Monday, July 19, 2010

<感情と意味>第四章 第三節 退屈と辟易(との戦い)

 ストローソンの考えているようなカント像によると、確かに世界は私たちが存在するということに対して一定の認知を保持し得る限りでそのものを世界に含有させてよいということは、逆に世界そのものが私たちが存在するという風に認識し得るものの総体であるということになる。
 だからある出会いに対して「それこそがセレンディピティーだ」と言えるということ自体が、世界の中で、生活者が新奇なもの、それは決して自分にとってそのものと出会う前までは親しいものではなかったのに、一旦それを得てみるとどんなにそれが既に自分にとって不可欠なものであるようなタイプのものに対する出会いを後付的に意味づけていることを意味する。
 しかし一方どんなに素晴らしいものでもそればかりがずっと続くと辟易していくことというのがある。例えば私はコーヒーが好きなのだが、実際一日五、六杯飲んでも大丈夫だが、一日二十杯とかそれ以上飲めるかというと恐らく無理だろう。いい加減うんざりしてくると思う。
 つまりどんなに好きなものでも反復して続ければそれに対して飽きがくるということがある。好きな音楽でも一ヶ月くらい同じ曲ばかり聴き続けたらいい加減他の曲も聴きたくなるだろうし、恋しくなることだろうし、またどんなに好きな本でも数回続けて読めば別の本も読みたくなるものだ。
 またどんなに親しい人でも他人であるなら、一緒に過ごす時間が度重なれば、その人に対する欠点も見えてくるだろうし、第一夫婦や親子や家族でさえ毎日一緒に住んで過ごしている間には、たまには別行動をしたり、プライヴェートな時間や空間を持ったりしたいと相互に願うようになるものである。
 それに対して、ある出会いに対して新鮮であるとか、感動的であるということと逆に、同じような繰り返しの毎日に対して、何かに対して辟易していなくても、退屈であり死にそうであるというような気持ちというものも我々はよく抱くものである。どんなに順調に仕事や人間関係が持続していても、マンネリ化するということもまた避けられない。
 つまり人間とは退屈と辟易との戦いを常に繰り返してきたということが出来る。科学の進歩、社会制度の改革といったことの全てがその事実を裏付けている。
 私は前節において「意識して何かを語るということがある時、私たちはそう意識する自分の日常においてはあまり意識しないで語ることが多いということを知っている」と述べた。しかし実のところ意識して何かを語るという意志はそれはそれで貴重であるものの、本当にそういう積もりでしていてもあまり説得力を持たないことも多く、またそれとは逆にあまり深く考えていない場合でも、何気ない一言がかなり説得力を持つことも大いにあり得るのだ。つまりごく自然に他者に対して意図が伝わる場合もあれば、逆にかなり真剣に意思を伝えようと思っても全く通じないこともある。
 そして不思議なことには一定の固定化された価値に随順していても、その都度の何らかの工夫があれば、意思が伝わりやすいこともあるし、逆にいい方法であるからと言って、採用されたものでも使い古されてしまい、次第に辟易とされることもある。
 一般にここまで私が書いてきたことを綜合すると、次のようになる。

説明原理を立ち上げること(立ち上がることが私にとってであるが、それは私の身体的能力でもあるし認識的能力でもあるから恣意的なものとして明示する)→説明原理の常套化→クオリアや意識の特化→その特化自体の説明原理への還元→新たな説明原理を立ち上げること→その常套化→新たなクオリアや意識の特化→その特化自体の説明原理への環元・・・・・・。

 その反復である。つまりここにはいい意味での辟易から学ぶ私たちによる工夫が新たなクオリアに対する発見を齎すということが言えるように思う。つまり私たちは同じ反復にある程度は新鮮さを感じるも、次第にそればかりでは辟易としてくる。そして以前と全く同じことと出会っても一切そこにセレンディピティーは感じないままでいることになる。
 しかし何らかの変化がそこに付け加われば恐らく何らかのときめきを心に抱くことにも繋がるのだ。
 
