Thursday, October 1, 2009

第二章 価値と判断

 哲学は科学と違って、判断、つまり何が正しく、何が正しくないかということに対する判断において、個人間に横たわる信念の差異に応じて異なった仕方が立ち現われる可能性を常に考慮に入れて論じるべきものである。
 科学では本質的に同意し得るものを基準に、そこに向けて実験、証明が行われる。しかし哲学は本来科学の持っているような反証可能性よりは、もっと証明が不可能なようなタイプの心の問題に肉薄する。そのために哲学では論理的に正しいと立証されたものや論理的に正当性があるとされるものを前にしても、それを信じることがたやすいかとか、心の奥底で納得し得るのかと問われれば、百人が百人異なった考えを持つような意味で個人的な主観に根差した反応の在り方を一般化して論じるので、必然的に仮に出された結論も、ただ従い同意することを目的としてはいない。何故なら心の問題とはそもそもルールに従うというようにはいかないからだ。
 例えば論理的に立証されている正しいことでさえ、その正しさ自体の内的な信憑性とは、極めて曖昧であり、仮に多くの人々にとって信じがたい事実でも、科学的真理としては正しいものとして認めることが社会的には求められても、その事実自体に対して自分はどう思えるのかという問いに対しては、それぞれ異なった判断が成立していようとそれ自体を咎める必要はさらさらない。従って内的な判断の問題は本質的に個人に内在する経験的直観に委ねられている。そして外的判断を巡る一般的な真理に対しても、私たちはそれを内的ルールとして規定してつき従う義務はない。勿論ある哲学的なリサーチグループ内で取り敢えずの真理としてそれを採用するという試み自体はあり得るし、あって然るべきだ。しかしそれはそのルールが一般化され得るようなタイプの捉え方で存在するのではない。
 つまり哲学とは本質的に、ある判断をする時、その判断が一般的真理として立ち現われることを別に期待しない。それは哲学が基本的に価値領域に論争の向かう先が設定されているからである。価値はルールとして採用されるべき一般的真理ではなく、たとえそのように一般には思われるものであっても、そのルールは社会的な欺瞞かも知れないし、因習かも知れないという風に懐疑的に取り扱われるべき筋合いのものとして認識すべきである。
 しかしそのことで哲学は相対主義だという結論に至ることはない。何故なら相対主義とは、端的に全ての論争を封印する性質があり、哲学では避ける傾向があるからだ。論争などする必要がない、何故なら全ての判断は個人でなすべきであり、判断の正当性を論争することが不毛であるという判断が基本にあるのが相対主義だからだ。
 つまり哲学では論争すること自体が封印されることがないばかりか、ある正当なる論理において一般化され得るルールが提出されても、そもそもそのルール自体に対してどう思えるかということ自体を他者に対して強制することも、変更を迫ることも不可能なのであり、端的にそのような心の在り方への強制に対する不可能性という無力さ自体が哲学の基本的な姿勢であり力でもあるからだ。
 だから哲学の場合、論争すること、あるいは常に取り敢えずの真理を提出することは不毛ではないと同意しているし、同時に仮に出された真理でも、それに対してルール化して常に従うことを一般化することは決してない。そしてその真理に対する個々の思え方に対して再び別の取り敢えずの真理が出されて、やがていつかは不動の真理の到達点があるのではないかと思えたとしても、その思いそのものが幻想であるということをも常に論理的射程、論理的可能性、倫理的選択肢の一つとして残しておく必要がある。
 つまり価値に対する判断は、それが相対主義であると納得することは許されないが、と言って、その判断の個々の差異そのものに対する一般的真理が見出されても、それは普遍化されたルールにはならないという自覚だけが、その判断の差異に対する真理へ向かう論争を正当化する。つまり哲学論争するのも、将来絶対正しくつき従うべきルールを見出すためではなくそんなものを私たちは求める必要などないことに価値を見出したいという欲求からなのだ。
 つまり哲学において到達すべき真理があるとすれば、それは往々にして大したものではないということがある。それはフィロソフィーという英単語の意味にある「諦念」がギリシャ以来延々と普遍的に介在してきていることにも関係ある。その真理の中には当然論理的正当性や論理的説得力も、論理的に正当性が容易に見出され得ないものに比べればさして重要なものではないという考えを認めているからに他ならない。つまり哲学においては仮にカントが定言命法と呼んだものが「あるとしても」、それは「ある」としたその瞬間に逃れていく可能性を認め、そのように常に「ある」とすることを不毛化する反復自体をどこかで常に持ち、仮に不動の定法を要求するような心理に私たちがなっていった場合すら、残しておく必要があるという思考の容認なのである。
 カントは恐らくそのことを知っていた。しかしそれを敢えて言及しないことに意味があったのだ。つまり哲学者ではない者に哲学を理解させるために幾多の便利な言説を彼自身がしたわけがない。だからカントを読めば確かに定言命法というものが確固とした形で存在し得るかの如く幻想を得る。しかしそれは直ちにカントの言説が意味するところを示しているのではない。しかもそれを彼は比喩(アレゴリー)として示したのでもない。メタファーでもない。それは意志的に充実したカント自身の何らかの世界に対する願望、いや意志的な世界への、いや神への命令であったかも知れない。それは個から発せられているから個的なものである筈だが、我々がカントを読むとそうは感じられない。そこに我々は普遍を発見する。しかもその普遍は誰しもがその者に固有の解釈によって自己内のルールを構築することを意志することが可能なように配慮されている。例えばその端的な例こそが「自らの格律を誰しもが格律とし得るようなものとして設定せよ」ということである。
