Sunday, October 4, 2009

第三章 意味を意味として受け取るということ

 武蔵が特定のライヴァルを持たず、全ての他者が敵であり得るという意識をどこかで持っていて、ライヴァルとライヴァル足り得ないことの差を自らの中で設けなかったことが、生涯一度も敵に打ち滅ぼされなかった理由だろうと私は思う。しかしそのように多分に懐疑主義的な態度で全ての他者に臨むことは彼にとって意志的な選択だったのだろうか?
 それを考えると、まずその前に意志的選択とは何かを規定しておく必要がある。意志とは時間的な意識でもあり、いつの間にかそういう気になっていたこともあるし、一定の段階を踏んでかなり自覚的にそういう気持ちにすることもある。いずれにせよ突発的にそういう気持ちになっても、少しずつそういう気持ちになっても時間と深いかかわりがある。
 それをベルグソンが純粋持続と呼んだのかも知れない、と私が言ったのは一瞬の寛ぎ的間隙を挟むことにおいてだったが、このこと、つまり突発的ということも少しずつということもそうだが、間隙があるからこそその他の緩やかで同質的時間があるのであり、少しずつ成就することがあるから、逆に突発的なことがある。
 武蔵は別に人一般に対して不信だったというのとも違うだろう。彼にもお通さんという人がいたわけだし、人を信じるという気持ちもあった。しかし同時に一旦どんなに善良である風に普段見える人でも、彼に襲いかかる悪鬼に豹変する可能性も秘めているということを知るという意味ではやはり純粋に他者を信用することに対して懐疑的だったと言ってよい。だからそういう相手に遭遇した時の突発的な他者に対する判断と同時に、幼少期から少しずつそういう体験を積み重ねていった判断もあったろう。しかしどこかで仄かに確信として立ち現われると言えば意志的だったが、色々ある中から選ぶと言えば選択的だったわけではなかろう。
 人間には常に何かをする時に必ず次のような選択肢があると私は思う。
 
① 当たり前のことを間違いなく行う。
② 多少間違ったことになっても、ただ当たり前のことではない何か新しいことに挑戦する。

 これは何も前者が年配者の常であり、後者が若者の特権という風にも単純には言えない。例えば①の判断を常にモットーとする若者も大勢いるし、若い頃そういうタイプだったので、年配になってから②の判断を貴重だと思う年配者も大勢いる。勿論①の判断を下らないと思う若者もいれば、②の判断を持っての他と考える年配者もいる。 
 端的に新しいこととか、チャレンジングなことは、伝統に対する破壊という性質がどこか伴う。だからそういうことは、安定感はないし、失敗するかも知れないが、モティヴェーションという意味では純粋だ。一方当たり前のことで、常識的にも順当であるとされることは、概してそれをしていることを誰に告げても怪訝な顔をされることも非難されることもないかわりに、賞賛されたり、凄いと言って貰えたりしないし、保守安定的に思われるかも知れない。だから二つの内どちらを選択するかというと、その時々の選択する側の人間の事情如何によるだろう。
 それは何かことを起こすとか、それまで通りに何かを踏襲するという選択肢だけではなく、愛や結婚にも当て嵌まる。例えばヘーゲルは「法の哲学」において、次のように書いている。

