Wednesday, October 14, 2009

第八章 感じるものと把握するもの

 私たちは人生全体に対して「俺は人生における勝負で勝ったのだ」とか「他人からも負けなかったが、何よりも自分に勝ったのだ」とか過去のある体験に対してそう考える。そうする時私たちは人生全体を理性的に判断している。勝ちの充足も、負けの空虚も理性的な判断である。
 しかしそれは自分に対して過大な信用をすることを差し控えることでもある。例えばある他者に対して盲目の信用をすると、信用される者は自分を信用する者に悪(利用価値的策謀、策略)の発動への誘惑に苛まれる。理性とはこの人間の性悪を知った上でそれを出来得る限り発現させないようにと設けられた知恵である。しかし悪を発現させないままにしておくことは、端的に性悪(ここでは取り敢えず攻撃的エネルギーと欲求としておこう)を温存させておくための無意識の方策でもある。
 理性は無意識の情動に対する言語化(意味づけ)であり、秩序化に他ならない。これは前章で示した人生の作品化の基礎であり、そのために我々はその都度固有の物語を必要とし、それを生きようとする。それは各瞬間の本質的な無意味に対する恣意的な意味化に他ならない。これは後悔の回避、未来へと向けられたあらゆる意志決定の合理化であり、決心への構築である。しかし意味化は、端的に意味しやすいものと、意味し難いものを我々がどこかで直観的に区別することにも左右される。
 例えば一見私たちは論理を知性的なレヴェルからだけ捉えがちだが、本質的に論理とは音楽的なものだ。つまり説得すること、ある者の説得力に感じ入ることは性的なことでもある。それは時間体験がそもそもリビドー的なものであることからも明白である。
 それに対して空間提示は多少違う。勿論情動を刺激に対する反応として発動するという意味ではそれもまた性的なことだが(特に色彩的な体験などはそうだ)、視覚的に把握することは非性的なことである。我々が異性を前にして胸をときめかすということの内には、幾分聴覚的なこととか、音楽律動的な動きを視覚によって捉え得るところから発せられているのであって、それは視覚による同時把握という事態だけによってではない。
 つまり空間提示には、非論理的でありながら明確な非性的な理解ということがある(ロックの哲学が参考になる)。だから前章でも述べたが、生とは各瞬間の欲望の独立性ということで言えば、明らかに時間の連続性を否定するパワーがある。何故なら欲望の内容は、一定のレヴェルで充足されると直ちに次の内容へとシフトするからである。だから逆に欲望の推移を考える時初めてそこに時間の連続性を見出すのである。
 しかし欲望とは音楽的なことだから、非音楽的なこと、つまり美術、建築的な空間提示性格の把握においては、連続してあるという認識よりは、同一性の把握ということに意識が向かう。把握とは同一性に対してまず行われ、それを基礎として初めて異質性へと着目されると哲学では考える。しかし私が今問題にしているのは、そのようにこの二つがあたかも全く別個の切り離された作用の如く理解したがる私たちの性癖についてである。
 そうである。私たちはこのような二つに思考の上で分離出来る作用を常に同時的に探っているのだ。だからこそ感じるものと把握するものは、そういう風に常に二つに分離されてあるのではなく、寧ろ同じ一つの事態や対象に対して常に連動的になされている。(脳科学的には準備電位のように何らかの時間差はあるかも知れないが)しかし私たちは何故か言語の上ではこの二つ、つまり感じるものと把握するものを明確に分離し得るように思える。このことについて少し詳しく考えてみたい。

 真理・本質・実存は概して私たちの心情に対して優しくない。寧ろ積極的に冷淡、冷酷、残酷である。だから私たちは最初「客観的日常」という名の制度によって多く他者との共生を得るが、次第に独自の「主観的日常」を獲得するようになっていく。
 しかしそれもパターン化されると自己によって構築したパラダイムに逆に縛られることになるから、ただ「引用される意味」に転落する。我々は再び新たに「見出される意味」を求める。主観的日常が客観的日常に堕した途端に再び客観的日常に同化し直す自分を発見し、これではいけなと新たな主観的日常を求めだすのだ。私たちにとって制度は個が積極的に同化する仕来り、儀式、慣例などだ。ルティンもまた制度である。
 しかしその反復の中から自らの主観によってそのお定まりの日常に対して、自分なりの意味を見出す。それが新たに見出された主観的日常である。それは自分なりの客観的日常に対する遵守仕方、耐え方に他ならない。
 しかし同じ行為の反復においてもその意味づけ次第で全く違った人生の作品化を招来する。つまり 

客観的日常の受容①→主観的日常の獲得②→客観的日常に堕す主観的日常に対する反省③→客観的日常の受容に対する見直しと同化し直し④→新たな主観的日常の獲得⑤→③→④(以下同) 
 
この反復を絶えず行っている。⑤の新たな主観的日常の獲得もやがて一つの客観的日常の受容に堕すというわけだ。これが自己や自己対象を他者や他性を通して確立している私たちの像に他ならない。
 私たちは私たちの性悪を発現させることを抑制するような理性を出来る限り発動させないような状況に自ら身を置くように処したい。寧ろそのためにこそ主観的日常を絶えず更新するように、制度(客観的日常)に対する主体的自由(自らの意志と努力によって獲得したものとしての本質的な自由)を獲得し、そのことに対する責任も共に引き受けたい。原音楽行為が制度の受容と同化に対して見出される意味なら人生の作品化でのその都度の修正を意味する。

 原羞恥的レヴェルで価値があるように一瞬で発見される「見出される意味」は、私たちが全てを言語化している私たちの不可避的習性を再び言語的に認識すること、把握することが同時に固有の現象的生の在り方も把握し得るのだと我々に気づかせてくれる。
 しかし本来このように捉えることは、現象的生の在り方という身体的実存、つまり感じるものに対する固有の直観に端を発する。つまりこの固有の感じるものは、それを他者へ伝える時「私に固有に感じられることは、あなたにもあるのか?」と質問し応答を待ち、同感だと報告されるかも知れないという目測の下で我々は身構える。そしてもし同感された時初めてその他者から共感を得ることが出来、自分の固有の感じが一般性を得る契機となる。
 故に感じるものは把握するものによって明確化し、把握するものも感じるものの把握し難さによって明確化する。
 真理・本質・実存はどれも残酷であり、冷淡、冷酷であることは、私たちにとって死がどの個人にも避けらないことと共に、この感じるものを犠牲にして生活している制度(客観的日常)に対する降伏の現実に存している。つまりそれは私たちが相互の私に対する相互の理解し合えなさによってのみ相互理解している不条理を意味する。つまりその理解し合えなさの相互了解において私たちは実は感じるものと把握するものを、自己において明確に分離し得ないにもかかわらず、自‐他ということにおいて感じるものは伝え得ないし、それが私にとってのそれと他者にとってのそれが同質であるかどうかも確認し得ない(例えば痛み、クオリアその他)ものの、その伝え得なさは理解し合える、そのことを把握することが出来るから、把握するもののみは他者と共有し合えるということで折り合いをつけている。またそのことに対する既知によって私たちはその二つを分離し理解していることも了解し合っている。

No comments:

Post a Comment