 だから哲学では仮にルールがあったとしても、そのルールは定法として存在する必要がないばかりか、そもそもそのような定法そのものに対する懐疑をも(心の余裕とでも呼ぶべきものとして)常に残しておく必要がある。それは哲学が限りない能力への信奉そのものを捨てている、その無力性、あるいは限界そのものに寧ろ積極的な可能性を見いだしているからである。(だからこそ哲学は真に権力とは無縁である。)だから哲学において限界と言う時それは必ずしも無力だと言うことではない、いや仮に無力であったとしても、そのどこが悪いという問いをも封印することがない。無力の価値を残しておく必要があるということだ。それは価値判断が、そもそも個人の主観とか相対的なものだということに拠るのではなく、あらゆる価値判断を支える何かを「信じる」ということが生きる上で最も個人的にも、対他的にも基本的なことであり、それはルールに従うという社会規範的なことと両立し得ることであり、論理的正当性とも別な形であり、それと一致しなくても共存し得る。
 価値とは相対的なものなのではなく、「信じる」ことが常に内的に不可避的に必要であること、判断することが「信じる」ことを支えとして行われているとは言え、それが行動において必ず実現しなくても、行動全てが「信じる」ことに追随していることは理想だが、そう理想どおりにはいかないこともあると認めている。その意味ではアクラシアもまた私たちにとってなくならない。
 だからこそ価値を巡る判断が私たちを再び哲学的論争へと誘う。その論争では価値と判断と行動と信念の間の関係を問う。
 例えば私たちには、真理を見いだす必要があることと、真理を見いだすことにさして意味があるとは思われないことがある。だがそのことは前者が意味のあることであり、後者は意味がないとは意味しない。真理を見いだすことに意味や価値がある場合もあれば、真理を見いだすことに意味や価値がないことに意味や価値がある場合もあるとだけ言える。
 あるいは哲学的であるということは意味のあることかも知れないが、常に哲学的であることが正しいとか、意味があるということでもない。例えばある場合には最も非哲学的な判断こそ最も正しく意味があることもある。
 つまりそのことを常に選択肢として残しておく態度こそが最も哲学的であるかも知れないし、哲学的であるとか哲学的ではないという問いは別に意味あることかどうかはともかく、それを知る上でも哲学が必要なのだ。
 哲学的に生きる、哲学者として生きることは、科学的に生きる、科学者として生きるという決意が科学外的に決意することであると同様、哲学外的に決意することである。要するにそのように決意することは、一旦そのように生きだしたら再び何故そのような決意を抱くに至ったかを忘れる必要があるということである。(このことは哲学者、永井均氏が常に主張していることである。第十六章で詳述する。)
 永井均氏は、デレク・パーフィットが示した思考実験(「理由と人格」)に対して強い関心を示している。もし今私と全く分子組成の同じもう一人の私が、今の私が消滅したその瞬間誕生したなら、その時私とそのもう一人の私は意識や記憶ということだけではなく、私の心全部をそのまま引継ぎ、私は私が一瞬死んだということさえ理解出来ないようにいつものままでいられるだろうかということや、私がほんの十秒くらいだけでも、そのもう一人の私の誕生を知っていたのなら、私は死に、そこで私の人生は終わり、しかしもう一人の私は私とは別人としての人生を生きるだろうが、それは死んだ私にはかかわりないかということを論じている。
 しかし恐らく現代の科学的見地からは、そのような状態が具現化されることはないだろう。しかしもしそのような状態になったのなら、ひょっとしたら、前者の場合私は私が死にその瞬間別の私が誕生したということを理解することさえなくそのままいつものように生活していることになるのかも知れない。これは結構恐ろしいことだが、よく私たちが言う人が変わるということは他人から見ればよく分かるのに、自分だけが気づいていないことがある。だが問題なのは後者の方である。後者のようなことというのはもっとあり得なさがつき纏っているように私には思える。しかしにもかかわらず、もしそうだったなら、私がもう一人の私と意識を共有することはなさそうだとだけは誰でも言える気がする。
 茂木健一郎氏もまた「脳とクオリア」で似たことを述べているが、氏の場合明らかに何億年くらいたってから、再び私と同一の分子組成のもう一人の私が誕生したなら、私が死んだ瞬間そのもう一人の私の気持ちになっているだろうというものである。これは先ほどの前者の解釈の時間スパンを一気に拡張した考え方である。そして同一律に対する信頼もある。と言うことが逆にそのような同一のものが別の空間に、あるいは別の時間枠に登場する可能性が限りなくゼロに近いという確信が我々にあることも示している。
 それはしかし私が哲学者として生きることと、哲学的に生きると決意すること二つの場合でも言えるのではないだろうか?確かにこの決意はそのままではただの人生観である。しかし決意してそのように生きることがたやすいのなら、それはそれで同一律を巡るパーフィット流の思考実験と似てはいないだろうか?