§一六四
 
 ちょうど契約の言葉による儀式的約定がすでにそれだけで所有の真の移行を含んでいるように〔§七九〕婚姻という倫理的な絆を結ぶことの同意を儀式的に宣言し、これに応じて家族と地方の自治団体がこの絆を承認し確認することが〔この点に教会が関係してくるということはもっと先の規定であって、ここで詳論するわけにはゆかない〕_婚姻の正式の締結と現実性をなす。だからこの結合は、こうした挙式が先に行われることによってのみ、倫理的なものとして確立されるのである。こうした挙式は、精神的なものの最も精神的な現存在としての言語というしるし〔§七八〕による実体的なことがらの完結なのである。 
 したがって自然的生命活動に属する感性的契機は、それの倫理的な関係のなかへ、倫理的結合の外面的な現存在に属する一つの結果および偶有性として位置づけられている。じっさい倫理的結合は、愛し合い助け合うことだけにつきるわけである。
 だれかが、法律的な諸規定を汲み出したり論評したりしようとして、何が婚姻の主要目的とみなされなくてはならないかと問う場合、この主要目的という言葉は、現実の婚姻生活の個々の面のうちでどれが他の面に比して本質的な面と認められなければならないか、ということを意味するものと解される。
 しかし、どの一つの面をとっても、それだけで、婚姻の即自かつ対自的に存在する内容の全婚姻、倫理的なものの全範囲をなすようなものは何一つないのであって、現実に現われた婚姻にあれこれの面が欠けることがあっても、婚姻の本質がそこなわれることはないのである。
 婚姻の締結そのものである儀式によって、この結合の本質が感情や特殊な愛着といった偶然的なものを超えた倫理的なものであることが表明され確言されるのである。
 しかし、もしこの儀式が、外面的な形式と解されたり、いうところのたんに市民的律法と解されるならば、この行為の意義として残るものは、たとえばこの行為が婚姻という市民的関係を教化し確証する目的をもっているということとか、そうでなければ、この行為が市民的ないし教会的な律法のたんに既成の恣意であるということだけになる。この後の場合は、この律法は、婚姻の本性にとってたんにどうでもよいものと考えられるだけではない。律法だからという理由で、この正式の締結に心から価値をおかなくてはならず、この締結を、相互に完全に身を捧げ合うことに先行すべき条件とみなさなくてはならないとされるかぎり、この律法はまた、愛の心術を汚すものとされ、疎ましいものとしてこの合一の真心からの繋がりに逆行するものとされるのである。
 だがこうした意見は、愛の自由や愛の真心や愛の完璧さについて最高の概念を与えると自負しながら、それどころか逆に、愛の倫理的な面を、すなわちいっそう高い位置に立ってたんなる自然衝動を抑え退ける愛のはたらきを、否認するのである。だがこのはたらきは、もともと自然的に羞恥心のうちに含まれており、また、もっと明確な精神的意識によって高められて貞潔や躾のよさになっているのである。
 さらにいえば、右の見方では婚姻の倫理的規定は投げ捨てられている。婚姻の倫理的規定はつぎのことにこそあるのだからである。すなわちそれは、意識が自然性と主観性を脱して実体的なものについての思想へとおのれを集中し、感性的愛着の偶然と恣意をいつまでもおのれのもとに残しておかないで、こうした恣意から婚姻の結合を取り出し、そして家神たちに義務を負うて婚姻の結合を実体的なものに委ねる、ということにあるのである。そしてまた婚姻の倫理的規定は、意識が感性的契機を、たんに制限された一契機へと引きずりおろすことに、すなわち婚姻関係における真実にして倫理的なものによってたんなる一契機へと引きずりおとすことにあるのである。この実体的関係の思弁的本性をつかむことができないのが破廉恥というものであり、また破廉恥を支持する悟性なのである。だが腐っていない倫理的心情は、キリスト教諸国民の立法と同様、この思弁的本性と一致している。(「法の哲学Ⅱ」47~50ページより、藤野渉、赤沢正敏訳、中公クラシックス)
 
