Sunday, December 23, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十二章 時間論を超えられるか?/空間の存在の側からの絶対性に就いて

 意味は既に何に関しても直観的に明確である。それは意味が必ず実在的に最大級の主張をしているからである。それに対して概念は常に形骸的である。それは統語に近く語順的な言い方の癖の様に物事の理解の為の癖の様なものである。だから表層的で形式的な概念は変わり難く、実在的その時々で全体的なメッセージとなっている意味(意味とは常に世界への全体的な把握から齎される)は横溢しているが故に時代と共に、状況と共に変化しやすい。唯戦前であれ戦中であれ戦後であれ日本の女性ということを考える時その本質的な意味は変わらないと言う時、そこでは概念的な女性性への理解をよりメッセージ啓蒙的に分かりやすくしているだけのことである。
 哲学的には意味は移ろいやすい。
 だから意味はより時間論的範疇のことである。概念の方がなかなか執拗に歩くとか、大人とかの形式的な把握を変えないのでより時間を超越していると言えるが、それとて完全に不変ではない。ある概念はそれを必要とされなくなる大きな事態の変化というものには耐えられないからである。しかし空間はそうではない。時間から唯一影響を受けないものとして空間をカントは考えたとも言える。
 存在も意味も既に時間論の範疇の命題である(存在は存在する事実からしか語れない。従って存在事実は時間論的である。すると存在と言明する時既に我々という時間と無縁で居られない存在者の側からの言明となり存在自体も時間論外で居られなくなる)。そこでどうしても存在と意味を設定する場、つまり空間が求められる。それはどうしても思惟の上で相対的なことではなくなるのだ。絶対基準としての空間、絶対無ということになってしまう。それは唯単に思考上の便宜によるものなのか?もしそうなら存在も意味も時空間ということになるが、そうなると空間は相対的となる(現象学はそう考えている。カントは違う)。
 また意味が説明的であることは、仮に意味が不変であってもそれ自体時間的なことであることも免れないということである。要するに存在も意味も時間論へ吸収され、空間を場として考える余地をどうしても残してしまうということを意味している。
 空間的なこと、つまりカント的崇高なるものとの出会いは、身体論的であり、空間のエロスの問題である。実はここにありとあらゆる宗教的感情の発生の根拠があるものと思われる。空間の只中に立たされていることその事実は、空間の只中に「在る」固有の感じで疑いのないものである。そこで自己存在からは太刀打ちの出来ないメジャーさとして空間は覚知されるが、覚知している自分という認識は、あらゆる思惟が身体を事実化するロゴスによって生み出されていると我々は覚醒する。
 そこでロゴスとしての自己がエロスを際立たせていると知る。
 ところで一億年前も十億年前も地球が誕生したと言われる四十五億年前も、或いはビッグバンのあったと言われる137億年前からこのかた空間それ自体は全く変化してこなかったのだろうか?アインシュタイン的に空間の歪みと言うと、そこにはもう既に時間が介入してはいないだろうか?
 ここでも結局存在者である我々や地球や宇宙(要するに実在)からしか空間を考えることが出来ないのだから、時間の介在しない(時間、つまり自然のあらゆる変化を消去した後に残る)純粋な空間などは思惟に於ける論理的可能性でしかないということになる。
 しかし本当にそうなのだろうか?絶対無にしてありとあらゆる存在を包括する空間それ自体は137億年前から宇宙が消滅する迄変化しないものであるなら、その間の全時間は絶対無の現象となろう。ビッグバン以前と宇宙の消滅以後はではどうなるのだろうか?そこ迄考えるならやはり絶対無としての空間を想定することは無意味ではないのではないだろうか?
 結局物理学の未来の方向性も、この存在という既に変化を伴う時間が介入した自然と共に変化しつつある実在的側面(自然とは我々をも含めて全生命現象と全存在との総体とも言えるが、哲学者は我々を自然とは捉えないし、科学者も自然と自然を認識する我々は区別しよう)から空間を捉えている(認識している)のは、絶対無という絶対的場の上での現象(でしかない)ということなのか、それとも現象と言うそのこと(絶対的事実)こそが空間そのものなのか(それだとどうしても空間自体の認識は相対論となってしまう)、という哲学的認識如何で大分様相が変わっていくだろうし、いずれの立場も維持されていくと私には思われる。
 しかしここでも二元論的な認識体系が浮上してしまう。この夢魔から如何にして逃れられるのだろうか?