 私たちは人間関係において常に相手に対して一定の距離を保たなければ、親子であれ夫婦であれルームシェアパートナーであれ友人であれ(少なくとも一緒に暮らす相手であればあるほど)少なくともある程度以上から死ぬまでだが、永続的関係を望むのであれば必ず関係の呪縛から解放されたいと思うようになる。
 それは仕事上でのルティンの遣り方や手順から、朝ご飯のメニューからいつも飲んでいるコーヒーの銘柄に至るまでそうである。つまりマクロな関係からほんの些細なミクロな関係に至るまでそうなのである。だからちょっとした些細な変化をつけていけば、案外もっとマクロな関係がマンネリ化していても辟易をたやすく超えられるということもあり得る。
 とにかくマクロとミクロ双方に渡って辟易との戦いという奴は私たちの人生、生活に控えている。そして厄介なことには辟易とはある日突然やってくる。故に予想もそれを避けるための処方もなかなか思いつかず、ましてや計画など立てられるものではない。後になってみればあの頃から二人の関係は冷え切っていたとか、愛情が冷めたということになるのだ。だからこそ案外ミクロな嗜好とか、趣味とか休日の過ごし方によってマクロな重要な人間関係を常に新鮮に保つことを工夫することで辟易を避けることが可能となることも多いだろう。そういう遊びが人生や生活にないと段々親しい相手に対して不満が募ってくる。つまりパートナーに自分の生活上での不満をぶつけてしまうのだ。これもまた極めて怠惰な責任転嫁の一つである。
 だが何故この辟易がやってくるかということを問うとなると、ケースバイケースでなかなか一律にその心理的メカニズムを解明することが出来ないだろうと思う。ただ哲学的には先ほどの反復図式のようにある説明原理、もっと簡単に言えば、自分に対して取り敢えずの納得をすることを可能にする自分に対する説明が色褪せて感じられてくるということを避けたいがために時々例えば哲学者でさえ、その究明する命題をリニューワルするのだ。文学者や画家が主題において変化を持つことと同じである。とりわけ説明原理を命題的に究明する哲学者や論理学者たちは、常に新奇なイメージを自分の学究に持ちたいがために必死に命題の意味究明に関して、移行や推移の必然性を見出そうとする。あまり突然のチェンジでは自分の命題に対する理解者からの納得を得られない。取り敢えずの納得であれそれはそれで本質的理解よりはもっと平明なものであってよくても、やはり重要なのである。
 つまりもしその関係を、それが人間であれ、住む場所であれ、職業であれ本当に永続的なものとして維持していきたいと思うのであればあるほど、一定の距離を保つこと、あまり短期間に集中的に親しくし過ぎないことが大切な仕方なのである。ある部分では短期的にかかわる仕事、あるいは精神科医や、ロックバンドやジャズバンドのメンバーであればあるほどその仕事のことをセッションと共に言うくらいだから、集中的に親しくすることはいいことである。それはいずれ解消される関係であることを相互に熟知した関係だからである。またそういう泡沫な関係であればこそその短期的密度によって相互に得るところが大きいということも言える。
 しかしもし永続的であることをかなり現実的な意味で重要であると思っている関係であればあるほどその相手との距離、相互に干渉し合わない事項、踏み込まない領域を保守するということが意外と重要となってくるのである。人間は初恋において流出されるくらいの短期的ではあるが極めて人生において重要な出会いというものはそう何回もあるものではない。そして極めて重要なこととは、そう何回もあるものではない関係というものが友人関係や上司部下関係、同僚関係、仕事上でのパートナー関係、夫婦関係、夫婦ではなくても異性パートナーとの関係といったものは、全てそれを失ってから大切であったと気づくことが多い。勿論短期的に集中して親しくして解消していくからこそ重要であった関係というものも多くあるだろう。それは対人間だけではなく短期旅行もそうだし、短期的に使用する道具、あるいは仕事内容といったものもある。
 つまり取り敢えずの納得がいい納得であればあるほど最終的な理解も素晴らしいものになる。確かに取り敢えずの納得自体は完成されたものではない。しかしだからこそ相互の納得の仕方がいい道具的なものであると、極めて最終的な関係であるところの真理の理解とは完成度が高くなる。だからこそ時々取り敢えずの納得の仕方自体を例えば論じ合う仲間、同じプロジェクトにかかわる同僚同士でリニューワルすることが求められるのだ。
