Friday, February 25, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 序・「語る」と「語らない」の並立から考える哲学

 私達にとって「語る」はどの様な意味を持つのだろうか?「語らない」の意味は「語る」の意味に規定される。しかしそれは少なくとも沈黙ではない。沈黙は一種の饒舌である、だからこそそれは「語らない」ことで何かを多いに「語る」。しかしこれは「語らない」の本質ではない。「語らない」の真性の性質はあくまで「語らない」である。
 本論では言語、或いは言葉を「語る」ことに起因させる。それはジャック・デリダが「グラマトロジーについて」で原(アルシ)エクリチュールから言語を考えたことと丁度逆のベクトルである。しかし本論では書くこと、読むことの本質も「語る」「語らない」の本質の規定から読み解くことが可能であると説く。
 要するに「語る」と並立された「語らない」はあくまで「聴く」であり「受け留める」であり「考える」であり「理解する」であり、「語らない」ことで言外のニュアンスを伝えると、ある種の日本人が得意な戦略だとされることではない。即座に応答しないということ以外の意味を「語らない」は持たない。
 しかしそれを語る前にやはり「語る」とは何かを考えていかねばならない。しかしやはりそれも「語らない」をも対比的に捉えていかざるを得ない。
 例えば「語らない」を「語る」を無視することである、と捉えれば、それも本質から外れる。何故なら「語る」を無視することは「語らない」時間に「語る」ことを期待する者に、その期待を拒絶する意味合いがあるからである。故にこれは「語らない」の真性の本質に逆らう。
 だから「語る」は「語らない」を含み込むのではなく、あくまで並立するのである。
 これはある部分では西欧形而上学に対する批判的立場でもある。何故なら西欧形而上学は「語る」ことの中に全てを含み込ませようとする意図でもあるからである。
 しかしそれでは既に我々のコミュニケーションの内実も、意志や自由や行為の本質も解明され得ない。そこで本論では東洋的なこととか日本的なこととしてではなく、もっとユニヴァーサルなこととして「語る」と「語らない」の並立に就いて考えていこうということなのである。
 だから逆に「語らない」が学問に対する芸術とか、経済に対する文化といった様な相並び立つ存在として「語る」の傍らに存在しているという価値観から言えば、「語る」の本質は常にそれ自体充分意味していることだけを、それ以上でもそれ以下でもなく「語る」という意味以外ではない。「語る」はあくまで、それだけで充分で、本質を余す所なく伝えることだけによって成立している。従ってそれは冗長性(これはドゥルーズ=ガタリによって「ミル・プラトー」で大きく取り上げられていたが)でも欠損でも未完成でもない。完成という試行錯誤すら無効化する様なある自立した結晶の様なものである。

 意味は行為によって派生する。意味自体が行為を突き動かすのは、意味了解を我々自身果たして後のことである。しかしその事実を我々はつい忘れる。つまり意味が行為を我々に急き立てる。しかし我々はそもそも赤ん坊の時にはいはいをして、次第に人の名を、自分の名を、挨拶を習得していく様に言葉を習得していく過程で、派生してくる意味を価値として受け取る。しかしその意味自体が価値として我々を呪縛して我々は大人になる。そして芸術家とは意義深い仕事だ、とか公務員は世間一般の人達の幸福の手助けをするとかといった職業倫理とか社会的使命とかいった生自体を意味づける定義を信条として生活していく。
 しかしそれは社会慣習とそれへの同化を果たしつつある私達の条件反射的社会行動から条件づけられた考えにしか過ぎない。だからこそ「語る」ことはその中で意味に支配され、次第に「語る」こと自体を、それ自体として受け入れる余地を失っていく。
 例えば職業であるから文章を書くとか、それは市役所で書類を作成することもそうであるし、作家であるから頼まれてエッセイを書くとかもそうである。しかしそれは意味を規定通りに一切の疑いを持たずに決められた行為の為に従属させているのである。行為自体は決められてなどいない。そして決められた行為に従属する意味などに意味はない。そんなものはない。あるのは只意味を作っていくべきである、ということと、行為自体に何らかの価値があるべきだ、ということだけである。
