Thursday, May 24, 2012

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 第九章 第九章 コピーの方がずっと本物らしく、オリジナル(本物)が一番噓臭いのは必然である

 現代でどんなに自分はカントをよく理解していると思っている人でも、カントの生きた時代を我々は知らず、それを仮に自分のことの様に切実に思っていたって、結局その人はカントのコピー(つまりカントが彼が生きた時代に発表した論文の現代語翻訳)を通して理解しているということ以外ではない。
 しかし物事の本質への理解とは本物主義ではない。寧ろコピーする価値があると思える何かに対してである。
 だから実際にサムスンであれソニーであれパナソニックであれ、本物そっくりのロゴをちょこっとだけ変えただけの紛い物を何処か無名の中国のメーカーが違法すれすれで製造しても、そのオリジナルの製品の良さを再現しているのなら、使い勝手という意味では充分目的を果たしていると言える。
 そもそも我々全ての生命は遺伝情報を受け継ぐコピー以外ではないのだ。コピーである我々がコピーに共鳴するということは極自然なことである。
 プラトンはある部分では恐らく(私は専門家ではないから断言は出来ないが)ソクラテスの携えていた思想家としての倫理性から絵というものを「国家」で批判している。その現実投企という意味での逃避性からなのだろう。
 しかし言語活動に於いて、それこそが正論であるとされる倫理的言説の全ては意味化されているという意味で全てコピーである。意味とはオリジナルの占有物ではなく、オリジナルの持つ本質をあますところなく伝える説明であり、その説明とは本物に対してコピーである。だから意味があるとされる行為の全てはコピーである。
 現実的視点に移行して考えると、仮に東京の下町にレディ・ガガがボディガード一人つけずにすっぴんで散歩していたとしても、多くの人達が格好が奇抜でさえなければ誰も本人であると気づかぬだろう。その脇をリムジンから降り立った奇抜な格好を例によって示す丁度本人と同じ背格好の女性がボディガードをつけて歩いていたなら、下町のキャピキャピの女の子達はその偽者の方を本人だと思い込むことだろう。
 つまり本物とコピーの本質などそんなものなのである。
 現代社会では我々は全ての偉大なミュージシャンの演奏や歌を全てコピーを通して聴く習慣が定着している。それは絵画の名画もそうであるし、そもそも映画であれyoutubeであれニコ動であれ、それらは全て最初からコピー以外ではない。オリジナル自体に何か価値があるわけではない。
 哲学者のダニエル・デネットは「スィート・ドリームス」で人間の身体器官が生まれてきた時に祖先から受け継いだ生命物質ではくてもその機能は別のものに交換可能であり、身体生理的機能さえ整っておれば、それ本物でなくても差し支えない、寧ろ機能不全である本物よりも医療用代理物質の方が有用であるという考えを述べている。彼はVIM(恐らくVERY IMPORTANT MATERIALの略として想定しているのだろう)として本物に固執する人間の性向を嘲笑している。
 意味とは一般化であり普遍化である。従ってそれが身体的な機能であるなら、代替されたものでも当初の目的を果たされておればそれで充分である。真理とは従って全て本物とコピーが同一の機能を果たしておればその差なんてどうだっていいという思想以外ではない。数学の公理では本物とコピーの差なんて全くどうだっていいことである。
 だからこそ下町に一人で歩くすっぴんのレディ・ガガは本物であるかも知れないが、ステージ上で演出された姿態と動作とか所作とか歌声のレディ・ガガではないが故に我々ガガファンにとってはどうでもいいことなのだ。それよりは本物のガガに似せている(ステージやプロモでも彼女を連想させる)彼女の脇を偽のボディガードを従えて歩く物真似の女の方が真実味があるのだ。
 だから表題である偽者とかコピーの方がオリジナルのエッセンスを巧く体現していて本物らしく、オリジナルはオリジナルに於いて戦略的に作ったものであるところの戦略を離れた素のものであるなら、それが一番どのコピーよりも嘘臭いということは真実なのである。そしてカントの本質とはカントが生きた時代に本人であるカントが毎日散歩して時には話しかけたであろう同一エリアのカントの素の顔や姿態を知る人達にとってのカントではなく、あくまで「純・非」や「実・批」「判・批」で示された意味の方であることは言うまでもない。 
 付記 それなのに文学者の直筆原稿とか初稿とかに付加価値を加えるのが好きなのも人類に共通して見られる傾向である。この点での根拠もいずれ解明されて然るべきであろう。(Michael Kawaguchi)