Thursday, October 8, 2009

第五章 私は今ここにいる‐同一性を保証するものを求める‐個々の欲望の独立性‐時間の連続性

 私は昨日の今頃と今とでは全く違う気分でいる。そしてその時考えたことと今考えていることも全く違うし、次に何がしたいかも違う。にもかかわらず私は昨日の今頃と、今とでは同じ私だと信じている。しかしそう私に思わせるものとは一体何なのだろう?
 考えられるのは、まず私は昨日考えていたことを過去のこととして認識し、且つそれを今考えていることとの間で時間的な連続性を認めているからこそ昨日と今の私とを同じであるとする確信を作り上げているということだ。私という人間の同一性は昨日の私と今の私とでは欲望の状態(在り方)が全く異なっているのにもかかわらず、ある欲望(例えば昨日の欲望)が、昨日から今日へと続く時間におけるある時点で何らかの形で充足し、次の新たな欲望を作り出してきたことを私が記憶している(正確な形ではないにしても)からこそ、その連続した時間において私が昨日の私と今の私を同一だと保証しているのだ。つまり時間の連続性を信じることが、私が昨日の私と今日の私を同一であると保証する。そしてその時間がずっと連続している、持続していることを私たちは信じている。世界に永遠という概念が成立するのも皆この信念からである。
 同一性、個々の欲望の独立性、時間の連続性ということを哲学の三大要素だと仮にしておくと、時間の連続性を認めること、即ち過去の個々の出来事に順序を認識することがその時々の異なった心の状態を同一の身体に宿るその都度の異なった欲望(の相関)という風に我々は理解する。つまりそれらが充足され、新たな欠如を見出し、再び充足へ向けて発進された経緯そのものを我々が何らかの形で記憶しているからこそ、私たちはその経緯を体験する体験者として私の同一性としている。だから逆に今こそが全てだと捉えるなら、必然的に「その今」はやがて過去になるから、私という同一性は一時たりとも保証されなくなる。また今の欲望だけを私の同一性の柱にするのなら、その欲望が解消され別の新たな欲望が出現した時既に私は私ではなくなっていることになる。にもかかわらず私は常に<今ここにいる>いう感じをいつまでたっても払い除けることが出来ない。この払い除けられなさ自体もベルグソンはやはり純粋持続と呼んだのではないだろうか?
 しかしよく考えると心の状態の一つである今何かしたいという欲求は一つだけではなく幾つも同時にあり、共存してある場合もあれば独立してある場合(例えば便意を催した時はそれだけが優先される)もある。そして本質的には個々のものは個別に説明し得る。つまり個々の欲求が複合化され幾重にも折り重なっていること自体を総括して欲望と私たちは呼ぶ。そしてその時々の欲望の内容は異なっていても、恐らくそのように複合的な欲求の重層性とか、共存、個々独立に並存していること自体は常に変わりない。その変わりなさ自体、つまり<私たちは常に欲望を持つ=どの今も固有の欲望に満たされている>ということを通して私たちは<今ここにいる>と思う。と言うことは、私たちは常に変わりゆく欲望を携えていることで私の同一性を<今ここにいる>としながら捉えていることになる。私はどこにいても<今ここにいる>を通してその時々の欲望を生きる。
 ある出来事に対する記憶はその出来事を記憶している者の数が増えれば増えるほど内容の一致が困難になる。過去事実に対する相互の記憶違いがあるからだ。それは相互に不安を掻き立てる。つまり記憶の曖昧性に我々全員が直面する。一人一人が不安に直面しているわけだし、この不安を他の成員も持つのではないかとも思う。
 その時我々はこの記憶内容間に横たわるぶれを何らかの形で解消したいと望む。つまり記憶の曖昧性に対する不安を解消したいと望むのだ。だからこそ私たちは法を作り、出来事を記録し、文字を書き、作品を残し、その都度何かを表現する。あるいは祭りをし、酒宴を設け何かを(それは何であるかは定かでなくても)忘れようとして、気持ちをリセットし、苦悩を鎮静化するために音楽を聴き、再び論理を相互に戦わす。会議をして、ニュースを見る。
