Saturday, October 10, 2009

第六章 羞恥と想起①

 脳科学は記憶することと、記憶されたものを想起することが同じ記憶に関することではあるが異なった作用だと考えているらしい。
 元々思い出すことは、何かを覚えておくこととは違う。何故ならいつも覚えていることと、ある時ふと何かの拍子に思い出すことはその内容にも差異があるように思われるからだ。
 しかし常に忘れずに心に留めておくことの内には基本的な知識とか、身体的な手続き記憶とか、人生に対する思想もそうだろう。しかしこの最後の人生に対する思想とは、ともすれば極めてある人間の行動や決心に多大な足枷になる場合もある。つまり自らが設定した意味に呪縛されるのだ。価値規範的な強制力として内的に立ちはだかる。外的には法律などもそれらの内に入る。フロイト的に超自我というと、私たちは外的にそうあらねばならないもののために内的な欲求を抑えることである。
 記憶は記憶違いとの戦いでもある。絶対正しいと信じ込んでいることの内にも記憶違いは必ず紛れ込んでいる。しかも自分自身で内的規制をかけて、ある気恥ずかしい思いを対外的な応答の際経験したくはないから、我々は羞恥を催す想像をすることを意識レヴェルでは規制する。しかし夢ではそういう規制はとっ外されるからインモラルな内容のものを我々は何の前触れもなく見る。
 しかし我々は夢がインモラルであると感じられるからこそ覚醒時の意識を他性認識においては「構え」を通常のものとしようという気になる。つまり他性認識を私が考えるように原羞恥と捉えれば、必然的にある他者に対して防衛解除することは、その他者に対してその解除された面に関して信用していることを意味し、逆に防衛非解除であることは、その面に関して偽装している、「構え」を一切取り崩さないでいることを意味する。つまりある面に関して決して真意を述べない、示さないことがある。ことにこれは自分とは異なった倫理とか政治信条のグループ内部にたまたま紛れ込んでしまった状況下で周囲の人間に適当に自分の信条を合わせて急場を凌ぐことで十分あり得る。しかしどんなに信頼する他者に対しても、我々は羞恥を介在させそれを保持する。
 他者を信用するに足るかどうか判断停止状態であり、保留状態な場合我々はその者に対してある面において真意を知られたくはないという気持ちになり、それを私は瞬時に直覚される原羞恥が原音楽に命令して体裁を整えていると考える。「構え」るように無意識になる。しかも他者に対する査定で、このことに関してこの他者にはあのことだけは他の他者とは違って伝えたくない、悟られたくないという峻別を瞬時にする。あることをある者に伝えることはどうということもないのに、別のある者に伝えるのはどうしても躊躇することはあるし、一瞬で特定の他者に対して持つ先入見もあるが、それは徐々に変更されることもある。普通十分くらい話していれば次第にその他者に対する自分が採るべき「構え」の質は決定される。
 恐らくこういったことは剣士だった武蔵は極めてデリケートだっただろう。ちょっとした相手の所作を見て、相手の剣士はどういう癖がありどういうことに鋭いかを一瞬で見破ったのだろう。
 要するに他者の性格に応じたその都度採るべき「構え」及び態度に対する判断が、原音楽に根差した判断だと私は思う。その判断を指令するものが原羞恥なのだ。するとある事柄、つまり他者にそう容易に悟られたくはない部分に対して琴線に触れる想起を催さしめる他者は、原羞恥という琴線に触れる要注意人物になる。つまり特定の他者を話題にする会話を耳にしただけで一瞬凍てついた感じになるくらいに固有で頑なな「構え」を躊躇なく身体が採る場合私たちはその者に対していっそ出来る限り自分の前には出現して欲しくはないという気持ちに自然になって、その者への拒否反応が極度に自分がその者の面前では粗相をすまいと心がけるように緊張を強いる。これは羞恥的な意味で極度に硬化させるに足る想起、つまりその者から連想する性質が原羞恥レヴェルでの「構え」を誘発することだ。その者の前では決してぼろを出すまい、つまりぼろを出すと通常の者に対しての時と違って恥をかくということを想定し得る。冗談が通じない相手とは主にこういうタイプの成員のことを言うが、冗談の質もまた個人的に親密なネットワーク毎に異なっており、地域差もあるし、自分にとって慣れが大きく作用している。
 私は集団内で言語行為とか、身体的所作において他者の視線を意識することを含めた「合わせる」ことを原音楽と呼ぶ。それをベースに考えると、固有の緊張感や警戒心を持たせる他者は端的に原音楽的にそう容易に言辞、態度、性格的波長を合わせることが困難だと判断しているから、当然その者は原羞恥に触れる危険性があると踏んでいる。しかしそれは逆に私の原羞恥領域にさえその者が踏み込まずにいてくれるなら、何ら私の生活に支障がないという意味では、その危険性さえ思い過ごしなのなら何ら疑うことなどなかったのにある時予想外に裏切られた他者のような存在に比べれば然程人生上で重大な存在ではないということだ。そういう意味では予想外に裏切られるとか、予想外に相手が激怒するようなタイプの他者から受ける経験が最も自分の中の判断学習と習慣において始末の悪いものなのは確かだ。そして原羞恥的な最も私秘的領域において警戒する本能的なことの中で社会的通常の判断さえある局面では通用しないタイプに対して我々は、原音楽、つまり社会通念的相互了解、相互同化協調姿勢において、最も我々は苦慮する。
 哲学者コンディヤックはそういう意味では徹底して原音楽的なバイオリズムを透徹した眼差しで追求した。彼のパントマイムに対する執拗な追求は、原羞恥的な他性認識を言語と意思表示に置換することにおける無意識の作法としてマイムが最も有効な言語外による言語的表現であることに着目する。しかしその言語的表現が成立することの裏には、言語外的な表現も可能だという想念が人間にあるということだ。その言語外的な表現の一つが明らかに羞恥である。それは私的言語とウィトゲンシュタインが呼んだものの基本的な心的動因だろう(このことはまた詳述する)。