 この文章にはヘーゲルその人の愛という名の理性の前に存在する彼の肉欲的本性というもう一つの存在者の実存に対する羞恥とそれに対する「構え」がよく示されている。つまりこの文章から私たちは愛を手続きであるとして、その持続とか社会的安定と考えるか、それともそのモティヴェーション的な純粋さにおいて考えるかということを、当のヘーゲル自身がいかに懊悩していたかが読み取れる気が私にはするが、どうだろうか?しかもモティヴェーション的な純粋さを彼は肉欲としてではなく、それを理性へと高めるエロスのアガペー化とでも言うべき価値真理として考えている。と言うのもこの文章でまず初めから「婚姻の締結そのものである儀式によって、この結合の本質が感情や特殊な愛着といった偶然的なものを超えた倫理的なものであることが表明され確言されるのである」までにヘーゲルは制度としての結婚への社会からの承認をまず言い、続いてそれを形式的な追従なだけであることから、愛の心術という言葉で示される、愛を育むそのプロセス、モティヴェーションに対する純粋さを通して制度追随的選択を批判しておきながら、再び前言を撤回するかの如く「だがこうした意見は、」から逆に今度はただ単なる自然衝動を悪として捉え、それを抑制する理性論の立場に立って、そういう純粋主義の危険を指摘しているからである。ヘーゲルは少なくともここではどちらが正しいかの結論を控えている。
 と言うことは、ある意味ではそのどちらが正しいかということで思い悩むこと自体を別に悪いことであるとしているどころか、それを通過しない安易な選択を批判していることになる。
 これを私が示した①と②の選択肢を通して考えてみると、愛の動機の純粋さと、その清らかさを称揚するとしたら、人生全体をある種別次元の幸福と至福の感情へと誘う②を選択することが正しいことになるが、そうではなく社会全体に対する調和とか、安定ということだけを考えれば①が正しいことになる。これはある意味では深く問題提起された課題に対処していくことを避ける、つまり愛を手続きだけでよいとか、それ以上深く理性論的に追求していくことを忌避することにも繋がる。しかし愛は実存的に捉えればなるほど肉欲的であり羞恥を伴うものだ。だからこそ何故人は異性同士で愛し合うのだろうという問題提起で、肉欲とその純粋な精神的目的との折り合いをつけることに悩む。ヘーゲルもまたそうだったのだ。
 これは恋愛とか結婚が若い人にとってではなく年長者にとっても重大事であることを考えれば、①の場合制度的に結婚していい条件として、定収入があるとか、相互に健康であるとか、周囲の社会が
彼らの交際そのものを健全なものとして認め、それを結婚という形で一定の制度として位置づけることを順当であると周囲の人間共々認め合うことが第一で、その恋愛の契機となる感情の純粋や恋愛に費やされるエネルギーを節約し得るし、結婚することで相互の人生の在り方がよくなるか悪くなるかは今のところ未知数ではあれ、少なくとも恐らくかなり生活状況とか周囲の人間関係自体もネガティヴに変化させてゆくだろうと推定されるような冒険とは、対極に位置するものである。
 つまりこの二つはある意味ではたまたまここで恋愛と結婚という形で示したが、どういう仕事に就くかという選択肢においても普通に安定した企業に就職するかとか、自ら起業するかとかの判断にも繋がり、あらゆる行為選択につき纏い、全てのケースにおいて①と②を適用して考えることが出来る。
 何故そのように考えるかというと、私たちは人生そのものをどのような瞬間の出来事であれ、その一瞬を過ぎたら、その瞬間は二度と取り戻すこともその瞬間が訪れる以前の状態にも戻れないという一回性として誰でも理解して、出来るなら後で「あんな選択をしなければよかった」と後悔しないようにしたいと願っているからだ。
 そして後になって考えた場合①の選択肢と②の選択肢のどちらが自分にとって悔いの残らない決心だったかということに対する考えにおいて、人それぞれ①だと主張する人もいれば、②だと主張する人もいるだろうし、その選択を迫られる当の状況次第で概ね常に①か②の選択肢を採る人でも、ある場合には逆にすることもあるだろうし、立場が反転することもある。
 言ってみれば、それが人生に対する思想である。そのようにある条件を示されて、その条件下ではこれこれこういう決断をすると思うことに対する判断の即決性こそが信条だし、性格でもある。人生全体をどのように捉えているのかに対する自分なりの判断がそれであり、それは人生や、生自体の意味、つまり価値判断なのである。
 しかしその生に対する価値判断や意味を、第一に考えることも出来れば、そういう題目よりも実利的な幸福とか利益を第一に考えることも出来、後はその人なりの主観領域に属すが、もし前者のように捉える者は、意味に対する洞察を好み意味とは何かと考え、後者のように捉える者は、意味とは何かと考える前に意味あると思うものに従えばいい(行動すればいい)というモットーであると言ってもいいだろう。しかしそのことは①を後者、②を前者とすることが出来るくらいには単純ではない。と言うのも②もまた後者に属する場合があるし、①も前者に属す場合があるからだ。よく考えて①を選択する場合があるし、即決的に①を選択する場合もある。また周囲の環境からの影響で②を選択する場合もあるし、自分一人で周囲の大勢に反対して①を選択する場合もあるからだ。
 そこで①と②の選択肢を次のように言い換えてみよう。
 
