Friday, October 23, 2009

第十四章 羞恥と根拠

 羞恥心があるとは、羞恥心そのものを隠蔽する気持ちにさせることだ。でもそれが存在者の存在理由でもある。前章でくどいくらい述べたが、存在者が他者をもう一つの私であるとして意識することから羞恥が発生するとしたら、羞恥心も隠蔽したいし、克服もしたい。羞恥する内容は自慢出来ないものだけだからだ。我々は私を他者一般の中の一人であるとした時責任において他者‐自己を見る。その時責任遂行のために羞恥を克服したい。だからこそ羞恥は存在者にとって存在根拠になるだろうか?真理・本質・実存が冷淡で冷酷で残酷なのは全存在者がいつか死ぬという生命原則からだが、そのほろ苦さは存在を規定し得るか?存在根拠として認識可能か? そんな問いはセンチメンタリズムだと言う向きもあるかも知れないが、ではセンチメンタリズムはいけないことか?あるいはそれはヒューマニズムとどう違うのか、あるいは違うべきなのだろうか?
 個体は死滅しただ遺伝子のヴィークルとして私たちは遺伝子の生き延びる意志を維持するために奉仕される単なる道具だというドーキンス的認識を一方で持つが、逆に個々の存在理由をほんのちっぽけな存在だからこそ、例えば「生まれ変わったならまた男性に生まれたいですか?」と質問された時「いや私は何にも生まれ変わりたくありません。生まれ変われないからこそ、この人生を大切に思えるのではないですか?」と答えたくなるように生きていくとしたら、存在とはそのちっぽけさに対し慈しむことの羞恥を大事に生きることでしか規定し得ないとも言えまいか?何故ならそういう配慮を欠いてただ物質的に存在すると言うのが哲学的思惟だろうか?
 アダムとエヴァが林檎の実を齧った瞬間に全ては言葉の知の下に公的顔(大義名分)と私的顔を峻別することを人間は身につけた。公的利益のため農耕生活が始まり、私的利益はその公的業務遂行による権利上分配される体制へと人類が移行したとしたら、公とは理性が知性の化けの皮を剥ぐために用意した大義名分だったかも知れない。知性の化けの皮を剥ぐ理性を勇気と賞賛するのは、あくまで大義名分が存在するからで、見せかけの知性を虚飾と判断する可能性はその大義名分が存在するからである。
 私は第ニ章において「哲学的に生きる、哲学者として生きることは、科学的に生きる、科学者として生きるという決意が科学外的に決意することであると同様、哲学外的に決意することである。要するにそのように決意することは、一旦そのように生きだしたら再び何故そのような決意を抱くに至ったかを忘れる必要があるということである」と言った。このことは第十六章で詳述するが、本質的には敢えて哲学外的に考えることは哲学内的に考え過ぎることが定着した状態をまず必要とするし、そこからしか決意し得ない。「アーティストとしてではなく人間として考えたい」とあるアーティストが言ったとしたら、それは彼がそれ以外の生き方が出来ないできたことを知っているからだ。それは今言った「知性の化けの皮を剥ぐ理性を勇気と賞賛するのは、あくまで大義名分が存在するからで、見せかけの知性を虚飾と判断する可能性は大義名分が存在するからである」ことの理由である。
 つまり存在は存在するものからしか認識し得ない。存在していないことは恐らく今現前するものを通してその時存在していないこと一般の記憶を蘇らせている。今目の前にあるのは林檎であり蜜柑でもなければ梨でもない。だから何かの存在を論じることは存在していないことを論じることであるが、同時に存在自体を語るには存在者を前提することは「存在と時間」でハイデッガーが主張するとおりだ。また根拠と言う時我々は存在を主軸に考えるし、根拠は一度も存在しなかったものから生じない。だから存在し得ないものについて述べることも、問う無意味を考えるために存在理由を与えられる。それは思惟上存在するからだ。では私が言った「存在とはそのちっぽけさに対し慈しむことの羞恥を大事に生きることでしか規定し得ないとも言えまいか?何故ならそういう配慮を欠いてただ物質的に存在すると言うのが哲学的思惟だろうか?」ということの返答はどうしたら得られるのだろうか?
 それは考えることもまた羞恥の対象だという見解からかも知れない。つまり私たちは根拠について問うことを平素はしない。と言うよりそういうことに感けていたら全ての任務は疎かになること必定だ。社会的役割として考えることが得意なタイプの成員は一定数需要があり重宝され得てそれだけで生計を立てていけるが、ほんの一握りの天才に限られる。故に考えることだけしていたらまかり間違えば精神疾患と思われる。考えるだけの人間は敗者とされる。
 パスカルは「一個の人間の命は地球より重たい」と言ったそうだ。私はこの考えが嫌いだった。今でもそれを前提にして考えたくはない。しかしもしこの考えを否定すれば、私は自分の生命などちっぽけなものだからどうでもいいと割り切れるかと問われれば、私もまた「ちっぽけさに対して慈しむことの羞恥を大事にして生きる存在の存在理由」を楯にして「そんなことはない」と抵抗する。