 何かの為に行為があり、意味があるのではなく、行為自体にするべき価値があり、意味自体に作られるべき価値があるのであり、行為と意味とは我々は存在しているということの証なのである。従ってそれらは無規定的に可能性として与えられているだけで、踏襲すべき体のものではない。
 行為が意味づけられたり、意味が行為によって立証されたり、それはそういう風に逆転を果たしつつ我々は生活しているが、行為自体に何かやはり最初から価値があった筈なのである。三輪車に最初に乗った時もそうであった筈だし、最初に隣のみよちゃんと遊んだ時もそうであった筈なのである。しかしみよちゃんは大人になり、自分も大人になり、そこで我々は意味から入って時間を節約しようとする。
 時間の節約は端的に、生活上で何か仕事をすることが、義務であるが故に、一時義務から解放されるオフの時間を安らぎあるものとして過ごそうという刹那的な人生の解放感への価値から派生している。しかし仕事自体に生き甲斐を見出せないのなら、それは義務ではなく苦役であり、拷問であろう。或いはオフの時間がオンの時間の辛さと憂さを晴らす為にのみ存在し得るのなら、それこそ一時の快楽でだけ人生を肯定しようとする儚い試みということになろう。刹那自体を追求しているのなら未だいい。しかしそういう生き方が出来る様になる為には全ての義務を履行して、全ての規制の価値を踏襲してかいなければならない。しかしそれが出来る者は極めて少ない。何故ならそれを可能化する為には限りなく生活上、経済力上のパワーを必要とするからである。
 それが出来る者を真に世間的俗人であるとするなら、その者の構成する全ての対話では「語る」ことの中に「語らない」ことも吸収させ得るであろう。彼のする「語らない」こそは全て予め意味化されたサインであろう。それはそれでそれが完全に成し遂げられるなら、それは俗人の極みであり、権力施行である。つまりそういった価値自体の、行為意味充足性自体の体現だけで生を送るとしたら、それは本論の主張とは全く真逆の、しかしそれはそれで極めて完成された意図的人生である。全ての無言はそれ自体沈黙としての言語として意味づけられている。
 しかしそれをし得る権力と、それを成し遂げられる冷徹さと、それだけを価値とし得る須らく完璧なる残酷でさえあると言ってよい保守性を保持し得ぬ者に、その理想を語る資格はあるまい。従って我々一般的な人間は「語らない」ことを完璧に意味づけられた沈黙として戦略として利用することを潔く諦め、肯定的な諦観、つまり俗人の極みが成し遂げられる否定的なまでの、ペシミズムの極致の、ニヒリスティックなまでに伝統的コードと有有職故実性に遵守した従順なる諦観を持てるだけの精神的ゆとりのない者には、創造的な諦観が必要なのである。創造的諦観とは、私は宮本武蔵の様には生きられない、織田信長の様には生きられない、坂本龍馬の様には生きられないが故に、人が言うことを聴く時も、自分の意見を語る時も「語る」ことだけでなく、「語らない」ままにして、結論を即座に提出することを控えて、常にエポケーを懐に忍ばせて、あるがままに他者存在を受け入れ、自己を他者に恣意的に構えることなく、生活していくことしか残されてはいない。
 これは本質主義と実在主義の一致にのみ、生を意味づけていくということに他ならない。そこでは当然プラトニズムへの懐疑、デカルト主義への懐疑、デヴィッド・ルイスの可能世界論への懐疑を持ち込まざるを得ない。しかしそれを持ち込む為に今一度それらの思想を我々の前に批判対象として提出させなければいけない。
 次回からはその都度そういった批判対象の慎重なる検証を旨として記述を行っていくことになるだろう。常に一人の批判対象だけを提出させるわけではなく、あくまで常に並行させて提出させ、批判対象の中にも肯定的部分、或いは価値再考的部分を見出し、我々自身にとって「創造的価値」のあるものとしてその都度修正して完成させる意図も必要であろう。
 取り敢えず本論では、「語る」ことの余白に位置すると思われる「語らない」時のことに焦点を当てて考えていこうと思う。そうする中で炙り出される「語る」ことこそが、真性の意味であり、冗長的でも欠損しているのでもないメッセージであると受け取ることが可能である。しかし「語らない」ことの本質には無駄を省くとか、先ほど述べた時間の節約とは当然相反する考えがある。それを理解する為に、まさに「理解する」とは何かという問いを次回から暫く関わっていきたい。