Wednesday, October 28, 2009

第十七章あるいは結論に代わり得るもの

 本論、あるいはこのエッセイ風の私による記述は、京都旅行に端を発する。つまり私が尊敬する哲学者である永井均氏の講演を聴きに京都に三泊二日によるツアー高速バスによる学生旅行的な体験に根差している。
 そこで観た東寺内観智院での武蔵の襖絵の緊張感と独特の安らぎ、そして京都旅行で知遇を得た有志哲学研究の面々との永井氏講演終了後の対話、そして京都旅行の行き帰りのバス中に観想したことがベースとなっているし、その後埼玉県と群馬県の境に位置する城峯公園、神流湖、神流川、神川町、鬼石町、藤岡市、そして秩父夜祭りに行った時のことが第七章で書かれている。これらの記述は実は哲学を哲学外的に考えつつ、私自身アーティストとして生活してきたことをも踏まえて、アートをアート外的に、それ以外の一切を一切外として捉える視点を考えて書いた。
 武蔵が考えていた観智とは、心でものを見るということだが、その本質は知覚に惑わされるなということだ。しかしそう言いきるためには知覚の本性を知り尽くしていなければならない。
 経験とは驚くことの、と言うより驚く「べき」ことの価値と本質を見極める、見抜くということだ。そうする中で私たちは驚くに値しないことを自然と避ける。無視するのではない。無視は意図であり、自然と避けるのとは違う。何を見ても驚くのは赤ん坊だ。しかし我々は自然と驚く必要のないものを避けて、と言うよりあまり真剣に接しなくなり別の価値あるものを求める。つまり取るに足らないものを驚くべき対象外へと除外する。そういう判断をする。その仕方は各個人に内在する人生に対する思想に応じて個々違う。
 生と全ての存在の背景となる空無から捉えれば知覚の大部分が経験と記憶によって左右され、純粋な観智を妨げ、印象を主とした判断をする。知覚は意識が生む。しかし知覚に感けていれば意識は意識されない。意識の在り方は身体的存在という有が其の中にある無と接する(?)ことによって自ずと決まってくると私は考える。
 哲学は大半が言語的思惟である。だからこそ、逆に哲学で千年以上解けなかった命題が、ある日哲学に全く無知な人によって難なく解かれる可能性も十分あるし、またそうあるべきだ。いつの時代も全くその世界に関して無知だった人がその世界に何らかの強震を齎すことはある。私にとってそもそも哲学は専門のフィールド外のものだった。だからこそ、その固有の揺らぎに関心があったし今でも基本的にはそうである。
 私たちは存在する。だからこそその有の中で無を考える。しかしひょっとすると、その私たちによって考えられる私たち存在者としての有に対して、無が語りかけてきて、その語りに耳を澄ますということさえ私たちが気ついていない間に経験しているかも知れない、と京都旅行後に私は囚われ始めている。いや以前からそういう思いが強く、だからその思いが私に京都行きを促したのかも知れない。
 全ての出来事には何らかの契機がある。私の京都旅行にとっては永井氏の講演に関するホームページによる紹介だった。
 人生は全体から見るとそれは一つの長い映画のようでもあるし、祭りが始まって終わる一部始終にも思える。しかし哲学者は人生という語を好まない。(ヒュームは「人性論」を書いているがそれは人生とは違う)現代の哲学者は人生と言わず生、現存在、対自と言う。しかし敢えて私は人生という言葉を用いた。思想という語彙も多く用い、ビジネスパーソンの立場に立って、立場という哲学的禁じ手である社会的認識も多く用いた。そして武蔵の「五輪書」の持つ存在感を重要視し論を進めた。途中大衆文学的趣味の記述もあり、哲学外的に哲学を観る試みを貫徹した。私もまたここ数十年の間に確実に死に、人生全体が泡沫の夢だったという現実に吸引される。これは避けられないのに、人は常にそのことを必死にどこか忘れたいという気持ちでその存在するものの、存在者としての必滅の法則は自明のことでありながら、それは常に別の形に置き換えられている。例えば人生観とか、幸福感とか、生き甲斐とか、思想とか哲学という風に。
 しかし実はそのどれ一つとして明確な定義を持たない。つまり人間は最も感覚的に自明であるものには定義を施す必要性を感じないのか、それともそれが困難だと直観するのか、とにかくその周辺の瑣末なことばかりを定義し、明確化しようと試みる。
 しかしそう感じるということは、私自身が何故生きてきているのかその回答を生涯見出せないことを直観しているからかも知れない。昔年齢を重ねると色々なことが理解出来るものと思っていた。しかし五十を前にして私には未だ理解出来ないことの方がずっと多いと気がつき、ますます迷うことの方が多くなってきたと思う。四十不惑どころの話ではない。
 しかし何故か考え過ぎても埒が明かないということも言える。それはどういうことか。つまり私たちは考えるべきところと考えずに行動し、直観した方がいい場合もあり、それをその都度使い分けている。睡眠も一つの脳波的に言えば形を変えた<考えることを休息する行動>だ。