① 失敗を省みない行為の無謀さを恥じる勇気
② 失敗をも恐れないで何かを行う勇気

 例えばこの二つの観点を再びヘーゲル的な愛と結婚という形でまた暫く考えてみよう。
 私は愛ということを異性愛に限れば、かつてで次のように書いたことがあるので、その文章を一部そのままの形で引用してみよう。

 人間は社会的責務とか義務とか社会からの要請によって行動することが多いということは君にも理解出来るよね、あなたはそういうことなら遠の昔から知っていただろう。しかし人を好きになるという感情はそういう責務とか義務とか社会的要請とは別個の形でやってくる。例えばクラスメートだから、同僚だから巧くやっていくという決意は誰しも持っている。しかし一人の同僚の中でもクラスメートの中でも好きなこととそうでないことの両方があるのは仕方ないだろう。好きになる理由は、仕事で知り合った人と仕事上で巧くやっていけることからその人がいい仕事仲間とかクライアントとかということで好きになることはあるだろう。しかし恐らくその中でもその人間的な性格や人間性が好きになるのは、そういう巧くやれる関係というのともまた違うものとしてあるだろう。
 昨今猟奇的衝動無差別殺人が多くなってきたが、彼らは果たして弁護側が常に持ち出してくる心神耗弱ということが当て嵌まるのだろうか?彼らは殺人が道徳的にも法的にも許されないことを知っているし、その上で二人以上殺したなら死刑になるということも知っていて尚且つ実行している。そういう意味では怨恨による殺人以外でも人を殺して充実した気分でいるということも生理的にも心理的にも原理的に可能だろう。あるいは死刑になるという可能性を受け容れてさえ、ひょっとしたら死刑だけは免れる可能性に賭けてもしそうなった時に儲けものだと思える時の愉悦を味わいたくそれで人を殺す動機とする者さえいるかも知れない。そういうスリルを自分の命を賭けてでも味わいたいという欲求が人間の潜在的な部分にはあるのかも知れない。
 そういうことというのは、恐らく被害者の家族からすれば許せないことなのだろうが、人間はかように衝動的な部分もあるのだということだけは彼らとて認めるだろう。しかし裏を返せばあなたが、そして君が人を好きになる時、果たして倫理的な理由からだろうか。あるいはその人が理性論的に道徳的、社会模範的だからだろうか?そうではないだろう。恐らく君は、あなたは僕と同じように、好きになった人を褒めるために褒められる理由を探し、あの人は家族を大事にして、仕事にも責任感があると言いたいのだ。つまり人に対する好感情も、悪感情も全て衝動的な部類に属す。しかし一旦好きになった人と巧くやりたいために我々は友情とか愛情というモラルを持ち出す。そしてその人の人物評定として道徳的だとかいう修辞を持ち出すのである。
 そしてこうも言える。特に異性間での愛情とはまた一層厄介で、ある意味では異性を愛するという行為決断は、人を殺したいくらい憎むということと似ているところもある。つまり好きになった人を異性として抱きしめ、性行為することは、衝動的レヴェルでは人を殺すことくらいに突発的なことである。そしてその決断が正しかったとしたいから我々はただ後づけ的に結婚という社会形式とか慣習を受け容れ、保険に加入するような具合で配偶者と権利を分け合うのだ。しかし最初に結婚したい人が見つかることとは、恐らく義務的であるとか社会的責務であるよりは遺産相続を巡って配偶者を必要とするような特殊なケース以外では現代では稀だろう。つまり誰と結婚するかという初期段階での選択の問題とは、好きになる人に対してどうしてその人が好きになったかという理由を説明が出来ないのと同じようなレヴェルの衝動的な気分の問題である。恐らく幼少の頃から昆虫採集が好きで好きでたまらかったとか、楽器を演奏することが苦ではなかったとか、哲学に関心があり、特にその中でもこれこれこういう命題に熱中してしまっていたというようなことと同じように、説明出来るようなレヴェルの理由では決してない。
 それらは衝動的にある人が嫌いになり、あるいは最初から嫌悪感を抱かずにはおられないということや、どうしても許せない一言をあいつは吐いたのだとかいう判断と同様、好きになることはどうしようもないし、その中でも超度級に異性を愛する衝動は、相手との合意がある場合に限ってだが、どうしようもない運命的な出会いとしか言いようがない。恐らくこう言えばあなたにも、そして若い君にも似たような経験があるに違いない。繰り返すが、道徳とか常識とか世間体とかそういうことは、出来上がった感情を日常生活において後づけ的に正当なる位置づけをするために拵えたものでしかない。つまりある好きになった人と常に一緒にいたいから結婚という社会的制度を利用するのであり、好きになった友人と長くつき合いたいからその人に対する人物評定をするために様々なモラル論的な価値基準、例えば友情を持ち込むのである。(「アンニュイとメランコリーを抱きしめて」から)