 つまり何かを決意してその決意を百パーセント実現することが通常(勿論ゼロではない)限りなく不可能に近いからこそ、私たちは常に百パーセントを目指すのではないだろうか?つまりこう言える。私たちは自分の考えを他人に押しつけることも出来なければ、他人から押しつけられることもない代わりに、常に自分の考えさえ揺らいでいる。だからその揺らぎを限りなく同一性を保持することが出来たと思えるくらいに是正しようと努めるからこそ、他者と論じる。その意志と行為そのものが哲学だということだ。(それは哲学者として生きるということではないが、哲学的に生きるということでもない)「それはあいつの考えだ」とは端的にそのようにその者を社会的にその者の同一性として容認することだ。そのように同一性の中に他者を位置づけ、自分も他者から位置づけられることによって私たちは社会生活を全うし、そうしているという気分を得る。
 つまり私たちは価値を同一性の中に見いだしている。しかしその見いだされたものとは見いだし得ないということの中に潜んでいる。つまり「それはあいつの考えだ」と私たちが言う時、それは限りなく私たちが彼に期待することであり、彼がその期待に応えていることであり、それは本当の彼自身とも少し違う。だから同一性とは、端的に極めて曖昧で、欺瞞的なことでもある。勿論私が限界と言う時そこには否定的ニュアンスばかりではないように、この欺瞞的というのも同じである。
 すると同一性として語られたパーフィットの思考実験は、私は私であってもう一人の私とは違うとも言えるし、同じとも言えるとしか言いようがなくなる。要はどのように私ともう一人の私との関係を考えるか、いや「信じる」かということになる。
 例えば私は確かに三十年前の私の記憶を保持しているが、今の私は明らかにその当時の私とは違う。記憶の連続性ということを言うなら、私は過去の私と繋がってはいるが、三十年前の私と今の私は徐々に変化してき続けている。しかしそのことは三十年前の私と二十九年前の私とが同じではないが、今の私と三十年前の私の違いよりは近いと言える気がするという意味で私は変化し続けているから 、どの時点でも私は私だが、その時に立たされた身体的条件や周囲の状況が異なっているとだけは言える。しかし常にその時々の私の気持ちを私は覚えており、そのことを通して私は今の私と三十年前の私を一瞬で、一々三十年を順次辿ることなく同じ私と理解し得るし、その時の気持ちも一瞬で蘇る。
 つまり記憶も記憶内容も私にとっては順次連続していることを理解出来るが、同時に「あれはいつのことだったっけ。京都旅行の後だっけ、それより前だっけ?」と誰か私を知る人に私の周囲であったことを質問することがある。勿論それは少し時間が経ってからが多いが、これは記憶が前後関係のシステムの中にだけあるのではないことを証明している。つまり一つ一つの記憶内容は因果論的な意味での先後関係としてではなく時間順序的ではない形での個々のエピソードとして独立して記憶されている。
 しかし私たちは一瞬前のことでも「蝿が僕の目に近づいてきた」と誰かに告げることが可能だ。そうすることによって一瞬前のことを明確に「今ではない」という形で過去化する。これは中島義道氏も述べている。我々は何かを報告し、その何かに言及することを通して過去化する。その何かを今ではない形で理解することを通して過去へ追い遣り、事実化することで記憶内容を固定化する。
 つまり固定化された記憶を通して過去を理解したがる。またそのような記憶を引き出す判断自体もまた固定化された私の中の価値に支えられている。だから過去の出来事に対する捉え方がおかしいと感じれば、その都度私は私の中に固定化された価値を修正しようとする。そして私たちが恐らくその価値が私たち自身によってその都度固定化され直してきていることを知っている。ただ普段は固定化し直していることや価値を汲み直しているとは気づかない。
 つまり同一性とはそれに縋ることが可能なくらいの設定値として常に作られ続けているのだ。価値とその判断によって示される揺らぎとその修正ということを考えればそれは納得出来よう。同一性を保証したいために私たちは常に価値を判断し、その判断の正当性を巡って苦慮する。同一性とは同一だと思える連続性によって私たちが自身に保証している。何故同一性をそうやって保証しようとするかと言えば、相互に他者間において私たちは彼とか私とかあなたと呼ぶことを可能にするためだ。全ての同一性が幻想だとなれば、その時には完全に私とあなたと彼、彼女との関係は曖昧化していく。しかし哲学的論争ではその都度の結論(それは先に真理ということで言った)を出すことが目的であるなら、当然私たちはその都度真理を見いだすために誰それがこういう意見だったとか、その考えは誰が考えついたのかと、ノーベル賞を授与する人物を特定するように調べる必要はあまり意味がないという意味では、同一性を一々特定の個人に帰着させる仕方は、科学の場合で言うならディタッチメント(茂木健一郎氏が「「脳」整理法」において強調している)という観点とも共通してあまり意味のあることではない。つまり私の今の考えは次の瞬間私とは別の誰かの発言によって修正を余儀なくされる可能性を絶えず秘めていて、論じて何かその都度結論を出すことにおいて個々の発言の功績とは取るに足らないからだ。