 これは要するに先ほど言った人間関係や永続的に住む地域(地元)に対する距離の一定の取り方が重要であるということを念頭に入れておくことと無縁ではないだろう。自分の住む地元では周囲の人間関係は長く付き合う必要があるので、やはり一定の距離を置いて相互に踏むこまない領域を保守する必要があるし、地域住民としての責務(例えば祭りに参加するとか、自治会費を払うとか、ごみの集積日を間違わないとかの)を払う必要もあるだろう。そのように相互に配慮し合うということが、同一プロジェクトにかかわる同僚や、哲学者とか学者間での研究仲間や学会仲間間で必要なのである。そして案外取り敢えずの納得が相互にその納得を強いる相手が自分に対して独善的であると思われないような形で共通項を見出すことが重要なのである。これは地域住民間での対人関係に学ぶところが大きいだろう。
 つまり相手に対して新鮮さを保つということは、既知の人物に対して、親しい間柄において未知な部分を発見することである。それは最も必然的展開しか期待出来ない相手から得るセレンディピティーだから当然その大きさは新しい知人から得る何かよりも感動は大きいだろう。
 つまり辟易との戦いをする必要性を感じる相手とは、親しい間柄であるし、退屈であるような関係に陥ることを阻止する意志は同じような繰り返しの中からその意味を見出すことである。全く違うことを少しだけトライしてみるということが再び日常的ルティンに戻った時にそれが新鮮に感じるということである。だからただの赤いバラに見とれるということが習慣から全くなくなっていたのなら、敢えてそれを一日の内に五分でいいから設けるのだ。赤いバラのクオリア(を美しく感じるということ)はそういうトライアルから偶然発見されるセレンディピティーであるし、親しい相手の顔をじっと眺めることもいいかも知れない。
 そうすることによって意識を転換するのだ。そう言う時の意識とはゾンビとそれに対する永井用語のビンゾということを考える意識とは違うかも知れない。
 意識には二重の意味があるのだ。意識とはそもそも覚醒していて睡眠していなことを指示するために儲けられた説明原理である。あるいは眠っている時以外で意識を失っている状態を下に考えた「そうではない状態=自分で今の自分の状態を説明出来る状態」である。つまり意識とは覚醒していることと睡眠してはいないこと、そしてそのことを認知している自分という自己同一性において現在ここにいるということを捉えられることに対する説明原理である。そして「私」は意識が私自身にも同一性を求めて、と言うより殆どそれ以外には無いように信じて、そう言っている。「今」はその「私」が意識している、と言うより何かに注意が向けられていること自体を時間論的に把握した時に立ち上がるに過ぎない。それらは共に同一性と自‐他の相関を理解し証明するために自然と立ち上がる説明原理なのである。
 例えば私は敢えて「私」を持ち出さなくても常に私であり、私は常に何かしている時は「今」を持ち出さなくても常に今ここにいることは自明である。にもかかわらず私たちは「今ここ」であることを特化して考えたくなる。
 だが私はその全ての私に関する事実を他者の存在によって相対化せざるを得ない。つまり他者の存在が私を「他者ではない」と意識させる。しかしそう意識させるのも私が他者との間に何らかの約定として何かを説明する能力を備えているからだ。つまり指示も名辞もその説明能力が理解させている。つまりそもそも何かを理解するということ自体が自己内の自分に対する説明能力の内的な行使以外の何物でもない。
 意味連関が立ち上がることによって意識は意図とか感情とか、行為の目的に摩り替えられる。私たちは退屈だから考えるのだし、考えてばかりいて何もしないことの退屈さに辟易して行動する(例えば話す、書く)のだ。そして行動するから行為の目的ということを考える。そして同じ行為ばかりでは辟易する。だから新しい行為を求めもするし、同じ行為を別の意味から考える。
 親しい間柄での対人関係を重要であると考えるからこそ、退屈と辟易が立ち現われることを恐れるのだ。恐れるから意味づけしなおすのだ。どんなに親しい間柄でも、どんなに愛する土地でも退屈することもあれば辟易することがある。だから時として旅行をするし、祭りをするのだ。