 愛という衝動は、ある意味では相手に対する慈しみという意味ばかりではなく、これは生物学的に実証されていることだが、相手に対してこちらのエゴイズム、それは精神的なものだけではなくもっと生理的本能レヴェルのエゴイズムを発揮し、自分の遺伝子がそのメリットのために相手のデメリットを承知で相手をパートナーとして獲得するような行動や、恋愛そのものに纏わる決心をさせるということもある。
 それはたまたま私が殺人と比喩的に捉えてみたが、例えば武蔵の一生とは、彼自身の剣士としての能力と技能を追求し、それを立証するために多くの他者の命を彼自身が奪うことの選択だったが、その犠牲となった魂を弔うために彫刻を作り、彼自身の大勢の死者の魂への鎮魂と、贖罪の心理が渦巻く精神的不安定を除去するために絵画を描いたとも捉えられる。そしてそれは①と②の選択肢を両方とも充足し得るようなタイプの行為の連続だった気がする。それは後悔が、どういうことに浮上するかに関する人生に対する思想の違いと言えば言える。つまり死者を大勢出しても彼は自らの剣の腕を証明することを怠ることの方により大きな後悔を感じ取ったのだ。
 それは恋愛に関しても結婚に関しても周囲の関係者全員をひどく苦しめることを分かっていて敢えてそこに突入するという選択肢は存在し得るし、そうしたために非難を浴びてさえ、それをしなかった時の方が後悔するということは選択肢を巡る人生に対する思想上あり得る。
 パブロ・ピカソは生涯で八人の女性を愛したが、その内一人は自殺へと追い込み一人は精神疾患へと追い込んだ。そしてそうしながら尚且つ若い頃だけは貧困であったが、ある時期を境に彼は経済的にも成功し、アート史上でも類を見ない成功者となった。彼の人生は権力志向ではないが少なくとも彼の業績自体は立派な権力を持っている。それに対してどんなに剣士の間で敬意を集めていたとしても、武蔵の剣豪としての業績自体は権威があっても、権力とは無縁だ。それはピカソの絵画のように世界に名だたる美術館に保管されないし、死ぬまで誰かに狙われて殺される危険と隣り合わせだったからだ。武蔵は生涯権力と無縁の男だったのだ。
 しかし彼の「五輪書」中、∧地之巻∨の結語で彼は次のようにしている。