 そうなると私にとっての価値より、私たちの価値が重要だということになる。判断もまた私のものよりも私たちのものが優先されることになる。そして私たちは皆、私に限って考えれば、私は常に「私たち」の価値と判断と「私」の価値と判断とが極端に乖離してはいないかと私自身に対してチェックしている。それを考慮に入れれば、私であるということとは私以外の全ての者との相関でしか考えることが出来ない。
 しかし今私は「私たちは皆、私に限って考えれば、私は常に私たちの価値と判断と私の価値と判断とが極端に乖離してはいないかと私自身に対してチェックしている。それを考慮に入れれば、私であるということとは私以外の全ての者との相関でしか考えることが出来ない」と言ったが、これは私の経験を通した私以外の成員への私の側からの勝手な解釈にしか過ぎない。本当は違うかも知れない。
 しかし様々なテクストや人の話によって私は今私が述べたような仕方で、私を通した私たちという像を構築している。そしてその時私の意見、あなたの意見、彼の意見、彼女の意見という風にそこに、少なくとも論争をしていた時のことに限ってそれぞれに同一性を持たせてその相関を解釈する。しかしその同一性は次に皆が一同に会した時にはまた微妙に変化している。すると、私たち一人一人の記憶を巡る変化の軌跡が示されることになり、再びそこに履歴、来歴的な同一性が個々に付与される。
 価値とはそういった変化の履歴、来歴、あるいはそのことの固有性に対して付与され、その価値を価値とするのは、価値であるとする判断だ。そしてその判断もまた先ほど述べたように価値という基準に縋っている。これらは常に全てが全てに対して相補的である。
 価値が同一性と深い関係にありそうだとだけはこれで理解出来た。しかしその同一性とは端的に他者間相互の相手に対する記憶とは相互にチェックし合う記憶の相同性である。「あの時俺はこう言った筈だ」と誰かが言ったとしてもその場に居合わせた他の全員が「違う、君はあの時そう言ったのではない、こう言ったのだ」と認め合えば、それ以上その者は自己の記憶の正当性をそこで主張することが困難になる。だからこそ逆にある者を陥れることも出来る。
 価値と同一性に対する判断もまた、何らかの形で価値と同一性に依拠している。そして価値と同一性に対する判断が意味を産出するとも言える。「あいつの意見はころころ変わる」とか「あいつは何事にも一直線過ぎてついていくのがやっとだ」とかいう意見が出される。それは彼とか彼女に対する期待値に関する判断に依拠している。それが彼や彼女の同一性に対する合意だ。そしてそのように彼や彼女に対して下された判定が、一般化されると意味となる。そしてその意味が反復されたり、全く別の場所や状況でも確認されたりすると、その時それは真理化する。それが彼の性格だ、と。
 勿論それはある方向から見た他者像というものに対する偏執的な固着に過ぎないとも言えるし、そういう偏向した見方である可能性は常に否定し得ない。だがそうとも言えない場合もある、と私はそう言った時、私は私以外の大勢の人から同じような体験談を聞かされたと言って他者を説得する。その時私は私の意見を真理として固定化させるために大勢ということを利用して、私の意見を権威的なものとして正当化する。
 しかしよく考えれば全ての発言、全ての論述、全ての言説は、この権威正当化(以下権威化と言う)の過程だと言えまいか?私は何かについて述べること自体がそのことを通してそれを過去化させ、今ではないという形でその何かを意味化することを既に述べた。そうしながら私たちが過去の何かに対する解釈やその何かに対する存在理由=意味に対し現在の私たちの側が権威化しようとしているのだ。全ての判断、全ての価値ありとされたものにも権威化の過程が潜んでいる。
 つまり意味化ということが既に過去に対する現在優位性の誇示であり、現在からの過去の何かに対する解釈の自由の確保であり、それは未来へ向けて思考することが出来る「現在の我々」の権威の誇示なのだ。しかし「転校生とブラックジャック」で永井氏が示しているように、実は忘れられた過去にこそ真実があるかも知れない。
 哲学外的に考えられるからこそ、哲学的に生きようと私は決心出来ると言った。このことは哲学外的でいられることの自由を私が放棄しない限り常に可能だ。しかし哲学的に生きることを常に決意するとしたら、それは結局私が常に哲学的には生きていないということであり、私の生活での非実現に対する願望にしか過ぎなくなる。しかしもしそうなら私は哲学外的に生きることも出来ない。哲学外的に生きるとは哲学的に生きた者にしか可能ではない。
 常に非科学的に思考するのが好きだったが「そうだ。俺ももう妄想するだけの毎日に飽きがきた。明日からは少し科学的なものの見方をして生活しよう」と心に決めた者がいたとしよう。しかしそういう決意を心に抱くことが出来るのは、彼が恐らく明日もまた今日と同じように生活することが出来ると固く信じているからだ。勿論明日になる前にその者は事故に遭うか殺害され死ぬかも知れない。
