Thursday, November 26, 2009

〔意味の呪縛〕七、 安心と自己欺瞞

 我々はある決定に対して、「それでよかったのだ」という心理的な安心を得るために他にもっといい方策や決定があったのではないかということに対する封印をすることで、つまりそのことに対してそれ以上は問わないということにおいて実践を滞りなくすることにしているのだ。
 それは職業的自己欺瞞、サルトルが「存在と無」で明快に示した「合わせる」行為の自己言語化作用においても全く該当することである。それは相手を信用するということにおいても、ああ先生ですか、ああ君か、と言う風に知っている人、その身分と行動に関する信用においてどこそこのルーム、例えば会議室や研究室といった場所への入所を保安管理の人々に対して許可されるという、つまり許可する立場の人間にとって安心して許可し得る立場の人という特権において私たちは最高度の自己欺瞞の例を見ることが出来る。だから当然ある特権を許可することを管理側の人間に対して滞りなくさせるものとしての社会的地位というものは許可する者の安心、つまり認可された権威として全ての役職、全ての職業的特権が、職務上での義務履行と共に許可される特権的行為を正当なものとして理解される、正当なものとして認識されるものとして哲学的自己欺瞞というものは遺憾なく発揮される。
 しかし本当にその許可された存在者たちの内心というものを推し量ることは出来ないし、通常エリートという階級は社会的には何一つ過不足なことのない生活であると勝手に想像するのは、非エリート的立場の人々固有の幻想にしか過ぎないのであって、自己欺瞞を滞りなく遂行するための社会的責務達成的理性と、習慣的な行為とによって内心がどのようなものであれ、その成員の人格にとってはどうでもいいことであるという判断こそが社会的理性なのである。だから逆に非哲学的であり、社会学的であり、法学的であり、要するに思惟することが特に社会的行為そのものに対しては通常疎まれるということは当然のことなのだ。何故なら社会では義務の履行によって権利を保障されるというごく単純な一般意志の基準でのみ全てを判断するように求められているからである。
 それはだから現象論的には形骸化された法秩序と、形式随順的、改革意志排他的な保守主義を人間心理に生むことは日常的なことである。端的に法言語とは決まりごとであり、ルティンな処理概念であるべきであり、空虚な言語である必要が積極的に求められるものなのだ。官僚が作成する文章が真意と、外面的秩序の差を意識させるものであってはならない。それは全て法秩序そのものであり、一般意志の基準でのみ理解しやすいようになっていなくてはならないので、職務、社会的責務、一般的幸福の基準、一般的公正の規準、一般的公平の基準に照応されていればそれでよいのである。
 だがそれは安心という心の規準には当て嵌まらない。それはあくまで社会秩序的にそうであるだけのことであって、本心、と言うより個人の願望とか、幸福感情とか、公平、公正、正義の規準と、社会が法的に容認しているそれらとは著しく異なるケースも出てくることはある。その両者が一致している状態こそが最も好ましいということは誰しも理解し得ることだろう。しかししばしばそれらは齟齬をきたす。従って安心の規準は治安の安寧そのものに限っては、法に随順する市民のみで構成された社会状態が最も好ましいことはわかっているが、自己欺瞞を社会的責務と、一般的常識的行為という名の下に合わせて生活している心理的行為論に照応すれば、別にどうということもないことであっても、現象的行為論的には内面的には仕方なく履行している行為が多く、個人の幸福や正義に対する諸価値と齟齬をきたしている場合、我々は自己欺瞞をネガティヴに捉える他はあるまいと思うのである。
 端的に安心ということの内には社会秩序としての法体系随順という名の治安安寧という、空虚な言語、つまり他者一般が他者一般によって言語化された状態と、個人の価値基準(感情的側面が見逃せないものとしての)、つまり充実した(ように少なくとも自分ではそう思える)言語との間には常にその都度変化する距離があると言ってよいだろう。このことは重要である。何故ならその距離に対する認知と覚醒がないのなら、我々は一切の哲学的問いなどというものを必要とすることなどないだろうからである。
 安心と自己欺瞞とはだから常に一般意志オンリーの社会的法秩序と、個人の内面における現象論的思惟においては常に変化し続ける距離を保持することによって、時々一致することはあるけれど、社会的に安心であることと、ある成員にとって個人にとって安心であることは違うことの方が多く、また自己欺瞞もそれ自体が歓迎すべきケースと、そうではなく息苦しいと思われるケースとは、安心と同じように捉えられるということである。つまり他者から立派な職業人であると思われ、尊敬さえされている成員でも、彼の内面においては「こういう職務、こういう社会的地位にいることは息苦しいのだ」という思念を払拭することは困難かも知れないからである。
 一般的に尊敬される人というのはその職業的能力と技能、そしてその職業に携わる人に通常求められる風格、人格的な素晴らしさに対してであり、能力と性格と社会的地位とが複合化された特徴に対してである。しかしロックスターであれ、野球選手であれ、サッカー選手であれ、テニスプレイヤーであれ、裁判官であれ、弁護士であれ、政治家であれ、安心してその仕事振りを見ていられるという行為に赴いている成員たちは全て必死でその状態を作り上げているのであり、その姿に憧れ、羨ましがっている全ての成員たちには通常耐えられないことに耐えているのであり、大勢の人々によって安心して見ていられる仕事振りから、そのことで羨ましがられている立場の成員にとっては、自分もまたただ安心して人の仕事振りを見て羨ましいとだけ感じていたいと願っていて尊敬される優秀だと社会的に見做される成員に対して羨ましがる立場そのものを最も羨ましがっているケースも多いのだ。勿論真にその仕事に生き甲斐を感じ、他人が一切羨ましがってなどいないというケースもあるだろうが。それは恐らく極めて少ない。と言うのもそう思えるということ自体が既にかなり病理的状態の精神であると私には思えるからである。そこには自己陶酔というより、もっと歪曲化されたナリシシズムが介在しているように私には思われる。

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