 最終的には存在自体が刹那であるのか、それとも永遠であるのかという認識の差によってありとあらゆる想定される問いは異なった様相で認識されることとなる。宇宙も誕生と死滅とがあるから、当然存在は刹那である。死があるものはたとえ悠久の時を持とうが刹那である。しかし我々自身は「我々の宇宙」の外から考えられないが、「我々の宇宙」の死滅「後」の世界も想定し得る。それは世界、つまり我々の世界を「世界」とすることから可能である。ここに無限背進構造が認められる。そうなると結局アリストテレス原理へと帰着してしまう。カントはプラトンは永遠を前提している(カントの謂いでは知性論者)が、アリストテレスはそうではないとしている(要するに永遠問題を不問に付している。カントの謂いでは経験論者)。フッサールのエポケーもこの不問に付す態度である。しかし刹那は永遠が生んでいるとは語義論的には言い得る。そしてここでも無限背進が浮上してしまう。結局存在が記述問題へと摩り替わってしまうジレンマから我々は自由になれない、ということ以外ではなくなる。
 空間は触覚的に体感される(tangible)。つまりそこで意味を食み出すのだ。何故なら意味とは説明的なことだからである(空間それ自体は説明出来ない)。
 空間を測量することは、そこに既に面積や体積やを求めるという測量行為を伴うが故に時間的な空間の認識をする、ということだ。それは時間化された空間なのである。時間化された空間とはそれ自体相対的空間なのである。
 それに対し何処迄も拡張可能な空間(カント『純・批』のアンチノミーとしての)は、それ自体絶対ではないだろうか?(尤もここで「自体」とする時名詞化されているから記述問題が絡んでしまう)
 無限性、そして永遠とはこの絶対無として想定された空間である。
 生そのものは時間的なことである。生は空間的ではない。生命も空間的ではない。空間はあらゆる存在(生をも含む)以前の絶対基準である(として考えられている。それは取り敢えずなのかも知れないが)。芸術で示せる空間も作品という点を提示する行為的空間故、限定的時間空間(パフォーマンス)であるとも言える。
 人間の身体自体がホメオスタシスとエントロピー縮小の賜物なので、空間に対して点でしかない。存在とは存在の認識であるが故に存在者という点からしか認識され得ない。点が存在しないとすれば存在も成立しない。
 そう思考すること自体が点から空間へ対峙していることなのである。
 ところでここで世界に存在する全ての存在者(現存在)の気持ちということを考えると、それは論じることの不可能領域となるだろう。それは空間が説明不能なのと同じくらい説明不能であり、現象的なことの無限と言うに近い。その問いは甚だ具体性を欠いてしまう。この抽象化された問いは、そこから逃避すると絶対正義などの観念を喚起する。しかし空間を絶対無として認識するその仕方は幾分それと似てはいないだろうか?つまり説明され得ぬと説明され得ることとしては全存在者の気持ちと空間とは酷似している。
 今回は意味と概念との往復運動それ自体が時間論であり、その時間論的堂々巡りをいい意味で発展的に進化させることの先に空間論が浮上するメカニズムに忠実に考えてみた次第である。
 次回はカントの三批判書に則して考えられる空間の今日的問題に就いて考えてみよう。

Sunday, June 10, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十一章 意味とは永遠のものなのか?/意味の変化と連鎖に就いて

 意味に就いて問うことほど多くの現代哲学者を悩ませてきたものはない。しかし意味はある部分では極めて時代的な思想とか国民(ある言語を使用する民族)の間での総意の様なものとして意思疎通上では明確なものであり続けてきた。
 だが意味はある民族から別の民族へと受け渡された時微妙に存在理由を変える。例えば日本人はアメリカ人と国家観も平和観も幸福観も微妙に異なっている。あらゆる普遍的意味さえ民族が違えばその在り方は異なっている。
 にも関わらず我々人類が民族の差などなく全ての民族が幸福を人生で求めるとかの普遍的意味というものはあり得る。そういった意味では意味が普遍的であり得る為には翻訳されても「変わらない」部分だけを意味とすべきだ、という考えも提出され得る。
 欧米では幼少の頃からキリスト教倫理的な教育を子供達は受けさせられる。その訓育的な厳しさは今の日本には希薄なものである。だからそういったある部分では宗教戒律的な規約の中で育まれてきた文化の一部として綿々と育まれてきた哲学は竹田青嗣の朝日カルチャーセンター講義での言に拠ると、「神という存在への克服」という形で文化史、生活史的には言い得る。
 しかしそういった文化的様相の差異以上にもし哲学の持つ命題の背景を無視したそれ自体の価値にだけ目をとめれば、当然哲学的論理とか形而上学的論理はそれ自体民族文化の差を越えたグローバリティを獲得し得るとも言える。その点にのみ着目すれば、意味とは翻訳されても変わらないものとなる。
 もしここに一台のパソコンがあったとして、そのパソコンと同じ機能を持つ同じ機種のパソコンはそれぞれそのパソコンメーカーが開発した製品であるから、設計図もあるだろうし、パソコン機器自体のハードからソフトに至る迄プログラミング言語であれパソコン本体の頭脳であれオリジナルは存在し得ようが、パソコンの利便性はそれをコピーして作られた全製品で差異なく(勿論中には不良品もあるだろうが、そういう意味ではなく)その一台の同機種のパソコンもそのパソコン自体の有用性という意味では変わりない筈だ。そしてその機種のパソコンの有用性と機能こそはそのパソコンの意味である、とすれば、当然そこにオリジナルとコピーの差など何の意味もない。
 つまり上の記述から考えれば意味とはオリジナルとコピーの差を無意味なものとすることに於いて成立する筈だ。
 例えばバッハが書いた直筆原稿自体は歴史的資料としての価値はあるだろうが、「ゴールドベルグ協奏曲」の持つ学理的意味はどの様な形で印刷されたものでも同じである。三島由紀夫の「金閣寺」は文庫本であれ初刊本であれ文章自体を鑑賞出来るという意味では同じである。
 カントールが直に書いた数式だけが価値があるのではない。彼の発見した公理自体に意味があり、それはオリジナルとコピーの差を無意味化させている。その点ではピカソの「ゲルニカ」が世界で一枚しかないというアートの価値は、今迄述べてきた楽譜とか小説の文章とか数式とは異なったものである(その点はそれなりに分析し、解釈していく必要がある)。
 しかしピカソの「ゲルニカ」さえ何時かは物体として消滅してしまうだろう。その意味では意味とは永遠なものではない、という哲学的時間論がここで浮上してくる。
 確かにある優れた方程式や公理はオリジナルとコピーの差を無意味化している。しかしその方程式や公理がもっと未来の人類にとっての数学では今ほどの価値を有さなくなっている可能性はある。あることの意味の内容は変わらずに未来へと伝達されたとしても尚、我々はかなり遠い未来ではその伝達されたものの価値は今と全く異なった意味を持っているかも知れない。
 つまり意味の意味は永遠不変ではない、ということである。しかしある時代に本質的な意味となることは、古代、中世、近世、近代、現代と変転してきた様な意味ではない、もっと基本的な(しかしそれ自体自明性の名の下に決定的な意味をその都度は持たない)意味は概念化されたものとしてかなり長期に渡って変わらない。日本語で「大きい」「小さい」「変わる」などがそう容易に変わらない様な意味でである。
 この事実は東北地方の広範囲で東日本大震災が勃発しても尚、東北諸方言がなくなることがないということや、彼らが大震災によって統語構造を変えていくことがないということとよく似ていはしないだろうか?
