Wednesday, September 30, 2009

第一章 生き方・行動・人生に対する思想②

 武蔵はある意味で自分だけを信じたのだ。自分だけを信じたいのではなく、自分以外の全ての挑戦者とは、どんなに些細な、取るに足らない小さな敵であっても決して油断してはならない(例えば蝿や蚊さえ)という強い意志があったからこそ、生涯一度も敵から破られなかったのだ。だからどんな時に寛いだか私には興味がある。
 生涯三浦雄一郎氏のようにメジャーな山に挑戦し続けるような方もいる一方で、生涯マイナーな山、つまり低い山を日本全国制覇することに命を賭けているマウンテンクライマーたちもいるだろう。それは四国四十八箇所巡りをするお遍路さんの心境に近いものかも知れない。だが恐らく三浦氏は低い山に登る時にも高い山ではないのだからといって侮るということなどないからこそ、高い山に常に挑戦し続けられるのだろう。
 それはかつて自分の将棋の方向性に迷っていた時に羽生善治氏が、第一線をリタイヤした年配の棋士たちが共に必死に自分の棋風を模索している姿を見て、はっとなったと、NHKの茂木健一郎氏司会「プロフェッショナル」でナレーターが解説していたが、まさにその心境かも知れない。つまり絵描きがある超大作とか、メジャーなスポンサーとかパトロンのためだけに必死に描くだけではなく、仮に自分に依頼してきた相手が高校生であっても手を抜かないというのがプロである。例えば俳優の大杉漣氏は、中学生の映画作家に依頼されて出演した時も、巨匠の映画監督の演出で出演する時も全く同じように演じると言って、テレビのインタビュー番組で「私は一生下積んでいたいと思うんです」と受け答えられていたが、そのようなことが決死の剣士にも言えるのではないか?だからこそどんな時に寛ぎ、敵からの目を気にせずに過ごすことが出来たのだろうかと興味がある。案外晩年絵を描く時だけだったかも知れない。
 しかし彼の絵は緊張感があり過ぎて、リラックスして描いたように最初見た時私には思えなかったが、それでも絵を描いた時にだけはどこかでほっとして、寛いでいたのでなかったろうか?寛いでも決死の剣士の余暇である。それだけ研ぎ澄まされていたのである。
 これは哲学者が思惟に臨む時とか、体操の選手が平行棒や鞍馬に望む時の緊張とも共通するある種の精神的な統一の極致なのだろう。
 書家には常に文字や文字を描く紙の空間に対する緊張感があり、精神統一、呼吸を整えることがあるだろう。それに近いものが武蔵の絵にはある。つまり彼らに共通した呼吸を整え思考をただ一点に収斂させる精神統一は一体彼らの人生全体の中ではどのような性格のものとして位置づけられるのだろう。例えば絶えず閾下では彼らは何らかの形で生涯のライトモティーフである彼らの仕事に取りつかれている。つまり四六時中彼らは何らかの形でその仕事への関心から逃れられない。しかしそういう長期持続的な関心や意識に上らない形での執着にも、恐らく時々間隙が挿入されるのではないか?
 しかしそれはあまりにも小さく、頻繁に起こるのではなく、緩やかな持続の波間にほんの一瞬訪れる。哲学者ベルグソンが言った純粋持続とはそういう一時が挿入されているからこそあり得たのではないか?
 つまりその一瞬の寛ぎ、遊び、空の意識が、何らかの作用を通して彼らの仕事、剣客の剣裁き、彫刻家の鑿使い、画家の筆捌き、哲学者や思想家の論理的な思考に固有のニュアンスや余剰的な心理や心のゆとりを持たせ完成度を高めることに貢献するのではないか?
 つまりそれを存在の持続の中で、いかに価値的に、人生全体にいい影響を齎すようにするかによって固有の彩り(だから個人毎にそれらは異なっていてよい)を添え、それが人生に対する思想となる。
 人生に対する思想とは、イデオロギー、思考体系、人生訓や様々な生活習慣、生活実感から汲み取られる綜合的で、一つ一つを取り出してみても実体が理解出来ないくらいに密にそれらの要素が絡まりあったものなのではないか? 
 当然その都度の判断でそれは様相を変える。しかしどんなに柔軟に変化するものであっても、その状況や条件の違いに即応した判断をするように、新たな意味づけをするように、人生に対する思想は恐らく死ぬまで私たちの脳裏から離れない。しかし離れないからと言って、それは目の前をぶんぶん飛ぶ蝿のようにどこかに追い遣りたいと願うようなものではない。その常につき纏い離れなさ自体が、実は極めて私たちにとって馴染み深いものであり、親しみもある。 
 そういう形で論理とか倫理を捉えなければ私たちは人生に対す思想を行動に置き換えることが出来、「それこそが生き方だ」と言うことは出来ないのだ。

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