 それら全ては記憶の曖昧性に起因する固定化への欲求に他ならない。つまり固定化とは相互に記憶違いが横たわるが故に不安になると同時に自己に対する同一性が確固としていない不安もが、全ての確固とした同一性に対する希求となって、法化、作品化、記録化等の形をとる。それらは本質的には記憶の曖昧性に纏わる不安の解消と除去を志向する。法化、作品化、記録化は、価値規定する側面が拭い難くある。そうして意味による呪縛を作り出している。
 また我々はよく覚えていることは当然のこととして、よく覚えていないこと、あるいは記憶から徐々に薄れてゆくものに対して愛おしさを感じ、郷愁を感じ、そうではないこと以上に何か特別の価値を与える心的傾向もある。つまり失われた記憶の美化だ。失われた記憶の美化は価値に転化され、やがて過去を麗しいものとして設定し、現在において新たな欠如を作り出す。つまりある全体とはそれが獲得され得ると途端にそれ以外のものをも含めた全体の中の一部になり、新たな全体を私たちは志向する。この果てしないオデュッセイは、価値規定された意味の呪縛の世界を破壊する欲求を齎す。
 法化、作品化、記録化は価値的一元化への道である。想起しようとする際の記憶内容の曖昧性に対する不安と他者と同じ出来事を想起する時に起きる相互のぶれの解消こそが固定化された不動点の希求となり法化、作品化、記録化が行われる。
 私たちは私たち自身を常に不完全なものとして認識している。だからこそ常に何かに関与する。ものに対して、他者に対して関与していることが既に我々一個の存在が不完全なことの何よりの証拠だ。そしてその不完全性に対する認識こそが相互に責任を与え合う。それは責任の名において同一性を相互に認め合うことになる。
 私たちが何かに必ず関与することは例えば道を歩いている時に、その情景、光景といった全てから何かを得ることでも証明される。
 私はある散歩中にある光景に出くわす。若い母親が幼い子供を連れて歩いている。子供がぐずるとそれをきつく嗜める母親の態度から仮に私が幼少の頃にあった記憶を蘇らせているとしよう。すると今度は幼少の頃見た桜の木に対する記憶を呼び起こし、桜と言えば近所の公園は春先には桜が綺麗である、そうだ今日はいつもの散歩コースではなく公園の方を通って山の方へ行ってみようと思う。
 想起とは衝動的なものである。脳科学で言うセレンディピティーもこの想起の突発性に根差しているのではないだろうか?
 想起だけは努力して思い出せないことでも、例えばある時向こうから勝手にやってくる。全く違う状況下で我々はそれまで必死に思い出そうとして思い出せなかったことをふと思い出す。それは想起自体が極めて不随意的なことだからだ。つまり想起とは意志や努力や計画性ですることだけでない。と言うことは時間の連続性とその体験と目撃によって同一性を保証している私たちが実は各瞬間には全く別個の独立した欲望の状態でいることと想起は関係している。つまり日頃の努力、意志等が想起に大局的に影響を与える面も勿論あるが、突発的で偶然的な要素も想起には潜んでいる。つまり想起とは同一性を保証するものを我々が求める際に人間の性格的傾向性や意志決定の合理化の傾向性とかによってではなく、つまり予め求められる一貫性によってではなく記憶の曖昧さ、その時々の都合のいいように記憶内容を変容したりする脳活動と密接であり、人間の判断の不確かさとか、気休め的な判断のいい加減さと密接である。 理性論的判断によるものだけではない。それは不随意的に我々の身体が環境に関与し自然の一部に溶け込んでいることに根差す。
 私たちは現在知覚に支配されているようでいて、同時に記憶のオデュッセイをしている。それを我々は俗に魂の彷徨とか魂の放浪と呼ぶが、端的に現在の知覚によって想起を促されると同時に、過去の亡霊に常に悩まされる。だからある種の創造的閃きは往々にして過去想起がヒントとなる場合も多いだろう。
 だから私たちは人格的一貫性とか統一性に深くかかわる同一性に対する保証という局面からでなく、寧ろ各瞬間における欲望の独立性から想起を、あるいはそれを可能にする記憶を考える必要がある。それは私たちが記憶のオデュッセイを常にしていることとその当の記憶の極めて曖昧である性格によってでもある。次章ではその記憶の曖昧性によるオデュッセイに肉薄して行こう。

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