Friday, December 4, 2009

〔意味の呪縛〕結論、意味化される幻想と欠如

 詩人にとって詩作はある意味では常に彼の遺書である。また画家にとって絵画は常に彼の遺作である。全ての芸術的想像、映画や音楽、それ以外の全ての表現は彼らの遺書、遺作なのである。
 そのような意味で哲学者にとっての哲学論文は彼らの遺書であるし、科学者の論文もやはり同様である。政治家にとっての政策や政治的行動、戦略の全てもまた彼らにとって遺策なのである。
 森口華弘という染色アーティストがいたが、氏は常々次のように言っていたという。
 「絵を只の思いつきで描いてはいけない」
 この考えはつまり絵画というものが、ただ単なる感性の遊びではないということと、用意周到に練られたアイデアは既に思いつきではないということを示している。
 アーティストにおいて全ては価値的に、その時代によく名前や作品の知名度が流通しているということが彼のアーティストとしての力量の十分条件ではない。それら流通されたイメージとは全てアートディーラーたちによる営業上の戦略の結果でしかない。
 アーティストが彼の生命を賭けるものとは何かと言われれば即座に彼らはこう答えるだろう。
 「私たちが生きて何かを見て何かを感じたその痕跡を残すということが意味ある行為であるということを示したい」
 つまりそれは行為という名の人間行動の全てが意味化された幻想であるということ、そしてその幻想は常に自己を欠如態として認識することに端を発しているのである。
 勿論アーティスト毎に異なった言説が用意されているだろう。しかし恐らく彼らはいくら言葉の違いを持っていても、私が「」内で示したことが創造の根幹をなす真理であることを疑う者はいないのではないだろうか?
 どんな存在者もいつかは死す。この真理に目覚めない存在者はいない。しかし生きているということは実はかなり辛いことの方が多いことなのだ。それをあたかもそうではないように相互に装うところに生を生きるということの辛さも楽しさもある。つまりそれを他者に伝えたいということが人間が哲学的存在者であるということの証なのである。そのことについて考えてみたい。
 茂木健一郎氏の最大の功績の一つはクオリアという概念を定着させたこと以外では、感動という言葉を定着させたことであろう。何故なら私たちはそれまでに脳科学を初めとする多くの学問で、率直に感動という言葉を使用することに躊躇ってきたきらいがあるからである。しかしどんなにつっぱってみたところで感情、情動、感覚、感性という言葉からは感動する時のニュアンスを伝えられない。だからこそ感動という言葉には存在理由がある。
 人間の脳は茂木氏に拠ると、何かに感動するとそれを人に伝えたくなるのだそうだ。
 さて動物であるが、彼らには自分たちが所有している能力それ自体を他の個体へと伝える能力は持っていない。つまり彼らにも何らかの意味で過去に関することを記憶する能力はあるだろうが、そのこと自体を他個体へと伝える能力はない。ただ彼らの内面においてその能力を利用するだけである。要するにただの内示である。
 しかし人間はそれが可能なのである。つまり何か特定の能力を自分がたまたま持っているということを他の個体へと伝えることが出来た。そうすることが出来たということはそうする意志と欲求を持ったということを意味する。そして意志や欲求が感動を呼び起こしたと今までの哲学では考えてきた節があるが、私はそうは思わない。寧ろ何かに感動したからこそ、それがたまたま自分が何かを覚えていることそれ自体であったわけだが、それを他の個体へと伝えたい(伝えるためには何かその感動を別の形にして示す必要がある)という欲求へと転化したわけである。
 それは明示である。つまり内側に感じたことを外へと出すこと、表現することである。
 つまり何かおいしそうな餌を見つけた時、その餌を前にして他個体に伝えることなら動物でも出来る。しかしそうするにはまず前提としてその他個体がその場に居合わせなくてはならない。その眼前にある餌を目線で示しただ唸ることなら動物にも出来るだろう。
