。そうすること、つまり理解されることが価値であるという認識自体が一つの感情であることは、それ自体が客観的であるとか主観的であるという問いを超越する。
 それは端的に存在論的であると同時に認識論的である。従って実在論的であるとか観念論的であるという問掛け自体もそれと同様同時的であり、語り尽くすことと、沈黙を守り通すことが相補的である様な意味で解決を求めることは不毛である。それは先ほど感情と意味の分離に於いて述べたことと同じである。