Friday, October 16, 2009

第九章 存在と意味

 通常私たちは何らかの意味で安定した経済とか、安定した家庭生活という前提で生を考えている。勿論その際にも恵まれた環境かどうかという差はあるだろうが、少なくとも生を受けた段階で既に私たちを誕生させる何らかの礎があったことには変わりない。だから生を受けてから私たちが自分の脳で自由とか責任を考える前には、ただ只管制度(客観的日常)を受容する期間があり、それはある部分では一生続くが、その中に主観性を獲得し、主観的日常を取り込むことを誰でも少なかれ心の中で実行する。そしてその心の有り様が他の一切の行動にも反映する。しかしその自由や責任といった純化された概念は、実は極めて限定的で不自由な、責任の名にも値しないような現実によって逆照射されている。
 勿論生まれた時に国民全体からその将来を嘱望されるような出生を経験する者も大勢の中にはいる。しかしそれはあくまで例外であり、殆どの成員は自らの社会的使命を自らで見つける。
 つまり制度以前に親和的な触れ合いのような前制度受容段階(赤ん坊はそうである)を経験し、然る後制度を徐々に身につけ、その一つの大きな柱である言語を習得する。そしてその言語的思考の中から自由、責任、独立、自立、主体性とかの抽象的な概念に目覚める。私たちはまず私たちの意志によって生まれてきたのではなく、ある限定された所与条件=環境の只中に、ある日突然自らの意志とは無縁に突如放り出されているとも言えるわけだ。そしてその状態はまさに自由とか責任とは程遠い状態からの出発である。つまり私たちは存在を論じる。意味を論じる。しかしそれらは全て制度をあり難いものであるかどうかという判断さえつかない内に半ば強制的に、しかしそのことに対する善悪などという観念とは無縁にただ只管受容し、その受容した客観的日常の範疇において、その受容されたシステムの内部でそれを問うだけのことである。
 つまり存在することの根幹に存在する私、存在する自己と他者ということは、実は、存在することの意味も、意味の存在も一切問う能力はなく感覚的に全てを理解するような状態をまず通過して然る後初めて理解した言語、言語的習慣、文化、教育を獲得し受けることによって知ることとなる。それは幾多の知識が集積され初めて物事が体系的に理解出来るに従って問えることである。
 存在と意味は、その意味では存在者であるという自覚を、存在者ではない段階から徐々に制度を受容し、それを正しいとか正しくないという判断など出来ない状態から、それを出来る状態、と言うことはある程度そういう抽象的問いをすることが許される資格を経た後に、そのように問うことはあなたにはまだ早いと言われないくらいには社会に順応して生活していける状態を獲得した後に問える問いであり、問うことの意味を問うことも出来、問うこと自体が周囲から否定されることがない状態を獲得する。このことは永井均氏も常々主張されていることだが、その問題を本章では考えてみよう。
 私たちが何かを問う時にまず気がつくことは、端的にそのように何かを問うこと自体が既に私たちに与えられた能力の行使以外の何物でもないということだ。しかし既に述べたが、私たちはその能力の行使を何か自分の外部にあるロボットを遠隔操作するかの如く操作しているわけではない。これはダニエル・デネットが「解明される意識」で問題化したカルテジアン劇場という考えで主張している。つまり反省意識は、反省する以前にまず何か常に行動していてそれを普段は不思議とも何とも思わない原音楽行為の定常化という現実を基礎として然る後高次の意識の獲得によって得られるからだ。しかし一旦そういう高次の意識を身につけたら、かつてそんなことを知らずに行動していたことを逆に不思議に思えてくる。
 私たちは何かを思ったら、そう思っている自分というものの存在を自覚出来る。これが一つのカルテジアン劇場で上演される劇というわけだ。ロボットではそうはいかない。ロボットは命令された通りに動き、その動いている自分というものを恐らく意識しない(取り敢えずそう結論しておく。これさえ我々は確証出来ない)。
 つまり現存在の存在は、存在することで、存在しつつ、何か常に考え、何か常に行動をしている、それは睡眠をとっている時でさえ考えることの全てを止めるわけではない私たちの脳(尤も考えるという語義をどう捉えるかによって違ってくるが、少なくとも脳自体は睡眠時にも覚醒時とは性質が異なっていても、活動は一時も休まない)は、存在することを証明するかの如く、常に変化を作り続ける。
 存在という概念は、そのように絶えず変化し続けることと、常に動いていることを意味する。それはそのようにしながら時間自体の有効性を証明している。意味はその存在することの意味を考えるというところから発生しているように私には思える。
 例えばその会議に出席する意味とか、その会議をその時期にする意味は、会議自体の存在理由によって与えられるし、またその会議を行う存在者を待って初めて存在理由を与えられる。つまり意味とは存在理由を問う対象が存在すること、その対象を覚知しそれについて問うことの出来る存在者の存在、つまり両者の関係を前提する。
 例えば絵画には作者が必ずいる。そしてその作者によって描かれた絵を鑑賞する人も必ず必要である。たった一人でもその絵を鑑賞する存在者がいて初めてその絵画作品の存在理由が発生する。つまりその絵の意味が問われ得る素地がその段階で初めて発生するのだ。つまり存在とは意味を問われる運命にあるし、意味は存在するものに対してしか付与され得ない。そして存在するものがただの物質であれ、存在者であれ、その存在する者に意味を付与し、意味ある存在にしようとする、ある固定化された意味という価値判断によって何かを存在せしめようとする(例えば会議を開くとか、ある性格の捻じ曲がった男を矯正しようとか)ことも、存在する対象を認識する存在者が全ての前提である。要するに存在は既にそのように存在を問う時点で意味を発生していて、意味は存在するものがあると判断出来る存在者の存在を前提する。
 私はその存在者の存在の内部に羞恥の存在を考え、その羞恥とは他者存在が作ると考える。他者存在を知らない内は、その者は羞恥を持たない。他者存在はまず通常では両親である。普通母親の方が先だろうが、この段階で私たちに既に羞恥が備わっていたとしても、意志伝達という形で発動されることは未だない。尤も表情とか態度は既にあるが言葉は未だ知らない。最初の他人とはアパートで隣の部屋に住む人であり、母親と会話する誰かであり、自分に兄弟や姉妹がいれば彼らであり、彼らの親しい近所の友達だろう。彼らと接触する中で初めて他者に接する時に見せる羞恥を、母親に対しても見せることとなる。
 私たちは社会制度を受容する中で、それらの人間関係を何らかの秩序の下に理解し始める。存在理由を例えば母親にとっての自分とか、父親にとっての母親とか、自分にとっての父親というように、他者という存在者の存在理由を何かにとっての何かという相関によって理解しようとする。私にとっての弟の存在理由、彼にとっての私の存在理由という風に。つまり私たちにとって存在するものは、存在者というレヴェルの人間学的な様相から把握出来ない存在など一切ないのであり、意味とは存在者にとっての意味であるということでは、ハイデッガーの主張は正しい。
 この地球上に私を含む全ての存在者がいなくなったとしたら、恐らく存在と意味について問われることは一切なくなるだろうし、それを問う意味もなくなるだろう。(地球外高等生命がいたとしたらどうなるだろう?)それは存在と意味とは既に私たち存在者=人間を前提すると考えるからだ。
 しかし存在と意味の前提である私たちの存在は私たちが意味として与えているけれど、私たち自身が作ったわけではない。 
 