 しかし重要なことは、そう決意することを通して、私たちは常に過去の自分と決別して、未来で実現する自分の方を優先させることだ。そして現在というものの優位を誇示するために、絶えず過去をそのための道具として利用しているということだ。つまり記憶とはそのためにあるのだと考えることも出来る。勿論その時々の過去はその時だけに固有の意味がある筈だった。しかし過ぎてしまえば、全ての過去はその時々の現在のための道具としてだけ利用される運命にある。私たちはそのようには未来に対して接することは出来ない。未来とは未だ起きていない、どうなるか定かでないものの総称だからだ。にもかかわらず、私たちは未来にどうなっているかということを想像して、あるいはその想像を現実のものとしようと目的を立て、決意する。それは未来に対しても私たちが現在を権威化している証拠だ。未来までも現在の手下にする腹積もりなのである。
 だから当然未来において私が今したいと思ったことの全てをなすことは出来ないが、ある程度過去における決意の通りになることもある。その二つの間の食い違い、つまり決意内容と決意したことの内で実現出来なかったことの間の違いこそが、新たな意味を創造する。それに何か固有の価値があるとつい私たちは判断してしまう。それは「過去において私が出来なかったこと」としてどういうわけは固有の輝きを放つもののようだ。これは何も意図的に過去の思いを美化してそうなるのでなく、自然にそう思えるのだ。勿論そこには別の予定外に獲得し得たことも横たわっている。
 実は生きていくこと、生活することというのは絶えずこの二つが共存しているということだ。価値は一方で実現し得たことの味方であるにもかかわらず、他方では常に実現し得なかったことの味方となり、それが理想となる。前者は恐らくそれが集団であれば文化とか、伝統とか呼ばれ、個人であれば性格とか資質とか呼ばれる。
 
 私たちは考えていることの全てを実現することは出来ないにもかかわらず、例えば今私が書いているこの文章は何らかの意味でここ数日考えてきたことをベースに書かれている。つまり考えの全てを実現不可能であるにもかかわらず、記述も発話も全て考えに従っているということだ。つまり発話も記述も考えたことの一部が具現化されたものだ。
 しかしその内には取りこぼしたものも多いので、ならばいっそ考えたことを全て実現しようともし決意するなら、他者に向けて一切発言せず、想定した他者に対して記述するという行為さえ一切差し控えた方が効果的である。だが我々は全ての人に自分の考えを伝えることも出来ないので仕方なく記述する。それに心の中で思いついた願望には行為にするには倫理的にはネガティヴなものも含まれていてその実行を我々は危険だと知り差し控えている。だからこそ私たちは発話とか記述も立派な行為だと認可している。ここら辺の考えはプラトンからヘーゲルらに至るまで普遍的視点である。
 考えたことのほんの一部だけが実現され、そうなることで社会は安定を保つ。つまり価値というものは考えたことのほんの一部だけがなり得る可能性を秘めていると我々は判断する。それは他者に何かを発言する場合でも言える。そこには多分に選択が介在する。しかもその選択は極めて文化的にも伝統的にも、あるいは性格的にも資質的にもなされる。ただ単純にあの時こう言ったから今度はこう言おうという判断だけからではない。にもかかわらず一旦出された発言や記述は全て公的な意味合いにおいて、真理命題論的に解釈される素材になる。つまりカントがどのような人間であってあることを記述したということよりも、カントによってたまたま書かれたある記述自体が意味するものの方を私たちは優先する。意味とはある個人によって出された意見であっても、その個人の資質や性格とかその者固有の事情とかとは別個にそれ自体で独立して存在し得る。それは実在論的には存在と呼べないような存在の仕方でである。ここで少しこのことを考えてみよう。
 つまり「言及」や「考え」自体は必ずしも存在というレヴェルでは事物ではない。つまりそれらは我々によって事実とされるだけだ。「言及されたこと」や「考えられたこと」とは、認識論的に存在したのだ。しかしそれらの記録は存在する。従ってこうなる。
 意味自体は存在ではない。意味とは存在するものに対してなされる認識である。ハイデッガーは「存在と時間」において存在することすら哲学的存在者である私たちによってのみ得られると考えている。動物たちにとって事物は存在するのではない。ただそこに見え、聞こえるだけだ。それらは全て彼らにとって現象しているだけでだが我々のように現象であるという認識すらもない。
 しかし私たちはただ存在しているものだけを頼りに生活しているのではない。農業をするのにも、ある穀物とかある果実が食用として適していると考えそれを生産している。つまり存在するものと存在し得るものとを意味づけ、その意味づけに従って農業とか漁業とか、全ての産業を成立させている。つまり存在するものを通して存在し得るものも存在させることで、存在に意味を付与している。
 となると、私たちは存在するもの以上に、存在し得るものや存在自体への意味づけを優先していることになる。勿論存在しているものがあるからこそ存在し得るものに対する意識は形成される。しかし私たちは存在するものに対して存在し得るものという対比でそれを見ることが可能だからこそ、存在という概念に到達してもいるのだ。つまり存在するものを、今ここには不在のものとの対比で考えることが出来る。これは不在に対する表象能力と同時に、不在と存在とを重ね合わす能力だ。