 しかし餌が向こうにあったということ、今この自分たちの眼前にはないということでもあるのだが、それを相手に伝えることが動物には出来ない。たとえ向こうに餌があることを彼らが知っていたとしても、それを伝えるためには彼らは他個体をそこまで連れて行かなくてはならない。尤も鳥類には彼らの仲間に餌の在り処を示す固有の啼き方があり、それが一種の言語として機能しているということがあるから、当然他の動物、例えば哺乳類である犬や猫でもそれに近い仕草とか鳴き声といったものがあるのかも知れない。しかし一番重要なこととは、人間にはその発見事実そのものだけではなく、その発見したという事実に対する感動そのものをも伝えられるということなのである。
 考えを元に戻してもう一度考えてみると、人間はまず今眼前にはないものを、例えば向こうにあったと伝えることが出来るということは、言い換えれば、向こうにあるものが「あった」と伝えることなのだ。それはつまり自己の記憶内容そのものの伝達という面もさることながら、もっと重要なこととは、今現在そのものの存在に対する記憶を、あるいはそういう風に記憶していることそのものを相手に伝えられるということをも意味する。それは自らの能力そのものを、あるいは自らがその能力を有していることそのものを相手に伝えることが可能だということだ。と言うことは即ち人間は少なくとも自己の能力そのものを相手に伝える欲求、あるいは意志そのものを言語獲得のプロセスにおいて持っていたということを意味する。
 不在のものの存在を今伝えるということは、即ち過去の事実を報告することであると同時に、過去事実を記憶している自らの記憶内容の報告であるし、同時にその能力の誇示という側面も持っている。そしてその際に重要なこととは、その能力の誇示ということが記憶内容の報告という意志・欲求となって顕現されているということなのである。
 そのことは逆に人間以外の他の動物たちは「伝えること=過去事実を記憶していることを伝えること」という意識がないということを意味する。あるいはそういう意志・欲求に関しては欠如していたということになるのだ。
 恐らく彼らは向こうに餌があったなら、そこまで他個体を誘導して行ってそれを前にした時に「これだ」という叫びを挿入して、示すことしか出来ないだろう。その時初めてそのものの発見事実に対する感動を伝えることが可能となるのだ。
 しかし我々は少なくともただ発見事実だけを伝えれば、それでたちまち相手に意図は伝わり、その事実を伝えられた者だけが向こうに行けばそれで済む。このことは時間効率的にも労働効率的にも著しくヒトという種にメリットを与えたであろう。つまり餌を取りに行く者と、それを待つ者は全く別の作業へと勤しむことが可能となるからだ。
 つまり人間の進化の歴史において極めて重要なこととは、端的に自らの保持している能力を相互に伝達し合うということそのものが、経済効率的な側面でのメリットへと繋がって行ったということなのである。そしてその際に伝達する内容と、伝達する内容を知る能力それ自体に対する感動という心的作用があったということが極めて重要であると私は考えているのである。(ここら辺の私の考え方を誘引して下さったテクストとして小浜逸郎氏の「言葉はなぜ通じないのか」という本があるが、この本からは実に得たことが多かった。)
 この人間と動物の間での実現能力の違いは極めて大きい。つまり現前しない今は不在である事物や現象を対象として認識し、それが存在していたが今はここにはない、あるいは今は既になくなっているかも知れないが、あの時はあったという<事実の報告=発見した自らの行為の誇示>ということが他個体へと齎す効果とは、それが今必要であるのなら、直ちにそこへどちらかが赴き、確保するという行為へと誘発されるからである。
 そしてその行為の誘発自体が他個体への記憶内容の報告=自己記憶能力の誇示=他個体も同様の能力を保持していることに対する信頼ということへと繋がり、脳科学で考えられているという茂木氏の報告の通り、感動したらそれを人へと伝えたくなるという脳の作用を考慮に入れるなら、私たちの祖先は自己内では知っている能力そのものを他個体へと伝え合うことを通した協力という行為へと直結していくようになったのだろう。その他個体への報告から誘発される協力への要請という意志・欲求はそれを可能にする情動を既に人類が持っていたということを意味する。