Saturday, July 17, 2010

<感情と意味>第四章 第二節 デュアルな認識とクオリア

 私は半ば直観的に自分(自我的私)と自己(客観的認識を持とうとする責任と目的的な私)にとって私の中の他者を説明する時、既にデュアルな認識を持ち出してきていた。しかしそれ以上にその時私の内部では言葉の無力、あるいは私による言葉の駆使力の無を感じざるを得なかったのだ。
 しかし私の脳内の表象において視覚的能力に関して私は比較的信頼することが出来る。言葉がかなり言葉と言葉の間になんとも言えない隙間を感じるような意味では視覚はもっと詳細である。と言うのも言葉は段階と階層を作るが、視覚世界ではまさに私は見ることにおいてもグラデーションを感じることが出来るし、その気になればグラデーションを空間的に絵筆を使ったりして表現することさえ出来る。それは要するに知覚的にクオリア的に立ち上がる。
 しかしそれを立ち上がらせるのは感覚だけではない。それ以外にはまさに今私が述べた全てに対してデュアルな認識を、二項を設けることによって設置し(例えばよく知る世界と、よく知らない世界というように)その間の推移に視線を移行させようとする段階論的、手続き的な意図自体が私たちになんとも言えない無力感を与えるということ自体が、クオリアを立ち上げさせているのである。何故ならクオリアとはよく知っている(つもりである)ことの内にあるよく知らないことに出会った時にセレンディップに感じるような気がするからだ。それは知識内で、知識外的体験を得ることではないだろうか?

 ところで神という一語は未来への不安ということと抱き合わせのものではないだろうか?もしそうだとすると、神としての概念やクオリアを立ち上がらせる言葉の無力、並びにそれを作る当の日常的退屈な連鎖自体もまた一つのアンニュイとメランコリーを付帯させやすい現実自体もそれ自体として固有のクオリアを形作っているとは言えないだろうか?
 つまり神と私たちが何かに対して言う時、私たちにとって何かとは端的に一番知りたいことであるのに一切知ることが出来ない未来における事態の展開であるような何かである。受験に合格しているかとか、希望の社に入社し得るかとか、理想の相手と出会えるかとか。そしてクオリアとかそういうセレンディップな感受自体をとんと感じることなくやり過ごしてきているこの退屈な日常的連鎖自体が、一つの遣り切れないクオリアを放っているとさえ全体としては私たちによって言い得るのではないか?
 つまり私がずっと言い続けてきた漠然とした私を取り巻く大いなる環境や、厳然と私自身の能力を超え得る「世界」とは神とも不可分なものであるが、それは生活するこの主体の存在自体を成立させているという意味合いからは厳然としていると同時に密接でもある。世界は生活を成立させる私の身体を環境を吸収する能力の側からすれば「私の世界」以外のものではない。これは何も独我論的な認識でもない。もっと直接的感受の問題である。
 ベルグソンの純粋持続とは全てに固有のクオリアやセレンディピティーを吸収して無化さえし得るこの頽落した日常的責任と目的に縛られた行為の連鎖の別名だったのではないだろうか?
 私たちはこの不合理な日常を取り敢えずの納得でも、かなり進化した段階までも、より理解しやすいようにデュアルな認識を持つ。例えば主観的とか客観的とか。
 しかしその二分的常套性こそがクオリアを価値的に立ち上がらせている。本来デュアルな認識が「世界」を把握し、更に理解させるために用いられた合理的不条理であったのに、今度はそれを常套的なものに脱落させてしまう霊力のようにクオリアに惹きつけられてしまうこととは、まさに嫌味な人間から常にいじめに近いことを言われ続けた者が、ある日優しい一言をかけてくれる別の人間と出会った時の感動によく似ている。まさにそれがいかにもどかしくても、それ以外にしようのないことを感じ取っている時私たちは頽落した日常をすんなり受け入れているが、そうだからこそあるその頽落的日常から脱自し得る瞬間の到来はセレンディピティー足り得るのである。