 概念は基本的なことであり、その上に時代毎に固有の本質的な意味が加わる。概念とは言ってみれば古層なのである。しかし古層はあくまで相対的な不変性しか常に引き継がれない。その相対的不変性に対してそのことが「ある時代」ではどう意味作用するかという部分に意味が感情的で情動的な我々からの感知或いは認知だと読み取ることが可能である。
 だから意味は不変ではない。永遠ではない。それは移ろいゆく。しかしその移ろいゆく部分こそが常に「ある時代」では本質的なのである。今の日本人にとって津波の持つ意味は大きく昨年の3.11以前迄とは変わった。だから或いはかなり時間はかかるだろうが、津波の持つ意味が変わる時には「かつて10メートル以上の津波は脅威であった」という意味となるかも知れない。しかし依然津波は津波であり、そういった意味では移ろいゆく意味を連綿と次代へと繋ぐものとは端的に基本的概念である。
 意味の連鎖を保証するものとは基本的概念だけなのだ。そしてその基本的概念への時代毎の「接し」「対応」こそが「ある時代」のその概念を有する事態の意味である。そして意味は連鎖されていくが、時代毎に意味の様相は大きく変わり、それは不変ではない。
 パソコンの機能と利便性にオリジナルとコピーの差はない。基本的概念は要するにパソコンの基本構造である。今の時代のパソコンの利便性は次代には不便なものとなるだろう。しかし次代で新たに利便性を獲得している(それがパソコンであるかどうかは別として)ものにもやはりオリジナルとコピーの差を無意味化させる作用があるだろう。しかし常に何時の時代の機器も基本構造の上に「ある時代」に固有の利便性と機能という意味を乗せている。
 要するにツールの利便性と機能という意味にはデネットが言うVIMがないということだ。それは機能さえ果たせば何だっていいということ以外ではない。それが利便性と機能の意味の本質である。
 だから言語的なこと、つまり記号としての機能という側面から意味を考えるならあるものに固有のアウラとかクオリアは余分なものでしかない。しかしピカソの「ゲルニカ」は世界で一点である。如何に精巧に作られたレプリカもコピーでしかないだろう。しかし時代が経つにつれオリジナルは劣化し、それを修復家が補修する。それは従って厳密には徐々にオリジナルをなぞったコピーへと移行しつつあるのと同じことなのだ。いずれ「ゲルニカ」もピカソの筆触を「再現した」コピーの最たるものこそがオリジナルだと言われる様になる。その意味ではアート作品のクオリアも所詮、「オリジナルの再現」へと移行せざるを得ない。
 次回は意味の非永遠性から意味の連鎖=基本概念の永続性という今回得た結論から再び概念から意味へ、意味から概念へという往復運動自体に内在することとは何なのか、ということを考えてみたい。

Friday, June 1, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十章 言語の無限連鎖から考える存在論と意味論

 人類も何時かは絶滅するだろう、と誰しもがそう考える。しかしそれを日がな一日と伸ばしていくことだけで何時迄も人類は存続する、とそう我々は思いたい。
 しかしでは逆に何時かは絶滅するのではなく、絶対に絶滅せずにずっと人類が永遠に存在し続けるとしよう。もしそうだった時に、人類の言語、例えば日本語とか英語はどうなっていくだろうか?
 例えばあと三百万年後の日本語や英語はどうなっているだろうか?或いは三京年後の日本語や英語はどうなっているだろうか?後者の時代には当然地球ももうないだろう。すると銀河系の何処かの星に辿りついた人類はどんな言葉を発しているだろうか?