 尤もごく単純なこととしては動物にもそれは出来る。しかし彼らはそれを認識化し、認識全体を構造化することが出来ない。つまりある植物を食用にするという発想は動物にも可能である。しかしその行為を行為自体として拡張して、農業行為まで出来ない。
 勿論ハキリアリは新鮮な葉をちぎり、それを倒れた樹木の裂け目の湿った箇所に植え込み、それが発酵するのを待って、キノコ類が発生したらそれを食す。しかしそれは丁度ビーバーがダムを作り、そこで漁猟をするのと同じで予め行動全体が遺伝子に組み込まれている。自らの行動は既に決定されている。その中でも多少の工夫はあっても、全体的に例えば私たちが農業生産需給率を上げるとか、生産を抑制するということを直観で理解しているだけであり、そのシステム全体を明示することが出来ない。明示化するということから、人間だけがアート(そこから派生した図で示した概念)を理解することが出来る。(脳科学が最前線で証明されたい)
 今ここにある地図に示されたこの箇所があのここから見える山だという認識を人間ならたやすく得ることが出来るし、イーゼルの前に置かれた画用紙に絵として描かれたポットが今目の前に置かれたポットであると同定することが出来る。それが存在する事物をシステム論的に全体として理解することだ。動物には恐らく左とか右という明示的な認識もないだろう。(右にあるものと左にあるものを区別出来ても)
 つまり私たちは存在に対するシステム論的全体像の理解をすることが容易だ。この存在認識は本来そういう仕方の理解を既に含んでいる。しかも私たちは価値に対するシステム論的全体像の理解ということさえする。空間を前にして何かを見るように倫理とか価値について考えることが出来る。どれそれの考え方は別のあれこれの考え方とどういう関係にある、という風に、空間的に解釈することも可能だ。
 永井均氏が利己主義に対して利今主義、独我論に対して独今論、唯物論に対して唯今論という風に論を展開しているのも全てこの応用だと言える。つまりそれら異なったカテゴリー間の関係に内在するアナロジーを見出し永井氏は適用しているのだ。
 例えば小浜逸郎氏が「言葉はなぜ通じないのか」(PHP新書刊)で次のように述べている。

(前略)
 私の考えでは、逆説的に聞こえるかもしれませんが、言葉の無理解、齟齬は、言語それ自体による齟齬ではないのです。言い換えると、言葉の無理解、齟齬といった事態がはらんでいる問題のいちばん根っこにあるのは、表現された言葉の論理的なつじつま合わなさとか、表現が難解であるとか、支離滅裂なことを言っているとかいうことではないのです。
 もちろんそういう場合も多々あります。しかしこれらは、言語のもっているロゴス的な側面そのものをきちんと整えることによって、原理的には解きほぐすことができる問題です。これまで確認してきたように、言語はたんなるロゴスではありません。それは発生の母胎を、私たちの情緒的な同調に置いています。(中略)言葉の無理解は、話し手の心身を聞き手の心身がなぞりなおすところにはじめて訪れてきます。
 そしてまた、言葉というものは、世界を論理的に明らかにするとか、世界の構造をそのまま映し出すなどのためにあるのではなく、私たち自身の関係のそのつどの組み替えのためにあるのです。いわゆる真理の解明のための言葉もまた、その目的を、人間自身の関係の組み替えというところに置いています。
 ですから、ある発せられた言葉の価値は、命題の真偽というようなところにその究極的な根拠をもつのではなく、発話の状況のなかで適切か不適切かというところに根拠をもつのです。つまり関係をどう変えたかが、言葉の価値を決める尺度なのです。
 論理的に偽であるような命題や、パラドキシカルな命題、同語反復的な命題を、冗談やお笑いのセリフ、皮肉、暗喩などで使えば、意味や価値をもつことがあるのです。
 また、何度も同じことを強調するというようなことも、それを発する感情的な根拠というところに要点を置けば、発話者当人にとって価値をもつけれど、聞いている人間にとってはマイナスの価値しかもたないということになります。ケンカなどを延々と続けると、双方が同じことばかり言っていて決着がつかないということがよくありますね。でも、それは感情の表出として、当人たちにとっては意味があるのです。(194~196ページより)

 つまり私たちは論理命題真理というものがあるからこそ、論理的ではないつまり小浜氏が指摘されているような意味での情緒とか感情的な同調というようなことが考えの内に存在し得るのだ。考え方の順序として、まず存在しているのは、小浜氏の指摘されているような発話者相互の現実なのである。しかしそれを小浜氏の謂いのように分析し得るのは、小浜氏が批判している分析哲学的な方法である命題真理的真偽という認識なのだ。つまり小浜氏の指摘は、その指摘を支えている批判対象に依存している。それは端的に空間同定的なシステム論的全体像、例えばあるりんごが机の上に置かれてあるその背景にはカーテンが垂れ下がってりんごの一部を覆っている(まるでセザンヌの絵画のようなシチュエーションだ)ような状況的認知こそがはそのシステム的全体の印象から受ける意味を実存として我々に喚起するように、感情とか意思疎通を人間社会で考える時に、ある発言の背景にはその発言をした者の心理にこれこれこういうことがあってその心理は彼のどれそれの経験に起因してというような一枚の絵画や一つの空間でのインスタレーション的な関係や情景を捉えたものの全体性をどこかでヒントにしたような絵図が頭に浮かぶ。