 ここで再びカントが提示した問題にストローソンを通して立ち返ってみよう。ピーター・フレデリック・ストローソンは次のように第四二律背反に関する分析において述べている。(「意味の限界『純粋理性批判』論考」熊谷直男 鈴木恒夫 横田栄一訳、勁草書房刊)
 「(前略)カントがこうした要求者(すなわち持続的諸実体)の経験的に非依存的な現存在の身分に対する要求を考慮する限り、彼はまさにそうした要求を拒否する理由─但し説得力に欠ける─を与えることになる。その第一の理由は─これはほとんど真面目な考えとは言えないが─物質の非存在を考えても矛盾はないのではないかということである。しかしこうした拒否の理由が当て嵌まるのは、単に、概念的にもしくは論理的に保証された現存在というまさしくこの概念の名においてなされる要求に対してに過ぎないのであって、カントは正当にもこうした概念は理性の濫用であるとして否定しているのである。他の理由は、もし我々が物質の現存在を非偶然的と認めるならば、決して終結することのない説明の追求という統制的原理の自由な濫用に制限が加えられることになるであろう、ということである。しかしそうではないのである。というのはこうした非偶然的に現存在するものは我々の問いに対する答えではなくその主題を、すなわち我々の研究のまさに素材を提供すると考えられなければならないからである。〔こうして拒否の第二の理由を斥けられることになるのであるが、〕しかしもしこの論点それ自身が、〔2〕★に対応しているとかの要求者の要求を拒否する理由とされるならば、上に阻止しようとされた、非存在的に現存するものおよび最終的説明を与えるものという二つの概念の合体が再び肯定されることになる。」(Ⅲ超越的形而上学 中272ページより)
 ここでストローソンが「理性の濫用であるとして否定している」カントの主張は、実は概念的規定性において私たちが「世界」を漠然とした厳然性において理解しているからこそそれを世界と呼ぶようなこと自体への抗い難い容認である。確かに全てが虚無であるという認識自体も常に思念上では成立し得るだろう。しかしそれはそう問う当の素材から誘引される一つの誘惑にしか過ぎないということを「こうした非偶然的に現存在するものは我々の問いに対する答えではなくその主題を、すなわち我々の研究のまさに素材を提供すると考えられなければならないからである」の一節は物語っている。つまりそこから我々は問うことを始めているということなのである。「もし我々が物質の現存在を非偶然的と認めるならば、決して終結することのない説明の追求という統制的原理の自由な濫用に制限が加えられることになるであろう、ということである。しかしそうではない」とは必然に対してそれを必然化するもう一つ高階な次元の真理を求めることを意味するが、どこかで区切りをつけることを私は自我であると捉えているが、カントの主張はそうではないのだとストローソンは考えている。その根拠として厳然として存在しているが、その境界も臨界も限界も我々によっては知られることのない茫漠とした「世界」こそが、私たちに身体を通して世界を感受している事実を通して全ての問いを産出させているということをカントは問題にしたのだ。それは全人生において我々が納得する「今ここにいる」感じ自体を特化させる「世界」の成立根拠への問いが、その固有の感じによって得られているということに対するカントを通したストローソンの主張であると読み取ることが可能である。
 更にストローソンは次のようにも言う。
 「すなわち、世界の一切の特殊的現存在は経験的に偶然的であり得るが、しかし世界全体は経験的に偶然的であることはできない。というのは世界全体が依存できるようなものは何も存在しないから。こうして再び経験的に非偶然的な現存在は探求の終末を意味するのではなく、その主題を与えるのである。」(同 中273ページより)
 ここでストローソンが主張する「世界全体が依存するようなものは何もない」という謂いには解説が必要である。
 私が我々の知る宇宙を宇宙Bとし得る理由は、それ以前的に宇宙Aがあり得たかも知れないということから演繹されよう。しかしその宇宙Aをもその存在が確証し得たのなら、その時宇宙Aは宇宙Bとワンセットとなって一つの「世界」足り得よう。つまり「世界」とは境界も臨界も限界も全てファジーであるのだから、常に如何様にも拡張し得る。そこで存在が証されてしまえば、それをも含めて我々はそれを「世界」と呼ぶだろう。従ってその世界をさえ依存し得る思惟とは神をおいて他にあり得ない。しかしそれをここで依存性において理解することは出来ない。何故なら何度も言うが、神とは絶対的孤絶の別名だからだ。だからこそこの「世界」の茫漠とした厳然性こそを神と不可分のものとしたことこそ語彙「世界」の成立根拠ではないかという私の懸案はそれ自体説得力を持つように思われる。
 つまり以上のことを綜合して結論づけるとすると、何かいじめられた日常の中で自分のことを親密な態度で接してくれる人と出会ったことも確かにミクロ的な意味ではセレンディピティーであるが、私が言いたいことは、この身体において「世界」から全ての問うことの根拠を得ているという事実自体がまさにウィトゲンシュタインが「世界とは一つの事実である」という論考の有名な一節の示すようにそれ自体一つの、いやそれより最大のものの皆無であるところのセレンディピティーなのである。
 しかしそのようにセレンディピティーを感得させてくれる当のものは、カントもストローソンも考える上で利用した偶然と必然というデュアリティーであり、そのように二分性の名の下に概念提出してしまうことの必然的自然な感じこそが一つの「考えることにおけるクオリア」なのかも知れない。
 つまりこのようにデュアルに認識していってしまうことに疑念を抱かずに取り敢えずの納得をして進行させていく私たちの習慣依拠的性向こそが、「行為や思考の個別性ということもまた一つの哲学的表象以外の何物でもない」と私に記述させていったように私に対しても問うことの素地を提供した「世界」が茫漠たる広がりを持ち、境界も臨界も限界も全てがファジーであるような厳然性において、私たちが存在の根拠を与えられているということであるならば、赤いバラに美しさを感じる日常も、その美しさをずっと見過ごして記号的存在としてのみ赤いバラを取り扱ってきてしまったことのアンニュイとメランコリーな日常をも全てを吸収する 「世界」=厳然とした事実 こそが最大のクオリアであるとは言えないだろうか?そこにデュアルな認識が常に網を被せるように待機している、ということである。