 そんなこと心配しなくてももっと早く人類なんて絶滅するよ、と敢えて今そう考えずに人類が太陽系崩壊後もずっと存続し続けることとしよう。
 その事態を可能化させる為の条件の一つとして個体が死滅しないで、どんどん子孫を繁栄させ尚且つ全ての世代の人類が共存していくということを考えよう。
 一億歳になったある人は生まれた時に話されていた日本語が大分変化してしまった、それこそ平安時代にpaと発音していたことがfaとなり、もっと時代が経つとhaとなっていくくらいの言葉の発音の変化ではなく、もっと激烈な変化を民族全体が来たしているだろうが、言葉は個人の記憶としてだけでなく、かなり集団全体でどう使われているかということで慣用されることであるので、今七十年代に流行った「ボイン」などと言う人が居ない様に、かつて「ボインはボインやでー。ボインは赤ちゃんが吸う為にあるんやでー。父ちゃんが吸う為にあるんやないんやでー」と言っていた月亭可朝でさえ、「巨乳」とか「爆乳」と居酒屋で若い人と語る時には言うだろう。
 要するに言葉はどんどん時代と共に変化していっている。それが百万年も経てばまるで言語行為の仕方さえ異なってきているかも知れない。それは個体が死滅しなくてもそうである。
 唯個体が死滅しなければ一億歳の人と八十歳の人とでは記憶している量が違う。七十数年前から今迄の記憶と九千九百九十九万九千九百九十年前から今迄の記憶とでは余りにも個体差が大き過ぎるから、ある部分では個体の死滅しない社会とは激烈なヒエラルキーが存在し続けよう。もう一億歳以上の人達は死んで貰おうということにさえなりかねない。要するに言語の無限連鎖では「りんご」が「るんご」や「れんご」になるくらいでは済まされない「ごんり」「ごんる」「ごんれ」も、「ごりん」「ごるん」「ごれん」にも変わり得る様なそれこそ無限に(とは言っても口は人類にとって一つであり続ければ発音される基本形は今とそう変わりないだろうから)三文字の語彙であれば「平仮名全文字」×「平仮名全文字-1」×「平仮名全文字-2」分だけの語彙は、例えば「りんご」に対応する意味のものとしてはやがて全て使い切られよう。
 すると仮にタイムマシーンが出来て何時の時代にも行ける様になったとしてもきちんとした古語辞典がなければ直ちにある時代の「りんご」に対応する語彙を識別出来ないかも知れない。
 「ごんり」や「ごりん」くらいなら想像が尽くが、「りんご」のある時代の変化形「りんげ」が「げんり」になったり、やはりある時代の別の「りんご」の変化形「りんぐ」が「ぐんり」になったら、林檎の意味をあくまで「りんご」と発音する時代の人であるなら直ちにそれを意味的に理解することは困難かも知れない。
 しかしもっと重要なことは人生が終わらず永遠に生き続けるのなら、我々は一体苦悩というものを持つだろうか?ということである。
 「りんご」に対応する果実も一億年も経てば変化もしよう。しかしその今から一億年後の時代に未だ個体が死滅しないのであるから今生きている全人類は何処かで生き続けて居る。永遠に死滅せず只管増殖し続ける人類は宇宙全体に散らばっていくだろう。
 もう一つの可能性は個体は死滅しても集団レヴェル、つまり種レヴェルでは人類は永遠に存続するとしたなら、一億年前の「りんご」が意味するところも、その意味に対応する物体も完全に変化しきってしまっている可能性もある(勿論薔薇が恐竜の時代から今とそう変わらず存続してきたことから言えば変化しない可能性も同じくらいあるだろう)。しかしその時代には「りんご」と発音している人は居なくなっているし、一億年前「これを」「りんご」と発音していたと記憶している人達も居ない。従って個体が死滅していく世界でも種レヴェルで絶滅しないのであれば、このケースでもタイムマシーンが発明されても一体一億年前の人類が何を話しているかを理解出来ないということは充分あり得る。そして個体が死滅しない世界よりはこちらの方が蓋然性は高い。そして個体が死滅するのであれば、人類はそれがたとえ三百歳でも三千歳でも苦悩というものはあり得よう。
 しかし最初に示した条件では苦悩とは存在し得ようか?死ねないということで、自己とか他者とかのアイデンティティを保持していくことが果たした可能だろうか?記憶するということに何か意味があるだろうか(これこそ大問題である)?
 自己や他者のアイデンティティが保持出来ないのであれば言葉など存在し得ないだろう。それはまさに死滅しないウィルスの様なものである。
 では一体アイデンティティを保持させるものとは何なのだろうか?
 確かに宗教家は人間は何時かは死ぬからこそ幸福感情とか様々な感情を持ち価値観を持てるのだ、と考えている。では死ねないのであれば本当にそういったものなど持てないのだろうか?
 一億歳でもそれが寿命であるなら、それは個体の死滅である。だからそれは永遠に生きることではない。この違いは極めて大きい。
 要するに条件設定としては死滅するかしないかの二値論理である。
 これはとどのつまり永遠という概念の実在性を巡る設問である。
 我々は通常永遠とはあり得ない、少なくとも我々個々の生命がそうではないと知っているからこそ、それは永遠ではないという形で永遠を知っている。
 しかし同じことは太陽系や地球には寿命があるという形ではない形でなら難しくなる。銀河系も含め宇宙全体も何時かは終わるという形で理解していても、それを確かめることは我々には出来ない。
 宇宙全体が死滅しても、それは「その」宇宙が我々一個人と同じことであるなら、「他の」宇宙も存在し得よう。そして分析哲学の中の独在論者達が現象性という形で理解していることと同じで、「他の」宇宙のことなんて「私達の宇宙」に住んでいる我々には分からない。その分からないこと迄分かろうとする視点から考えたのがある意味ではデヴィッド・ルイスかも知れない。マクタガートのA系列時間を模して言えばA系列的世界認識である。ルイスは「こうであったかも知れない」可能性全てさえ実在「として」考えた。
 私という視点からすれば決してそれを全て把握することが出来ないことを把握可能なものとして捉えるのは、要するにフレーゲの「存在し得る数は全て存在する」ということと構造的には同じである。
 私は確かに主観から自由になれないから、「他の」宇宙を想定し得ても体験し得ないので、私以外の他者は全てゾンビである可能性を排除しないという意味で分析哲学の独我論、独在論にも説得力がある。
 その考えではフレーゲやルイスにとっての数とか世界とは現象的であることの意味を無化する数とか世界であろう。だがそのゾンビでなどあり得ないという形で我々が日々日常的に他者存在を認めている地点からすれば「他の」宇宙や、かつて在ったかも知れないが、それは「かつて」在ったという形で連続している必然性が見出されぬのなら、それを問題としても意味はない、という形での理解こそがウィトゲンシュタインの「論考」の主旨であった。
 だからある「りんご」を私が知る「りんご」の実在の意味=音であるとして全他者が慣用する「りんご」だと思っていたこと自体が幻想である可能性も常に想定上ではゼロではないという形で考えられる「りんご」は、ある部分ではある個人にとっての幼児体験から現在迄の林檎という果実の持つ固有の意味は各個人で全て異なるという意味からも了解可能である。
 そういった中での無限連鎖としての「りんご」は確かに一億歳で死滅する個人であったなら「りんご」から「れんげ」となって死ぬ間際には「げれん」になっていたとしても、粗方ある個人に於いて「ボイン」と「爆乳」が同じものを指すと知っている様に記憶されているだろうが、もしあらゆる生命個体が死滅しないのであれば、努力して何かを達成するという意志が存在し得るだろうか、という問題を再び派生させる。
 死滅しない最初の条件での個体にとって「りんご」が「げれん」になっていく全てのプロセスは最早意味を持ち得るだろうか?