 纏めておこう。私たちが存在という意識を全ての観察し得る対象に対して抱くことが出来るのは、まず私たちが存在しているからだ。しかし私たちが存在していることを私たちが知るのは、一定の無意識的に行われてきた手続きを経て後である。つまり存在することは存在するものを通してでなければ理解することが出来ない故、存在している自分がまずあって、しかしそのように存在しているとか存在していないなどという思惟を持たない幼児期の我々は、既にそれを知っている前の世代の人々が作った社会とその制度を受容していく過程で、そのことを知る。そして存在を、存在する者、存在するとはどういうことかという問いを問うことは、それ自体一つの能力の行使であり、考えることだが、その能力自体は私たちが作ったのではない。私たちの祖先でもない。既に人間という存在者を作ったのは、確かに契機を作ったのは個々の存在者各自だが、考える能力は彼らが作ったのではない。既に子孫を残そうとしていた彼らは、その能力を行使しただけである。私たちもそうである。つまり存在と意味を問うことは、そのように問うことを可能にする能力の行使であり、能力自体を作っているのではないことに対する覚知こそが自然科学に対する学究的な欲望を産出している。
 私たちは与えられた能力を、自然からか神からかはともかく与えられた能力であると認識し得る。それが人間固有の言葉による理解だ。しかしそのような能力も私たちは自分で作ったとは思っていない。だからこそ、その私たちに与えられたものをザッハリッヒに対象化して問う時自然科学が誕生する。しかしそのように私たちが考えること自体を問うことは、私たちの存在を私とか私たちという意識を離して考えても所詮私たちの脳がすることでしかなく、私の考えた言葉を使えば、主観的日常的な考えに過ぎないということを最初に明示したのが、フッサールであり、彼の「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」だ。つまり彼はこの世界に純粋に客観的な捉え方など存在しないと言いたかったのだ。
 宮本武蔵は哲学的な文章を書くが、哲学者ではない。剣豪である。よって彼の書く所作一式は全て実践的に彼が体得した科学以外の何物でもない。しかしそれは通常の理論的な科学(例えば理論物理学)とは違って、彼自身の人生と生活上で体得した固有の経験に根差したものである。従ってそれはフッサールが批判しているものとは違う。
 フッサールが批判したのは、あくまでそれを唯一のもの、つまり信用することが出来る唯一のものだとしてきた科学的慣例である。しかし人間が科学を信用出来るとしてきた以前には神という認識があった。神は全ての実在を実在たらしめる根拠だった。それを今でも信じる人は大勢いる。宗教はその神に対する尊崇によってその信仰共感者同士の結束を第一義としている。
 デカルトはコギト・エルゴ・スムと言うことによって彼自身は神を信じていただろうが、その問いによって我々自身を神による実在という観念から、私たちの思惟による実在というレヴェルにまで問題設定を移行させた意味では、明らかに近代以降全ての無神論の発端と言ってもいい。フッサールは自身数学者出身である固有の直観から恐らく、神を否定することに無意識の内に躍起となってきた科学者を中心とするエリート近代人たちがガリレイとデカルトの科学規範を至上のものとしてきたことへの批判、つまり神に代わる価値の設定自体を再び外在的(科学外的に)に、つまり私や私たちという意識、自我から離脱させて考えた。フッサールの考えによってその試み自体も私たちに与えられた能力が私たちに行使させていると言うことが出来る。私たちは何事かを解釈しようとする。そうすることによって何らかの真理を一時でも会得し得ることを信じてそうする。恐らく存在とか意味という概念を我々が採用するのも、やはり我々の存在や存在理由を信じたいからだ。つまり与えられた能力を行使すること自体が既に私たちは私たちの存在を認可し、信じていることを意味する。でなければ我々は存在の意味を問う筈がない。
 他者に対して畏怖するのも、その他者存在を発端に羞恥を介在させるのも、全て他者存在を信じているからに他ならない。その他者存在を信じている私を私たちは厭でも信じざるを得ない。でなければ私たちは他者に対して畏怖や羞恥を感じる必要もなければ、それらを克服する必要もないし、そういう気持ちにもならないだろう。
 他者がいなければ私が私であるという意識にはなれない。他者が私意識を覚醒させ、私意識は他者が作る。そして他者が私に羞恥を喚起し、羞恥の存在を覚醒させる。そしてこの時信じること自体、既に自‐他という相関に組み込まれていることを私たちは知る。