Thursday, July 15, 2010

<感情と意味>第四章 意識・クオリア・意味連関 第一節 記憶とクオリア、意味とクオリア

 意識して何かを語るということがある時、私たちはそう意識する自分の日常においてはあまり意識しないで語ることが多いということを知っている。勿論明確にそう意識しているわけではなくただ何となくそう感じているからこそ、意識して語ろうと意志する。それはそういう風に意識しないで語ることが日常において多いのではないかという直観的な反省からそう決意しているのだ。
 赤いバラが美しいのは、赤い色自体が美しいということと、その美しい色をしている物質が花びらであり、花弁であり、それらを空間的に成立させている状況である。そしてその状況を美しいバラを鑑賞しているということとして成立させているものは、そのようにじっくりとそのバラを鑑賞する心の余裕を持てるというその時の生活事情に立脚している。と言うことはそれまでそのようにバラの赤いということが美しいなんて感じもしなかったという平凡な日常がそう感じる状況の周辺に常に介在していたということを意味する。
 その意味ではクオリアとは端的に比較的近い過去における習慣や、そういったあまり赤いバラの色彩的、質感的美しさを感受する心の余裕のない日常が横たわっていたということに対する漠然とした認知が赤いバラのクオリアを感知する当の存在者にあるということを意味する。
 その意味ではクオリアとは相対的に記憶と連関している。そして赤いバラがこんなに美しいなんて日頃から知ってはいても、それを切実に感じはしなかったというある平凡なクオリアを感知する心の余裕を持つことを軽く阻む、絶対的ではなくそれとなく失わせる習慣的記憶がまず前提されている。
 つまり端的にクオリアをクオリアとして成立させるものとは、そのようなクオリアを成立させる状況連関における相対的な記憶上での習慣と、その習慣に対して意識を向かわせる私たちの私たち自身の日常への意味づけに他ならない。
 例えば何て美しい赤いバラなんだろう(言語的知覚)、ということは、何てこの赤いバラは美しいんだろう(純粋視覚野的知覚)ということと密接である。それは赤いバラを一度も見たことの無い人もいるにはいるかも知れないが、それは恐らく極めて稀である。そして一度は、あるいは数度は見ていたが、それほどそれまでは感動することがなかったという経験的な習慣とそういう習慣を取らせていた何らかの生活的事情がある。
 まず目の前に空間的視覚的に提示された赤いバラは、それを知覚的に赤いバラであるように認知することと、その認知される以前的に視覚野において赤さとして意識されているということを同時に動員されていることによって、知覚を言語認識の側から理解しようとすれば、確かに以前にもこのバラを見た時のような経験もあったということと、純粋視覚野的な感受ということで言えば、最近こんな目の覚めるような赤い色をあまりじっくり見たことがなかったということにおいて、両面的に記憶に依拠している。前者は意味記憶的に、後者はエピソード記憶的にクオリアを把握している。
 しかしそのように赤いバラの美しさをクオリアとして実感し得るものは、視覚野でも、自分の日常的生活上での意味記憶からでもなく、その赤いバラをじっくりと見据えるという行為の状況を成立させる、生活連関的な意味、あるいは意味連関的な生活体系そのものである。
 つまりどんなに赤いバラを美しいと言ってみたところで、その赤いバラ自体が固有のクオリアを持っているということもあるが、それ以上にそのクオリアを敢えて美しいと感じる心の側の日常的な相対的状況連関ということにおける意味づけと無縁にクオリアが成り立つということはあり得ない。
 つまり気もそぞろな時にぼんやり眺める時、どんなに固有のクオリアを視覚野では感じ取っていてもそれを殊更印象的な視覚体験にし得るものとはその時に赤いバラを眺めている存在者による心の様相である。だから逆にその赤いバラが大して高価ではなく、どこにでも売っている平凡な種類の赤いバラであったとしても尚そのものを見る側の心がヴィヴィッドに赤いバラを印象的なものとして捉える様相がありさえすれば、即ちそれは赤いバラに固有のクオリア、あるいはそのバラの持つ赤い色や固有の質感を抱いたクオリアを成立させることが出来る。
 それは必死にワードを打ち込んでいた存在者が一定のワードによる記述が成功した時に達成感を得た上で一口飲み干すコーヒーがいつになく美味しいと感じるのと全く同じようなこととしてである。
 つまりクオリアとはそれをクオリアとして感知する主体による日常状況性とその日常状況性全体に対する日頃からの把握、理解、それへの感情的様相と、その日常的ルティン自体への反省的意識と生活連関全体への感情と不可分のものである。
 それは何かをする、行為する主体による意識的行為とは、それを意識的にしなければならないという反省的意識を一方で必要とするということと全く同じ構造を持っている。つまり何かを意識してするということ自体が既に何かを意識してすることがここのところあまりなかったという欠乏感に起因するのである。だから逆に真に感動し得るクオリア体験とは、常日頃からクオリアを感受することを心がけている例えばカラーコーディネーターやファッションデザイナーやアーティストたちよりも、一日中書類と顔を突き合わせているような職種とか、要するに色彩とか質感といったことに対して敏感に接することの少ない職種においてこそ、寧ろ多く感受され得ると言ってよいだろう。