 原音楽的な行動を支える最も基本的な人間にとっての観念は責任である。責任はある行為に対して課せられるので、本質的に責任を果たしたか否かは、行為が始まる時点より未来において判断され
る。これは責任能力の査定自体が人間の記憶能力に対する信頼に根差すことの証拠だ。つまり責任を問うこと自体が本来その者に対して自由であり、自立し独立した社会的存在である承認と認可を与えることであり、無能力者に対する介護とは本質的に異なる。このことから法的に責任放棄によって罰するとは、罰せられる者の法的権利並びにそれによって派生する義務を認可することだから必然的にその者に責任を承認することだ。
 しかしこのことは法的にその責任を問われ得ない、責任査定外の領域にまで拡張される。そこに良識とか見識とか通念と呼ばれる査定が人間学的に導入される。この責任‐自由の法的査定外的良識という極めてファジーな拡張原理が法規定外の場面で遂行しないことに対する良心の呵責こそが羞恥感情に他ならない(簡単に言えばした方がいいことでもしなければいけないことではないからといって、しないと悔やむということだ)。 
 つまり羞恥とは正規なる社会的規約で正否が問われ得ない良識的判断に委ねられている日常的場面で問われ得る個人的内面の良心に根差しているが故にカントのモラル論とも大いに関係がある(完全義務と不完全義務)。カントの定言命法はこのような社会的規約自体が人間理性の前では極めてその時々の状況に即した相対的な判断でしかないということに対する指南でもある。そのような良心の叫びに耳を澄ますことが、羞恥を想定することを自然なものにする。
 羞恥とは責任と折り合いが悪い場合も多い。羞恥の払拭が責任を遂行することを容易にし、その持続が権力を有効にする。権力と責任とは相性がいい。そして正しいことと、優しいことが乖離している場合、自らの良心と羞恥の責任への抵抗が夢に出てくる様々な内容を決定するのかも知れない。逆に覚醒時に想起するものは、良心と羞恥による責任や理性外の突発的表象であることも多いだろう。
 例えば夫婦の間で、あるいは親子の間で、あるいは親友同士の間で何らかの思い出深い会話の際に書き残したメモとかイラスト風落書きがあったとしよう。そのメモやイラスト風落書きはその当事者同士にとっては極めてそれを再び目にすると微笑ましいものでも、それらは通常その当事者以外の者にとっては何の価値もないばかりは、時には極めて不愉快なものの場合さえあるだろう。これはプライヴェートな時間における親しい者同士の会話が公的に許され得る範囲内の悪も含むことを意味する。しかしそれらは要するに私的だからこそ何であっても許され得るのが公的には全く違う。つまりそういった私的な会話内容こそがウィトゲンシュタインが考えた私的言語の基本的な根拠だ。その仕方で、それを理解し得るのが自分一人の場合を通して彼は、それを見た時微笑ましいのがそれを書いた本人だけであるということを通して考えたのだろう。それはそれが公的なものとして公表された場合羞恥を呼び起こすことが最も大きいものだろう。だからこそ本人にとっては懐かしい感情をその走り書きとか落書きに対して抱く。それは個人的であり私的な思い出が、概して格好悪いこと、他者にそのまま告げることを臆すような気恥ずかしいものであることも多いことと関係がある。つまり思い出とは、どこかほろ苦く、どこか後悔の念にも彩られている。しかしそれは決定的な誤りでもないものだからこそ思い出す価値があると私たちは考える。決定的なミスに当初思われていても、今現在いる自分の地点から見て将来が絶望的である場合以外は、つまり未来に希望がある内は、微笑ましいミスとしてやり過ごす可能性を秘めているからである。

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