(だからこそ感情は、その認識の枠組みにおいて発見した事実に対して例えば憤りを感じたりするのだ。「あいつの一言はやはり侮辱だったのだ」という風に。)概念図や概略図をテクストで示しながら自説を展開する学者たちの意図とは、読者に印象づけるためである。ここら辺のことは寧ろ脳科学者たちの方がより巧みな解説をされるだろう。つまり記憶させやすい仕方をその都度選んでいる。これは演説においてよりそれを聴取している大衆に印象に残るような語り方とか内容を選択している政治家の手法にも通じる。つまり理解しやすい形で何かが示されれば我々はそれを意味として受け取り、記憶しようと一々意識しないでも自然と記憶に残る。そして記憶しているからこそそれに価値があるように私たちは思う。そう判断している。
 クオリアはクオリアを必要とする何らかの形式的な知覚とか、言語論理的な構造がまずあって、然る後に「それだけではないだろう」という哲学者や脳科学者たちの要請によって出現した概念である。だから逆に論理的命題とか、真理といった形式的な概念が提出されていない状態ではクオリアのような発想は出てこないままでいただろう。そもそも色彩とか質感とか、触感とか食感といったものは、言語が私たちの下に意思疎通の手段や思考の手段として存在し得ないのなら、いつまでたっても概念化することすらなかっただろう。何故ならそれらは要するに言語化されたものと言語化からどうしても抜け落ちてしまうものという区分けによってのみ提出され得る認識論的発想だからである。
 言語のない世界において私たちは果たして今のような形で私たちであり得るだろうか?あり得ないだろう。そこでは言語化され得ないままのものしか存在し得ないから、必然的に瞬間的な印象と学習的な記憶しかないから、私たちは世界を、存在を、意味を把握することなくただ生きている状態を享受するだけだろう。夢くらいなら見ることがあってもあのデカルトのように夢と現実とを二項対立的に認識することすら不可能のまま時だけが過ぎ去っていくだろう。私たちは幸い時だけが空しく過ぎ去っていくということを言語的に認識しつつ、その「時の流れの空しさ」自体を実感し得る。それは私たちがそのような感慨自体を言語で把握しつつ、その把握した意味から世界を、時間自体を見ようとするからである。
 そのような見方自体は、恐らく時間とか時間の中を生きることを価値論的に優位に考える我々の習慣があるからだ。何故そのような価値的優位性が存在し得るかとは私たちが皆やがて死んでいくことを知っているからだ。人生において全ての瞬間が充実していると感じる者には真の充実ということは訪れないかも知れない。寧ろ常に空虚な思いで満たされている者だけがある時何かに覚醒することの充実に神からの恩寵だと感謝する。
 私たちの記憶は絶えず意味的に変容している。記憶された内容に関してではない。その内容そのものの現在から見た在り方、つまり記憶内容そのものに我々が意味を付与するその付与の仕方自体がその都度変わり得るからだ。それはあるエピソード記憶に対する想起の仕方にも相違をその都度来たすし、そのエピソードが人生に存在したということの存在理由の位置づけに対してもその都度変化していくことを意味する。
 例えば美しさとは常に美しいものには訪れない。だからクオリアという概念が形式化された知覚全体に対する認識によって逆に尊いものであると脳科学者たちが考えているような意味で、詩人が美しいものを感じるという場合にその美しさを際立たせる幾多の凡庸的な現実が必要となる。そのような対比的な認識は科学者、論理学者、哲学者、アーティスト、詩人全ての仕事に言える。いや全てのビジネスマン、私も含めた全ての生活困窮者たち、全ての政治家にも該当するだろう。
 美しさという認識は、醜さによって引き立つというよりは、美しくもなく、醜くもないということによって引き立つ。何故なら醜いことは極めて美しいことと隣接しており、似ているからだ。真に美しいものほどそれが翳る時には醜く感じられる。例えば日常的にあまり親しくない、いや敵対するような相手から得られる共感や親切ほど染み入るものはないように。
 しかしそれは親しい者の存在を別に軽くしたり、意味的な充実から逸脱させたりはしない。真に充実していることは、全てが共存しているが、拮抗していたり、対立していたりということが仮にあっても、相互の存在を無効化するということでは恐らくない。存在の否定は途轍もないエネルギーが必要とする。相手を抹殺することを意味するからだ。しかし存在を否定された者は肯定された者よりもより必死になる。従って存在の否定とは概して功を奏さない。だから逆に存在の肯定よりも存在の否定の方が相手から絡めとられている。つまり相手の存在をより強固に認可している逆説的状況を生む。しかしその時私たちが相手の存在を否定も肯定もしないで、共存を持続し得るなら、私たちはその時最も相手からも、こちらからも相互に大きな存在理由を、しかも暗黙の内に認めることになる。これは相手に対する配慮であると同時に尊重や敬意であると同時に敬遠でも不干渉でもある。こういう状況を全ての他者との間で構築し得る者を不幸と呼ぶのなら、いかにこの不幸が充実した緊張であると言えないだろうか?