 また集団の兵法としては、立派な人物を部下にもつことに成功し、多くの部下を上手に使い、わが身を正し、国を立派に治め、民をよく養い、世の秩序を保つことができる。
 どんな道であろうと、人に負けないところが分かり、身を助け、名をあげることが、そのまま兵法の道なのである。
 正保二年(一六四五)五月十二日             新免武蔵
  寺尾孫丞 殿
 寛文七年(一六六七)二月五日        寺尾夢世勝延(花神)
  山本源介殿

 つまりここで国とか世という語彙を使用していることに私は人間の欲望の凄まじさを感じる。つまりそれは一介の剣士が哲学者へと昇格することを渇望していることを意味するからだ。
 確かにソクラテスは生涯権力と無縁だった。しかしプラトンはアカデメイアを創設し、ソクラテスの意志を継ぎつつも、権力保持者だった。ヘーゲルもまた権力というものを少なくとも当時のアカデミズムにおいて保持し得た数少ない職業哲学者としての成功者だ。だからプラトンの「国家」もヘーゲルの「法の哲学」も成功者の書いたテクストである。
 しかし声望とか剣士の間での神話とか尊敬的な意味での権威があっても、武蔵の生活自体が裕福だったわけではないし、生涯風呂にも入らなかったとさえ言われるその生活は権力志向でもなければ、権力附帯的現実とも程遠いのに、テクスト上ではこのような国とか世という観念が浮上していたことに私は人間の奥深い理念的な欲望と、後世へと現世の貧困とか、苦悩の結果とは裏腹に理念として実現されるという名望への執着、権威として威光を放つことを望む心理が垣間見え興味が尽きない。(浅野裕一氏「儒教ルサンチマンの宗教」によると孔子もまた今私が述べたような野望を弟子へと引き継がせたという主張となっている。)
 ここで権威ということと権力ということの違いと共通点について簡単に整理しておこう。
 端的に権力とは対立によって生まれることもあるが、それは結果的なことであり、概して権力そのものを欲する者は対立を避ける傾向があると思う。それは保身ということだけの意味でそうなのではない。例えば対話の内には相手を押し退けても自らの意見を通すという性質があり、それは自らの拠って立つ地盤そのものの根幹を揺るがしかねない行為である。しかし真に安定した権力を望む者はそのような危険で不安定な可能性へは賭けない。つまり平和裏に全てを行い、特に自らよりも下位者に対して木目細かい包容力を示し、彼らから人望を得ることを望む。そして彼への人望に惹かれて集まる下位者たちは、彼の権力の術数に嵌り込むという仕組みである。
 しかし権威はそういうものとは本質的に異なる。結果的に権力を保持した権威者という意味ではピカソもそうだろうが、権威とは全く権力を保持していない場合も多い。その端的な例として武蔵を挙げてもいいだろう。つまり優れていること、そしてその優越さが認可されていることと、その優越さが政治力に直結していることはまた別の問題だからだ。だからある時期の皇族とは日本史においてそういう存在だったし、今でも政治的権力という意味では皇族の存在理由は(文化的)権威という面が大きいと考えていいだろう。
 しかし権力とは盲目の下位者からの信頼が前提される。しかしその持続期間は必ずしも長いとは限らない。しかし権威とは一旦多くの者に受容されると、権力よりは長い期間文化として持続する場合も多い。それは盲目の信頼ではなく寧ろ堅実な見識、あるいは伝統的な文化概念に則った安定したコードなのだ。そしてそういう安定性のコードは最初は失敗を省みずに行った行為だった。例えばピカソの「アヴィニョンの娘たち」は時代の空気を敏感に読み取ったピカソによる一世一代の大当たり博打である。しかしそれが一旦確立した様式や表現方法の中にキュビスムという形で認可されると、そのスタイルを踏襲することはアーティストにとって無難な現代アートの技法になる。それは現代アートの文脈では①の選択肢だ。
 それは天才的な剣士が編み出した剣法とて同じだろう。あるいは天才茶人が生み出した所作とか茶道の仕来りと同じである。
 しかしある行為を通り一遍の仕方であるとか、革新的であるとかの意識を普段から私たちはしているわけではない。何らかの目的的行為である場合を除いて私たちは、ただ単にある反復に飽きたり、たまには全く今までしてきたことと違うことをしたりするというだけのことだ。だが一番重要なことは、何をするにせよ、我々はいつかは死ぬのであり、しかも完成された生を生きることなど誰にも出来はしないのだ。つまり未完成な生を生き、未完成に欲求も、願望も、理想も実現せずに死ぬ。(寺山修司もかつて確か、僕たちは未完成の死体として生まれ、完全な死体として死ぬと言ったと思う。)いつ死ぬにしても完成された形で、あるいは予定調和的にある特定の与えられた目的のために充足していたと結果的に言える生などは一つもない。我々は未完成に生まれて未完成に死ぬ。ただそう思いたくないだけのことだ。だからこそある行為を①とか②といった価値判断の下に我々は勇気をどのように捉えるべきかと思い悩むのだ。また一々そう意識しないでも、そのように意志決定がそういう性格を帯びて判断している。 
 
