Saturday, October 24, 2009

第十五章 時間と羞恥②

 私はどんなに気恥ずかしい出来事でも時間と共に羞恥の対象から外されていくと言った。それは端的に「ちっぽけさに対して慈しむことの羞恥を大事にして生きる存在の存在理由」を無効化する。時間だけが永遠であり、その中でどんな存在者であれ羞恥を抱えて生きているが、それらに眼を留めることはセンチメンタリズムだけでなのかという時間への問いにおいて、再びそれは片隅に追い遣られる。しかし重要なことは、時間が羞恥を無効化するのも、再び過去の羞恥より現在の羞恥を重視するのも私たちなのだ。だから常に私たちは時間と共に羞恥を新たに更新している。そもそも私たちの存在自体が全存在(一体この認識は正しいのだろうか?)の中のほんのちっぽけなものであり、人生は時間においてもほんの一瞬の刹那だ。この存在の刹那性こそが永遠への希求の鳥羽口である。しかしそもそも時間すら永遠であるか否かは確認出来ないと私は言った。
 ところで私はかなり昔から、殆ど幼稚園時代まで遡るその時々のことを克明に覚えている。かなり以前に感じた羞恥を執念深く思い出し続けている。勿論それを敢えて他者には告げはしない。しかしそうする必要のなさこそがある意味で「それが私の世界である」ということだ。毎刻消滅し続けている無数の考えることと、クオリアは個々固有の過去の蟠りがある。つまり個々の消滅してゆく存在者の魂とは実は個々の蟠り、あるいは個々の知られざる羞恥である。
 すると時間とは無数の羞恥を飲み込む、無数のクオリアと考えることに纏わる後悔という名の蟠りを一瞬にして無化するエネルギーである。つまり時間は死そのものなのだ。死とは生を飲み込む場だから、その場全体は時間と一体化している。
 羞恥は記憶に刻み込まれている。武蔵でさえそれを携えていたろう。
武蔵は果たして熟睡できたのだろうか?常に浅い眠りしかしなかったとしたら、夢に魘されることがあったのだろうか?彼は常に自分によって打ち滅ぼされた剣士たちが負けた理由を考え、彼らに対する鎮魂を夢でも行なっていたかも知れない。敗れた剣士たちは明日の自分かも知れないと夢でそう告げられたかも知れない。武蔵も記憶に取りつかれていたのだ。
 しかし記憶は世界があることの証拠であり、死は記憶を消滅させる。そして無数の叫ばれなかった羞恥の魂がこれからも延々と無数の死と共に無数の叫ばれなかったクオリアと考えることを携えて時間の中に吸引されていく。死は何かとは他者の死が教えてくれる。私たちは死ぬまで羞恥を携えて生きる。過去の記憶は「羞恥を生きた」という実感だ。死ぬまで我々は羞恥を忘れない。だから誰かが死ぬ時「お前は生きている。死んでいく奴のお陰だ」ということを悟るために他者の死はある。定義してみると 時間=死者となる生者の姿を我々に目撃させる場 となる。
 ハイデッガーが言った頽落とは、社会が成果達成的行為にのみ追随する価値を半ば(完全ではないところがミソである)強制的に社会によって管理された教養の枠組みの中で提示された概念規定を飲み込むことを飲み込まされていると気づきもせず、寧ろそれを有り難いと思って生きていることである。しかし重要なことはハイデッガーが死を個人的なことであり、死が他ならぬこの私に降りかかることにおいて思考したことがヘーゲルと最も違うところだ。
 ヘーゲルは存在一般に思考が向いており、サルトルはその決起を促すテクストスタイルでヘーゲルのカルテジアン的な部分を踏襲した。しかしハイデッガーはサルトルに自分の中の多大なエキスを吸収させたが、ヘーゲルに対しキルケゴールとは違った意味で批判的だった。ヘーゲルのカルテジアン的資質を見抜いたのがハイデッガーだった。
 しかし私は死の個人性という考えが、生の個人性に直結していることは当然としても、クオリアがある個的存在にとって固有のものであるか否かとは存在者一般に当て嵌まるか否かとは全く異なった問題である。後者は科学の視点だ。しかし前者は明らかに一個の林檎に対する感じ方の問題であり、全ての存在者に備わっている知覚的確証能力とは全く違う。
 赤い林檎であるという客観的認識は、そのことに対してどのように感じ、どういうクオリアの質(感覚質の質、個に固有の感じ方)がどう作用しているかとは全く別で、後者には人格も絡んでくる。
 前章では昨今の金融危機的状況からペシミスティックで反体制的ニュアンスの形而上学を私は敢えて試みた。その背景にはハイデッガー的視座があった。ハイデッガーは存在論を存在する者による思惟であり、歴史的認識だと考えていたが、その歴史認識はしかしヘーゲルから吸収した部分もある。つまりテクスト論的にはメルロ・ポンティーが「言語の現象学」中<間接的言語>で述べたように、体系的な自らの歴史的位置づけを全ての著者がテクスト創造しながら既に内在させるという主張に見られるように、私たちは否定するものに肯定され、批判するものによって救われる。そしてそのこと自体私たちが羞恥的存在者であることを証明している。
 と言うのも存在と意味を考える時、私たちは自然科学があらゆる物理的存在、例えば分子、原子、原子核、クオーク等を有として捉え、例えば脳科学においても、準備電位とか、神経作用としてグルタミン酸とGABAといった+-の働きなども全て有の範疇の認識体系だ。しかし本来私たちの身体一個をとっても、実は空無というものを常に内包する。と言うより空無は掴みどころがないのに有の中にある。全ての存在物=有は、実は空無と、こう言ってよければ、接触している。だから空自体、無自体の性質、あるいは有にはどれだけ空無が紛れ込んでいるか(語義矛盾的だが)が、例えば我々の意識自体の性質や在り方を決定していると捉えられないだろうか?
 つまり自然科学自体が、これからは有全体の閉じた体系だけではなく、空無へと開放された体系として組み直す必要がありはしまいか?それは意味を意味の範疇からだけ捉えるのでなく、私が何度か言った哲学を哲学外的に捉え、科学を科学外的に捉えるように有を有外的に捉え、空無との有の接触(?)、あるいは有の中に内在する空無自体の作用ならぬ作用に眼を向ける必要があるまいか?
 つまり時間が、そもそも空間自体の空無に立脚すること、全ての変化と、全ての生(あるいは生の変化)という有を最終的には吸収してしまう空無自体の場としてのエネルギーに根本的に依存している以上、時間と空間を二分割すること自体に矛盾がある。つまり時間とは空間自体の空無的有を可能あらしめる場=全生の吸収可能力という死から見た生の存在理由(死を背景として生を特別なものとする)作成者なのだ。そして空間の生と変化を見守る能力を時間が与えているという意味では時間は空間の目撃者だ。空間はその目撃者の目撃者である。(空間の時間に対する凝視=場的性格+時間の空間に対する凝視=保証)
 ここに