 つまり現実問題として一人の生命を救援するために地球上の全エネルギーを消費することが決して出来ないことを了解していても尚、救われたい者の立場に立てばそう願っていけないと言える者はいない。その観点に立った時にのみパスカルの謂いには極めて説得力がある。だから私がこのちっぽけな頭で必死に考えていることを当然に思う現実も確実に数十年後には泡沫の夢となって費え去る。そう考えると考えること自体が社会全体にとって何の利益にもならないということで、天才以外の全ての成員に考えることを封印することこそ、悪辣な権力者なら考えそうなことだし、彼の意図を汲んで協力する中位権力者たちの真意であるなら、しかし同時に権利上では考え続けることの許された私秘的な脳のこの在り方は、それ自体羞恥の対象だが、同時に存在の根拠でもある。つまりこの私にとっては少なくともそうだ。考えることを失わないこと、それが私にとっては重要である。それが生きる根拠だと叫んで悪い筈がない。(ここで私が言う「考える」とは成果達成目的的思考外のことだ。)
 社会は考えないでただ行動し、成果を上げることによって賞与を配給するシステム以外の物でない。クオリアの重要性に対して全ての成員が目覚めたら、社会からは一切の従順や忠誠が消えてなくなるだろう。つまり滅私はクオリアに対する存在理由の忘却が出発点なのだ。しかし哲学者や脳科学者はクオリアに目覚めよと提言し続けるだろう。それを世人は教養の一部として組み込む。しかしそれを教養の一部に組み込めばそれは管理社会の一翼を担うためにのみ利用され、教養の一部に組み込まれる。教養は必要だが教養主義は権威主義に繋がる。そしてクオリアは概念としてその生きられた価値を剥奪される。それは哲学者や脳科学者の本意ではない。
 死は全てを解決する。それは外的に見ればまるで人生は最後に閉じるためにあるとさえ言える。しかし内的に見れば死は世界の消滅である。私の世界もやがて消滅する。しかし私が生きている間これらの文章が全て無視され続けても、恐らくこの文章に書かれた真実は私とは別個に存在する理由が与えられるかも知れないし、それでいいと言っても、私はそのことに与かれないだろう。日々毎刻世界は消滅している。無数の消滅だけが世界を日々活気づけるとさえ言える。それを皆知っていてそのことに口を噤んでいるだけだ。
 無数の世界の消滅によって支えられた世界の内実は、無数のクオリアの消滅によって世界は成立しているということだ。クオリアは数値化し得ないもの、概念規定し得ないものを指す。しかしクオリアを感得すること自体が成果達成的題目の下に供せられない形で「それ自体が価値だ」と規定されれば、それはそれで「考える」ことが何かの目的にされる。しかも世界は概念規定され得ないクオリアが日々毎刻消滅してくれてこそ残された生命が生存し得るのだとしたなら、クオリアをクオリアとして規定する言語的真理だけが無数の毎刻消滅してゆくクオリアを鎮魂することが可能になり、「ちっぽけさに対して慈しむことの羞恥を大事にして生きる存在の存在理由」を羞恥の正体であると私が主張すること自体が私のクオリアとは別個に意味化され、その事実が可能であること、それを可能化する言語だけが真理であることへ再び舞い戻る。そして言語は他者に伝えるべき情報的価値という側面から再び意味的差異という位相で語られる。するとクオリアは管理されるべき「価値ある意味」として概念規定され教養の一部に組み込まれ管理目的化された形骸化の道を選択せざるを得ない。それは日々毎刻消滅し続けているクオリアのちっぽけではあるが、だからこそ価値があるという本来の意味を剥奪される。それは結局語ることが語られることによって語ったことのクオリアを消滅させてしまうことと等価の事実だ。どんなに素晴らしい一句でも私たちはそれを延々一日中聞かされたら辟易する。この辟易との闘争こそが目的(目的とは社会が個人に価値ありとして提示するものだ)を産出し、その目的に沿って管理目的化された教養が日々権力者によって語られ、目的に供せられるものだけが社会管理上価値とされ、成果達成のためではない「考えること」、「クオリア」という二つの存在根拠は結局その主体である世界が消滅するという一事以外にその存在理由を語る術を無くしてしまう。
 描いた絵を発表することは画家にとって勇気が要る。そしてその羞恥の克服が画家のキャリアを作る。画家は自らのクオリアを信じている。しかしそのクオリアをどう定着させるか必死に考える。考えることも羞恥の対象だし、考えた末に画布に定着されたクオリア像もまた羞恥の対象だ。クオリア像を提示することも、考えることを提示することもほんの一部の特権者だけが実現出来、殆ど全ての存在者は提示された概念規定に対してそれをただ飲む込み、吐き出してもそれは誰からも眼に止められない。それが生きるということなのだ。つまりそうしていつか死ぬということ、それだけがクオリアと考えることの羞恥の辿る運命である。羞恥と根拠の関係は諦念に行き着くしか道がない。するとここで諦念に纏わる時間というものにぶち当たらざるを得ない。
 そうだ、羞恥と根拠の問いは時間と羞恥の関係へ戻ることになる。

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