 ①失敗を省みない行為の無謀さを恥じる勇気
 ②失敗をも恐れないで何かを行う勇気

 ここに示された考えは、その時々の潜在的な欲求にも根差している。①では思い切ってやってみたはいいものの、悲惨な結果を招いたという前例に対して、それを二度と繰り返してはいけないという判断であり、②では何ら思い切ったことをすることも出来ず、通り一遍で大胆さの一滴も見いだせず、生活上で大きな変化を待ち望みながら実現されていない状況全般に対する打破の欲求に満ちている。つまりその都度我々はこの二つのいずれかを最良とするかという二極分離的なことを象徴させながら、その中間とか、どちらかというと①か②という風に決定している。
 例えば武蔵は常にこの二つの選択肢の二つを同時に満足するようなこと、つまり双方が他方へと接近して一致する地点を目指して剣を持って敵に相対したのではないだろうか?①が充満してきたところの一瞬の間隙を狙って②を採用し、②の決定に従って①を拠り戻すというようにである。
 人間は未完成に生まれて未完成に死ぬ。その現実と運命において全ての目的、全ての後悔が生まれる。だから①はしたことに対する後悔で②はしなかったことに対する後悔だ。しかし心理学ではしたことの後悔より、しなかったことの後悔の方が大きいと考える。しかしそれはしたことの内容にも拠るだろう。あるいは人間はそれをしたことによって死刑になるような運命を引き受けても尚、してよかったというようなことがあるのだろうか?あるかも知れない。と言うのも最終的には全てはそれをした者にしか分からない心による判断の問題だからである。
 消極的な行為に終始してきた敗退者こそ心理学の言うようなしなかったことによる後悔の方のした後悔に対する優位を主張するだろう。しかしそうなるとどういう行為が積極的で、どういう行為をそうではないと言うかという判断に全てが委ねられることになる。
 そこで行為自体の意味、つまり人生全体に寄与する存在理由を我々は考えざるを得ない。つまり行為をある目的に供するものと考えながら、その目的設定自体が人生全体にどんな意味を持つのかという判断をするのだ。それは意味、つまり生きる意味の設定による。つまり生き方の選択の問題にかかわる。
 ある生き方をする者にとって別のある生き方は自分にとっては何の意味もないということになるし、一つ一つの目的設定とは人生全体に関する生き方の選択の問題である哲学的な問題設定へと直結し得る。問題設定とはミシェル・アンリが「現出の本質」で、あるいはヒラリー・パットナムが「理性・真理・歴史」でも多用した概念である。つまりそれは哲学者にとって人生が意味によって規定し得るものなのかという問いのことである。それはもっと単純に言えば人生は果たして意味のあるものなのかという究極の問いという深遠を覗き込むことなのだ。 
 そうなるとまず問題となるのは、意味とは相対的なものなのかということである。つまり意味が絶対であり、その意味に従って人生は組み立てるべきものなのか、それとも意味というものはそもそも人生を価値あるもの、あるいはもっと世俗的に言えば年老いてから後悔することなく送るために見いだされた便利な概念にしか過ぎないのかということである。前者が意味の絶対説と言ってもいいし後者が意味の相対説と言ってもいい。