 例えば日々風景や生物と格闘している画家の場合、その時キャンヴァスに向かう意識を活性化するものとは、端的に絵の具の色彩でもモデルにしている眼前の風景でも、セッティングした静物の構図でもない。それは端的にキャンヴァスにその時に向かうこととなった心的なモティヴェーション、それは絵を描く行為自体を動機付ける(それもまたクオリア的なことかも知れないし、全くそういうタイプのものでもないかも知れない)職業的本能的な心理であるし、生活上での戦略であるし、つまりそれらが一同に会した時に、たまたま眼前にモデルになった風景や静物の構図とか、使用する絵の具とかが綜合されてそれが契機となって発動される絵画理念と、絵画技術と、それらを成立させる画家のア・プリオリな美感である。勿論そこには画家が生まれてきてこの方感じ取ってきたクオリア全般に対する理解や自覚といったものがあるだろう。
 勿論クオリアとは視覚的なことばかりではなく、味覚もあるし、聴覚もある。しかし本節では取り敢えず視覚的なことが分かりやすいのでそれだけに絞って考えてみよう。(次節では音楽と情動を取り上げる)
 一日中ワードやエクセルに向かって仕事をしている者にとって休憩中に読む本の印刷された文字は目に優しい。逆に一日中本を読んでいる者にとって時々パソコンの画面に向かって読むインターネットやブログの文字、あるいは画像は鮮烈で印象的に映る。つまり視覚に限ってみても、既に我々は生活連関において、生活上での状況的連関においても相互関連的に常にその時々の視覚的感受自体を意味づけして捉えている。だからこそ夢に出てくる風景がそういう日常的な視覚体験と、過去における印象的なエピソードとが相まって作用していると考えることも極めて自然である。
 つまり私たちの脳は常に記憶も意味づけ、クオリア的感受自体も意味づけている。視覚体験的内容そのものも意味づけている。それは視覚経験的な内容や見るものの性質や対象の種類的なことに関しても生活連関、状況所有的相対的判断で、個々のものに接している。純粋にその時に目にしているものに対してのみ意識を集中させているように見えてもそうなのである。それが哲学者たちによって多く考えられてきた表象ということなのである。
 だから表象ということ一つ考えても、それはその都度の視覚体験において視覚野において顕現されることだけに限るなら話は別だが、その時その視覚的表象自体をどう受け取るかという意識の問題になると、感情と意味が関わってくる。それこそがフッサールが晩年表象を没落させていったと捉えたポール・リクールによる「承認の行程」中で述べられてきたことなのである。
 表象は日常的生活の連鎖の中から反省意識と日常的欠落感の中から立ち上がる記憶の想念があたかも恒常的にあるかのように思わせる哲学ターム上での幻想なのである。それは意識もそうだし、クオリアもそうなのである。目の前に見える赤いバラの美しさとは、そう考えれば確かに赤いバラを表象させる一つの脳内における視覚野の脳内発火現象であり、表象であろう。しかしそれはそう捉えることで得る一つの理解の仕方のミーム名なのである。寧ろ我々は常に赤いバラを眼にした時、赤いバラの美しさの内容を生きるのであって、赤いバラのクオリアを、それを意識と感じる私を生きるのではない。私とは常に<私による「意識やクオリアの内容」>なのである。
 言ってみれば、クオリアとはクオリアが立ち上がっているとそう言ったり、敢えて赤いバラを見た時に感じるとそう捉えてみたりすることによって、寧ろ責任や目的の名において自らゾンビを受け入れるような生を生きる生活者としての私たちが日常的生活の連鎖の中で価値として立ち上げるミームなのである。だからそのミームを実感として立ち上げることで視覚野的な表象全般に対して、それが何かかけがえのないものであるかのように思われてしまうのも、実はいつまでかは覚えていたことなのにいつの間にか忘れていったばかりに美しく思わせる恐らくそう大したことなどなかった記憶の仕業なのである。
 私たちは全てを等価に記憶しておくことが出来ないから、必然的に覚えていることを取り敢えずその時印象的であったとか、それが意味的に重要なことであるとかいってそれらを特別に存在価値があったこととして認識する。しかし同時に我々はいつか見て心にとめておいたにもかかわらず、日常的連鎖の中からいつの間にか取りこぼしてきてしまったように忘れてしまった記憶を何かあたかも人生において一番掛け替えのないもののように思い込む部分もある。つまりその掛け替えのなさとして実感させる相対的把握自体が私たちにクオリアを格別の雰囲気と相貌の下で特化させる。
 意識もそうである。確かに意識とは眠っている時は大半が失われているが、脳自体は一時も休むことは無い。そしてそれを知っているからこそ、意識が覚醒時に明確であることを何か特別のことであるかのように価値的に特化する。そのように特化させることこそ「意識」という名の哲学的表象であり、その哲学的表象を特化させる日常的連鎖の責任と目的のある(かのような)行為や思考(私は前節で行為だけを特に述べたが、思考や思念も個別性として捉え得る)を作る、つまり本来はそれらに内在していた筈の個別性を行為や思考から剥奪する、簒奪すると言ってもよい、意味の呪縛を受け入れる他者存在を自己の中の他者として実感する対他的志向の作用である。
 しかしそう言ってしまえば、そう言わせる行為や思考の個別性ということもまた一つの哲学的表象以外の何物でもないのではないかという批判が聞こえてきそうである。まさにそうである。それもまた私による半分意図的でさえある哲学的表象以外のものではない。
 しかし私に敢えてそう言わせる何らかの根拠があることも確かである。そこで次節ではそのことを中心に考えていってみたい。