 確かに林檎には林檎のDNAを持っているということを古代の人達は知らなかった。だから林檎を食べられると知った人類の曙の人達が死滅していないのであれば(今尚)そしてこれからもずっと永遠に生きていくのであれば、では林檎の意味自体は意味足り得るだろうか?
 そうなると意味とは永遠のものであり得るかという設問を用意することとなる。意味は意味される対象への把握が作っているが、その対象も通常は永遠ではないし、常に固定化されているのでもないからである。
 次章では意味の永遠性が可能であるかということを考えたい。その際に前章で考えたオリジナルとコピーの差ということを大きく取り上げて考えたい。

Thursday, May 24, 2012

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 第九章 第九章 コピーの方がずっと本物らしく、オリジナル(本物)が一番噓臭いのは必然である

 現代でどんなに自分はカントをよく理解していると思っている人でも、カントの生きた時代を我々は知らず、それを仮に自分のことの様に切実に思っていたって、結局その人はカントのコピー(つまりカントが彼が生きた時代に発表した論文の現代語翻訳)を通して理解しているということ以外ではない。
 しかし物事の本質への理解とは本物主義ではない。寧ろコピーする価値があると思える何かに対してである。
 だから実際にサムスンであれソニーであれパナソニックであれ、本物そっくりのロゴをちょこっとだけ変えただけの紛い物を何処か無名の中国のメーカーが違法すれすれで製造しても、そのオリジナルの製品の良さを再現しているのなら、使い勝手という意味では充分目的を果たしていると言える。
 そもそも我々全ての生命は遺伝情報を受け継ぐコピー以外ではないのだ。コピーである我々がコピーに共鳴するということは極自然なことである。
 プラトンはある部分では恐らく(私は専門家ではないから断言は出来ないが)ソクラテスの携えていた思想家としての倫理性から絵というものを「国家」で批判している。その現実投企という意味での逃避性からなのだろう。
 しかし言語活動に於いて、それこそが正論であるとされる倫理的言説の全ては意味化されているという意味で全てコピーである。意味とはオリジナルの占有物ではなく、オリジナルの持つ本質をあますところなく伝える説明であり、その説明とは本物に対してコピーである。だから意味があるとされる行為の全てはコピーである。
 現実的視点に移行して考えると、仮に東京の下町にレディ・ガガがボディガード一人つけずにすっぴんで散歩していたとしても、多くの人達が格好が奇抜でさえなければ誰も本人であると気づかぬだろう。その脇をリムジンから降り立った奇抜な格好を例によって示す丁度本人と同じ背格好の女性がボディガードをつけて歩いていたなら、下町のキャピキャピの女の子達はその偽者の方を本人だと思い込むことだろう。
 つまり本物とコピーの本質などそんなものなのである。
 現代社会では我々は全ての偉大なミュージシャンの演奏や歌を全てコピーを通して聴く習慣が定着している。それは絵画の名画もそうであるし、そもそも映画であれyoutubeであれニコ動であれ、それらは全て最初からコピー以外ではない。オリジナル自体に何か価値があるわけではない。
 哲学者のダニエル・デネットは「スィート・ドリームス」で人間の身体器官が生まれてきた時に祖先から受け継いだ生命物質ではくてもその機能は別のものに交換可能であり、身体生理的機能さえ整っておれば、それ本物でなくても差し支えない、寧ろ機能不全である本物よりも医療用代理物質の方が有用であるという考えを述べている。彼はVIM(恐らくVERY IMPORTANT MATERIALの略として想定しているのだろう)として本物に固執する人間の性向を嘲笑している。
 意味とは一般化であり普遍化である。従ってそれが身体的な機能であるなら、代替されたものでも当初の目的を果たされておればそれで充分である。真理とは従って全て本物とコピーが同一の機能を果たしておればその差なんてどうだっていいという思想以外ではない。数学の公理では本物とコピーの差なんて全くどうだっていいことである。
 だからこそ下町に一人で歩くすっぴんのレディ・ガガは本物であるかも知れないが、ステージ上で演出された姿態と動作とか所作とか歌声のレディ・ガガではないが故に我々ガガファンにとってはどうでもいいことなのだ。それよりは本物のガガに似せている(ステージやプロモでも彼女を連想させる)彼女の脇を偽のボディガードを従えて歩く物真似の女の方が真実味があるのだ。
 だから表題である偽者とかコピーの方がオリジナルのエッセンスを巧く体現していて本物らしく、オリジナルはオリジナルに於いて戦略的に作ったものであるところの戦略を離れた素のものであるなら、それが一番どのコピーよりも嘘臭いということは真実なのである。そしてカントの本質とはカントが生きた時代に本人であるカントが毎日散歩して時には話しかけたであろう同一エリアのカントの素の顔や姿態を知る人達にとってのカントではなく、あくまで「純・非」や「実・批」「判・批」で示された意味の方であることは言うまでもない。 
 付記 それなのに文学者の直筆原稿とか初稿とかに付加価値を加えるのが好きなのも人類に共通して見られる傾向である。この点での根拠もいずれ解明されて然るべきであろう。(Michael Kawaguchi)

Friday, April 27, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第八章 土地と生活と旅

 社会的アイデンティティを自己の確立と共に確立させていくという事は発達心理学的所見を待たずとも要するに両親が子供に期待してきた事からの呪縛から自己を主体的に解放させていく事であり、例えば女子であるなら両親の前でいい子でいる事だけで成立させてきた社会生活を、自己が自己の独立に於いて異性愛等を含めて獲得する様に磨いていく事であるから、それは一度両親が子供に期待してきた理想像を打ち破る、要するに両親が固有のエゴイズムで子供を呪縛してきた事へ反意を示す事から出発するしかない。  
 しかしそれはそういう時期が誰しもやってくるという事を意味しているに過ぎず、いい意味で対立する様な素振りを示さずに抵抗と両親とか年配者との共存を図るという事が大人としての態度であるとも言えるだろう。そういう実現がし得るという事自体が抵抗を実現させるという事だろう。    
 自己は自己固有のエゴイズムで他者、社会、国家、世界を把握する。しかし重要な事はそのエゴイズムをどれくらい自己で把握しているかである。  
 旅というものを考えてみよう。世界中を毎日飛び回っている者だけが果たして世界を把握しているのだろうか?毎日飛行機でアメリカからヨーロッパからアフリカ、アジア全ての諸国を渡り歩いているという事が世界を真に理解する事なのだろうか?  