 時間=生死全ての目撃者=生全ての変化を体験する者=生に対する死の宣言者=空間に意味を付与する者
 
 という図式が成立する。つまりこういうことだ。
 私たちは生きているから意識があると感じる。しかし意識がないとは無意識と同じではない。つまり「無=生の背景=全ての死を受けとめる者」だ。無自体は生きているものがないことであり、空間自体の存在の空無性は無時間だということだ。つまり空間の無時間的な無生、存在の皆無つまり死としての背景に、時間という変化を必要とする有的事象が発進されている。その中の一つの要素として我々の生がある。そして一個一個の生命は時間的に限界があり、種自体もそうだ。しかしその存続には変化がつき纏い、変化を体験するものこそ空間内の目撃者たる時間であり、時間が全ての生を見守るから自ら時間が死を迎えさせそれ(生)に宣言する。しかし空間内で全ての生命体の亡骸を吸収するのは、空間ではなく、空間内の物質だ。そして空間そのものの空無は依然として不変だし、無であり生きていない。しかしその生きていないという性質自体がそれを背景としつつ変化を続ける物質には必要だし、その無的性質に我々をも含む全存在の有が立脚している。
 そして我々には性別その他の様々な次元がある。変化は時間的な推移だけでなく、空間にも負っていて空間は性質差異的次元にもかかわっている。故に時間は悠然と全ての変化を見守ることが可能となる。それは空間に委ねている部分があるからだ。変化は時間に纏わる推移だけでなく反復する誕生と死滅の目撃者である時間に要請されている。生という有、存在=有における性質の差異を空間に委託している。だから時間は空間という場に対しその懐の広さを利用し変化を通し時間的推移を作れることに空間に対し感謝の念を捧げているだろう。そう考えると、あらゆる化学的変化や物理的変化自体(生命、非生命とも)が、実は対他的には他性認識を物質が有し、存在自体が原羞恥を有的事象性質論的に持つということから説明がつく。異・性に対する(あるいは作用に対する反作用といった)覚知が、実は私が言いたい羞恥なのである。
 時間は、空間内の空無が背景であることの証明として各性質や次元の変化を時間的推移だけはなく空間が負担していることから、自らは全ての生と死滅と、生ある物質の死への移行とそれに伴う変化を場的な意味で顕現されていることを無記録的に自ら覚知する。時間には無記憶的記憶があるのかも知れない。
 時間は全ての推移と、空間的変化の目撃者であり、認識自体となる。(意志のない認識とでも言おうか)時間とは存在=羞恥に対する空間内での目撃者として常に起きていることを事象として認識させ、起きていることを起きたこととして無記録的に記録する、少なくともその可能性を覚知する作用である。しかし人類が死滅すれば時間も滅ぶ。
 つまり時間とは我々、羞恥的存在者自体による歴史認識や物語的思考全てを含む推移的変化を現前的に我々が認識することが可能とするもので、それは空間を背景に性質状態の変化を見守ることが可能なことの感謝の念を空間に捧げるように存在者たちが意味づけしている空間とは違う性質のもう一つの場だ。だからカントは時間を感性の形式と言ったのだ。あらゆる歴史、物語という認識は時間という場を借りて顕現される。だから言葉を変えれば時間とは、我々が空間の空無を背景として行為すること、そしてその行為が全存在的変化の中に位置づけられることと存在自体に意味を付与する場であり、我々は不可避的にその場を選択している。

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