Friday, March 4, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 第一章 羞恥と欺瞞

 世界が四人で構成されているとしよう。この四人共別々で勝手に考えている、とされるのが私達の住む世界での通念だ。
 しかしもしこの四人の脳が何らかの仕方で離れ離れになっていたとしても相互に全部四つの脳の意志が一つに纏められているとすると、この四人は態々会って話し合う必要がない故に、そういった脳の在り方をする世界では私達の世界での様な言語行為は人類学的にも進化しようがない。
 しかしたまさか私達の世界では四人の脳は別々で勝手に考え、その四つの脳が一つの脳として統括されるということはない。そこで私達は自分自身の脳からのみ世界の全てを把握し、その把握されたもの全てこそが世界である。
 それはある意味では他者の脳(脳は心と言ってよい)から、自分自身の脳(の中で考えていること)を容易に察知され得ぬという覚知を自分自身に齎すと同時に、他者の脳の中を読み(知り)得ないという事実を突き付ける。
 この時、例えばその四人の内一人が私だとすれば、私は残りの三人に対し、私の脳の中の全てを知って欲しくないという欲望を自然に持つ。何故なら私の脳の中の幾分かは、私が私以外の三人と渡り合う為に、その三人の脳の中を推し量ろうと画策してもいるからだ。私はその部分での私の思考だけは容易に私以外の三人には察知されたくはなく、他の三人のこと以外の当たり障りのない、私の脳の中の考えだけを、三人から察知されてもいいと考え、その様に、私以外の三人と接する様になるだろう。
 これを私の中に芽生えた羞恥と呼ぶこととしよう。
 しかし、私はこの私の中の羞恥が私以外の三人にもあるのではないか、と思う。
 そう思って私が三人と接すれば、三人共確かに、私が私の中のこの三人には知られたくはないと思い三人に接する様な接し方を、この三人は私に対して採る様に思える。
 この時私は確信する。私以外の三人にも私と同じ様な他者には知られたくはない羞恥があるに違いない、と。
 つまり私も残りの三人も恐らくこの様にして、相互に相手と接する。それは言い換えれば、私も私以外の三人も常に残りの相手全てには知られたくはない故、仮に相手がそれを知ろうと努めても、決して相手へ悟られない様にする部分が自分にも相手にもあることだから、結局「分からないこと」を相互に携え合って生活するということを意味する。
 それは痛さとかくすぐったさ、痒さの様なことも、積極的に告げる(痛さなどは仕事に支障をきたすからそうだ)ことを厭わぬ部分と、逆にそうではない(例えば電車の中などで好みの異性へ性的な感触を想像力等を伴って身体で感じたとかの様な)部分があることでもあり、告げずに済ます部分は概ね「分からないこと」となっていく。
 そして言語行為では「分からないこと」(他者に関しては)が相互にある、ということを、暗黙の内に容認し合う形で、全ての言語的意思疎通し合う様になる。この時「言わなくてもよい」権利を「プライヴァシー」と呼び、にも関わらず逆に、相手のプライヴァシーに就いて直接聞くことなく忖度し合うことを「駆け引き」と呼び、その「駆け引き」言語を相互に暗示し合わぬ限りで、相互に暗黙に容認し合うことを「取り引き」と呼ぶこととしよう。
 ここで言語的意思疎通を私達は相手にとっては「分からないこと」を相互に認め合い、その「分からなさ」(それは痛いので仕事を休みたいという請求をして(告げて)よく、そうしなければいけないことをも含めて)が相互に携えられているということを了解し合う(「分かる」)ことを通して、成立していることを知る。
 それをもっと簡単に言えば、言語的意思疎通とは相互に相手のことは全て「分からない」ことを前提に、ということは「分からなさ」を「分かる」こととして育まれる、ということとなる。
 これは私達の世界でのある部分では、四人の人間の脳が相互に一つに統括され得なさが必然的に齎す言語行為(言語的意思疎通)の発生論的必然性であると同時に、言語的成立条件としての論理的必然性である、とも言える。