Tuesday, December 8, 2009

<感情と意味>序

 哲学で感情を正面から捉えようとし始めたのはごく最近のことである。またそういう動きが注目を集めてきていることの背景には脳科学の進歩が多大な影響を哲学に齎しているということを抜きには語れない。
 そもそも感情とは先駆的存在であるウィリアム・ジェームスとか、彼にも啓示を受けたベルグソンたちが取り上げたことを除いて、多くは近代において理性によって克服すべき対象に留まっていたということが言える。しかし最近では衝動に関しても気分や雰囲気に関しても、あるいはクオリアに関しても多くの論述が寄せられるようになってきたので、ようやく感情にもスポットライトが当たってきたと言うことが出来るが、そもそも感情と言うとどこか激烈な怒りとか、憔悴しきっている悲しみを連想しがちだが、それらの感情も勿論感情であることは確かだが、寧ろ日常的には例外的感情であり、私たちは殆どの時間を怒りでも悲しみでもないタイプの平静な感情に支配されている。
 また感情は動物的本能に近いと勘違いしている人も多いが、実は極めて感情とは身体的な部分も多大にあるが、同時に言語認識的なものでもあるのである。
 と言うより感情とは身体的な状態とか、それに伴う現象的な心地とか今という意識とかと同時に言葉による理解とか把握とか認識、思惟全般にもかかわっており、その意味では身体と心を繋ぐ、と言うよりそもそもそのように身体と心を分けて考える習慣そのものを無効化するようなタイプの、要するに二つに分けて考えてしまうこの習慣そのものをも育んでしまう根幹に位置するもの、しかも身体と心を意識の上で往復させるものと言ってもよい。その観点に立てば、逆に私ということと公ということを往復する意味に寧ろ近い。
 私は本論では意味ということを、公私の往復、往来を基軸に考え、感情を身体的な健康状態や、心理状態を綜合的に判断する本能的でありながら尚且つ極めて思惟結論的でもある感情を意味というものの存在と並行させて考えたいのである。
 私は以前に他者存在が衝動そのものを育むという視点から「他者と衝動<羞恥論序説>」と「羞恥論<衝動論第二節>依怙地と素直」(双方とも「決心の構造」同じブロガーブログにて掲載更新中)を続けて書き、他者存在に対する不可避的意識を羞恥とその克服から捉え、死ということの想念と絡めて「存在と意味<武蔵が克服したこと>」(当ブログ過去更新記事として掲載)を書いた。その後「意味の呪縛」(当ブログにて前回に記載)という短論文を書き、「トラフィック・モメント<自由・責任・言語と偶像化」(同じブロガーブログにて掲載。今はその続編も更新中)を書いた。今私は感情自体の意味的側面を前面に出しこの論文を書く決意を固めているのだが、この論文はもう一つの論文「作られゆく真意」と並行させてその存在理由を考えている。
 それはそちらの論文がキリスト教神学者たちに関する魂の叙述を多く取り上げ、哲学にとっての神を神学や宗教にとっての神と対比させて考えている手前、こちらにおいては、その信念における判断と決意の問題をより感情と意味作用として考えることを目的としたのだ。さてどのような展開になっていくか今は私でさえ予測がつかない。そしてその予測のつかなさそれ自体が感情と意味に包まれて生きていくということではないかという漠然として考えが今私の脳裏に立ち上っている。
 確かに宗教の信念にはどこか潔さのようなものがある。それは基本的には無神論者である私には一つの提言をしてくれているようにも感じられる。しかしそれもまた無神論の信念と同様一つの意味以外のものではない。そして意味そのものが実は一つの人間の脳の思考活動の感情的所産なのである。
 日本人である私には実は日本人を客観的に見ることは出来ない。しかし今や我々は実はキリスト教徒たちや欧米人に対してさえ客観的には見ることが出来ない時代に生きているのである。しかしそういう客観的に見られなさ自体を客観的に捉えることなら案外可能かも知れないという漠然とした根拠のない信念が実は本論を支えている。つまり主観的にしか見ることの出来なさ自体が客観的考察対象として考えることが可能のように思えるのである。しかしこの主観‐客観ということはかなり困難なプロブレムなのである。それは意識のハードプロブレムと多くの哲学者たちの言ってきていることと同じなのだ。

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