 幸福の定義とはそう簡単ではない。生涯を逃亡に費やした犯罪者たちが真に不幸だとする見解も無効だ。それはニーチェ的な意味で同情が許されないからだけでなく、レヴィナス的な意味でも私たちは死刑囚や戦争の犠牲者たちにさえその人生が不幸だったなどとは不用意には発言してはいけないのだ。それは死が崇高だからではない。生がそう簡単に幸福という名で定義され得ないからだ。権力を十二分に行使し得た者と同様に戦争で一番に射殺された兵士、処刑された者の人生はそれはそれで充実していた筈だ。ここら辺はサルトル的な見解かも知れない。サルトルは確かに自由意志絶対論者としてハイデッガーより死や無意識といったものをより殺伐と捉えた。彼にとってハイデッガーのように死は崇高ではなく即物的であり、絶対即自的に死を扱う。
 しかしサルトルは価値や枠組みというものを例えばギルバート・ライルによって思考の枠組みを取り違えた者がルールを本当の意味ではよく理解していること(それは大学という定義を巡って「心の概念」に示されている。)とは全く違った形で示した。それは、価値とは汲み取るものではなく、勝ち取るものだということである。それは彼の場合自由の獲得と同じなのだ。
 ライルは、クリプキがルールが与えられているものではなく、寧ろ創造するものであるという認識から逆に既存のルールに従うこと自体に内在する無自覚的な自己欺瞞に対する批判として「ウィトゲンシュタインのパラドックス」において示したような意味で、既に命名ということに類する了解における常識が、常に問われないままでいる非哲学性に疑問を抱いていた。それはオースティンが命名することに内在する意味化作用、存在理由としての位置づけ、あるいは行為する決意を明示することに内在する言語的な命題真理外的なことを主張したこと(「言語と行為」)とも大いに関連がある。
 物事に対するアレゴリーやメタファーやアイロニーといったものは全て価値に対するシステム論的全体像の理解が誘引する。何かを主張することは、その何かに対して思いがあるからとは限らない。勿論最も非哲学的に主張することが効果的な例は先に述べたように幾らでもある。事実今目の前で溺れている子供がいたのなら、「私は果たしてこの子供助けるべきなのだろうか?」というような哲学的問いはない方がいい。またある哲学者がある言説を記述している場合、そのままに解釈していった方が哲学者の意を汲むことになる場合もあるし、そうでない場合もある。ライルとかクリプキは私から見れば文の読解だけでは哲学の本質的理解は出来ない。
 しかしカントはそうではない。そのまま論理を受け取る必要があるのでもない。つまり今言ったどちらにも該当しない。私はカントを神に対してさえ命令しているのではないかと述べた。そうだ。既に賢明なる読者たちはお気づきであろうが、カントは既にクリプキの述べたルールの自己創出性に対する主張をしていたのだ。しかしカントは言い過ぎない形でのクリプキ的な省略主義ではない。アレゴリーも彼の場合は豊かではない。アイロニーにしてはどぎつ過ぎる。それは神への命令という願望であり(無神論の萌芽とも言える)、その願望を自らの哲学を理解する者に対してのみ共有させようとする意志である。故にそれは理解する者にとって重要なテクストとしてではなく、共感し得る者にとってのみ重要なテクストだということをカントの場合示している。それは私的言語という形で「哲学探求」において示したウィトゲンシュタインのテクストが持っていた性質と似通ってもいる。
 しかし日本人は基本的に仮に正しいことを言っていてもその意味内容において同意するよりは、もっと話者の対話中の物腰とか付随的なこと、つまり言及内容を信頼あるものとして演出する能力の方から評価するところがある。まさにこのことが「言葉はなぜ通じないのか」で小浜逸郎氏が指摘しているところなのだ。
 これはある意味では欧米人たちが究極的には理想としているところを、既に能力として保持してしまっているということに他ならない。しかしこれは安心していいことではない。カントに見られる極度に不器用な比喩の貧しさやウィトゲンシュタインの執拗な言語行為とそれに付随する心理に対する拘りが日本人には欠けている。クリプキに見られる極度の懐疑主義的な天邪鬼、それらは、それらを通過した者にしか見えない真理として、解脱的な真理にまで到達することを真に望む試みとして私には理解出来るからだ。
 私には既に殆ど夢というものなどないし、野心もない。ただ楽しく生きたいと願うだけだ。それは争いを好まないということではなく、寧ろ本当の正義を信じることが出来ないということの方に近い。京都に住む者は殆ど真剣には巣晴らしい文化遺産を見ないだろう。そうするのは一部の人を除けば殆ど年配者である。つまり死に対してそろそろ準備する年頃になったのだと私は今回京都旅行をして感じた。
 私より少し若く三木清は死んだが、彼もまた死に対してある種の親近感を抱くようになったと晩年のテクストで述べている。少し死に対して準備するには早いかも知れないが、少なくとも青年期に固有の野心とか正義とは無縁の地点に自分が立っていることを感じざるを得ない。この章を閉じるに当たって、価値とは何かということの結論を敢えて出さずおこうと思う。何故なら価値とは規定し得るものではないからだ。それは個々が誰にも相談することなしに、見出すものだ。つまり価値と判断が全ての人にとってどのようであろうとそれに対してとやかく言う筋合いはないからこそ、それを誰しもが求める。しかしいざそれを見いだそうとしながらいつまでたっても見出せないと誰しもいらいらし、焦りを感じ始める。しかしよく考えると、焦って誰かに相談して何になろう。深夜高速バスに乗って旅をする若者も、彼らの「夜行の時間」が誰しもいつかは死ぬことを知っているからこそ、「このバスに乗っている間は私たちは隣人だ」という意識を持てるのだ。これはキリスト教倫理に限らない。何故なら我々日本人でも聖書に書かれた説諭に心惹かれることからも、仏教とかキリスト教とか、イスラム教とかいう宗教伝統や文化はそんなに深刻な問題ではない。ドーキンスが「神は妄想である」で述べていることは、宗教感情そのものを教義=法秩序としている宗教権力に徹底的に糾弾しているのであり、彼は宗教感情の発露それ自体を否定しているのではない。何故なら宗教教義自体に対して懐疑的になる彼の考えそのものが既に一つの宗教感情に他ならないからだ。価値はそこら中に転がっているが、それに気づかないことの方が多い。気づかないという判断に私たちは既に価値を見いだしかけている。

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