 あるいは食もそうだ。武蔵は常にご飯を掻き込むように食べていたのだろうかと想像する。武蔵の絵は以前じっくりと観たが、最初に理解出来なかった印象の正体は観智院での彼の仕事を見た時、理解出来た気がした。それは武蔵が心の休息で彼なりに遊び心で絵を描いていたのだろうということだ。勿論それは私の推測だ。しかし絵自体は用意周到に計画されたものではないと私は思った。
 京都旅行に前後して私はヘーゲルも読んでいた。ヘーゲルは極めて律儀で、オーソドックスな哲学者である。しかしヘーゲルの記述はどこか欲望・衝動を真摯に見つめる眼差しがあると思う。そして僅かながら羞恥にも触れている。しかし死を考えると、どうしてもハイデッガーに至り、欲望の正体を客観的に分析するのではなく、どちらかと言うと運命のように捉え、歴史という人間が解釈し、物語化することが不可避な思惟に位置づけられるものと考えているように私に思える。存在というレヴェルに抽象化すると人間が彼にとってどうしてもそうなったのだろう。ハイデッガー以前にヘーゲルも現存在とも世人とも言っていて、ハイデッガーと全て対立する存在ではないことを了解しても、私は世界そのものであり、世界とは私が考えること、命名することであるとする彼の考えから捉えるとどうしてもヘーゲルはハイデッガーにとって(デカルトが私あっての世界と考えていたことからすると)デカルトと一致する存在に思えたのだろう。つまり世界自体とヘーゲルの間に一定の距離があるからだ。その距離が認識上ヘーゲルにとっては重要だったのだろう。しかしそれはヘーゲルが全体ということを世界と等価に考えていたからではないだろうか?
 例えばハイデッガーは自らの死以降にも世界が存在し続けると考えていたが、そう思惟することはある意味で極めて永遠をニーチェ的に思惟することを強いる。欲望を真摯に見つめたということではヘーゲルは親鸞の思想を受け取って完成させた唯円の「歎異抄」的なところがあるが、先にも述べたようにハイデッガーは欲望を欲望としてではなく、言語的な命名、あるいは存在する者の運命、歴史的位置づけという時間論で捉えた。その意味ではハイデッガーは意義論者だと言える。しかし彼はサルトルのように行動へとアジテートする方法は採らなかった。ハイデッガーの言説的拘りを継承したのは、レヴィナスとデリダだったかも知れない。
 サルトルにとって世界は現存在にとって投企する場であり、行動を位置づける契機だ。しかしハイデッガーにとって世界は自らの死後も存続し続ける固有のやるせなさを示す。存在を位置づけるために世界を世界として位置づけるという思惟の他彼にはなく、そのことが既に私が世界を作っていることに他ならないと結論せざるを得なくなるとすれば、彼はデカルトの問うた問いの非反省的地平での再チャレンジをしたと言える。つまりハイデッガーは時間とは推移の顕現ではなく、永遠を私たちが作る場である空間をも成立させる空無に対する変化の側からの感謝だという思惟があったのではないだろうか?
 ヘーゲルは世界は自らが構築する言説上で存在する前に所与として提示される全体だと思うから、全体に対してそれを作る自分という発想は持たなかった。しかしハイデッガーは決してコギトを無視したわけではなかった。しかしハイデッガーにとっての世界と世界を作る自分は、デカルトのように反省的地平において思惟される同一性の基軸ではなく、反省を汲み出す私を存在させる、記憶、それは私の記憶でもあり、世界自体の記憶でもあり、あるいは私たちの記憶でもあるが、そういうものを産出する私が前章に言った空無の背景に浮かぶ一種の現象だったのかも知れない。
 それはウィトゲンシュタインが世界の限界を言語の限界であるとした、あるいは私秘的な言語の可能性から他者の存在の不可避性を考えたことの有の範囲、そして全ての相関、全ての関係を関係のように見えさせる場である空無と時間、それらが私にとって存在している、介在していると思えることがフッサールの考えた現象であり意識であるような意味でフッサールならエポケーの対象としたところを敢えてエポケーする必要ないくらいに感覚的に自明であることを皆が知っているものとしてそこに時空間と空無を見つめたということではないか。
 そういう観点からすれば、武蔵は恐らく生涯ヘーゲル的であると同時にハイデッガー的な視座で世界を凝視していたのではないか?あるいはその二つの合流点、一致点に対する模索そのものが剣士としての勝負だったのでは。武蔵は柳生一族のような意味で継承される流派であるより一代で終わる天才剣法二刀流である。そして個である武蔵が泡沫の人生の中で燃焼される緊張の一瞬に対する記憶を通して彼は後代の彼に匹敵する天才剣士の登場をもって初めて体験的に身体体得的に理解されるという思いで「五輪書」の記述をしたためさせたのだろう。

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