 そういう風に点から点へと移動する事だけで生活を成り立たせている者には固有の取り零しというものが派生し得るのではないだろうか?  
 ある意味では世界中毎日飛び回る生活とはある土地や場所に長く過ごす事を欠落させた生活であり、海外を飛び回る生活は日本に過ごす時間を短くする事であり、移動が多い生活とは一箇所の土地に過ごすという経験を欠落させる事に他ならない。ある意味では移動生活者は移動の手段である飛行機や車や電車に乗っている時間の方が長いという特殊な場所感覚だけを与えると言ってもいいかも知れない。  
 今現代人はスマホ等に一日中意識が釘付けであり、電車に乗っている時にも車窓を眺める心の余裕を失っている。しかし車窓が次から次へと様相を変えていく事自体を電車に乗っている時に観察し理解する事から我々は場所や土地を移動するとはどういう事かという事を真に理解する事が出来る。    
 従って毎日飛行機に乗って移動している者は移動のプロセスを知らない。大気圏内で地上の様子を探る事は出来ない。次の土地に着いたらそこで突然知らされる事も多いだろう。点から点の移動ではなし得ない事とは端的に土地とか場所というものが固有の意味を生活者に与えているという事実への覚醒である。それは只管移動だけに追われている者には理解出来ない事である。どんな地方都市であれ都会であれ、同じ場所に少なくとも数年から十年くらいは住んで初めて理解出来る事がある、という意味では人生で数箇所だけ引越しをしてきた人間が仮に八十歳迄生きたとしたら、そこで初めて例えば東京と横浜の違いとか東京と大阪の違いとか、京都と大阪の違いとか、要するに真実の土地や場所に根ざした文化を理解出来るというものである。それは毎日大阪と東京を往復している者には終ぞ理解し得ない事である。何故なら毎日大阪と東京を往復していたら、大阪で固有の事や東京で固有の事にはなかなか目が行かなくなるのである。その二つの土地で変わらぬ部分に主に目が行く様になるからである。  
 そういった意味ではビジネスの拡張という事とある一つの土地に長く暮らしてみなければ理解出来ない事というのは対立していく要素があるのだ。  
 それはある意味では政治家や実業家の様に日夜大勢の他者と次から次へと会う仕事に明け暮れている者には理解出来ない他者像というものがある、という事と似ている。  
 これは形而上的な問題ではなく、あくまで本シリーズの表題での日常性の問題なのである。そしてそれを欠いて只管形而上的なものだけを追求する事など実質的に人間には不可能である。形而上的意味とは常に日常的で現実的な要請や不可避的な体験から生み出される倫理的価値でなければ意味がない。従ってそれは端的に経験主義的に現実に基づいたものでない限りは形骸的な形式論争に終始し、悪い意味での堂々巡りだけを招聘する。    
 ある土地に長く続けて住み、一箇所で同じ仕事を数年から十年するという経験こそが土地や場所固有の有難さや固有の有用性を理解する事を強いる。    
 それだけのある程度纏まった安定性というものが人間生活で確固たる信念を醸成していく上では必要ではないだろうか?それは最終的には終の棲家という事へも直結していくだろう。そしてそれはどう生きていくかという事、そしてどう世界への返礼を示していくかという問題である。  
 一箇所に長く過ごすという事は清濁併せ飲んである土地を愛し憎むという事以外ではない。全てに関して理想である土地や場所等世界中何処を訪ねても一平方メートルもない。  
 だから旅は余りにも目まぐるしく移動から移動だけに明け暮れるものであるなら、それは深く人間性へ土地と場所の意味や特質、或いは存在理由を明確に心に刻む事は出来ない。  
 又それを承知の上で各地域を飛び回るビジネス行為にも意味が生じるとは言い得るだろう。点から点の移動は安易な瞬間的なある土地と別の土地との比較しか成立し得ない。しかし纏まって数年から十数年、或いは人生全体で数十年と数十年というスパンで二つの土地を住んでみて初めて分かる事もある。    
 そういった意味では恋人も配偶者も出会う人数ではない。もし常に数人以上の愛人や恋人を同時並行的に付き合っていくのなら(イスラム教では一度に経済力さえ適えば数人の妻を娶る事さえ可能であるが)、その者は相手への誠実な愛の対応も心の平静も勝ち得る事は出来ないだろう。それはそれでよい。しかしその様に常に同時に相手をする事を唯実現させていく生き方ではパートナーに対する着実な善悪全てを含んだ真の理解は得られず、あくまで安易な相関的比較理解しか得られないだろう。  
 土地と他者とは存在の仕方が我々人間にとって似ているとは言えないだろうか?  
