Sunday, November 8, 2009

〔意味の呪縛〕二、存在理由という価値

 私たちが通常映画を観に行ったり、小説を余暇に読んだりする時、その観た映画や読んだ小説が面白ければそれでいいのだが、では何故その映画や小説が面白かったのかと単純に問うてみると意外とそれが容易に返答することが出来ないということに気づく。
 それは感動する絵画の名画とか、好きな音楽についても言えるだろう。しかしそれらは歌曲以外の部分で全て言語的な表現ではないので取り敢えずここで問うのを止そう。そこで映画とか小説のような(但しアヴァンギャルド映像作品は除外する。)登場人物があり、会話があるような表現メディアの何が面白かったかと問うてみると、それはそれまで観た全ての映画、それまで読んだ全ての小説という私たちの体験的記憶に照らし合わせてその作品が私たちに何らかの形で訴えかけてくる主張そのものに釘付けにされたということを意味するだろう。するとその面白さというものはストーリーや登場人物の描写とか文体とか演技力とかいうことと共にそういう描写そのものをその映画や小説の中に作者(映画監督、シナリオライター、小説家)が盛り込んだ意図とか、果てはその作家たちが何故そのような作品を今こういう時期を選んで発表したかということ(そういう作品そのものに纏わる背景に対する認識を持つことを通常メタ認知と呼ぶ。)そのものを加味して考えると、何故その作品に対して私たちが面白いと思ったか、感じたかということの根拠が次第に明快になっていく。つまりそれまで観た映画や読んだ小説にあったスタイルもそうだが、その作者がその作品を世に送り出した根拠、創造上の、創作上のモティヴェーションと、その作品の細かい出来栄えそのものとの絡み合いそのものに対して感動していたというわけである。それはその作品の私たち観客や読者にとって、彼らがそれまで接してきた他の全ての作品の中でのそのものに対する記憶上での存在理由なのである。 
 何故その作品が面白かったのかは、ただそれを観ている間、あるいは読んでいる間にストーリーや役者の演技とか文体に惹かれていたということも勿論だが、やはりそれだけではなく、そのストーリーや演技や文体そのものを意味あるものにしているもの、それを作者の作品を世に送り出す意志に纏わる情熱とか確固たる信念とかにやはり感動している筈なのである。さてそういった作者のその作品を作るための意気込みとか信念とか作品作りに関する思想とかというものは、作者自身が作品を通したその作品に接する人たち全員に対して訴えかける何らかのメッセージ、つまり作品を通して観客や読者と接するとはどういうことかという作家としての生の意味、つまり価値規範が重要なものとして浮かび上がってくる。
 例えばコンピューターは、あるものを取って来いと命じられるとただそれを忠実に履行する。つまりもしそのものの上に爆発物が置かれていても、それを取り除くことを自らの意志で選択することは出来ない。もしそれを要求するなら、「持ってくるものの上に置かれているものの正体を突き止め、それに応じてそれが危険なものであるなら、別の場所に置き換えて(そのものの上から除去して)それから持って来い」という条件を指示しなくてはならない。すると持ってくるものの下とか横に関してはまた別の指示を与えなくてはならないということになり、要するにそういう安全に何かを持ってくるということに関して主体的に自らの意志で検討するという知性は未だないと言う。そのような問題全体を問うことを現代哲学ではフレーム問題と呼ぶが、そのフレーム問題を考慮すると、私たち人間は自ら意志的にそれらに纏わる問題を自分で考え処理しているということだ。つまり先ほど言ったメタ認知の問題に関して言えば、自ら主体的に、と言うより一々そのように意識せずとも自ずとそういう判断を下して生きている、生活しているというのが私たちの実像ということになる。
 つまり人間存在の存在理由というのは、とどのつまり他のもの、それは他者もそうだし、他に存在する事物とか規定されたルールとかそのものにただ闇雲に忠実に従って生きていくということではなく、絶えずその規定されたものそのものの意味とか価値を再検討してその判断に従って、ある時にはある規約に沿って、ある時には別の判断を採用してという風にその都度の判断を下して生きているというある種選択の自由と、その選択そのものに対する正当性を自ら下す能力を保持している存在者であるということが出来るのではないか?
 つまりそのことは哲学的に言えば、何らかの意味で絶えず、ある規約とか、考えとかに対してそれ以外の全てとの対比、あるいはそのものだけを見ていても、何の不都合もなく下すことの出来るそのものに対する判断を、自らの考えにおいてその都度捻り出すことが出来るという意味では次のように定義することがここでは許されるのではないだろうか?
 つまり、哲学的存在者、つまり人間とはある事物、ある考え、ある現象、ある規約それら全てに対して独自の価値判断を下すことが出来る存在者である。そしてその価値判断とは、それらのものに対する何らかの意味での存在理由を認めているということ、つまり存在理由そのものをそれらに与えているということである。つまりもし私たちがそれらに対して何ら存在理由を与えていなければ、私たちはそれらをその後も話題にしたり、記憶にとどめておいたりしていることなどないだろう。つまり存在理由というものは、そのものに対する存在価値そのものに対する認可であり、存在することに対する同意であり、記憶しておくべきものとして自然に受け容れるということなのである。
 もしそういった存在理由が全くないのであれば、私たちはそのもの再び想起したり、話題にしたり、考えたりすることなどないということになる。だから当然のことながらそのものは、ポジティヴなものだけではなく、ネガティヴなものである場合も往々にしてあるということである。つまりポジティヴでもネガティヴでもないものであるなら、少なくとも私たちはそんなものを存在理由という観念で再び振り返ることなど決してないということである。

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