 私たちは存在や存在するものを自らのものとして捉える時、自分以外の者にとってもそれが存在することから、自分にとって大切なものとか、自ら所有するものをそうではないものと区別することが出来る。つまり存在レヴェルの認識にはそこに自分以外の存在者、他者が介在している。意味が存在していることの意味を私が問うこととはその問い自体に「他者もまた私のように意味を問うだろう」という意味を持つことだ。そしてそう解釈することで、感じることの私にとっての固有性を、どこかで「他者もまた」という視点の下で理解しようとする。その時私たちは感じるもの自体も把握している。幼児は感じるものを感じているだけだが。
 つまり把握する(前章を参照されたし)ことは、自らの中に他者を作ることなのだ。自らの中の他者性に目覚めることなのだ。この場合他者がもう一人の私なのではない。私そのものがもう一人の他者なのである。つまり私意識は他者存在に対する客観的視点が日常化した客観的日常から産出される。私とは他者一般に含有された自分のことである。勿論そのために私たちは必死に社会に同化しようと試み、何とか制度を受容する。
 これを段階論的に敢えて位置づけてみると、
 
他者存在に対する覚醒(存在認識)→私意識の覚醒(自分の存在理由<意味>の認識)→他者一般の中での私の発見(存在認識と存在理由<意味>の認識の複合化、つまり責任の誕生)→他者がもう一人の私であることの発見(存在認識と存在理由<意味>の認識の複合化された視点の獲得、つまり思い遣りの誕生)→他者と私との関係の構築(存在認識と存在理由<意味>の認識の複合化された視点による行動・実践)

 勿論これらは必ずこの順序でなされるというわけではない。しかしある意味ではその理解通過でのその都度の重要度という意味ではこのような手順というものを考慮しても差し支えないと私は思う。

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