 そしてそれは最初に述べた両親と子供の関係から友人同士、同僚や同志同士全てに於いてある他者像というもの自体が自己に於ける対他者欲求というエゴイズムに当て嵌めているという性悪と同じ心理で土地や場所に接しているという我々の実存的事実にも覚醒していかざるを得ないだろう。日常的経験と判断という事はあくまでこの様に善悪、現実と理想を清濁併せ飲むのたうち回る経験だけから引き出されていくものであり、そこに初めてだからこそ今自分が共存する他者と同じ様にある土地やある場所への愛着とか愛憎といった事が語られ得るのである。その時だけ真に形而上的な土地や場所の意味を向こうから自然と語りかけてくるのである。そうである。形而上的存在理由とは強引にこちらから求めるものではなく、あくまで現実に根ざした愛憎と愛着と嫌悪全ての感情的駆け引きと遣り取りだけが経験的に誘引してくれる自然と環境からの愛の手紙なのである。  
付記 今回はあるケースとしてビジーな実業家や政治家を挙げたが、真にいい事業や政治だって実はかなりい意味で心の余裕がなければ生まれないので、長期休養や一箇所の土地や場所への愛着が持てる様にしていかなければ実現し得ない筈なのである。それは移動する為に一箇所に留まるのではなく、あくまで一箇所に留まる中で世界への理解を土地と場所への愛着と共に持つという自然な成り行き(それは初期人類の狩猟採集生活での移動でも一定の範囲に限られていたという事からも)からも理解出来る事である。しかし同時に人類は民族の大移動という事もしてきたのであり、その二律背反に就いても今後問題にしていくべきであろう。

Monday, April 2, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第七章 家族観の固定化と教育に見られる親のエゴイズム、そして他者と自己、素の自分なんてない①


 我々は自己というものがどういうものかを知らない。何故なら何時も他者と接していれば他者をどう見るかに追われ、自分一人で過ごす時間は、自分の未来のこととか、今迄してきたことなどを振り返るが、それらは全て自分自身のことであり、過去に関する記憶であり、それを通した未来への展望(願望とか、予定とかそういった全て)でしかなく、それは自己という固有の客観的姿ではない。
 自己はだから外面的にどうであるかを知りたいと望めば他者に問い質すしかない。何故なら自己とは自分がどういう風に他者から見えているかということへの意識だからである。その意識は他者が半分は決め、その他者の持つ自分への像に対して自分でどうその見られている像を維持したり修正したりしようかと考える主体である。
 我々は生まれ落ちた時からずっと自分自身にとってどの他者が自分に対して協力的であるかとか、どの他者が自分にとって警戒すべき対象となり得るかを査定することだけで過ごしてきている。これは厳密に言えば運命でも宿命でもなく、現実である(人生を価値的に見れば、その価値自体への感慨的溜息から我々はそれを運命とか宿命と捉えたいだけである)。
 我々は他者と接する時、親しくなっていく他者に対して友情であるとか、或いは家族となる配偶者とか親子関係に於いて愛情であるとかの感情とか気持ちで接すると思うが、実は信頼であれ友情であれ愛情であれ、それらは皆形式である。形式という語彙を使うと何処か味気ないとか、無味乾燥で即物的で人間味を感じないと言うのなら、それら一個一個を固有の価値と呼び換えてもいい。
 要するにそれにある他者が、自分にとってどういう感情や気持ちで接しているかという心情的事実から、ある他者を愛しているとか、ある他者を信じているとか、その様に自分内部の規定に当て嵌めているのである。その事自体に「それでは余りに人生全体を形式として考え過ぎる」と非難したとしても尚、それは人生自体をそう考える事は形式的で物足りないと捉える価値でしかないのだ。その事にまず気がついておく必要がある(そうでなければ以降私が書く事の意味を捉え損ねるだろう)。
 人間は他者全般に、それがどんなに気心の知れた家族であれ他人であれ、最終的にはある他者はある感情や気持ちを喚起する存在であるという内的な規定なしに接する事は出来ない。端的にそれは精神病理的に分析しても(私はその種の専門家ではないが)普通の事である。
 と言う事は、我々は誰しも他者へのそういった認識の上で意思疎通しているわけであり、それは行動原理的には社会学的に分析し得る事であるとか、色々に捉える事は出来るが、もっと日常的な事実であり、文学等は全てそういった日常的な自己と他者との遣り取りの中から書かれているものである。
 だから我々は他者と接している時にはその特定の他者と接する時にしか発しない内的な他者像への査定と認識と、それを自分自身で「信用している」とか「尊敬している」と規定し得る何かを持って相手へ臨んでいるのであり、その瞬間は勿論の事、一人で物思いに耽ったり、考え事をしている時でさえ素の自分である、ということは在り得ないのである。
 何故なら一人で居る時には次に誰かと、或いは何らかの集団と一緒に居合わせる機会を想定して、その時の為に自分自身で外面的に自分を他者一般に晒す為の自己を模索しているからである。
 しかし人間は誰しも何らかの家庭環境とか生育環境から自らを社会に同化させてきたのであり、その人間形成期に於ける家庭環境や育成環境(それは地域社会から、どういった他者と出会ってきたかということ迄含めた)に多大の心理的影響を蒙っている。それは端的にどの個人に於いても何らかの形で固有のバイアスを持って社会に臨んでいるという事以外ではない。