 この相互に自己能力そのものを伝え合う、あるいはそれがあることに対する感動を伝え合うということは、能力として考える時、明示能力の有無ということであるが、私たちにとっての同一種内他個体がまさに他者としての意味=存在理由を他の動物にはない形で有することとなったのだろうと私は思う。
 この相互に自己能力そのものとそれがあることを報告=誇示する能力は、餌の発見的事実だけではなく、餌を発見したことを報告することが可能であるという能力それ自体への感動ともなっているということなのだが、その自己能力そのものへのナルシシズム的な伝達意志・欲求とその実現こそが私たちを哲学的存在者へと押し上げたと言うことが出来る。
 動物にもそれなりに不在のものを表象する能力はあるのかも知れない。しかしそれは内示に留まり、それを少なくとも他個体へと伝えようという気持ちには彼らはならなかったし、なれなかったのだろう。つまり内にあることを外に出すという明示性が全く彼らには欠如しているのだ。内にあることを外に出す時には必ず、内にある形のままでは伝達し得ないということが何となく理屈としてではなく直観的に私たちは理解している。(そのことが哲学者永井均氏のライトモティーフである)だからこそそこで言語が必要とされたということである。
 まただからこそ人間は自らを欠如として認識し得るのだが、何か(考えるべき対象)が人間ではなく別のあるものであったとしても、それを全体として認識した時に、欠如であると認識し得るとしたなら、それは要するにそのあるものを他のもの一般と比較することが可能だからである。欠如とは端的にそのものの他にはない長所や充足に対する認識と同時的なものであるからだ。そして重要なのは、何度も繰り返すようだが、その欠如とか充足という認識それ自体を、そしてその認識の発見そのものに対する感動を他へと伝えようという意志・欲求を所有しているということなのだ。そしてその意志・欲求の所有に対する感動をも伝えられるということ、つまりメタ認知能力の有無こそが人間と他の動物とを決定的に分かつものなのである。
 勿論私たちは言語を習得することとなったから結果的にそのような意志を所有することとなった、とそう考えることも可能だし、通常私たちはそう考えられよう。しかし脳科学的に海馬の助けを借りて側頭葉へと収納される記憶内容は常に扁桃体という感情的判断を司る脳内の部位とかかわっており(そこら辺は薬学部出身の脳科学者である池谷裕二氏の記憶に関する研究に詳しい)それが前頭葉の意欲を活性化し、刺激しているのかも知れない。
 そう考えれば、私たちは既にある能力を所有した段階で、その能力の保持それ自体(感動)を他へと伝えたいという欲求を抱いていたと考えるのが自然かも知れない。
 通常偉大な仕事をしている人、なし得ている人というのは、そのことに対して無自覚ではない。勿論大変な発見をしたのに、その偉大さに気づかないでいて、誰でも考えることなのではないかと思っている状態というのも考えられる。しかし恐らくそういう場合ですらじきにその者は自分の発見したことに対してその偉大さに気づいてくるものと考えられる。つまり私たちの祖先はまさに記憶内容→記憶事実の報告への意志・欲求という他の動物には決して見られない稀な能力、つまり自らの能力自体への感動、自らの能力の素晴らしさへの感動を共有したいということを感じ、それを必然的に他個体へと伝えようとして、そのことも一つの能力となっていったのである。
 だからこそ私たちは絵画を鑑賞することが出来、詩の内容とその響きを感動し理解し、一定時間内に音の配列をして、それを聴き、体を動かし、合わせて口ずさむという音楽を奏で聴いて楽しむということが出来るようになったのだ。これらはまさに自らの感動を他へと伝え、その感動を共有したいという意志・欲求そのものが能力として定着したことを意味するし、まさに芸術とか文学とか哲学とかはその賜物なのである。(了)

 付記「意味の呪縛」はこれで終了致します。次回からは「感情と意味」(最新論文の一つ)を掲載更新していきます。その用意と休暇のため後日再びお会い致しましょう。(河口ミカル)

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