Saturday, November 21, 2009

〔意味の呪縛〕六、信用と欠如

 我々哲学的存在者は、基本的に他者を自己としての意識を持つために先験的に必要としている。そしてその事実に対して覚醒した時には、一々そのようなことを日常的は意識する必要がなくなっている自分をまず視ることになる。つまり見慣れた出来事、見慣れた習慣そのものを敢えてもう一度問うこと、それは一体どうしてなのかと考えることから哲学的思惟は明確化された形として我々の前に提示される。
 自己の意識を覚醒させるに足るような他者とは端的に他者としての生彩を保っているというお墨付きを自らその者に与えているということを意味する。それは初歩的な信用をその者に抱いているということだ。そしてその信用とは私たち自身が誰しも抱いている自らの中の欠如に対する意識と一体化されている。安心も用心もある意味では同じ範疇の心的作用である。ある者を自分にとって必要な他者であると認識することが出来るということはその者に対して信用するということだから必然的にその者への用心を取り敢えず解除するということも意味する。
 ここで興味深いことが私たちの間に起こる。それは他者としてある者を意識するということは只単なる他人として通りすがりの人に対して目線をやることとは違う。それは意思疎通し得るという認可を自然に相互になし得るほどの接近を持った時、それは電車でたまたま隣に座り合わせた他人でも他者となるからだ。それは言ってみれば他人から他者への昇格というよりは他者という存在が言語化された他人であるということが出来る。しかも一旦他者となった者はどのようなタイプの成員であれ、何らかの形で言語化され得る。つまり言語化された他人としての他者を更に言語化するわけである。つまり向こうから私が他者として存在容認された場合は、逆に向こうから私が他者として言語化されているということなのである。
 他者の言語化とは、私という一個の人間を通して、その者をどのようなタイプの成員であるかどうかという思惑と共に、否が応でも社会的地位を通した他者理解の範疇にその者を投げ込むということを意味する。またそれと同時にその者が何らかの形で固有の能力を秘めた存在者である意識する。その存在理由の一端であるその者の能力というものは、その者以外の全ての成員(私も含めた)との相関性において成立する。それは要するにある社員を就職させるための新入社員を公募した場合に審査員たちが査定するような意識的なそれではなくても、無意識の内にそのような目で見ているということである。
 そして社会的地位という取り敢えずの肩書きと、その肩書きを作るその者の能力以外にもその者に固有の性格、その者の育った環境が大きく左右するものだが、それをもその他全ての成員との相関性において私たちに判断させる。そしてその三つ、つまり社会的地位、能力、性格といったことが一緒になり合わさって我々はその者の特徴として把握する。つまりその者の特徴とは、端的にその者に対する査定、判断の全てが複合化されたものである。勿論その特徴とはそれを認識する私にとってのそれである。
 即ちそれらの思惟や認識の全てが他者の言語化である。
 しかしそのような他者に対する言語化というものは、ある意味ではそれだけでは成立してない。つまり自己の言語化と常に交互になされるということを見逃してはいけない。
 自己の言語化とは、反省意識、つまり過去エピソードに対する想起、その想起も忘れたくても向こうから勝手に私たちに思い出させざるを得ないものと、必死に眉間に皺を寄せて思い出だせるものとがあるだろう。そして意味記憶の想起もある。またそれらを総動員して現在において掛かりきりになっている諸問題に対するその都度の理解というものもある。つまり思考そのものである。その思考の中には論理的思惟から感性的な感受もあるだろうし、感情的な判断というものもあるだろう。
 つまりこれらが総体として自己の言語化と呼べるものである。そしてこの自己の言語化という脳内の作用と常に相補的になされているのが他者の言語化である。つまり気配としての存在者である他人が言語化されて他者となったその瞬間から他者は必然的に自己との相関によって言語化され得る運命にあるのである。それは自己内の欠如を知る意味で他者の充足を見出すことにおいてもそうなされるのだし、その者の欠如を自己の充足を通して知る意味でもそうなされるのである。
 だから信用するということは、ある意味ではその者の欠如を容認し合える仲としてその者を何らかの形で認識することであるし、信用されるということもまた自らの欠如をその者に示すことによって得られることなのである。そして自己の充足をその者の欠如から知ることを望むことでその者に臨むということに対する要請と、その者からの同様の要請を受け容れることそのものが他者と相対するということであり、そういう風に相対するということがそのまま哲学的存在者であるということなのである。
 だから信用することとは、欠如の相互容認と、自らの充足を相手の欠如を通して知ることにおいて成立する存在理由=人格的価値ということの発見が第一の他者との、つまり自‐他の関係の端緒においてあるということなのである。
 つまり信用と欠如のシナジーとは自己‐他者相互の言語化作用における実像なのである。

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