 どういう性格でどういうタイプの職業の両親や育ててくれた人と関わり、その過程でどんな教育的な訓戒やアドヴァイスを得てきたかという事は多大の人格形成に預かっている。そしてそれは各家庭、個人毎でも全て違う。当然本人の性格とか資質といったものも多分に作用しているが、その個人の性格や資質は、あくまでどういう経緯で育っていったかという事実関係とかその性格に大いに影響を蒙っているのだ。
 しかし当然のことながら他者とはどの人間も心の中に抱いている全ての他者への感情を言葉や態度によって示す事はない。こちらもそうであるなら向こうもそうである。だからこそ相手に対してある相手に対してならこういう事は気兼ねなく言えるし、こういう事に於いては信用出来るし、こちらに対する接し方でも信頼出来ると査定している。その人に拠って違う接し方と心の置き方こそが私が形式とか価値と呼んだものである。
 そしてそれは青年期にはやはり大人になる迄育てて貰った両親からの影響、例えば幼い頃から躾けられた事から教訓的に言葉を通して伝えられた事等が大きく自分自身の判断(世界や社会内の事、対人関係の全て)に逐一左右している。両親や育ててくれた人の持つ社会観や境遇から得た彼等独自の世界観が青年の心には深く影を落としている。
 しかし中年の秋も深まっていくに連れ、自分自身の青年期に経験した事、体験した事の方が両親や育ててくれた人達からの影響より大きくなっていく。
 私が形式とか価値と呼んだ事は従って何か言葉上での観念とか概念とかだけでなく、勿論そういった言葉上、観念上、概念上での理解も含まれているものの、それを部分とする様なもっと大きな出会い、つまり身体的であり、体感的であり、痛みや悩み(これも精神的且つ身体的肉体的でもある)の蓄積といったものである。要するに頭の中だけの事ではないという事である。
 それは記憶に刻まれている。どういう体験内容、どういったコミュニティに親しんできたかといった事が判断や思考の契機となっている。
 例えばウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で最終部で触れられているスペクトル盲に就いて、私はあの図を見るとまず先にアヒルの形として目に飛び込んで来る。しかし私とは逆にウサギの形として目に飛び込んで来る人も居るだろう。それはその形の認識に対して私個人の経験内容とか、出会って来たものの内容とか種類とかその出会いの性質や性格に拠るものと思われる(それは精神科医の人も私があるシンポジウムに参加して質問した時にそう返答されていた)。それは知覚や判断の私自身の否定し難い傾向を記憶内容が司っている証拠である。
 だから価値観念的な事は青年期は両親や育てた人達の価値観念的なバイアスに拠って先入見を刷り込まれている訳だから(それは人に拠ってはかなり老齢に達しても拭い難く残存している場合すらある)、そこからの自己自身での独立という意識がかなり青年期を過ぎてからは重要となってくる。率直に言って人を育てるという事は自らの価値観念のエゴイズムに育てる相手、つまり子供を巻き込んでいくという事以外ではないのだ。
 だからその洗脳に近い形で刷り込まれた観念自体を自己対象化して、第三者的な目でメタ認知し得た時初めて大人の判断というものを持つ事に成功する(その点で幼形のまま中年を迎えている人が意外に多いという事が一つの日本人の精神的問題でもあるのだ)。
 この様な認識はある意味では発達心理学などの分野で専門的に研究されているかも知れない。しかしここからここ迄が哲学で、ここからは何学であるという認識も、実はかなり個々人で異なっている。どういう形で哲学と関わっているかとか、それは哲学でなくても医学でも心理学でもどの様な専門の領域でもいいのだが、それはかなり考究していく際には揺らぎとか大きな振り幅があったっていいのである。
 その極めて社会制度的な職業分担的な規制が強ければ強いほどその学問や専門分野にとっても、その事に関わる個人にとっても、その規制を外部から観察出来る一般の人達にとっても不幸な事ではないだろうか?
 その仕切りの様なものをどういう立場の人達であれ感じ取っているのなら、その事自体も問題とするべきではないだろうか?
 そして今回の結論としては、その様に対人関係的には家族から他人の友人や知人と接する際にも、その都度の他者としての相手へのこちら側の認識に応じて、その接し方の違いに於いて我々は人間関係の形式とか価値に自己自身を賛同させ、相手とその対自的賛同の地点に導く様にしている、という意味ではTwitterの対人関係が自己固有のタイムラインを保有してそれを常に眺めているにも関わらずフォロワー同士でレスし合う場合には、明らかに向こうも又自分と「同じ様なタイムラインを眺めながら」レスしているのだ、という幻想にツイートする行為自体が乗っかっている事がそれを象徴している。しかし向こうはまるで自分とは違う(多少重なった共有し合うフォロワーやフォロウしているユーザー<ツイーター>は居るにせよ)タイムラインの内容でこちらに接しているという事を忘れるべきではない様な意味で、向こうは向こうでこちらが向こうと共有していると思っている価値観念や形式とは違った価値観念と形式で接して居るという事なのである。
 そしてだからこそ、相互に素の自分というもの自体も対自的にも対他的にも幻想なのである。何故なら私は一人で居る時も誰かと一緒に居る時はどういう風に相手から見られているか、周囲から感じ取られているかという事の不安や疑問の中でしか一人で居る自分というものを意識する事は出来ないからである。つまりそういった他者一般、或いはその時々で特定の他者と接するという社会的行為の人生上での散発的ではあるもののかなり人生の大半の時期を持続しているそういった接しの在り方への自己自身からの認識からしか、一人で過ごす時間の意味を特化出来ないからである。