 人生が意味とか価値とかによって規範化する以上に何か崇高だと考えたり、あるいはそういう風に規定したりすること自体に何らかの誤りがあるのではないかと感じる向きには明らかに意味とは相対的なものである。しかしそのように人生を何らかの概念によって規定することが無謀だと感じたり、価値化したりすることより一切そう考えずに何か常に行動することが重要であり、いやそれを重要だと考える以前に行動してそれについて一々反省しないことが価値規範的に人生を嵌め込まないことだと感じることは、そもそも私たちが既に意味を信じて、それを疑うことなく生きているからではないか?そう考えると、意味は絶対であるとまでは言えなくてもやはり不可避的に何かが存在すると考えたり、存在するものに対して何かを考えたりすることの根幹のものだと考えられる。
 それは意味を意味として受け取ることであり、そういう思惟を携えて生活するとは、意味を意味として受け取る生き方であると言える。私が二つ前までの段落で示した相対説とは、端的にある種の思い込み、恣意的な決意であるとしか考えられない。つまり意味とは信じるように私たちがしているものなのであり、その意味の存在を「存在する事実」として認可することなのであり、存在していることに対して意味づける限りで存在するが、通常の存在物のようには存在し得ないものとして意味を捉えるべきなのである。故に私にはそういう風に不可避的に立ち現われる意味に対して相対説は明らかにその不可避性に対して目を背け、行動する渦中に常に身を置きたいと願う自己の行動し得ない優柔不断に対する踏ん切りのように思われて仕方がない。意味の相対説とは恣意的な決意なのだ。
 だから意味とは不可避的に立ち現われる限り絶対であるが、それは存在する事物の実在のように絶対ではない(それも本当のところは存在するものだって絶対かどうか分からないのだが)とだけは言えそうだ。だから逆に意味を意味として受け取ることは、意味を、実在する事物ではないから大したことはないとする見方か、いやその見方はそもそも存在するものを存在すると言い、その認識から存在物を私たちの存在と関係づけることをして、意味を見出し、見出された意味から全てを存在すると考えているのだから必然的に虚無的な誤謬を含むとする見方かということにおいて、私は後者の考えである。意味を存在するものとして受け取るということは通常の実在物と等価に捉えることから、そういう風には存在しないのだから大したことではないとするように誘引する可能性も一方であるが、他方意味そのものの存在とは、通常の実在物とは本質的に違うが価値があるのだとする見方を誘引する可能性もあり、私は後者の考えに与する。
 意味を意味として存在すると捉えればよいのである。それはそうすることで、人生をただ生物学的なその都度の本能という形で捉えるのではなく意味あるものにしたいという意味の在り方へ直結する。それが前章において捉えた人生に対する思想へと結果的には繋がっていく。①とか②で示したようには通常哲学では言わない。それは思考実験を哲学者がする時それを比喩であるとかアイロニーであると言わないことと同じようにである。だから今私が示した見方はある意味では哲学外的な哲学への見方かも知れない。(第一章を参照されたい)つまり思想から哲学を捉えるということである。しかし人生に対する思想を哲学者が携えている限り彼らもまたそのものを直視せざるを得ないのではないだろうか?

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