Monday, July 5, 2010

<感情と意味>第三章 第十節 行為の個別性と責任における行為の目的性

 行為が個において充足しているのなら、それは外部から見れば個別的なことでしかない。あっちはあっちで勝手に何かしているということなのだから。
 しかし一旦集団内で役割分担と責任が発生している段階では行為には一定の社会的目的が与えられる。つまり社会内での責任遂行という側面からの認識が与えられるからである。社会内的行為は全て社会機能維持の観点から個人の自由ではなく、社会内の秩序として認識され得る。だからこそ一々の個人の行為を異なった個人間で異なった語彙で示すことの無意味が発生するのだ。ある行為はただその行為をする個人にのみ帰着し、還元されるのなら、それは個別の個人に固有の行為であるが、社会機能として職業的な行為となった時、それはどのような種類の行為であれ社会内の機能に寄与し、貢献するものとして、一定の社会的目的という名目が与えられる。たとえそれが建前上でのことであっても、名目が与えられるということが大事なのである。何故ならそれはその行為をする者がいい意味での社会的責任転嫁し得る相手として社会内で認可されることを意味するからである。もっと簡単に言えば「あの仕事はあの成員に任せておけばよい」という認定が与えられることを意味するのだ。
 つまり行為に責任が与えられるということはその責任遂行に伴って報償や権利が与えられるということを意味する。行為が社会的目的を与えられるということにおいて初めて責任という概念が個に発生するのだ。それは個人的な二人の関係、それがオフの日の対話であっても、その二人にとってのプライヴァシーにおいて社会的責任が適用されている。つまり個人的なこと、非社会的義務以外の時間における対話や会話にも社会的目的に伴って発生する責任が付帯してくるのだ。
 だからこそ私たちは意味から自由ではなく、意味を金繰り捨てるという意志さえもが意味の範疇で語られてしまう。脱自と言えば意味の呪縛からの解放を意図しているが、それもまたぞろ「意味からの解放」という意味を帯びてしまう。ここで言う意味とは社会的目的に供せられる行為が責任を発生するということにおける何らかのものへの従属という関係自体が、社会内では意味として認識されてしまうということから考えられることとしてなのである。
 現実があまりにも煩瑣で雑駁で不浄であるからこそ観念やイデオロギーはそれに対する印象として崇高な像を我々に抱かせる。しかし一旦我々に抱かれたイメージはそう易々と打ち砕かれ得ない。これが実は陥穽なのだ。つまり現実自体の不合理性の中に確固たるイメージを見出すことも大変だが、その見出せなさ自体を写像的に認識することもかなり大変なのである。その時私たちは観念や図式、イデオロギーの持つ正義的な正当性に依拠し、思考停止状態に陥る。
 私が友人の国井寛氏と対話する時も、谷口一平氏と対話する時も、そこには本質的に一切の虚飾を打ち払い、社会的常套的な責任倫理や制度的呪縛から出来る限り遠のいた地点で考えたいと望む。しかしそれにもかかわらず、私は一切の言説を自分の内部で理解しているようには語ることが出来ない。つまり私は相手が親しい友人であれば尚更自分が語る言葉の無力を知る。その言葉の無力とは端的に行為の個別性の中から国井氏や谷口氏に対して私が吐こうとしている言葉自体が既に言説化される過程の中で説明原理的なメカニズムを持っている言葉を使用するということにおいて、責任における行為の目的性に私の伝えたい私による行為や全ての思考を還元させてしまっているということである。
 私による私の内部の理解は意識でもクオリアでもない。ましてや言説的な構造でもない。それは端的にその都度の様相的なニュアンスでもあるが、同時に固定化を常に逃れ行くものでもあるような何らかの抽象的であり且つ具体的でもある存在の仕方をするものである。それはものであると同時にことでもあり、現象でもあると同時に原理でもある何かである。しかしにもかかわらず私による言葉は<「私による」言葉>から一挙に<私による「言葉」>へと転落する、と言うよりそのように変化する。それは価値的になることと引き換えに私からどんどん離れていく。
 だから本当に相手に理解して貰いたいのなら、いっそ全ての言葉を語ることを停止し、沈黙して相手の表情の動きや息遣いに対して同意をするか、さもなければ相手から私の表情の動きや息遣いを汲み取って貰う瞬間を待つしかない。
 しかしそれでは一切の理解が得られないように私たちの言葉が私たちの首根っこを掴む。つまりそれだけ私たちは「価値から逃れたい」と望みながら価値に益々拘泥していくことを意味する。つまりもっと分かりやすく言えば私の行為の個別性を私が国井氏や谷口氏に対して訴えれば訴えるほど相手にも同じ行為をしているという理解を得ることとなり、それは私の行為の個別性をするりと抜け落ちて、相手と私の差異を無化する方向にしかシフトしないのである。
 行為の個別性とは端的に語られることによって責任における行為の目的性という無名性と、一般性を性質的に請け負ってしまうのである。
 そこで現実自体の不合理性の中に確固たるイメージを見出すことも大変だが、その見出せなさ自体を写像的に認識することもかなり大変なのである、と私が言ったことをもう一度考えてみよう。
 それは現実に最初確固とした像を与え、観念的図式で捉えていたものが、実際に経験する現実の間に齟齬を持ち、やがてその齟齬に固有の意味を見出さざるを得ないことに覚醒すると、現実自体が合理的に理解することの困難さにぶち当たり、その不合理さえも合理的に解釈しようとする我々自身に対する自己嫌悪となるが、しかしその自己嫌悪自体、あるいは不合理性を不合理性として理解することの困難さ自体を合理的に解釈することの困難さを言ったものなのである。
 つまり論理的な決定性として名詞がコミュニケーションツールとして存在しているということ、そして志向的個別性無視(通り一遍性、あるいは行為的常套性)において動詞がコミュニケーションツールとして存在しているということの二つに対して、形容詞が修飾欲求と説明不毛性の説明意欲としてコミュニケーションツールであることを我々はどこかで知っていて、その三つを組み合わせることの中で動詞と形容詞を複合化したものとして副詞(英語では前置詞も含めて)と間投詞を、前者はより中間的に、後者はより動詞の説明を不毛にするような感嘆において私たちは使用している。しかしそれらも一旦使用されると途端に常習的な慣用性に依存していってしまう。そこに崇高さも新奇性も一切なくなる。つまり使用の運命とは新奇性の剥奪と崇高さの剥離以外の何物でもないのである。
 しかし同時に一切の使用をやめてしまうと、説明の不毛を語ることはおろか、説明しないことの不毛も語られなくなる。その時記述を差し控えれば、発話へ、あるいは一切の意思疎通の停止を、発話を差し控えれば、記述へ、あるいは一切の意思疎通の停止を招聘するだろうが、何度も述べたように既に意思疎通の停止は、停止という一つの語り以外のものではあり得ないのだ。
 勿論私たちは品詞に固有の性格を知っていてそれを利用しているわけではない。ただその時々の感情的様相に忠実に、いやそういう言い方が不適切であるなら自然に、表出する。その感情の様相が自然と動詞、名詞、形容詞、副詞、間投詞を沈殿させつつ沈殿されたものの相互の類似によって集合的に決定しているのだ。
 だがここで私たちは再び意識とクオリアという問題に引き戻される。つまりそれが果たして意味と独立に語られ得るのかという問い掛けにおいてである。